磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第201号(見付・中泉の地政学 二)
なぜ家康は見付を選んだのか
国府・東海道・今之浦の地政学 ── 立地の事実と選定の意図を分けて読む
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
徳川家康は遠江経略にあたり、支配の拠点をどこに置くかという「城取り」の選択に直面した。見付は、古代の遠江国府、中世の守護所、近世の東海道見付宿と、幾つもの時代を通じて遠江の中心であり続けた土地である。本稿は、家康が見付を拠点候補として検討しえた地理的条件を、国府の由緒・東海道の宿・今之浦の水運・南部城郭ネットワークの四つに整理し、それぞれがどこまで史料で裏づけられるかを腑分けする。方法上の要点は、地形・街道・港という立地の事実(史実)と、家康がそれをどう評価し何を選んだかという選定の意図(推定)とを、混同せずに書き分けることにある。国府所在地はなお未確定であり、拠点選定の判断過程を直接記す一次史料も本稿の範囲では確認できていない。この制約のもとで、最終的に見付ではなく中泉・浜松が選ばれた経緯を第197号と接続し、立地の優位が必ずしも拠点の決定に直結しなかった理由を考える。
キーワード:徳川家康/遠江国府/東海道見付宿/今之浦/城郭ネットワーク/高天神城/城取り
1. 問題設定 ── 「見付を選ぶ」とは何を問うことか
「なぜ家康は見付を選んだのか」という問いは、一見わかりやすいが、実は二つの異なる問いを含んでいる。一つは、見付という土地がどのような地理的条件を備えていたか、という立地の問いである。もう一つは、その条件を家康がどう評価し、拠点として選び取ろうとしたのか、という意図の問いである。前者は地形・街道・港湾といった観察可能な事実に関わり、多くは史料や現地の地勢から確認できる。後者は家康の判断過程に関わり、当人の意図を直接に記した史料がなければ、確かめようがない。本稿はこの二つの問いを最初に切り分けたうえで論を進める。
この区別が必要なのは、地政学的な議論がしばしば両者を混同するからである。「見付は要衝だったから家康はここを選んだ」という語り口は、立地の有利さ(事実)から選定の意図(推定)へと一足飛びに橋を架けてしまう。だが有利な立地は、拠点選定の必要条件ではあっても十分条件ではない。優れた土地が常に選ばれるとは限らず、選定には軍事情勢・既存拠点との関係・政治的配慮など、立地以外の要因が幾重にも絡む。したがって本稿では、立地の条件を史実として丁寧に記述したうえで、それを家康の選定意図に結びつける部分は一貫して推定の語で書き分ける。
時代背景を確認しておく。1568年(永禄11年)12月、武田信玄の駿河侵攻に呼応して遠江へ進撃した家康は、引馬(のちの浜松)を接収し、掛川城に拠る今川氏真の攻略に着手した1。今川領であった遠江を面として支配下に収めていく過程で、家康はどこを経略の足場とするかを判断する必要に迫られた。この局面において、遠江の伝統的な中心地であった見付が候補の一つとして視野に入ったであろうことは、地勢からみて無理のない推測である。ただし、家康が見付を明確に拠点候補として比較検討したことを直接に記す一次史料は、本稿の範囲では確認できていない。ここでいう「確認できていない」は、そうした史料が存在しないと断定する(=記載がない)のではなく、管見の限りその種の史料に突き当たっていない(=未確認)という状態を指す。
本稿の構成は次のとおりである。第2節から第5節で、見付の立地条件を国府の由緒・東海道の宿・今之浦の水運・南部城郭ネットワークの順に検討する。第6節で「自然の要塞」という通俗的評価を史料批判にかけ、第7節で最終的に中泉・浜松が拠点となった経緯を第197号と接続して対比する。第8節を結論とする。全体を通じて、立地は事実として、意図は推定として扱う姿勢を崩さない。
2. 遠江国府としての由緒と、その未確定
