失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 「未確認」と「記載なし」──史料批判の方法を総括する

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第294号(方法論総括)

「未確認」と「記載なし」

磐田論考の史料批判の方法を総括する ── 確度の四層と弁別の作法

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.26
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市全域(総論)

要旨

本稿は、大石浩之の磐田論考が創刊以来一貫して用いてきた史料批判の方法を総括する方法論的論考である。本シリーズは地域史を記すにあたり、わかることとわからないことを分けて書くという姿勢を基本に据えてきた。その具体的な手続きは四つの要素からなる。第一に、史実・通説・推定・伝承という四つの確度を語の水準で書き分けること。第二に、調査者が資料に未到達であることを示す「未確認」と、資料に記述が存在しないことを示す「記載なし」を峻別すること。第三に、対立する学説を対等に併記したうえで「本稿の立場」を一文で明示すること。第四に、複数の史料を照合して確度を押し上げることである。本稿はこれら四つの手続きを、既刊各論での適用例を振り返りつつ体系化し、あわせて一般的な史料批判論・郷土史研究の方法論のなかに位置づける。個別の史実を新たに提示するのではなく、各論がどのような判断の型に従って書かれてきたのかを、シリーズ自身の手で言語化する試みである。この号自体が、シリーズの方法についての自己言及となる。

キーワード:史料批判/確度の四層/未確認と記載なし/諸説併記/本稿の立場/複数史料の照合/郷土史研究

1. 問題設定 ── わかることとわからないことを分けて書く

大石浩之の磐田論考は、これまで多くの主題を扱ってきた。祭礼の起源、地名の由来、国府の所在、宿場の行事、中世の人物の足跡など、対象は多岐にわたる。しかし主題がどれほど異なっても、これらの各論を貫いてきた一つの姿勢がある。それは、わかることとわからないことを分けて書く、という姿勢である。本稿は、この姿勢を支えてきた史料批判の方法を、シリーズ自身の手で総括することを目的とする。個別の史実を新たに提示するのではなく、これまでの各論がどのような手続きに従って書かれてきたのかを、あらためて言語化する試みである。

なぜ、いま方法を総括するのか。理由は二つある。第一に、各論の数が積み重なるにつれ、そこで用いられている判断の基準を、読者が一望できる形でまとめておく必要が生じたからである。個々の論考のなかに散在する断り書き──「史料で確認できる」「と伝えられる」「本稿では確認できていない」といった表現──は、それ自体が一定の作法に従っている。その作法を一度きちんと取り出しておかなければ、各論の記述がなぜそのような書き方をしているのかが、読者に伝わりにくい。第二に、地域史の記述には、断定への誘惑がつねに伴うからである。郷土への愛着は、往々にして「わが町にはこれだけ古い由緒がある」と語りたくなる衝動を生む。その衝動は、確度の低い伝えを史実のように語らせ、あるいは魅力的な物語を根拠なく強調させる。方法を明示することは、この誘惑に対する歯止めとなる。

地域史を書くという営みは、しばしば「本当のところはどうだったのか」という問いに引き寄せられる。人はわかりやすい答えを求め、複数の伝えのなかから一つの正解を選び取ろうとする。だが、地域の過去について私たちが手にできる資料は、多くの場合、断片的で、性格を異にし、ときに相互に矛盾する。そのような資料状況のもとで一つの正解を急いで選べば、確度の異なる情報を無理に一つの平面へ押し込め、選ばれなかった伝えを切り捨てることになりかねない。本シリーズが採ってきたのは、その逆の道である。すなわち、わかることはわかることとして、わからないことはわからないこととして、それぞれの位置を保ったまま書き留める。この一見あたりまえの手続きを、どこまで厳密に貫けるかが、地域史の記述の質を左右すると考えてきた。

