明治22年(1889年)、実り豊かな低地を擁する井通村とは対照的に、標高の高い磐田原台地の西半分と台地崖下の緩斜面を版図とする「富岡村(とみおかむら)」が誕生しました。この村の歴史は、水が極めて得にくい「水なき台地」という自然の逆境に立ち向かい、茶園開墾や適地適作の知恵によって一大農業先進地へと上り詰めた、遠州のフロンティアスピリットの象徴です。
- 台地と崖線の合併:明治22年、加茂(かも)、岩井(いわい)、明ケ島(あけじま)の一部など、磐田原台地の西縁部を占める村々が合併して富岡村が成立しました。
- 水なき台地への挑戦とお茶の開墾:水利が届かない台地部において、乾燥と強風に強い「茶」の大規模な開墾を推進し、主要な外貨獲得産業へと育て上げました。
- 低地との複合経営と農業の近代化:台地部での茶や桑(養蚕)、崖下の傾斜地での畑作、そして僅かな低地での稲作を組み合わせた、先進的な複合農業経営を確立しました。
台地の厳しい自然に挑む「富岡村」の誕生
明治22年(1889年)の町村制施行に伴って誕生した「富岡村(とみおかむら)」は、のちの豊田町の北半部、磐田原台地の西縁エッジを形成するエリアであった。明治の市制町村制は、それまで自然発生的に存在した小さな村々を統合して近代的な行政村をつくる大改革であり、富岡村もまた、加茂・岩井・明ケ島といった台地西縁の旧村が一つにまとめられて成立したものである。村名は、地域に古くから存在する豊かな「岡(台地)」が今後さらに「富む」ように、という願いを込めて命名されたと伝えられる。
しかし、その船出は極めて過酷なものであった。磐田原台地は、天竜川下流平野の東に広がる洪積台地であり、台地面はかつての天竜川の扇状地が残した礫層に覆われている。標高はおよそ十数メートルから北端の神増付近では百三十メートルにまで達し、東側は急崖となって太田川の低地へと落ち込む。この礫まじりの赤土は水を通しやすく、雨水は地中深くへ抜けてしまうため、地下水脈は遠く、井戸を掘り当てることさえ容易ではなかった。こうした乏水性ゆえに、磐田原一帯の本格的な開発は近世まで大きく遅れていた。米のつくれないこの広大な「水なき台地」をいかにして生産的な土地に変えるか――それが、富岡村に課せられた最大の生存課題だったのである。
士族授産と開拓者の鍬 ── 一大茶園の誕生
明治の初頭、徳川幕府の崩壊に伴って職を失った駿遠の旧幕臣(士族)や、近隣の志ある農民たちが、開拓の鍬を手に台地へと向かったとされる。明治維新後の静岡県では、徳川宗家とともに移り住んだ無禄の旧幕臣たちの授産(生活の道を立てさせること)が大きな課題となり、その受け皿として大井川西岸の牧之原台地が大茶園へと開かれたことはよく知られる。水の乏しい洪積台地を茶で拓くというこの牧之原の経験は、同じ天竜川東岸の磐田原台地にも少なからぬ示唆を与えたと考えられる。富岡の開拓者たちが着目したのも、水が少なくとも育ち、当時アメリカなどへの花形輸出商品であった「お茶(遠州茶)」の栽培であった。
水を通しやすく痩せた赤土でも、茶の木は深く根を張って育つ。開拓者たちは、冬の遠州名物「からっ風(強い西風)」から芽吹いたばかりの若葉を守るため、畑の縁に松や杉の防風林を植え、固く締まった赤土を一鍬ずつ手作業で耕し続けた。汗と労苦によって荒れ地は一枚、また一枚と整然と刈り込まれた緑の畝へと姿を変え、明治中期以降、磐田原西縁の台地は県内でも知られた茶の産地の一角を占めるに至ったのである。
適地適作と養蚕・複合農業の成功
富岡村の強みは、お茶だけに依存しない先見性にもあった。乾きやすく桑の根に水が滞らない台地の土は、皮肉にも養蚕の餌となる桑の栽培には適していた。農家は台地上の畑に桑を植え、近代日本の輸出を支えたもう一つの柱である「養蚕(ようさん)」を取り入れていったとされる。多くの農家が母屋の一隅や二階に蚕室を設けて蚕を飼い、繭は女性や高齢者も含めた一家総出の労働によって、現金収入をもたらす貴重な副業となった。茶と桑――乾いた台地でこそ価値を生むこの二つの作物が、富岡の暮らしを底から支えたのである。
さらに富岡村の人々は、一つの作物に頼らず、地形の高低差を巧みに読み分けて土地を使いこなした。乏水性の台地の上では茶と桑を、台地が太田川低地へと落ちる崖線沿いでは、そこに滲み出るわずかな水を頼りに野菜などを、そして崖下の限られた低地では主食の米を――というように、同じ村のなかで標高の異なる土地に異なる作物を配する「立体的な複合経営」が営まれた。逆境を嘆くのではなく、台地・崖線・低地という地形の個性を一つひとつ見極め、それぞれの場所に最も適した実りを引き出していった。やがて昭和30年(1955年)、富岡村は隣接する低地の農村・井通村と合併して新たに「豊田村」となり、台地と平野の二つの顔をあわせ持つ一つの自治体へと歩みを進めていく。水なき台地を緑の畝に変えた富岡村の営みは、今日まで続く磐田の進取の農の精神の、確かな淵源の一つだといえよう。
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