見付が拠点候補となりうる第一の条件は、遠江の政治的中心としての長い蓄積である。見付には、古代に遠江国の国府が置かれたとされる。中世に入っても、鎌倉期には遠江国守護であった安田義定が居館を設けたと伝わり、室町期の中ごろには今川氏がこの地を領して守護所を置いたと伝えられる。国府・守護所として積み重ねられた中心性は、単なる一集落ではない求心力を見付に与えていた。奈良時代に聖武天皇の詔によって建立された遠江国分寺がこの地に置かれ、その跡が現在は特別史跡として整備・公開されていることも、古代における見付一帯の政治的・宗教的な重みを裏づける。国府と国分寺という律令国家の中枢機能が集積していた事実は、中世以降も見付が遠江の中心であり続けた背景として、史実の層で確認できる。
もっとも、ここで慎重に区別すべき点がある。遠江国府(国衙)の正確な所在地は、現在もなお確定していない2。遠江国分寺跡の北側、磐田市見付にある磐田北小学校から大見寺にかけての一帯を国衙跡の候補地とする見方がある一方、磐田駅南側の御殿・二之宮遺跡(磐田市中泉)からは、奈良時代の土器・木製品や大規模な建物跡が出土しており、初期の国府はむしろ中泉側にあった可能性が指摘されている。平安時代に入って国府が見付へ移転したとする見方もあるが、いずれも決定的な証拠には至っていない。国府所在論は、今も研究が続く古代史上の論点である。
この未確定は、本稿の主題に直接に響く。「見付は遠江国府の地だから中心であった」という前提のうち、「中心であった」ことは中世以降の守護所・国分寺の集積からも支持されるが、「国府の地であった」ことの具体的な範囲は、なお論争のただ中にある。仮に初期国府が中泉側にあったとすれば、見付と中泉は古代以来、遠江の中枢機能を分け持つ双子の中心であったことになる。この点は第7節で中泉が拠点として選ばれた経緯を論じる際に、あらためて重要になる。
ここで方法上の腑分けをしておく。国府の由緒が家康の選定を後押ししたという説明は、しばしば地政学的な語りのなかで用いられる。だが、家康が「ここは古い国府の地だから」という由緒を選定の理由として意識したことを示す史料は、本稿の範囲では未確認である。由緒が土地の格を高めていたことは史実として言えても、その格を家康が拠点選定の判断材料にしたかどうかは、別途に確かめるべき推定の問題である。中心性の蓄積は、拠点候補たりうる客観的条件を用意したが、それがそのまま選定の動機であったと即断することはできない。
整理すれば、国府としての由緒は、見付を拠点候補の座に押し上げる客観的条件として作用しえた。しかしその由緒の核である国府所在地そのものが未確定であり、また由緒が選定意図に結びついたことを示す史料も未確認である。第一の条件は、事実として確かな部分(中心性の蓄積)と、なお未確定な部分(国府の正確な所在)と、推定にとどまる部分(家康の評価)とを、丁寧に分けて扱う必要がある。
3. 東海道見付宿と陸の要衝
第二の条件は、陸上交通の要衝としての位置である。見付には東海道の見付宿が置かれ、街道筋の要地として機能した。東西を貫く幹線が土地の中央を通ることは、人・物・情報の集散を促し、支配拠点としての利便を高める。もっとも、東海道の宿駅制度が整うのは近世に入ってからであり、家康が遠江経略を進めた戦国末期の交通路と、後の宿場町としての見付とを、同一の姿で語ることはできない。ここでは、見付が古くから東西交通の結節点であったという地勢上の事実を史実として押さえ、宿場町としての整備は後世の展開として区別しておく。
陸の要衝であることには、監視という軍事的側面も伴う。見付の北、磐田原台地の北端には、天竜川の急崖に守られた社山城のような拠点が15世紀末から存在し、浜松・二俣方面を監視する役割を担っていたとされる3。台地の高所に置かれた城砦は、街道を行き交う勢力の動きを見張る目として機能した。見付の中心性は、平地の交通の便だけでなく、それを見下ろす高所の監視拠点とセットになって初めて、軍事的な意味をもつ。街道と台地という二層の地勢が、見付を単なる通過点以上の土地にしていた。
さらに、見付周辺には家康が鷹狩りの場として好んで訪れたと伝わる「大池」があった。鷹狩りは単なる遊興ではなく、地形を実地に把握し、家臣と行動をともにしながら土地を掌握していく統治の営みでもあった。家康が見付一帯にたびたび足を運んだと伝わることは、この地が家康にとって腰を据えて治めるにふさわしい土地という印象を与えていた可能性を示す。ただし、これは伝承の層に属する話であり、大池での鷹狩りを拠点選定の意思決定に直接結びつける史料は本稿の範囲では確認できない。この点は第197号「中泉御殿の史実」で扱った鷹狩りの記録と併せ読むと、家康と見付・中泉一帯の関わりの厚みがみえてくる。