この禁欲的な姿勢は、決して独自の発明ではない。近代歴史学が積み上げてきた史料批判の伝統に連なるものであり、また各地の郷土史研究者が実践してきた作法の延長線上にある。史料批判とは、ある記録が何を、どこまで、どの程度の確からしさで語りうるのかを、その記録の性格に即して吟味する手続きを指す1。本シリーズは、この一般的な手続きを、磐田という一つの土地の史料に即して適用し続けてきた。以下では、その適用の具体を四つの手続きに整理する。すなわち、確度の四層の書き分け、「未確認」と「記載なし」の弁別、諸説併記と本稿の立場、そして複数史料の照合である。これら四つは独立した技法ではなく、一つの判断の流れを構成する連続した段階である。

あらかじめ断っておけば、本稿が示すのは万能の手順書ではない。史料批判に唯一の正解手順があるわけではなく、対象や資料の性格に応じて重点は移る。ここで整理するのは、あくまで本シリーズがこれまで実際にとってきた判断の型であり、その型を明示することで、読者が各論の記述を吟味し直すための足場を提供したい。方法を隠したまま結論だけを差し出すのではなく、どのような手続きを経てその結論に至ったのかを開いておくこと──それ自体が、後世の調べものに耐える記録を残すための条件だと考えている。

わかることとわからないことを分けて書く ①確度の四層 史実・通説推定・伝承 ②未確認と記載なし 未到達か不在か ③諸説併記と立場 対等に並べ一文で表明 ④複数史料の照合 突き合わせ確度を上げる 四つの手続きは独立した技法ではなく、一つの判断の流れを構成する連続した段階である。
図1 本シリーズの史料批判を構成する四つの手続き。確度の四層の書き分けから複数史料の照合まで、一つの判断の流れとして連続する。

2. 四つの確度 ── 史実・通説・推定・伝承の書き分け

本シリーズの記述の根幹をなすのが、確度の四層である。ある事柄について書くとき、それがどの程度の確からしさをもつのかを、語の水準で区別する。第一に史実、すなわち編纂物や文書など史料によって直接に確認できる事柄。第二に通説、学界で広く支持されているが史料的に一点で確定はできない事柄。第三に推定、根拠はあるがなお未確定の事柄。第四に伝承、地域で語り継がれてきた事柄である。この四つを混同しないことが、以下すべての手続きの前提となる。

重要なのは、この四層が価値の序列ではないという点である。史実が最も価値が高く伝承が最も低い、という読み方は誤りである。四層は、その事柄をどの資料が、どこまでの確からしさで支えているかを示す指標にすぎない。伝承であることは、その内容が虚偽であることを意味しない。むしろ伝承は、地域が何を記憶として選び取ってきたかを読むための、かけがえのない対象である。第188号以来くり返してきたように、伝説を史実の劣位に置くのではなく、それが属する層のなかで正当に評価することこそ、四層の腑分けの目的である。層の判定は、対象を切り捨てるための篩ではなく、対象を適切な場所に置くための座標なのである。

四層を語の水準で書き分けるとは、具体的にどういうことか。史実については「史料で確認できる」「記載がある」と書く。通説については「広く考えられている」「有力とされる」と書く。推定については「と推定される」「可能性がある」と書く。伝承については「と伝えられる」「と語り継がれてきた」と書く。この語尾の選択は、単なる文体上の好みではない。読者に対して、いま述べている事柄がどの層に属するのかを、文の形そのものによって伝える信号である。断定形で書けば史実として読まれ、伝聞形で書けば伝承として読まれる。だからこそ、層をまたいだ断定──たとえば伝承にすぎない年紀を「史料で確認できる」と書くこと──は、読者を誤らせる過失となる。

この書き分けの実効性は、境界事例において試される。たとえば、ある年紀が社伝として伝わるが、それを裏づける同時代史料がない場合、その年紀は伝承の層に置かれる。だが、後世の複数の記録がその年紀を共通して伝えているなら、単なる一伝承よりは確度が上がり、推定の層へと近づく。層と層のあいだには連続的な移行があり、資料の増減に応じて事柄の位置は動く。四層は固定された箱ではなく、確からしさの目盛りに沿って並ぶ帯として理解するのが正確である。本シリーズが特定の事柄を「推定」と記すとき、それは「史実には届かないが、単なる伝承よりは根拠がある」という中間的な位置づけを、意図的に選んでいることを意味する。

