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広重「見附 天竜川図」を読む ── 霧の川に描かれた磐田
広重の東海道五十三次「見附 天竜川図」は宿場の賑わいではなく川霧に沈む天竜川の渡しを描いた。なぜ見附の絵に川を選んだのか。広重の実走をめぐる学説とあわせて一枚の浮世絵から磐田を読む。
天竜川の堤防・洪水碑・水害記録 ── 昭和49年七夕洪水の記憶
明治の改修後もなお続いた天竜川の水害。昭和49年七夕洪水の総雨量・浸水戸数の記録から、堤防年表だけでは見えない被害の実態をたどる。
今之浦川の舟の道 ── 見付と海を結んだ水の記憶
今之浦川はかつて見付の南まで海の水が入り込んでいた入り江の名残である。見性寺遺跡の丸木舟が物語る水運の古層から排水路の時代、親水の現在まで、舟の道の記憶を追う。
遠江国司の人々 ── 磐田の国府に赴任した官人たち
万葉集に歌を残した桜井王、千載和歌集の撰者・藤原俊成。守・介・掾・目の四等官制から遥任・在庁官人の時代まで、磐田の国府に赴任した国司という制度と人の千年をたどる。
中泉御殿と関ヶ原の戦い ── 家康滞在記録をたどる
慶長5年6月21日、家康は三河吉田からその夜のうちに中泉御殿へ入った。家康の側近・板坂卜斎の一次史料「慶長年中卜斎記」に残る具体的な滞在記録を読む。
江戸の旅ブームと見付宿 ── 膝栗毛と道中案内の時代
十返舎一九『東海道中膝栗毛』の大ヒットは江戸の庶民を旅へ駆り立てた。弥次喜多も遠江路を歩き天竜川を舟で渡った。旅ブームの時代の見付宿を、道中記・旅日記の文化とあわせて読む。
見付と時宗 ── 一遍の教えと西光寺、遊行上人の道
踊り念仏の一遍上人が開いた時宗は旅する宗教だった。見付の西光寺は一遍の教化で時宗に改宗したと伝わり、遊行上人の六字名号と県下唯一の中世石宝塔を今に伝える。街道の町と時宗のつながりを読む。
遠江今川氏と見付端城 ── もう一つの今川家が治めた見付
今川了俊を祖とする遠江今川氏(堀越氏)。文明年間に見付端城を築いた堀越貞延、大永2年の鰐口に名を残す堀越氏延。見付を治めたもう一つの今川家の盛衰をたどる。
見付宿の成立と宿場範囲 ── 慶長6年の伝馬朱印状から読む
関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)に発せられた伝馬朱印状。見付宿はどのように正式な宿場となり、東は三本松・西は境町・南は今之浦という範囲を持つに至ったのかをたどる。
城之崎城が完成していた場合の歴史IF ── 思考実験としての磐田
もし城之崎城が完成し家康が見付を本拠とし続けていたら。既存記事で確認した史実をもとに、思考実験として磐田のもう一つの歴史を考える。
家康が見付から浜松へ移った理由 ── 信長の助言と「引馬」の改名
家康は当初見付に築城予定だったが、天竜川を挟む退却リスクを信長に指摘され浜松へ。引馬城の改名理由、浜松の地政学的優位性までをたどる。
横須賀街道と福田 ── 海沿いのもう一つの街道
東海道の南、遠州灘沿いにもう一本の道が通っていた。横須賀城下と天竜川方面を結ぶ横須賀街道である。福田の松並木にその面影を残す、湊と村を結んだ暮らしの街道の記憶をたどる。
ジュビロ磐田前史 ── 工場のサッカー同好会が日本一になるまで
ジュビロ磐田の原点は1970年にヤマハ発動機磐田工場で生まれたサッカー同好会だった。杉山隆一の招聘、東山のグラウンド、天皇杯と日本リーグ制覇、Jリーグ参入までの助走の四半世紀をたどる。
静岡藩時代の磐田 ── 徳川家とともに来た人々
維新後の徳川家は駿河・遠江70万石の静岡藩になった。江戸から移住した旧幕臣たち、中泉奉行所と前島密、廃藩置県と浜松県。わずか4年の藩の時代が磐田に残したものをたどる。
安政東海地震と磐田 ── 嘉永7年11月4日の記憶
嘉永7年(1854年)11月4日朝、遠州を巨大地震が襲った。掛塚の『一代咄』、遠州灘の津波、繰り返す地震の系譜。磐田にとっての安政東海地震をたどる。
磐田から北へ ── 秋葉道・二俣街道の記憶
磐田の道の話は東西の東海道に偏りがちだが、見付は秋葉山参詣の入口だった。秋葉道から明治の高塚新道、幻の光明電鉄まで、磐田の「北への道」の系譜をたどる。
日清・日露戦争と磐田 ── 忠魂碑が建てられた時代
徴兵制は磐田の村の若者を初めて国家の戦争へ送り出した。日清戦争、日露戦争、そして村々に建てられた忠魂碑。磐田市慰霊碑の1,617柱に含まれる明治の戦没者たちの時代をたどる。
神仏分離と磐田 ── 明治維新が変えた祈りのかたち
慶応4年の神仏判然令は千年続いた神仏習合を解体した。秋葉三尺坊の可睡斎移転、遠江国分寺後継寺院の廃絶、修験の廃止、神社の合祀。明治の宗教再編が磐田の寺社に何をもたらしたかをたどる。
寺請制度と宗門人別帳 ── 江戸時代の磐田の「戸籍」
江戸時代、すべての人はどこかの寺の檀家であることを義務づけられた。毎年つくられた宗門人別帳は近世の戸籍として村人の名と家族を書き留めた。磐田の村と寺の関係からこの仕組みを読み解く。
磐田の相給村 ── 一つの村に、いくつもの殿さま
江戸時代の磐田は城下町ではなく、天領・旗本領・諸藩の飛地が入り組む相給支配の土地だった。一つの村を複数の領主が分け合う仕組みと村の暮らし、明治での解消までを読み解く。