LOCAL HISTORY | 寺谷・磐田原台地の地形
寺谷遺跡の位置と環境
── 天竜川下流域と磐田原台地南縁の地形
寺谷という場所
寺谷は、磐田市の北西寄り、天竜川に近い一帯の地名である。すぐ西を天竜川が流れ、そこから東へ向かって磐田原台地がゆるやかに高まっていく。台地の上には中泉や見付といった市街が広がり、南へ下れば豊田や南部の低地が続く。寺谷は、その台地と川がぶつかる西の縁にあたる。
概報では、寺谷遺跡を天竜川下流域の左岸、磐田原台地南縁部の遺跡として説明していると読める。左岸というのは、川が流れていく方向を向いて左側、つまり天竜川の東側という意味である。川と台地、低地と高台という二つの地形が接する場所であり、水にも近く、増水の被害は受けにくい高みでもある。人が暮らしや作業の場を選ぶうえで、条件のそろった土地だったといえる。
磐田原台地とはどんな台地か
磐田原台地は、磐田市の中央部に広がる台地で、地元では「磐田原」とも呼ばれる。天竜川が長い時間をかけて運んできた砂や礫が積み重なり、その後、周囲が川や海の働きで削られていくなかで、高いまま残った土地だと考えられている。いわば、昔の川原が高台として取り残されたような地形である。
台地の上は水はけがよく、見晴らしがきく。その反面、地表近くまで水を得にくい場所もあり、水の確保が課題になることもあった。だからこそ、台地の縁――高台と低地の境目で、湧き水や川に近い場所は、古くから人が足を止めやすかった。寺谷遺跡が台地南縁で見つかっているのは、こうした地形の性格と無関係ではないと考えられる。
なぜ台地の縁に遺跡があるのか
土器がまだ現れない先土器時代(旧石器時代)の人びとは、農耕ではなく、狩りや採集を中心に、季節や獲物にあわせて移動しながら暮らしていたと考えられている。そうした暮らしでは、遠くまで見渡せて、水にも近く、獲物の通り道を見下ろせる場所が、活動の拠点として選ばれやすかった。台地の縁は、まさにそういう条件を満たす地形である。
磐田原台地の南縁や周縁からは、寺谷遺跡のほかにも石器時代・縄文時代の痕跡が知られている。一つひとつは小さな手がかりだが、台地の縁ぞいに点々と活動の跡が残っていること自体が、この地形が古くから人に利用されてきたことを物語る。寺谷遺跡は、その連なりのなかの一つとして読むのがふさわしい。
周辺の遺跡群のなかで見る
概報には「寺谷遺跡付近地形図」が掲載されており、周辺の遺跡の分布と、台地・低地の関係を示していると読める。この種の図が伝えているのは、寺谷遺跡を単独の点として見るのではなく、磐田原台地に残された遺跡群の一部として位置づける必要がある、ということである。
磐田の台地上には、後の時代になると銚子塚古墳をはじめとする古墳群や、国分寺・国府に関わる中泉のあたりの遺跡など、時代の異なる遺跡が幾重にも重なっている。寺谷遺跡が示すのは、そうした「見えている歴史」よりもさらに古い層である。同じ台地の上下に、先土器時代から古代・中世までの記憶が積み重なっていることを意識すると、寺谷遺跡の位置づけが見えやすくなる。
いまの地図で確かめる
寺谷遺跡そのものは、いまは静かな土地の下にある。現地に大きな記念物が立っているわけではないが、地図で天竜川と磐田原台地の位置関係をたどれば、資料が語る「台地南縁の遺跡」という説明を、自分の目で確かめることができる。国土地理院の地図などで標高や地形の起伏を見ると、川に近い低地から台地へと高まっていく様子が読み取れる。
なお、埋蔵文化財の包蔵地(遺跡の範囲として登録された土地)については、磐田市が情報を管理している。寺谷遺跡や周辺遺跡の現在の登録状況は、そうした行政の情報で確認するのが正確である。本ページの地形の説明は、あくまで概報と一般的な地図から読み取れる範囲のものであり、細かな範囲・標高は[要確認]としておきたい。
参考資料
- 磐田市教育委員会『静岡県磐田市 寺谷遺跡第3次発掘調査概報』昭和53年(1978年)3月。
本ページは上記資料をもとに、磐田物語編集部が地名・地形・地域史の観点から再構成したものである。資料本文の丸写しではなく、図版・写真の転載も行っていない。地形・標高・遺跡範囲の細部は資料や現地確認が必要な部分が多く、判読に迷う箇所は「[要確認]」と記している。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。
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