古代東海道と駅家 ──
律令が定めた、もう一つの東海道
約16キロごとに置かれた、公用の中継施設
古代の東海道は、律令制のもとで整備された「官道」であり、都(平城京・平安京)と東国を結ぶ、国家にとって最重要の幹線道路の一つだった。この道には、一定の距離ごとに駅家(うまや)と呼ばれる施設が置かれていた。駅家は、宿泊のための宿場ではなく、公用の使者が馬を乗り継ぐための中継施設である。駅家には駅馬(えきば)と呼ばれる馬が常備され、駅子(えきし)と呼ばれる人員が配置され、駅田(えきでん)という専用の田がその維持費用にあてられていた。
駅家は、おおよそ30里(古代の一里は現在の約540メートルで換算されるため、実距離ではおよそ16キロ前後)ごとに設けられるのが原則とされた。都から発せられた命令や情報を、一刻も早く地方へ伝える。あるいは地方の急報(緊急の報告)を都へ届ける。駅家はそのための国家的なインフラであり、江戸期の宿場町のように旅人が自由に泊まる場所ではなかった。
延喜式が記録した、遠江国の駅家
平安時代中期にまとめられた法令集『延喜式(えんぎしき)』の巻28・兵部省には、「諸国駅伝馬条」という項目があり、全国の五畿七道にわたる402か所もの駅家の名称と、備えるべき駅馬の数が細かく記録されている。この記録によれば、遠江国内にも複数の駅家が置かれていた。そのうちの一つ、栗原駅(くりはらのえき)は、猪鼻駅(いのはなのえき)と引摩駅(いんまのえき、のちの引馬・浜松)のあいだに位置していたとみられ、駅馬10疋を備えていたと記されている。
引摩駅は、のちに徳川家康が拠点を移すことになる引馬(浜松)にあたる。磐田物語の別稿で触れたとおり、この引馬という地名は、のちに「浜松」へと改名されることになるが、その起源は古代の駅名にまでさかのぼる可能性がある。遠江国府が置かれた磐田は、この栗原駅・引摩駅を結ぶ古代東海道の沿線上、あるいはその近傍に位置していたと考えられる。
延喜式に「栗原駅」が猪鼻駅・引摩駅のあいだに位置し、駅馬10疋を備えていたと記録されていることは、辞典類等で確認できる。一方、栗原駅・猪鼻駅の正確な比定地(現在の磐田市域のどの地点にあたるか)については、今回のWeb調査の範囲では磐田市内での具体的な特定情報を確認できなかった。断定を避け、今後の課題として残しておきたい。
国府のまちを通っていた、古代の大動脈
磐田物語の別稿(なぜ磐田に国分寺が置かれたのか)でも触れたとおり、遠江国府・国分寺が磐田に置かれた理由の一つに、古代東海道がこの一帯を東西に貫いていたことが挙げられている。人と物、そして都の情報が行き交うこの幹線道路のそばに、国の役所と護国の寺が営まれたことは、偶然ではない。駅家という制度が機能していたということは、磐田が孤立した地方ではなく、都と直結した情報網・交通網の一部に組み込まれていたことを意味する。
古代東海道のルートは、後世の東海道(江戸期)とは異なる経路をたどっていたとされる。江戸期の東海道が海沿いや低地を通る区間を含むのに対し、古代の官道は、より直線的に、台地や尾根筋を選んで敷設される傾向があったといわれる。磐田原台地の南縁という国府・国分寺の立地条件も、こうした古代の道づくりの発想と無関係ではないだろう。
驚くほど直線的だった、古代の道
近年の考古学調査では、古代の官道は、後世の道と比べて驚くほど直線的に敷設されていたことがわかってきている。道幅もおおむね6メートルから、広い区間では12メートル前後に達したとされ、両側に側溝を伴う本格的な土木構造物として造られていた例が各地で確認されている。これは、地形にそって曲がりくねる近世以降の街道とは対照的で、都から地方へ最短距離で情報と人馬を送り届けようとする、律令国家の強い意志の表れだったと考えられている。磐田市域を通っていたとされる古代東海道についても、こうした直線的な官道の一区間であった可能性が高いが、磐田市内での発掘によって道路遺構そのものが具体的に確認されたという情報は、今回のWeb調査では見つけられなかった。
律令の駅制と、近世の宿場制度の違い
磐田物語には、江戸期の東海道にまつわる記事(一里塚・松並木・木戸など)がすでに複数ある。これらと古代の駅家は、同じ「東海道」という名を持ちながら、性格がまったく異なる制度である。近世の宿場は、参勤交代や庶民の旅、荷物輸送のために、宿泊・伝馬・飛脚といった機能を町全体で担う、いわば民間色の強い仕組みだった。これに対し、古代の駅家は、あくまで律令国家が中央集権的に管理する公用の中継施設であり、一般の旅人が自由に利用できるものではなかった。
約900年の時をへだてて、同じ「東海道」という道の上に、まったく異なる二つの交通制度が重なっている。磐田という土地は、その両方の時代において、道の要衝であり続けたことになる。目には見えない古代の駅家の跡を思い描きながら、現在の国道1号やバイパスを走ってみると、この土地が担ってきた「交通の要衝」という性格の連続性に、あらためて気づかされる。
| 駅家(うまや)とは | 律令国家が管理した、公用の馬の乗り継ぎ・情報伝達のための中継施設 |
|---|---|
| 設置間隔 | 原則として約30里(現在の距離感でおよそ16キロ前後)ごと |
| 典拠史料 | 『延喜式』巻28・兵部省「諸国駅伝馬条」 |
| 遠江国の駅の例 | 栗原駅(猪鼻駅・引摩駅の間、駅馬10疋) |
| 磐田との関係 | 国府・国分寺の立地根拠の一つ。正確な駅の比定地は未確認 |
主な参考資料
- コトバンク「栗原駅」
- Wikipedia「延喜式」「駅路」「東海道」
- 磐田物語「なぜ磐田に国分寺が置かれたのか」「遠江国府はどこにあったのか」「家康が見付から浜松へ移った理由」
本記事は、上記資料を参考にしつつ、磐田物語の編集方針に基づいて独自に再構成したものである。遠江国内の駅家の正確な比定地については定説を確認できておらず、本文では事実と未確認の点を区別して記している。
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