PERSON | 人物・治水 ── 私財を投じた治水の先駆者
金原明善
── 私財を投じて天竜川と向き合った男
出自と天竜川との出会い
金原明善は、天保3年6月7日(1832年7月4日)、遠江国長上郡安間村(現在の浜松市中央区安間町)に生まれた。生家は酒造業と質屋を兼ねる大地主で、村の名主を務める家柄であったと伝えられる。安間村は天竜川の東岸、竜洋・掛塚から見れば上流にあたる位置にあり、生涯にわたって天竜川という川と隣り合わせに暮らした土地であった。
慶応4年(1868年)5月、天竜川の堤防が決壊し、浜松・磐田一帯に大きな被害をもたらした。この水害を機に、明善は京都の民生局(新政府の地方行政機関)に治水の建白を行い、修防(堤防の修築)を願い出て、同年11月にはこれを実現させたと伝えられる。r024でも触れたとおり、これが明善の治水事業の実質的な出発点である。当時、明善は30代半ばであった。
私財を投じた修防のはじまり(明治元年〜)
明治2年(1869年)、明善は静岡藩から水下各村の総代に任じられ、天竜川下流域の水防事業をとりまとめる立場となった。明治4年(1871年)には、鹿島(現在の浜松市天竜区)から掛塚港までのおよそ7里について、河幅を定めて乱流を治める川普請の改良を静岡藩に建言し、実現すれば年々千円ずつを自ら献じたいとまで申し出たという。当時の千円は、現在の貨幣価値に単純換算することは難しいが、一個人が継続的に負担すると申し出る額としては極めて大きなものであった。
明治5年(1872年)に命じられた上流・鹿島村での支流締切工事は、明善が設計にあたったものの、費用が巨額にのぼり許可されなかった。r024ではこの一件を年表の一項目として触れるにとどめたが、明善の治水事業は、こうした「実現しなかった計画」もあわせて見ることで、その苦労がより具体的に見えてくる。明治6年(1873年)には下流での支流川締切事業を企てたが、これに対しては、掛塚港の村民が「湊が土砂で埋まってしまう」と激怒し、明善の家に大勢が押し寄せる騒動になったとも伝えられる。治水が、上流と下流の利害を同時に満たすとは限らないことを示す出来事である。
天竜川堤防会社と治河協力社
明治7年(1874年)6月、明善は天竜川堤防会社(天竜川通堤防会社とも表記される)の設立を県庁に出願して許可を受け、自ら社長となって修堤の事業にあたった。この会社は明治9年(1876年)に治河協力社(治水協力社とも)と改称される。会社とはいっても、株主に配当を出す営利企業ではなく、堤防修築という公共事業を、民間の資金と労力で担う組織であった。
明治10年(1877年)12月には、内務卿・大久保利通に謁見し、祖先伝来の財産のすべてを工事費として国に献納する代わりに、天竜川に関するすべての工事を治河協力社が担うことを願い出たと伝えられる。私財を投じるという明善の姿勢が、単発の寄付ではなく、事業の継続そのものを自らの財産で支えるという徹底したものであったことがうかがえる。
明治14年(1881年)、前年公布の太政官布告により、治水工事は沿岸町村に属し地方税で補助する形へ切り替わり、流域には治水委員が置かれた。治水は地元請負から国・県の直営へと移っていき、治河協力社は明治18年(1885年)前後に自然解散したとされる。その先に、内務省直轄による第一次改修(明治18〜27年、1885〜1894年)が続く流れは、r024の年表に記したとおりである。
安間川の川替 ── 自費事業のひとつ
明治11年(1878年)、明善は自村を流れる安間川の屈曲がはなはだしいことを理由に、自費で川替(流路の付け替え)を行っている。安間川は天竜川の支流にあたる小河川で、天竜川本流の改修に比べれば規模は小さいが、自らの村の水害を、公費に頼らず自分の財産で解決しようとした点に、明善の一貫した姿勢が表れている。
できたこと、できなかったこと
明善の事業は、成功だけで語られることが多いが、実現しなかった計画も少なくない。前述の鹿島村での支流締切が費用超過で不許可になった一件のほか、明治32年(1899年)頃には疏水(用水路)計画を立案したが、県が「当時の河川工学の技術では実現の見込みがない」と判断し、採用に至らなかったとされる。若い頃には貿易商「遠江屋」の経営を任されたが、慶応3年(1867年)に経営が破綻したという経歴も伝わっている。
こうした挫折や不許可の記録は、明善を単なる「成功した偉人」としてではなく、時代の制約や技術的な限界の中で試行錯誤した一人の実務家として理解するための手がかりになる。資料によって年や金額の記載に細かな異同があり、本ページでは複数の公開資料でおおむね一致する範囲の情報にとどめ、断定できない細部は明記を避けた。
