失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す

竜洋地区の歴史

竜洋地区年表|天竜川・掛塚・袖浦・十束の歩み

旧竜洋町域の太古の地形発達から、中世の港湾成立、近世の天領支配と開拓、近代の町村再編、そして昭和30年(1955年)の3町村合併から現代にいたるまでの主要な史実を系統的に整理した歴史年表である。

竜洋という地名は、昭和30年に掛塚・袖浦・十束の3町村が合併した際に生まれた新しい呼び名であり、平成17年の磐田市への合併後は行政単位としては姿を消したが、地区名としていまも使われ続けている。天竜川の河口という地理的条件のもとで、水運・干拓・天領支配・近代化・広域合併という異なる時代の出来事が積み重なってきたのが、この地域の歴史の特徴である。以下の年表は、そうした重層的な歴史を時系列でわかりやすく追えるように整理したものである。

竜洋地区 歴史年表

年代 年紀 主要事項・史実 関連テーマ
太古 有史以前 縄文時代、海水面が現在よりおよそ5メートル高かったとされる縄文海進の時期には、磐南平野一帯から掛川方面にかけての低地が海面下にあったと伝えられる。「磐田海」と呼ばれる巨大な入り江が形成され、のちに「大の浦」と呼ばれる海跡湖が残る。周辺台地にヤマトシジミ主体の貝塚が形成される。 大の浦の形成
江戸中期 宝永4年(1707年)・嘉永7年(1854年) 宝永地震・安政東海地震などの大地震を経て土地が徐々に隆起し、海跡湖であった大の浦周辺は次第に陸地化が進んだと伝えられる。もっとも、かつて水域だった土地は標高0〜1メートルほどの低平地として残り、排水の悪さから昭和期に至るまで農業には厳しい条件が続いたとされる。 大の浦の干拓
奈良時代 天平宝字5年(761年) 遠江国麁玉川の堤防が300余丈決壊。のべ30万人の役夫を投じて大規模な堤防修築工事が行われる。 天竜川の変遷
平安時代 承暦4年(1080年)頃 菅原孝標女が遠江国を通過した際、更級日記に「天竜川のほとりに療養する」との旨の記述が残る。文献上の天竜川の初出とされる。 天竜川の歴史
鎌倉・室町 承安元年(1171年) 「池田荘」の名称が松尾神社文書に見られ、この周辺が京都松尾神社の社領(神領)として位置づけられる。天竜川河口部に商業集落の原型が成立。天竜川を渡る「池田の渡し」は、この時期から江戸期の徳川家康による朱印状下付を経て、通算では1000年以上にわたり続いた渡し場であったと伝えられる。 池田荘と水利
安土桃山 慶長年間 徳川家康が大の浦周辺でたびたび鷹狩りを催す。太田川の大改修が行われ、大の浦の湿地化・干拓が本格化する。 大の浦の干拓
江戸時代 宝暦9年(1759年) 領主が井上河内守となり、大名領としての支配が文化13年(1816年)まで続く。のちに再び幕府直轄地(天領)に戻り、中泉代官所が管轄。中泉代官所は最盛期には遠江国・三河国方面にまたがる榛原郡・城東郡・佐野郡・周智郡・磐田郡・山名郡・豊田郡・長上郡・敷知郡・麁玉郡・浜名郡の計200を超える村々を支配する広大な天領であったと伝えられる。 天領支配
江戸後期 嘉永6年(1853年) 林伊太郎が中泉代官に就任。安政5年(1858年)まで、天竜川治水や民政の適正化に尽力し、地域秩序を安定させる。 近世のリーダー
明治時代 明治6年(1873年) 浜松県令・林厚徳により大区小区制が敷かれ、中泉代官所の旧体制が廃止。明治22年(1889年)4月1日、町村制施行により掛塚村・十郎島村・白羽村・豊岡村・川袋村が合併して長上郡掛塚村が発足するとともに、袖浦村、十束村の町村制も確立。 近代行政区画
明治後期 明治29年(1896年) 6月29日、磐田郡掛塚村が町制を施行して磐田郡掛塚町となる。同年、郡制施行にともない周辺町村の所属郡が再編される。明治18年(1885年)に整備された掛塚の新港は、明治19年から28年ごろにかけて最盛期を迎えたが、明治22年の東海道線開通・天竜停車場の営業開始により、貿易拠点としての役割を徐々に終えていったと伝えられる。 掛塚湊の盛衰
昭和時代 昭和30年(1955年) 4月1日に掛塚町、袖浦村、十束村が合併し、「竜洋町」が発足。初代町長に竹内善平が就任。同年、天竜川に掛塚橋が竣工。なお同年4月15日には、竜洋町のうち旧十束村の一部(大字赤池・上本郷・下本郷・仁兵衛新田)が豊田村へ編入されたと伝えられ、合併直後の行政区域には細かな調整があったことがうかがえる。 竜洋町の誕生
昭和中期 昭和52年(1977年) 3月、竜洋町教育委員会等により町民向け郷土資料『ふるさと竜洋』が発行され、地域の歴史の系統的な保存が行われる。 文化の継承
平成時代 平成17年(2005年) 4月1日、竜洋町は(旧)磐田市・福田町・豊田町・豊岡村と新設合併し、(新)磐田市が発足。半世紀にわたり続いた「竜洋町」の名は、行政単位としては幕を閉じ、以後は磐田市の地区名として受け継がれることとなったと伝えられる。 竜洋町から地区へ
  • 『ふるさと竜洋』竜洋町教育委員会関係資料、昭和52年(1977年)3月発行相当資料
  • 磐田市・旧竜洋町域に関する公開資料
  • 現地確認:掛塚・袖浦・十束・天竜川河口周辺
  • 掛塚町・竜洋町・十束村・袖浦村・豊岡村(静岡県)に関するWikipedia各項目
  • 歴史的行政区域データセットβ版「静岡県磐田郡掛塚町」
  • 掛塚湊に関する郷土資料(「遠州の小江戸」掛塚湊の碑・みなと文化関連資料ほか)
  • 磐南平野の地形形成に関する資料(「磐南平野の金字塔」水土の礎ほか)

本文は資料の転載ではなく、公開資料と現地確認をもとに磐田物語用に再構成したものです。竜洋町のうち十束村の一部が豊田村へ編入された経緯や、平成17年の新設合併による(新)磐田市発足についても、公開資料で確認できた範囲を記載している。なお竜洋町初代町長・竹内善平氏の就任および掛塚橋の竣工については、既存の地域資料に基づく記述であり、今回のWeb調査では一次資料による再確認ができなかったため、既存の記述をそのまま維持している。今後、町史・市史等の一次資料にあたることができ次第、あらためて裏取りを行う。

この地域の家・土地・空き家について

古い地名や集落の成り立ちを調べていると、 家や土地には、登記簿だけでは分からない地域の記憶が残っていることがあります。

相続した家、空き家、使わなくなった土地について、 「売る・貸す・残す」の前に、一度整理して考えたい方は、 富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。