陸の要衝という条件を、事実と推定に腑分けしよう。見付が東西交通の結節点であり、北に監視の高所を控えていたことは、地勢上の史実として確認できる。これらの条件が拠点として有利に働きえたことも、地政学的に言える。しかし、家康がこの陸上交通の便を理由に見付を選ぼうとしたかどうかは、当人の判断を記す史料を欠く以上、推定の域を出ない。陸の要衝性は、見付を候補たらしめる有力な条件ではあったが、それだけで選定を決定づけたと断ずることはできない。
4. 今之浦の水運と港湾機能
第三の条件は、水運である。見付の地政学的価値をさらに高めていたのが、南から西にかけて広がっていたとされる「今之浦」という入り江の存在である。陸路が街道によって東西を結んだのに対し、今之浦の水運は南方の海と内陸の拠点とを結んだ。水運を介することで、見付の拠点は遠州南部の重要な城郭群と連結することができたと考えられている。物資の大量輸送を担う水運は、軍事的には兵站の基盤となり、平時には経済の動脈となる。陸と水の両方に開かれていたことが、見付の結節性を一段と高めていた。
この水運を支えた港湾として、掛塚湊が知られる。掛塚湊は天竜川の河口部に位置し、河川交通と海上交通をつなぐ拠点として機能した。対武田戦の局面では、家康と同盟する北条氏の水軍が掛塚湊に上陸した記録も伝わる4。海から遠州の沿岸に兵力や物資を送り込む経路が実在したことは、今之浦・掛塚湊を軸とする水運が、単なる地域内の物流にとどまらず、広域の軍事行動を支える回路でもあったことを示す。水運の結節点としての見付一帯は、遠江全体を面として動かす兵站の一角を担いえた。
ただし、今之浦という入り江の範囲や、そこを通る水運が具体的にどの程度の規模で運用されていたかについては、地形の変遷もあって細部が明らかでない部分が残る。今之浦は後世に干拓・埋め立てが進み、現在の地表からは往時の水域を直接に読み取ることが難しい。したがって、水運ネットワークの存在は史実として言えても、その運用の実態や輸送量を数量的に確定することは、本稿の範囲では困難である。ここでも、ネットワークが「あった」ことと、それが「どう使われたか」を区別し、後者については推定の域にとどめる姿勢を保つ。
陸路と水路を対比してみると、両者の性格の違いが見えてくる。東海道の陸路が東西方向の連絡を担ったのに対し、今之浦の水運は南北方向、すなわち内陸の見付と遠州灘の沿岸とを結んだ。見付が陸と水の交差点に立っていたことは、東西南北のいずれの方向へも人と物を差し向けられる位置にあったことを意味する。戦国末期の兵站は、大量の兵糧や資材を運ぶうえで水運への依存が大きく、河川・海上の輸送路を押さえることは、そのまま補給線を握ることに近かった。この点で、今之浦を擁する見付一帯は、陸路だけの要衝とは質の異なる戦略価値をもちえた。もっとも、この価値がどの程度まで意識され活用されたかは、水域の変遷と史料の制約により、なお推定の域を大きく出ない。
水運という条件を腑分けすれば、次のようになる。今之浦・掛塚湊を軸とする水運が存在し、それが遠州南部の城郭群と見付を結びえたことは、史実および有力な推定として言える。北条水軍の上陸記録は、この水運が広域軍事に接続していたことの傍証である。他方、家康がこの水運の利を見込んで見付を拠点候補としたかどうかは、やはり当人の意図を記す史料を欠くため、推定にとどまる。水運は、陸の要衝性と並んで見付を候補たらしめた条件だが、選定の決め手であったと断定はできない。
5. 遠州南部の城郭ネットワークと対武田戦
今之浦を軸にした水運が実際に機能した時期があったことは、高天神城をめぐる攻防から読み取れる。見付の水運が結びえた南部の城郭群──馬伏塚城、横須賀城、高天神城──は、対武田戦のなかで一つのネットワークとして運用された。ここでは、その運用の経過を年代に沿って確認し、見付を含む水運ネットワークがどのように兵站を支えたかを検討する。城郭は単独では意味をもたず、街道と水運で結ばれ、補給と連絡を分かち合う網の目のなかで初めて戦略的な機能を発揮する。