四層の書き分けを支えるのは、下敷きとなる史料の性格への注意である。ある編纂物が国家の正史なのか、後世の地誌なのか、社家の由緒書なのか、近代の風俗雑誌なのかによって、そこに書かれた事柄が到達しうる確度の上限は異なる。正史の記載は史実の層に届きうるが、後世の地誌が伝える古代の由緒は、それだけでは伝承の層にとどまる。したがって四層の判定は、事柄の内容だけでなく、その事柄を運んできた器(史料)の格を見きわめる作業と一体である。次節で述べる「未確認」と「記載なし」の区別も、この器への注意から自然に導かれる。

表1 四つの確度の定義と語法の対応 ── 本シリーズが用いる書き分けの基準
確度の層定義典型的な語法(文末表現)依拠する資料の例
史実編纂物・文書など史料によって直接に確認できる事柄。「史料で確認できる」「記載がある」「確認される」正史、同時代文書、金石文、発掘調査報告。
通説学界で広く支持されているが、史料的に一点で確定はできない事柄。「広く考えられている」「有力とされる」「通説では」複数の研究の蓄積、定評ある概説・辞典。
推定根拠はあるが、なお未確定の事柄。史実には届かないが伝承よりは根拠がある。「と推定される」「可能性がある」「と考えられる」間接的な傍証、地理的・構造的な整合。
伝承地域で語り継がれてきた事柄。史実性は別に検証を要する。「と伝えられる」「と語り継がれてきた」「社伝によれば」口碑、社伝・由緒書、伝説、後世の地誌。

3. 中心概念 ──「未確認」と「記載なし」の弁別

本シリーズの方法のなかで、最も中心に置いてきた概念が、「未確認」と「記載なし」の区別である。この二つは、日常の語感では似通って響くが、史料批判の観点からは明確に異なる状態を指す。両者を混同することは、地域史の記述における最も陥りやすい誤りの一つであり、本シリーズはこの区別を意識的に保ち続けてきた。

「未確認」とは、調査者が当該の事柄を裏づける資料に、まだ到達していない状態を指す。管見の限り一次史料に突き当たっていない、という調査の現状の報告である。これは資料の側の問題ではなく、調査の側の限界を述べたものである。したがって「未確認」は、後日の調査によって解消されうる、暫定的な状態である2。誰かが該当史料を見いだせば、その事柄は「未確認」から「確認」へと移り、確度の層を上げる。

これに対して「記載なし」とは、当該の資料を実際に調べたうえで、そこに記述が存在しないことを確認した状態を指す。これは資料の側の事実についての報告である。ある文書に、期待された記事が書かれていない──その不在を、資料を精査したうえで積極的に確認したときにのみ、「記載なし」と書くことができる。「記載なし」は、単なる調査の未達ではなく、調査の結果として得られた一つの知見である。

この区別がなぜ決定的に重要かは、両者を取り違えたときに生じる誤りを考えればわかる。もし「未確認」を「記載なし」と取り違えれば、「まだ調べていない」ことを「そのような史料は存在しない」と言い切ることになり、調査の限界を史料の不在へとすり替えてしまう。逆に「記載なし」を「未確認」と扱えば、資料を精査して得た貴重な否定的知見を、単なる調査不足の言い訳のように弱めてしまう。前者は過剰な断定を、後者は不当な過小評価を招く。いずれも、資料状況を読者に正確に伝えることを妨げる。

とりわけ注意を要するのは、不在の証明の困難である。「そのような史料はどこにも存在しない」と断言するには、原理的にはすべての史料を調べ尽くさねばならず、それは事実上不可能である。したがって本シリーズは、「記載なし」という語を、実際に調べた特定の資料に限定して用いる。すなわち「『延喜式』神名帳には記載がない」のように、どの資料を調べた結果なのかを明示する。調べた範囲を特定しない「記載なし」は、実質的に不在の全称的な断定となり、避けなければならない。「未確認」と書くべきところを「記載なし」と書かないこと、そして「記載なし」と書くときは調査範囲を明示すること──この二つの規律が、本シリーズの記述を支える中心的な作法である。

