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LOCAL HISTORY | 寺谷・出土遺物と調査成果

寺谷遺跡の出土遺物
── ナイフ形石器・細石核・縄文土器と調査成果

寺谷遺跡第3次発掘調査では、先土器時代の石器群と縄文式土器が出土している。ナイフ形石器、細石核、剥片、石核といった石器と、文様や器形を残す土器の破片。ここでは、それらの出土遺物を『寺谷遺跡第3次発掘調査概報』(磐田市教育委員会、昭和53年〈1978年〉3月)をもとに整理し、「なぜ磐田でこの資料が大切なのか」を、磐田原台地の先土器時代という文脈のなかで考える。
本ページは公開資料をもとに磐田物語が独自に整理したものであり、行政・研究機関の公式ページではない。石器の型式や時期については研究上の議論があり、資料の記述と、一般的な用語解説とを分けて書くよう努めた。専門的な比較や年代の断定は避け、判読・確認を要する箇所は「[要確認]」と記した。「日本最古」などの誇張表現は用いない。

出土遺物の全体像

寺谷遺跡の出土遺物は、大きく二つの時代にまたがる。ひとつは、土器がまだ現れていない先土器時代(旧石器時代)の石器群。もうひとつは、その後の縄文時代の土器である。同じ場所から異なる時代の遺物が出るのは、この土地が一度だけでなく、時代を変えて繰り返し人に利用されてきたことを示している。

先土器時代の遺物は、石を割ってつくった道具が中心になる。金属も土器もない時代、人びとは石を割り、砕き、刃をつけて、切る・削る・突くといった作業をこなした。寺谷遺跡から出たナイフ形石器や細石核、剥片、石核は、そうした石を扱う技術の跡である。まずは、それぞれがどんな遺物なのかを、簡単な言葉で整理しておきたい。

ナイフ形石器

石を割ってできた薄い剥片の一部に手を加え、刃をつけた石器。切る・削るといった作業に使われたと考えられる、先土器時代を代表する道具のひとつ。「ナイフ形」という形の呼び名であり、現代のナイフそのものを指すわけではない。

細石核(さいせきかく)

細石刃(さいせきじん)と呼ばれる細長く小さな石の刃を、次々と剥ぎ取るための「核(もと)」となる石。細石刃を柄や骨に埋め込んで道具に仕立てる技術と結びつく、先土器時代の終わりごろに広がった石器づくりを示す。

剥片(はくへん)・石核(せっかく)

石核は、道具の材料となる剥片を打ち剥がすもとの石。剥片は、そこから割り取られた石の薄片。完成した道具だけでなく、こうした製作の途中や残りが出ることが、その場で石器がつくられた可能性を考える手がかりになる。

ナイフ形石器と石器群

ナイフ形石器は、先土器時代の石器を代表する道具である。薄く割り取った剥片の縁に細かな加工を施し、刃と背をつくり分けたもので、切る・削るといった日常の作業に幅広く使われたと考えられている。寺谷遺跡でナイフ形石器が出土していることは、この土地が、土器の現れる前の時代から人の活動の場になっていたことを示す、確かな手がかりである。

石器は、一点だけを取り上げても多くは語らない。同じ場所から出た石器群として、まとまりで見ることに意味がある。どんな石材が使われているか、どのように割られ、加工されているか。そうした特徴の集まりが、その石器群がいつごろのものか、どのような技術系統に位置づけられるかを考える材料になる。ただし、型式や時期の判定は専門的な検討を要するため、本ページでは資料の記述を軸としつつ、細かな年代の断定は[要確認]としておく。

細石核・剥片・石核から見える石器製作

寺谷遺跡の出土遺物のなかで注目したいのが、細石核である。細石核は、細石刃という細長い小さな刃を連続して剥ぎ取るための母体となる石で、これを用いる技術は、先土器時代の終わりごろに列島の広い範囲へ広がったとされる。細石刃を骨や木の柄に何枚も並べて埋め込み、刃物や槍先に仕立てる――そうした精巧な道具づくりの一端が、この土地にも及んでいたことを、細石核はうかがわせる。

