失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語福田地区 / 太田川河口のウナギ養殖と淡水水産

福田地区の記憶 第四回 | 暮らし

太田川河口のウナギ養殖と淡水水産 ── 豊かな水系が育んだ養殖フロンティア

浜名湖と並び、静岡県のウナギ産業を牽引した福田の「ウナギ養殖(養鰻業)」。太田川・今之浦川がもたらす豊富な淡水と、シラスウナギの遡上力を活かした養殖池開拓の歴史に迫ります。

「静岡県のウナギ」といえば浜名湖が有名ですが、実は磐田市の「福田地区」もまた、明治から昭和にかけて日本のウナギ養殖(養鰻業)の発展を力強く支えた巨大な拠点でした。太田川や今之浦川の下流部に張り巡らされた豊かな淡水水系と、フロンティア精神にあふれた養殖家たちの知恵と闘いの軌跡を明らかにします。

本稿の要点
  • 太田川水系の豊富な湧水と淡水環境:福田地区は、太田川やその支流がもたらす清らかで栄養豊富な淡水に恵まれ、ウナギの飼育に最適な水質を誇っていました。
  • 明治・大正期の養鰻池の開拓ラッシュ:低湿地や休耕田を掘り下げて次々と養殖池を建設し、天竜川や太田川河口で捕獲した天然のシラスウナギを育てる近代養鰻が急成長しました。
  • 地下水利用と水温管理の技術開発:冬の寒さを克服するため、温泉水や地下温水を利用した「ビニールハウス養殖」などの先進的な技術をいち早く導入し、生産性を劇的に向上させました。

浜名湖に匹敵する「磐田・福田の養鰻」の地学的優位性

福田地区は、東を太田川、西を今之浦川(いまのうらがわ)、南をぼう僧川が流れる、全域が沖積地からなる極めて水資源の豊かな低平地です。これらの河川の下流部は、淡水がほどよく海水と混じり合う汽水域を形成し、ウナギの好む泥深い土壌と、年間を通じて水温が安定した良質な地下水(伏流水)が容易に得られる場所でした。

明治時代の中期、日本の水産養殖のパイオニアたちがこの地学的利点に着目しました。ウナギの稚魚である「シラスウナギ」が、目の前の遠州灘や河口部で大量に獲れることもあり、福田の地でウナギを人工の池で育てる「養鰻(ようまん)」の本格的な挑戦が始まったのです。

横須賀藩の治水事業から生まれた福田の養魚池。 福田における養鰻の起源として伝わるのが、慶応2年(1866年)、当時福田村の庄屋であった寺田彦太郎の事績である。寺田は横須賀藩主・西尾侯の命を受け、太田川(現在の森町から磐田市にかけての区間)の堤防築造と干拓工事にあたった。この工事によってできた池には、ウナギやフナ、スズキ、ボラなどが自然に棲みつくようになり、寺田はそこに水門を設けて魚を留め置く「養魚場」として活用した。これは当初から意図されたウナギ養殖ではなく、治水・干拓事業の副産物として偶然に生まれた成果であったと伝えられるが、結果として福田の地に「川を堰き止めて魚を育てる」という養魚の発想を根づかせる契機になったとされる。寺田自身は、その後明治29年(1896年)に愛知県桑名へ移り、そこで計画的なウナギ養殖に本格的に着手したと伝わっている。

泥にまみれて池を掘った開拓者たちのフロンティアスピリット。 大正から昭和初期にかけて、福田地区では爆発的な「養鰻池の開拓ラッシュ」が起きました。農民や商人は、水害が多く米作りに適さなかった太田川沿いの湿地帯や休耕田を、クワとモッコを用いて手作業で掘り下げ、巨大な養殖池へと変えていきました。

ウナギの養殖は、生き物を扱う極めて難しい事業です。水中の酸素量が少しでも不足すればウナギは一晩で全滅し、水質が悪化すれば病気が蔓延します。福田の養鰻家たちは、池の周囲に風車を建てて水を循環させて酸素を供給し、餌となる生糸のサナギや小魚の配合を研究するなど、独自の飼育ノウハウ(水管理の技術)を泥まみれになりながら確立していったのです。

ハウス養殖の導入と福田ウナギのブランドの記憶。 昭和中期以降、福田の養鰻業はさらなる技術革新を成し遂げました。それまでの露地池(屋外の池)での養殖から、池全体を透明なビニールシートで覆い、ボイラーで温めた地下水を循環させる「ビニールハウス加温養殖法」をいち早く導入したのです。これにより、ウナギの成長スピードは劇的に速まり、それまで出荷までに二年近くかかっていたものが、わずか数ヶ月から一年で出荷できるようになりました。

現在では、都市化やシラスウナギの減少により福田の養鰻池の数は減少しましたが、ここで培われた「高度な淡水水産技術」と「命を育むフロンティア精神」は、磐田市内の水産研究や、今も地元で愛され続ける美味しいウナギ料理の伝統のなかに、しっかりと生き続けています。

浜名湖の養鰻業と静岡県産ウナギの現在地

静岡県のウナギ養殖といえば浜名湖が広く知られている。明治24年(1891年)、現在の湖西市で原田右衛門が7ヘクタールの養殖池を築いて挑戦したが、この時は成功に至らなかったと伝わる。その後、明治30年(1897年)に服部倉次郎が浜名湖の地形に着目して調査を始め、明治33年(1900年)には東京水産講習所(現在の東京海洋大学)で共に学んだ中村源左衛門の協力を得て、浜名湖に約8ヘクタールの養殖池を築いたことが、日本における大規模なウナギ養殖の本格的な出発点になったとされる。福田の養魚の起こりが偶然の産物であったのに対し、浜名湖では計画的な事業として養鰻業が確立していった点に違いがある。

現在、磐田市福田には「静岡うなぎ漁業協同組合中遠加工場」が置かれ、浜名湖・吉田などで育てられたウナギを関東風の裂き方・焼き方で加工し、蒲焼として直売する拠点になっている。かつて福田自身が養殖池を数多く抱えた産地であった歴史を思えば、この加工場の存在は、福田が生産の最前線から「淡水水産の技術と流通を受け継ぐ土地」へと役割を変えながらも、ウナギとの関わりを絶やさずにきたことを示していると言えるだろう。なお、静岡県全体のウナギ養殖生産量は、近年では愛知県・鹿児島県・宮崎県に次ぐ全国4位程度の水準にあるとされ、シラスウナギの不漁や後継者不足という全国共通の課題に直面している。

ウナギ養殖を根拠から読み直す。 太田川河口のウナギ養殖は、地下水・河川水・低湿地の土地利用、池の造成、餌・流通・市場の変化を合わせて読む必要があります。浜名湖周辺の養殖史と混同せず、福田地区でどの水系、どの土地、どの時期に養殖が広がったのかを町史、統計、地形資料で確認します。

今後は、現地写真、石造物や屋台の刻銘、漁港・産地資料、町史の該当箇所を照合し、確認済みの事実、資料からの解釈、地域に伝わる記憶を分けて追記します。

この地域の家・土地・空き家について

古い地名や集落の成り立ちを調べていると、 家や土地には、登記簿だけでは分からない地域の記憶が残っていることがあります。

相続した家、空き家、使わなくなった土地について、 「売る・貸す・残す」の前に、一度整理して考えたい方は、 富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。

主な参考資料

福田地区トップへ戻る ← 前の回へ(別珍・コールテンと福田の織物産業) 次の回へ(福島村から福田町への改称と近代行政) →