「見あたらない」の二つの状態を分ける 事柄を裏づける 記事が見あたらない 当該資料を精査したか? いいえ/未到達 はい/精査済 未確認 調査者が資料に未到達 =調査の側の限界 後日の調査で解消しうる 記載なし 資料に記述が存在しない =資料の側の事実 調べた範囲を明示して用いる
図2 「未確認」と「記載なし」の弁別。同じ「見あたらない」でも、調査の未達(橙)と資料における不在(青)は別の状態であり、書き分けを要する。

4. 諸説併記と「本稿の立場」

地域史の主題には、専門家のあいだでも見解が分かれるものが少なくない。祭礼の起源、地名の語源、古代の役所の所在など、決着のつかない論点は数多い。こうした論点に直面したとき、本シリーズがとってきたのは、諸説を対等に併記したうえで、そのなかで「本稿の立場」を一文で明示する、という手続きである。

諸説併記の要点は、各説を対等の粒度で扱うことにある。ある説だけを詳しく紹介し、対立する説を一言で片づければ、それは表向き併記の体裁をとりながら、実質的には一方に肩入れした叙述となる。本シリーズは、各説について、その骨子・依拠する資料・説明できる範囲・弱点を、同じ枠組みで記すよう努めてきた。遠江国府の所在をめぐる諸説を検討した第187号は、その典型である。国府が見付周辺に置かれたとする見方は有力だが、その具体的な位置については複数の説があり、一点に確定していない。第187号は各説の根拠と弱点を対等に並べ、そのうえで本稿がどの説にどこまで与するかを、断定を避けつつ明示した3

しかし、対等に併記するだけでは、記述は宙づりのまま終わってしまう。すべての説を並べて「どれとも決めがたい」と結ぶだけなら、読者は判断の手がかりを得られない。そこで本シリーズは、併記のあとに必ず「本稿の立場」を置く。これは、いずれの説が正しいと断定する宣言ではない。むしろ、現時点で入手しうる資料に照らして、筆者がどの説をどの程度の確からしさで支持するのか、あるいはどの説にも与せず判断を保留するのか、その態度を一文で明らかにするものである。立場の表明は、断定とは異なる。断定が「これが正解だ」と言うのに対し、立場の表明は「現時点で私はこう考えるが、それは新資料によって覆されうる」と言う。

この「本稿の立場」を明示することには、二つの効用がある。第一に、読者に対する誠実さである。筆者の判断を隠したまま諸説を並べれば、一見中立に見えて、実は結論の責任を回避していることになる。立場を明示することは、判断の責任を筆者が引き受けることを意味する。第二に、後世の検証可能性である。立場を一文で明示しておけば、後に新たな資料が出たとき、その立場が維持できるのか、修正を要するのかを、後世の調べ手が判定できる。立場を曖昧にした叙述は、反証も追認もしにくく、記録としての耐久性に欠ける。

諸説併記と立場表明は、一見すると矛盾するようにも見える。対等に並べておきながら、なぜ一方に傾くのか、と。だが両者は、判断の異なる段階に属する。併記は、資料状況を偏りなく提示する段階であり、立場表明は、その提示を踏まえて筆者が判断を下す段階である。前者を欠けば独断となり、後者を欠けば無責任となる。両者をこの順序で結ぶことによってはじめて、地域史の記述は、偏りなく、かつ責任をもって、対立する論点を扱うことができる。本シリーズが対立点を扱うたびに「本稿の立場」の一文を欠かさないのは、この理由による。