治水以外の事業 ── 植林と出獄人保護
明善の事業は天竜川の堤防だけにとどまらない。明治18年(1885年)頃から、天竜川上流の官有地約759ヘクタールに、スギ・ヒノキ合わせておよそ292万本を献植したと伝えられる。「治水の基は水源涵養林にある」という考えから、下流の堤防だけでなく、上流の山を育てることが洪水の根本的な対策になるという発想であった。この植林事業は、今日の天竜美林と呼ばれる人工林の起点の一つとされている。
社会事業の面では、明治13年(1880年)に出所者の保護を目的とする「勧善会」を組織し、明治21年(1888年)にはこれを社団法人「静岡県出獄人保護会社」に改組した。これは日本で最初期の出所者保護事業の一つとされる。刑務所を出た人が再び罪を犯さずに生活を立て直せるよう支援するという発想は、当時としては先進的な取り組みであった。天竜川の治水という土木事業と、出獄者の更生保護という福祉事業が、同じ一人の人物の手によって進められたことは、明善の関心が単に堤防を築くことにとどまらなかったことを物語っている。
評価と限界 ── 顕彰と史実の書き分け
金原明善は、今日、浜松市東区安間町の金原治水記念館(金原治山治水財団)などで顕彰され、天竜川治水の象徴的な人物として語られている。国立国会図書館の「近代日本人の肖像」にも収録されるなど、近代日本の実業家・社会事業家として広く紹介されている人物である。
一方で、明善一人の事業だけで天竜川の治水が完成したわけではない。r024で整理したとおり、明善の私財による事業は明治18年(1885年)前後で一区切りとなり、その後の第一次・第二次・第三次改修は、内務省・国・県による公共事業として、明善の没後(大正12年〈1923年〉没)も長く続いている。明善の功績は、治水の「先駆け」であり「基礎を築いた」ことにあるのであって、天竜川の治水史そのものを一人で成し遂げたわけではない。この点を書き分けずに「明善が天竜川を治めた」とまとめてしまうと、後の世代の努力や、国・県による組織的な改修の重みを見落とすことになる。
用語解説
- 治河協力社(じかきょうりょくしゃ)
- 明治7年(1874年)設立の天竜川堤防会社が、明治9年(1876年)に改称した組織。民間の資金と労力で堤防修築を担った。治水協力社とも表記される。
- 水下各村総代(みずしもかくそんそうだい)
- 天竜川下流域の各村を代表し、水防事業をとりまとめる立場。明善は明治2年(1869年)にこの任にあたった。
- 静岡県出獄人保護会社
- 明治21年(1888年)、明善が勧善会を改組して設立した社団法人。出所者の生活再建を支援した、日本最初期の出所者保護事業の一つ。
- 水源涵養林(すいげんかんようりん)
- 雨水を土壌に蓄え、河川へゆっくりと流し出す働きを持つ森林。明善は天竜川上流の官有地に大規模な植林を行い、この考えを実践した。
むすび
金原明善の生涯は、堤防会社の設立、安間川の自費による川替、疏水計画の不許可、植林事業、出獄人保護会社の設立と、成功と挫折が入り混じった記録である。天竜川の下流で暮らしてきた竜洋・掛塚の人々にとって、明善は遠い偉人というよりも、上流から始まった一連の治水事業の起点に立っていた人物として位置づけるのが実情に近い。
治水の全体像を知りたい場合は「天竜川の地形と歴史」(r024)を、明治以降の改修工事の詳細な年表を確認したい場合は「天竜川の治水年表」(r027)をあわせて読んでいただきたい。
参考資料
- 提供資料「三、天竜川の変遷」(原本44〜59頁相当、金原明善に関する記述は56〜57頁相当。出典:提供資料〈書誌未確認〉)。
- 「金原明善」Wikipedia(生没年・年譜の確認に使用。閲覧日:2026年7月)。
- 一般財団法人金原治山治水財団「年譜|金原明善」(wm-meizen.jp)。
- 静岡新聞「天竜川の治水に尽力 金原明善の功績を振り返ります」。
- 農林水産省「天竜川流域を豊かな農地に 金原明善」。
- 法務省「更生保護の歴史」(静岡県出獄人保護会社に関する記述の確認に使用)。
本ページは上記資料をもとに、磐田物語編集部が人物史の観点から再構成したものである。r024の記述と重複する年代・事実は要約にとどめ、本記事では人物像・動機・限界に重心を置いた。生没年・出来事の年月日は複数資料でおおむね一致する範囲にとどめ、資料間で細部に異同がある箇所は断定を避けた。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。
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