西貝塚・明ヶ島・大原周辺の遺跡群 ──
磐田原台地南東縁の考古学的景観
磐田原台地南東縁という舞台
磐田原台地は、天竜川の東岸にひろがる洪積台地である。標高10〜120m、東西約4km・南北約13kmという広がりを持ち、磐田市の骨格をなしている。縄文時代の初め、海面は今より約5m高く(縄文海進)、磐田の平野部はそのほとんどが海の底だった。弥生時代にかけて海面がしだいに下がり陸地が広がっていくが、海岸に砂丘が形成されたことで、低地のくぼみは潟湖(せきこ)として取り残された。
西貝塚・城之崎丘陵は、台地が南へ落ち込む縁にあたる。この高台は、潟湖や海に面した縄文人の暮らしの場となり、のちには弥生の高地性集落、さらに古墳が営まれる場所へと引き継がれていった。ひとつの土地に、何千年にもわたる人の営みが積み重なっているのである。
西貝塚遺跡 ── 遠江貝塚群のひとつ
西貝塚遺跡は、磐田市西貝塚地区、磐田原台地南端の城之崎丘陵に位置する、縄文時代後期から晩期にかけての貝塚群である。昭和33年(1958年)11月上旬に大規模な発掘調査が行われ、埋葬された人骨、多数の土器・石器、骨や貝の加工品が確認された。ただし、住居跡そのものは検出されていない。
西貝塚は、浜松市の蜆塚(しじみづか)遺跡とともに「遠江貝塚群」のひとつに数えられている。「貝塚」という地名そのものが、この遺跡の記憶を今に伝えていることについては、「貝塚」という地名で詳しく扱っている。
城之崎遺跡へ ── 貝塚から弥生の集落、そして古墳へ
西貝塚と同じ城之崎丘陵には、弥生時代後期の高地性集落跡である城之崎遺跡があり、その上には後の時代の古墳(城之崎2号墳・3号墳)が営まれている。城之崎遺跡の記事では、縄文の西貝塚、弥生の低地集落(二之宮遺跡、鎌田・鍬影遺跡など)、古墳時代の台地上の古墳群(松林山古墳、堂山古墳、城之崎丸山古墳など)が、この一帯でどのように時代を超えてつながっているかを図解している。城之崎丘陵そのものの詳細は、城之崎遺跡 - 磐田原台地南部に残された弥生の住まいと古墳の記憶で読むことができる。
明ヶ島・大原は、御厨・南部地区に実在する地名(大字・字)である。ただし、今回の調査では「明ヶ島遺跡」「大原遺跡」という名称で独立に発掘・報告された遺跡は確認できなかった。西貝塚遺跡や御厨古墳群のような指定文化財としての登録も見当たらない。そのため本記事では、明ヶ島・大原を西貝塚遺跡と同格の「発掘済みの遺跡」として断定的には扱わず、この一帯(磐田原台地南東縁)の地理的な範囲を示す地名として位置づけている。個別の発掘成果があるかどうかは、磐田市の埋蔵文化財センター等での確認を要する、今後の課題である。
御厨古墳群とのつながり
西貝塚・城之崎丘陵からさらに北へ目を向けると、鎌田・新貝には松林山古墳・稲荷山古墳・秋葉山古墳・高根山古墳・御厨堂山古墳の5基からなる、国指定史跡「御厨古墳群」が広がっている。もっとも著名な松林山古墳は全長107mの前方後円墳で、竪穴式石室から内行花文鏡を含む鏡4面や玉類、多量の鉄製武器類などが出土した、古墳時代前期を代表する古墳である。詳しくは御厨古墳群で扱っている。西貝塚・城之崎丘陵の遺跡群と御厨古墳群は、同じ磐田原台地の縁にありながら時代も性格も異なる遺跡群であり、両者を比べて読むことで、この台地がどれほど長い間、人々の営みの舞台であり続けてきたかが見えてくる。
| 縄文後期〜晩期 | 西貝塚遺跡(貝塚群)。埋葬人骨・土器・石器・骨角器が出土。住居跡は未検出。 |
|---|---|
| 弥生後期 | 城之崎遺跡(高地性集落)。低地の二之宮遺跡・鎌田鍬影遺跡などと関係。 |
| 古墳時代 | 城之崎2号墳・3号墳(丘陵上)、御厨古墳群(松林山古墳ほか、新貝・鎌田)。 |
| 地名としての明ヶ島・大原 | この一帯の地理的範囲を示す地名。個別遺跡としての発掘記録は未確認(要調査)。 |
主な参考資料
- Wikipedia「西貝塚(磐田市)」「磐田原」「縄文海進」「御厨古墳群」
- 静岡県-磐田市-全国遺跡報告総覧(文化財関連発掘調査報告書の目録)
- 磐田市文化財課・埋蔵文化財センター(明ヶ島・大原の個別遺跡情報は今後の確認事項)
- 磐田物語「「貝塚」という地名」「城之崎遺跡」「御厨古墳群」
あわせて読みたい
この地域の家・土地・空き家について
古い地名や集落の成り立ちを調べていると、 家や土地には、登記簿だけでは分からない地域の記憶が残っていることがあります。
相続した家、空き家、使わなくなった土地について、 「売る・貸す・残す」の前に、一度整理して考えたい方は、 富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。