対等に併記し、そのうえで立場を表明する 説A骨子・資料・弱点 説B骨子・資料・弱点 説C骨子・資料・弱点 対等に併記同じ粒度で並べる 本稿の立場一文で明示=断定ではない
図3 諸説併記と「本稿の立場」。各説を同じ粒度で対等に並べたうえで、筆者の判断を一文で明示する。立場の表明は断定とは異なり、新資料による修正に開かれている。

5. 複数史料の照合 ── 確度を押し上げる手続き

単一の史料だけで、ある事柄を史実として確定できることは、実際には多くない。一つの記録は、それ自体の性格や成立事情に由来する偏りをもつ。だからこそ史料批判の要は、複数の史料を突き合わせ、それらが何を共通して語り、どこで食い違うのかを見きわめる作業にある。本シリーズが確度の判定を行うとき、その背後にはつねに、性格を異にする複数の資料の照合がある。

照合の第一の効用は、確度の押し上げである。ある事柄について、独立した由来をもつ複数の史料が一致して語っているなら、その事柄は単一の史料が語る場合よりも確からしくなる。たとえば、正史の記事と、同時代の別系統の文書と、後世の地誌とが、ある神社の古さについて矛盾なく符合するなら、その古さは推定から通説へ、あるいは史実へと、位置を上げうる。見付宿のお札ふりを複数の記録から読んだ第246号は、この照合の作業を具体的に示した各論である。単一の伝えに依らず、性格の異なる複数の記録を突き合わせることで、行事のどの部分が確度をもって言えるのかを腑分けした4

照合の第二の効用は、食い違いの発見である。複数の史料が一致しないとき、その不一致そのものが重要な情報となる。ある年紀を一つの記録は伝え、別の記録は伝えない。ある事柄を後世の地誌は詳しく語るが、同時代史料は沈黙している。こうした食い違いは、どちらかが誤りだと即断する材料ではなく、それぞれの記録がどのような立場から書かれたのかを問い直す手がかりである。照合は、一致点を数えて確度を上げるだけの作業ではなく、不一致点を通じて各史料の性格を照らし出す作業でもある。

ただし、照合には注意すべき落とし穴がある。複数の史料が一致しているように見えても、それらが実は同一の原典に由来しているなら、一致は独立した証言の重なりではなく、一つの証言の反復にすぎない。後世の地誌が古い由緒書を書き写し、さらに別の記録がその地誌を引き写しているなら、三つの記録が一致しても、独立した根拠は一つしかない。照合にあたっては、各史料が互いに独立した由来をもつのかどうかを、まず見きわめねばならない。見かけの一致に確度を押し上げられて、実は一つの伝えを三重に数えてしまう──この誤りを避けることが、照合の作業の要諦である。

複数史料の照合は、これまで述べた三つの手続きと密接に結びついている。照合の結果として事柄の確度が定まり(第2節の四層)、照合してもなお裏づけが得られなければ「未確認」と記され(第3節)、照合しても諸史料が食い違うなら諸説併記へと進む(第4節)。四つの手続きは、こうして一つの判断の流れのなかで互いに支え合っている。照合は、その流れの各段階に資料的な裏づけを供給する、いわば土台の作業である。単独で完結する技法ではなく、他の三つを下から支える基盤として機能する。

独立した史料の照合が確度を押し上げる 史料A(正史) 史料B(文書) 史料C(地誌) 照合一致点と食い違い 一致 → 確度上昇推定 → 通説 → 史実 不一致 → 諸説併記各史料の性格を問う 見かけの一致が同一原典に由来しないか(証言の重複か独立か)を、まず見きわめる。
図4 複数史料の照合。独立した史料の一致は確度を押し上げ、不一致は諸説併記へつながる。見かけの一致が同一原典の反復でないかの吟味を要する。

6. 各論への適用 ── シリーズの実例を振り返る

ここまで述べた四つの手続きは、抽象的な原則として掲げられてきたのではなく、各論のなかで具体的に適用されてきた。本節では、これまでの主要な各論を振り返り、そこで四つの手続きがどのように働いていたかを確かめる。方法の総括は、実例に照らしてはじめて、空論でないことが示される。