経過はおおむね次のとおりである。1574年(天正2年)、武田勝頼が高天神城を攻略すると、家康はその奪還の拠点として馬伏塚城を改修し、家臣・高力清長を配置したとされる5。さらに1578年(天正6年)には、家臣・大須賀康高に命じて新たに横須賀城を築かせ、水運を活かした兵站ルートを整えたと伝えられる。家康は高天神城の周囲に「六砦」をはじめとする多数の付城・砦を築いて包囲網を敷き、兵糧攻めによって城を追い詰めていった。そして1581年(天正9年)、ついに高天神城を奪還し、遠江国内の支配を確立したとされる。目的を果たした馬伏塚城・横須賀城の周辺も、翌1582年(天正10年)には多くが廃城となったと伝わる。
この経過から読み取れるのは、城郭が個別に築かれ捨てられたのではなく、水運と街道で結ばれたネットワークとして運用され、目的の達成とともに再編されたという点である。馬伏塚城の改修も横須賀城の新築も、高天神城奪還という一つの戦略目標のもとに配置された手であり、その配置を支えたのが今之浦・掛塚湊を含む水陸の交通路であった。見付は、この南部城郭ネットワークの北の付け根にあたり、国府・宿場としての中心性と水運の結節性を兼ね備える土地として、ネットワーク全体を後方から支える位置にあったと考えられる。
ここでも事実と推定の腑分けが要る。高天神城攻防の年代と、馬伏塚城・横須賀城の改修・築城の経過は、城郭資料や伝承によって一定程度たどれる。ただし個々の年紀や配置の細部には、資料により異同があり、伝承の層に属する部分も少なくない。そして、この城郭ネットワークにおいて見付がどれほど中枢的な役割を果たしたのかを直接に記す史料は、本稿の範囲では確認できていない。見付がネットワークの北の結節でありえたことは地勢から言える推定であるが、それを裏づける一次史料の確認は今後の課題である。城郭ネットワークは、見付の立地の意味を実戦のなかで浮かび上がらせる格好の題材だが、見付自身の役割の確定には、なお史料の博捜を要する。
6. 「自然の要塞」という評価の両義性
見付・磐田の周辺は、南に遠州灘、北に磐田原台地、西に天竜川、東に太田川という地形に囲まれ、しばしば「自然の要塞」と形容されてきた。四方を自然の障壁に守られた土地というイメージは、拠点適地としての見付を語るうえで好んで用いられる。だが、この評価には史料批判が必要である。「自然の要塞」という語は、地形の客観的記述であると同時に、後世の価値づけを含んだ通俗的な表現でもある。四方位のそれぞれが具体的にどの向きの脅威にどう働いたのかを分けて考えないと、この語は説明ではなく修辞にとどまる。
まず、四方位の障壁を分解しておく。西の天竜川は、西からの進軍に対する天然の隔たりとなる。東の太田川水系は、東からの陸上部隊の進軍を鈍らせる。南の遠州灘と今之浦は、水運によって南部の拠点との連結を可能にする一方、海からの接近路にもなる。北の磐田原台地と社山城のような高所拠点は、周辺の監視を担う。このように分けてみると、それぞれの地形は特定の方向に対して特定の働きをもつのであって、あらゆる方向に万能な「要塞」であったわけではない。
さらに重要なのは、有利な地形が守る側にとって常に有利とは限らない、という点である。天竜川のような大河は、西からの敵を隔てる一方で、味方が西へ退却し、あるいは西から補給を受ける経路をも制約する。障壁は、攻める側にとっての脅威であると同時に、守る側にとっての退路や補給の枷にもなりうる。地形の有利・不利は、どちらの立場から、どの局面で見るかによって反転する。「自然の要塞」という一面的な評価は、この両義性を覆い隠してしまう。この視点は、第196号「見付に残る幻の城」で検討した城之崎城の未完・廃城の問題とも通じる。有利とされた地形が、なぜ拠点として選び抜かれなかったのかを考えるとき、地形評価の両義性は避けて通れない論点となる。
したがって本稿の立場はこうである。「自然の要塞」という評価は、地形の障壁を四方位に分解し、それぞれが特定の方向・局面でもった働きを個別に検討したうえで、初めて説明として意味をもつ。障壁の存在は史実であるが、それが拠点として一律に有利だったという価値づけは、局面ごとの検証を経ない限り、通説の域を出ない。地形は条件を与えるが、その条件をどう評価し何を選ぶかは、地形からは自動的には決まらない。この認識が、次節で最終的な拠点選定を論じる際の前提となる。
7. なぜ最終的に中泉・浜松だったのか ── 第197号との接続