あわせて出土する剥片や石核は、完成した道具ではない。しかし、これらが同じ場所から出ることには大きな意味がある。石核があり、そこから割り取られた剥片があるということは、その場で石を割り、道具をつくる作業が行われていた可能性を示すからである。持ち込まれた完成品だけでなく、製作の途中や残りが残っているとすれば、寺谷は、道具を「使った場所」であると同時に「つくった場所」でもあったのかもしれない。もっとも、これも接合資料の検討などを要する慎重な問題であり、断定は避けたい。

縄文式土器の出土

石器群よりも新しい時代の遺物として、寺谷遺跡からは縄文式土器も出土している。縄文土器は、粘土をひも状にして積み上げ、表面に縄を転がした文様などをつけて焼いた土器で、煮炊きや貯蔵に使われた。破片であっても、その文様や、口縁や胴のかたち(器形)から、およその時期や系統を考えることができる。

概報では、こうした縄文式土器が図版をもとに扱われていると読める。土器の出土は、先土器時代の石器群とは別の時代に、この土地が改めて人に利用されたことを示す。台地の縁というこの場所が、土器を持つ時代になっても、なお人の営みと関わり続けていたことになる。同じ地層のなかに、時代の異なる遺物が積み重なっていること自体が、寺谷という土地の履歴の厚みを物語っている。

寺谷遺跡第3次調査が残した課題

第3次調査は、石器群・礫群・縄文式土器などを記録し、磐田原台地の古い時代を考える材料を加えた。しかし、発掘調査は、掘った範囲のことしか分からないという宿命をもつ。道路敷を中心とした発掘区の外には、まだ確かめられていない土地が広がっている。石器群がどこまで広がるのか、遺構と遺物がどう結びつくのか、細石核が示す時期をどう位置づけるのか――こうした問いの多くは、なお残されたままである。

だからこそ、寺谷遺跡の成果は「これで分かった」という結論ではなく、「ここまで分かった、続きは今後の課題である」という区切りとして受け止めるのが誠実である。概報が慎重な筆致でまとめられているのも、そうした態度の表れだと読める。磐田物語も、この資料を、答えの書物としてではなく、問いを引き継ぐための記録として読みたい。

磐田の地域史の中でどう読むか

磐田の歴史を語るとき、多くは東海道の見付宿や、国府・国分寺が置かれた中泉、台地上に並ぶ古墳群といった、目に見える時代から始まる。しかし、その足もとには、土器も金属もない先土器時代からの、長い長い前史が横たわっている。寺谷遺跡が出土させた石器群は、その前史に手を触れさせてくれる、数少ない手がかりである。

磐田原台地は、天竜川が運んだ砂礫の上に成り立ち、水はけと見晴らしに恵まれた土地として、時代を超えて人を惹きつけてきた。寺谷遺跡は、その台地の南縁で、先土器時代から縄文時代へと、人の活動が重なってきたことを示している。豊田や見付、中泉といった今の地名の下に、これほど古い記憶が眠っていること。それを知ることは、磐田という土地を、より深い時間の奥行きのなかで見つめ直すことにつながる。派手な発見ではないかもしれない。それでも、こうした一つひとつの記録が積み重なって、地域の歴史はかたちづくられていく。寺谷遺跡第3次発掘調査の概報は、その静かな土台の一枚である。

見付宿や古墳よりもさらに古い時代から、磐田原台地には人の営みがあった。寺谷遺跡の石器は、その遠い前史に、そっと手を触れさせてくれる。 ── 『寺谷遺跡第3次発掘調査概報』を読んで

参考資料

  • 磐田市教育委員会『静岡県磐田市 寺谷遺跡第3次発掘調査概報』昭和53年(1978年)3月。

本ページは上記資料をもとに、磐田物語編集部が地名・地形・地域史の観点から再構成したものである。資料本文の丸写しではなく、図版・写真の転載も行っていない。石器の型式・時期には研究上の議論があり、資料の記述と一般的な用語解説を分けて書き、判読・解釈に迷う箇所は「[要確認]」と記している。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。

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