名から歴史を読む方法を扱った第268号は、本シリーズの史料批判の方法そのものを、人名・呼称を素材として論じた各論である。ある名がいつから、どのような資料に現れるのかを追い、その名が語りうる歴史の範囲を、確度の層に即して見定めた。名という手がかりが、どこまでを史実として語り、どこからが推定や伝承にとどまるのか──その境界の引き方は、本稿が第2節・第3節で述べた確度の弁別の、具体的な適用例にほかならない。

地名から磐田を読む方法を扱った第250号は、大字と地名学の方法を主題とし、地名の由来をめぐる複数の解釈を対等に扱った。地名の語源はしばしば魅力的な物語を誘発するが、その物語が確かな根拠をもつのか、後世の付会にすぎないのかは、慎重な吟味を要する。第250号は、地名解釈における諸説併記と、確度の層の書き分けを実践した各論である。地名から歴史を読むことの可能性と限界を、確度の枠組みのなかで示した。

すでに触れた第187号(遠江国府の所在)は諸説併記と本稿の立場の、第246号(見付宿のお札ふり)は複数史料の照合の、それぞれ範例である。そして本稿の主題である「未確認」と「記載なし」の区別が最も先鋭に問われたのが、千手前の足跡を読んだ第160号である。中世に見付と関わりをもったと伝えられるこの人物について、その足跡を裏づける一次史料は、本シリーズの調査範囲では確認できていない。第160号は、この状態を安易に「そのような史料は存在しない」と断ずるのではなく、あくまで「未確認」として記した5。伝えられてはいるが史料で確認できていない事柄を、伝承の層に置きつつ、その裏づけがなお未確認であることを明示する──この二重の慎重さが、第160号の記述を支えている。

これらの各論を並べてみると、四つの手続きが、主題ごとに重点を変えながらも一貫して働いていることがわかる。ある各論では確度の弁別が前面に出て、別の各論では諸説併記が主役となり、また別の各論では照合や未確認の判定が焦点となる。四つの手続きは、どの各論にも同じ配分で現れるのではなく、その主題の資料状況に応じて、必要な手続きが前景化する。方法とは、固定した手順の反復ではなく、対象に応じてどの手続きを重く用いるかを判断する、その判断の型なのである。本節で振り返った各論は、いずれもその判断の型が実際に機能した記録である。

各論への適用 ── 主題ごとに前景化する手続き 史料批判 の方法 第268号名から歴史を読む 第250号地名から読む 第187号国府所在・諸説併記 第246号お札ふり・照合 第160号千手前・未確認
図5 各論への適用マップ。共通の史料批判の方法が、主題ごとに異なる手続きを前景化させながら、各論に一貫して働いている。

7. 一般的方法論のなかへ ── 史料批判論・郷土史研究との接続

ここまで整理してきた四つの手続きは、本シリーズが独自に編み出したものではない。それは、近代歴史学が築いてきた史料批判の伝統と、各地の郷土史研究が蓄積してきた作法の、いずれにも連なっている。本節では、本シリーズの方法を、この一般的な方法論のなかに位置づけ直す。

史料批判は、近代歴史学の中核をなす手続きとして発展してきた。史料をその成立事情に即して吟味し、記録者が何を、どの立場から書いたのかを問うこの態度は、外的批判(史料そのものの真贋・成立の吟味)と内的批判(記述内容の信頼性の吟味)とに整理されて論じられてきた。本シリーズの「未確認」と「記載なし」の区別も、複数史料の照合も、この史料批判の一般的な枠組みの、地域史への具体的な適用にほかならない。とりわけ、記録の不在をどう扱うかという問題は、歴史学において「沈黙の史料」をめぐる古典的な難問として論じられてきた。史料が語らないことを、事柄の不在の証拠と見なしてよいかどうか──この問いに対する本シリーズの答えが、「未確認」と「記載なし」の峻別である。

