失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語旧豊田町の歴史加茂・寺谷
KAMO & TERADANI

加茂・寺谷の歴史
── 遠江の信仰と農業が育んだ地

古代の信仰から近代のまちづくりまで

旧豊田町を構成していた加茂・寺谷地区は、遠江でも有数の農業地帯でした。古代からの信仰に根ざしながら、近世から近代にかけて新しいまちへと変遷してきた地域。地名、寺社、古い村落構造――それらすべてが、加茂・寺谷の歩みを物語ります。

Origins

古代の信仰と地名の由来

加茂・寺谷地区の田園風景
遠江の穏やかな田園。古代からの信仰と地域の営みが刻まれています。

古代の信仰地 加茂・寺谷

「加茂(かも)」という地名の由来には、いくつかの説が伝えられている。水辺に集う鳥の「鴨」に由来するという説、神聖な場所を意味する「神(かみ)」が転じたとする説、高い土地を指す「上(かみ)」が訛ったとする説などである。全国に広く分布する「加茂・賀茂」の地名は、京都の賀茂社の信仰や荘園に関連するものが多く、当地もそうした古い信仰圏の名残をとどめる土地と考えられている。いずれにせよ、加茂が水と土地に根ざした古い集落であったことは、地名そのものが物語っている。

「寺谷(てらだに)」の地名は、より直接的に地形と土地の性格を表している。「谷(やつ・たに)」は、低くくぼんだ地形や谷あいの土地を指す言葉で、こうした場所は水利に恵まれると同時に、しばしば寺社の営まれる聖なる地とも見なされた。寺谷の名は、この地に寺院の存在した記憶を伝えるものと考えられ、後にこの地名が、磐田南部一帯の水田を潤す「寺谷用水」の名としても歴史に刻まれることになる。

戦国の世が静まりつつあった頃、美濃国(現在の岐阜県)から戦乱を避けて、平野重定(ひらの しげさだ)の一族がこの遠江国豊田郡賀茂村(現在の磐田市加茂)に移り住んだと伝えられる。やがてこの平野重定こそが、加茂・寺谷の名を後世に残す大事業を担うことになるのだが、その物語は後の章でたどることとしたい。古い地名は、こうした人々の営みと土地の記憶を読み解くための、最も基本的な手がかりなのである。

Development

街道と田畑 ── 中世から近世への変遷

青々とした田園風景
青々とした稲穂が風に揺れる遠江の田園。加茂・寺谷の豊かな農業生産を支えてきた土地。

近世の農業開発と地域の繁栄

加茂・寺谷地区は、天竜川の左岸に広がる磐田原台地のすそと、その南に開ける沖積の低地とが接するあたりに位置している。東海道の宿場町であった見付・中泉からもさほど遠くなく、人と物の流れに連なりながら、古くから農を生業とする集落が営まれてきた。だが、肥沃な土地を抱えながらも、この一帯は長く水に苦しんだ。すぐ西を流れる天竜川は「暴れ天竜」と恐れられた大河で、たびたび氾濫しては田畑を押し流す一方、いざ水を引こうとすれば手の届かぬ存在でもあったのである。

その水の問題を根本から変えたのが、後の章でたどる寺谷用水の開削であった。安定した用水を得たことで、加茂・寺谷をはじめとする磐田南部一帯は、江戸時代を通じて遠江でも有数の穀倉地帯へと育っていく。水利に恵まれた水田は稲作の中心地となり、収穫された米は年貢として納められるとともに、見付・中泉といった近隣の町や市場へも供給される重要な食糧源となった。

用水によって潤された村々では、堰や水路をどう分け合い、どう維持するかが、村の暮らしそのものを左右した。水の配分や用水路の普請は村々の共同で担われ、その取り決めや費用負担をめぐる記録は、当時の村落社会のしくみを今に伝えている。年貢の徴収、用水の管理、村の自治――そうした営みの積み重ねの上に、この地の豊かな農業は成り立っていたのである。

明治を迎え、町村制の施行を経て、加茂・寺谷の村々もやがて豊田の名のもとに束ねられていく。明治・大正から昭和にかけては、耕地整理による田の区画の整え直し、農業の機械化、教育制度の整備、交通網の拡充が進み、この地域の景観と社会構造は大きく変わっていった。それでもなお、田を潤す水の流れだけは、四百年を越えて変わることなく、この土地の根幹を支え続けている。

Waterway

寺谷用水 ── 四百年を超えて田を潤す流れ

加茂・寺谷の歴史を語るうえで欠かすことのできないのが、この地に名を残す「寺谷用水(てらだにようすい)」である。天竜川左岸の磐田南部一帯を潤すこの用水は、徳川家康の時代に開かれ、四百年を超えた今もなお水田に水を送り続けている。

天正十六年(一五八八)、浜松城主として遠江を治めていた徳川家康は、「暴れ天竜」と呼ばれた天竜川から水を引き、安定した米づくりを実現するための用水開発に着手したと伝えられる。工事を任されたのは、家臣の伊奈忠次(いな ただつぐ)と、代官をつとめた平野重定(ひらの しげさだ)であった。両者は現在の磐田市寺谷の地先に取水口(大圦樋〈おおいり〉)を設け、そこから浜部(はまべ)まで、およそ十二キロメートルにおよぶ大井堀(おおいぼり=幹線用水路)を整備した。こうして引かれた水は、約二千ヘクタールにもおよぶ水田を潤したという。用水が通水したのは天正十八年(一五九〇)のこととされ、以来この流れは絶えることなく続いている。

用水開発の中心となった平野重定は、もとは美濃国(現在の岐阜県)の出身で、戦乱を避けて賀茂村(現在の磐田市加茂)に移り住んだと伝えられる。「農民の福利の基(もとい)は水利の安定にあり」との信念のもと水源を求め、難工事をやり遂げたとされ、その人柄と功績は名奉行として多くの農民に慕われた。寛永元年(一六二四)に重定が世を去ると、その亡骸は加茂の曹洞宗・大円寺(だいえんじ)に葬られた。今も毎年十月八日の命日には、大円寺において寺谷用水の関係者を招いて例祭が営まれており、明治三十九年(一九〇六)の三百年祭、昭和三十一年(一九五六)の三百五十周年祭を経て、令和五年(二〇二三)十月には没後四百年を記念する四百年祭が執り行われた。

明治以降も用水は受け継がれ、明治二十四年(一八九一)に寺谷用水組合が、昭和二十六年(一九五一)には寺谷用水土地改良区が設立されて、その管理が今日まで担われている。そして令和四年(二〇二二)十月、寺谷用水は四百年余りにわたり水田をかんがいし続けてきた歴史的・技術的な価値が認められ、国際かんがい排水委員会(ICID)の「世界かんがい施設遺産」に登録された。古代の信仰に始まる加茂・寺谷の歩みは、こうして世界に知られる水の遺産へとつながっている。

この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
主な参考:磐田市公式ウェブサイト「『世界かんがい施設遺産』寺谷用水」、寺谷用水土地改良区ウェブサイト「寺谷用水の歩み」、『広報いわた』2023年11月号「徳川家康の時代から磐田の米づくりを支える寺谷用水」。
作成方針
本記事は、資料の文章をそのまま転載するのではなく、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。

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