VILLAGE | 竜洋・行政村史 ── 3地区の石高と組織再編
掛塚・袖浦・十束の村域変遷と石高
── 江戸期の村組織史
竜洋を形づくった3地区の輪郭
r019が紹介したとおり、昭和30年(1955年)の竜洋町誕生以前、この地は「掛塚町」「袖浦村」「十束村」という異なる社会背景を持つ3つの町村から構成されていた。掛塚は廻船の湊として栄えた商業地、袖浦は製塩と砂丘農業の村、十束は新田開発による開拓農村であった。ここでは、この3地区それぞれが、江戸期を通じてどのような村域・石高の変遷をたどり、明治の町村制施行を経て一つの村へとまとまっていったかを見ていく。
掛塚地区の村域変遷と石高
掛塚は、天竜川河口東岸に位置し、周囲を堤防で囲まれた低平な砂洲であったと伝わる。地勢は平坦ではなく、大字は掛塚・白羽・十郎島・川袋・豊岡の五字であったとされる。原資料の「資料3の一 各地の石高(寛政元年〈1789年〉8月調)」には、掛塚地区の各集落の石高が記されている。
| 集落 | 石高 |
|---|---|
| 掛塚 | 617石6斗4升4合 |
| 芋間 | 13石1升5合[要確認] |
| 白瀬 | 155石6斗4升5合[要確認] |
| 老間 | 73石7斗1升2合[要確認] |
| 西名地 | [要確認](原資料の判読が難しい) |
| 敷袋・内堀・川島・十郎島・江口・金洗 | [要確認](原資料の数値の対応関係が判読しづらい) |
掛塚の石高617石余りは、天竜川河口東岸の低地としては比較的まとまった規模であり、廻船の湊として栄えた掛塚の経済的な基盤の一端をうかがわせる。他の集落については、原資料の数値の判読・対応関係に不確かな部分があり、正確な転記のためには原本での再確認が望ましい。
袖浦地区の村域変遷と石高
袖浦は、磐田郡の西南端にあり、西は旧東天竜川をへだてて浜松市に隣接する。灌漑排水がともに便利であり、地内は土地が肥え、よく開けた農業が盛んな地区であったとされる。「袖浦」という村名は、元亀天正の頃(1570〜1592年)にはすでに「袖浦村」と名づけられていたと伝わる。
袖浦は、明治22年(1889年)の町村制施行にともない、旧村を統合して成立した。原資料によれば、明治9年(1876年)に磐田郡が確定され、明治17年(1884年)頃には中泉村戸長役場の管轄となり、明治22年、袖浦村として町村制の下で正式に発足したとされる。統合された旧村・字の詳細な名称については、原資料の記述だけでは全てを確認できず、[要確認]としておく。
十束地区の村域変遷と石高
十束は磐田郡の西南に位置し、天竜川の東岸にある。中平松、東平松、大中瀬、小中瀬、稗原、清瀬諸新田、旧村茗荷澤新田を合わせて「十束」となったと伝わる。「十束」の地名は、慶長の初め(1596年〜1615年頃)までは総称して池田荘に属して「岡本の郷」と称し、平氏全盛時代には中部は中島・宮本・高木・松本の三村より成り、慶長の初め頃(1596年〜1615年頃)に十ケ村をもって一村を組織したとされる。
十束村の中部を占めた三村(中島・宮本・高木・松本のうち3村とされる)の詳細な村域構成、成立時期の細部については、原資料の記述に幅があり、[要確認]としておく箇所が残る。それでも、複数の小村が段階的にまとまって「十束」という一つのまとまりを形成していった過程は、掛塚・袖浦とはまた異なる、開拓農村としての十束の歩みを示している。
明治22年の町村制施行と3村の確立
明治22年(1889年)、全国的な町村制の施行にともない、掛塚・袖浦・十束は、それぞれ近代的な行政村としての姿を整えた。この時期、伝統的な村落・字が再編され、新たな行政単位としての「大字」に組み込まれていった。r019が紹介する「大字」と現在の地名の対照は、この明治22年の再編を踏まえたものである。
掛塚は明治22年6月、町村制の発布により掛塚町となったとされる。袖浦・十束についても、同年に村としての体制が確立したとみられるが、正確な施行日・経緯の細部は、原資料の記述だけでは確認できない箇所がある。
3村合併から竜洋町へ
掛塚町・袖浦村・十束村は、昭和30年(1955年)に合併し、竜洋町として発足した。r017(竜洋町の沿革)が紹介するとおり、この合併は単なる行政的な統合ではなく、天竜川の恩恵と災害を共有してきた生活共同体としての一体感を背景にしていた。石高という近世の経済的単位から、大字・字という明治の行政単位を経て、昭和の合併にいたる過程は、竜洋という地域が幾重にも再編を重ねながら、一つのまとまりへと収斂していった歴史そのものである。
用語解説
- 石高(こくだか)
- 江戸期の農地の生産力を米の量(石)で表した単位。年貢の基準や、村・領地の経済規模を示す指標として用いられた。
- 大字(おおあざ)
- 明治期の町村制施行にともない、旧来の村を再編してできた行政区画の単位。現在の地名の元になっているものが多い。
- 町村制
- 明治21年(1888年)に公布され、明治22年(1889年)から施行された、近代的な地方自治制度。全国の町村の再編・統合が進んだ。
むすび
掛塚・袖浦・十束、それぞれの江戸期の石高と村域は、廻船の湊、製塩と砂丘農業、新田開拓という異なる生業を反映した、多様な姿を示している。石高データの一部は原資料の判読の限界により確定できない箇所が残るが、それでも3地区が明治の町村制、昭和の合併を経て、一つの竜洋町へとまとまっていった過程の骨格は見えてくる。3地区の性格・集落名の対照については「掛塚・袖浦・十束」を、竜洋町全体の沿革については「竜洋町の沿革」をあわせて読んでいただきたい。
参考資料
- 『ふるさと竜洋』竜洋町教育委員会編、昭和52年(1977年)3月刊(「一、竜洋町の沿革」および「資料3」。出典:提供資料)。
- 磐田物語「掛塚・袖浦・十束」(r019)、「竜洋町の沿革」(r017)。
本ページは上記資料をもとに、磐田物語編集部が行政村史編として再構成したものである。石高データは原資料の記載をできるだけ正確に転記したが、判読が難しい数値・文字は「[要確認]」と明記した。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。
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