もう一つの源流は、郷土史・地方史研究の伝統である。郷土史は、身近な土地への愛着に支えられて発展してきたが、その愛着はしばしば、確度を顧みない顕彰へと傾きやすい。この危うさに対して、地方史研究の側からは早くから、実証を重んじ、確かな史料に基づいて記述すべきだという規律が説かれてきた。愛着を出発点としつつも、その愛着に流されずに資料へ立ち返ること──この緊張のなかに郷土史研究の要諦がある。本シリーズが確度の層の書き分けにこだわるのも、地域への思い入れが記述をゆがめることへの、意識的な歯止めである。

本シリーズの立ち位置の特徴は、この二つの伝統の交点にある。純粋な学術研究であれば、そもそも確度の層を逐一断り書きする必要は薄いかもしれない。専門家どうしのあいだでは、記述の確度は文脈から了解されるからである。一方、一般向けの読み物であれば、確度の細かな区別はしばしば省かれ、断定的で読みやすい叙述が好まれる。本シリーズは、その中間に立つ。すなわち、一般の読者にも開かれた叙述でありながら、確度の層を語の水準で明示することで、専門的な検証にも耐える記録たろうとする。この中間的な立ち位置こそが、確度の書き分けと「未確認」「記載なし」の弁別を、あえて表面に出して書く理由である。

方法を表面に出して書くことには、代償もある。断り書きの多い叙述は、一気に読み下す快さを削ぐ。「と伝えられる」「本稿では確認できていない」といった留保がくり返されれば、歯切れの悪い文章に映るかもしれない。しかし本シリーズは、その歯切れの悪さを引き受ける。歯切れのよい断定は、読み心地はよくても、確度の低い事柄を史実へと押し上げ、後世の調べ手を誤らせる。読みやすさと引き換えに正確さを損なうより、多少の煩わしさを負ってでも、資料状況を正確に伝えるほうがよい。地域史の記述が果たすべき最も基本的な責務は、面白さでも網羅性でもなく、いま何がどこまで言えるのかを偽りなく伝えることにあると考えるからである。

史料批判の手続き ── 収集から記述へ 史料の収集性格を見きわめる 層の判定確度の四層 未確認か記載なしか 複数史料の照合 諸説併記と本稿の立場 記述語の水準で書く
図6 史料批判の手続きフロー。史料の収集から語の水準での記述まで、本稿が整理した四つの手続きが一続きの流れをなす。判定の各段階で確度が定まり、裏づけを欠けば「未確認」と記される。

8. 結論 ── 分けて書くという禁欲

本稿は、大石浩之の磐田論考が一貫して用いてきた史料批判の方法を、四つの手続きに整理して総括した。第一に、史実・通説・推定・伝承という確度の四層を語の水準で書き分けること。第二に、調査者が資料に未到達である「未確認」と、資料に記述が存在しない「記載なし」とを峻別すること。第三に、対立する諸説を対等に併記したうえで「本稿の立場」を一文で明示すること。第四に、独立した複数の史料を照合し、確度を押し上げると同時に食い違いを吟味すること。この四つは、独立した技法ではなく、一つの判断の流れを構成する連続した段階である。

これら四つの手続きを貫く一本の姿勢は、わかることとわからないことを分けて書く、という禁欲である。地域史の記述には、断定への誘惑がつねに伴う。郷土への愛着は、確度の低い伝えを史実のように語らせ、魅力的な物語を根拠なく強調させる。本シリーズがくり返し確度の層を断り書きし、「未確認」の一語にこだわり、諸説を対等に並べてきたのは、この誘惑に抗うためである。分けて書くことは、しばしば叙述の歯切れを損なう。だが、その歯切れの悪さこそが、後世の検証に開かれた記録の条件である。

本稿の立場を、あらためて一文で示しておく。地域史の記述は、正解を一つ選び出す作業ではなく、いま何がどこまでの確からしさで言えるのかを、確度の層を保ったまま記述する作業である。この立場は、本シリーズのどの各論にも通底し、また本稿自身の書き方をも規定している。この号もまた、方法を断定的に説く手引きとしてではなく、本シリーズが実際にとってきた判断の型を、それ自体一つの検証対象として差し出す論考として書かれた。

最後に、方法の総括がもつ限界と、今後の課題を記しておく。第一に、確度の四層の境界は、資料状況に応じて動く連続的なものであり、その判定にはなお個別の吟味を要する。四層は機械的に適用できる篩ではない。第二に、「未確認」を「確認」へと押し上げていく作業は、近世・近代の地方文書の博捜という、地道な資料調査によってのみ前進する。方法を整えることは、その調査を代替しない。第三に、本稿が振り返った各論以外にも、四つの手続きが働いた論考は数多く、それらを体系的に読み直す作業は、なお残されている。分けて書くという禁欲を保ちながら、未確認を史実へ、推定を通説へと、資料を積み上げて押し上げていくこと──その地道な手続きの反復の先にこそ、磐田という土地の歴史が、後世の調べものに耐える形で、少しずつ像を結んでいくはずである。方法を明示するこの号は、その反復のための、いわば折り返しの一点である。

本シリーズが扱ってきた磐田・見付・中泉の各地には、記録の背後に、いまも人の暮らす古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、そうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を確度を保って書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 史料批判(Quellenkritik)は、史料の真贋・成立事情を吟味する外的批判と、記述内容の信頼性を吟味する内的批判とに整理して論じられてきた。近代歴史学における史料批判の意義については、E.H.カー『歴史とは何か』、および今井登志喜『歴史学研究法』等の概説を参照。
  2. 本シリーズにおける「未確認」は、「管見の限り、当該事柄を裏づける一次史料に突き当たっていない」という調査の現状の報告であり、後日の調査によって解消されうる暫定的な状態を指す。
  3. 遠江国府の所在をめぐる諸説の対等な併記と本稿の立場については、大石浩之の磐田論考 第187号「遠江国府はどこにあったのか」を参照。
  4. 複数史料の照合による確度の腑分けの実例については、大石浩之の磐田論考 第246号「史料で読む見付宿のお札ふり」を参照。
  5. 「未確認」と「記載なし」の区別が先鋭に問われた実例については、大石浩之の磐田論考 第160号「千手前の足跡を読む」を参照。中世に見付と関わりをもったと伝えられる人物について、その足跡を裏づける一次史料は本シリーズの調査範囲では確認できていない。

付記:本稿は個別の史実を新たに提示する各論ではなく、本シリーズが用いてきた史料批判の方法を総括する方法論的論考である。したがって本稿自身も、確度の層を区別し、「未確認」と「記載なし」を峻別し、対立点には本稿の立場を一文で示すという、ここで論じた作法にみずから従って記述している。

参考文献・参考資料

  • E.H.カー(清水幾太郎訳)『歴史とは何か』岩波新書、1962年。
  • 今井登志喜『歴史学研究法』東京大学出版会、1953年。
  • 坪井九馬三『史学研究法』(増訂版)、早稲田大学出版部、1926年。
  • ラングロワ/セーニョボス(八本木浄訳)『歴史学研究入門』、原著『Introduction aux études historiques』(1898年)。
  • 柳田国男『郷土生活の研究法』刀江書院、1935年。
  • 宮本常一『民俗学の旅』文藝春秋、1978年。
  • 地方史研究協議会編『地方史研究必携』岩波書店。
  • 福田アジオ・宮田登編『日本民俗学概論』吉川弘文館、1983年。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市)。
  • 大石浩之「名から歴史を読む」大石浩之の磐田論考 第268号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/268/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之「地名から磐田を読む ── 大字と地名学の方法」大石浩之の磐田論考 第250号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/250/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之「遠江国府はどこにあったのか」大石浩之の磐田論考 第187号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/187/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之「史料で読む見付宿のお札ふり」大石浩之の磐田論考 第246号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/246/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之「千手前の足跡を読む」大石浩之の磐田論考 第160号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/160/ (最終閲覧:2026年7月26日)。