ここまで、見付が拠点候補たりえた四つの条件を検討してきた。国府としての中心性、東海道の要衝性、今之浦の水運、南部城郭ネットワークの結節。いずれをとっても、見付は拠点適地としての条件を十分に備えていたように見える。にもかかわらず、家康の遠江支配の拠点は、最終的に見付そのものには置かれなかった。家康は引馬を接収したのち、これを浜松と改めて居城とし、遠江・三河の経営の中心とした。そして中泉には、鷹狩りの拠点であり地域支配の結節でもある中泉御殿が営まれた。この事実は、立地の優位が必ずしも拠点の決定に直結しないことを、端的に示している。
なぜ見付ではなく浜松・中泉だったのか。この問いに一次史料から確答することは、本稿の範囲では難しい。しかし、いくつかの推定は立てられる。第一に、対武田戦という当面の軍事情勢が、より西寄りで天竜川に近い浜松を居城として選ばせた可能性がある。武田の脅威は北と東から迫っており、遠江の東寄りに位置する見付よりも、三河との連絡を保ちやすい浜松のほうが、当座の防衛と後方連絡の両面で合理的でありえた。第二に、第2節でみた国府所在論に関わって、中泉側が古代以来の中枢機能の一角を担っていたとすれば、家康が中泉に御殿を営んだことは、見付一帯のもつ中心性を、より使い勝手のよい形で取り込む選択であったとも読める。
この対比は、第197号「中泉御殿の史実」で論じた中泉選定の議論と表裏をなす。第197号が「家康はなぜ中泉を選んだか」を中泉御殿の性格から論じたのに対し、本稿は「見付を選ぶ地政学的理由」を立地条件の側から論じてきた。二つを併せ読むと、見付と中泉は、遠江の中枢機能を分け持つ双子の中心として、家康の拠点構想のなかで別々の役割を割り当てられたという見取り図が浮かぶ。見付が備えた条件は無に帰したのではなく、隣接する中泉・浜松の拠点機能のなかに、いわば分散して受け継がれたと考えることができる。この点は素材となった一般向け記事「なぜ家康は見付を選んだのか」でも触れた論点であり、本稿はそれを史料批判の観点から掘り下げたものである。
三つの候補地の条件を並べて比較すると、それぞれの強みと役割の違いが整理できる。以下の表は、見付・浜松・中泉を四つの評価軸で対照し、各項目が史実として言える部分と推定にとどまる部分とを併記したものである。特定の拠点を優位に置く書式を避け、各行の情報量をそろえることで、読者が自ら判断できる状態をつくることを心がけた。
| 評価軸 | 見付 | 浜松(引馬) | 中泉 | 本稿の確度評価 |
|---|---|---|---|---|
| 中心性の由緒 | 国府・守護所・国分寺の集積 | 引馬以来の在地拠点 | 初期国府の候補地(二之宮遺跡) | 集積は史実、国府所在は未確定 |
| 対武田戦への適合 | 遠江の東寄りに位置 | 三河との連絡を保ちやすい西寄り | 見付に近接し後方に位置 | 適合の評価は推定 |
| 水運・兵站 | 今之浦・掛塚湊の結節 | 天竜川の舟運を利用 | 見付の水運圏に含まれる | ネットワークは史実、運用は推定 |
| 実際の帰結 | 拠点そのものにはならず | 浜松城を居城とする | 中泉御殿を造営 | 帰結は史実・通説 |
この比較から浮かぶのは、三者が競合したというより、遠江の中枢機能を分担したという構図である。見付が備えた由緒と結節性は、対武田戦の当面の要請のもとでは居城の座を浜松に譲ったが、その中心性は隣接する中泉の御殿という形で受け継がれた。立地の優劣を一列に並べて勝者を決める発想では、この分担の構図は捉えられない。それぞれの土地がもつ条件が、軍事情勢という時間の要因と組み合わさって、役割の割り振りとして結実したとみるのが、本稿のとる見方である。
ここでも、事実と推定の区別を崩さない。浜松が居城となり中泉に御殿が営まれたことは、史実および通説の層で確認できる。だが、家康が見付・中泉・浜松のあいだで拠点をどう比較し、なぜ最終的にこの配置に落ち着いたのか、その判断過程を直接に記す一次史料は、本稿の範囲では未確認である。したがって、ここで示した「双子の中心の役割分担」という見取り図は、あくまで立地条件と拠点配置の結果から逆算した推定であり、確定した史実ではない。立地の優位と選定の帰結とのあいだには、史料の裏づけを要する隔たりがなお残されている。
8. 結論 ── 立地の事実と選定の意図を分けて読む
本稿は、「なぜ家康は見付を選んだのか」という問いを、立地の事実と選定の意図という二つの問いに分け、見付の地理的条件を国府の由緒・東海道の宿・今之浦の水運・南部城郭ネットワークの四つに整理して検討した。得られた見取り図はこうである。見付は、遠江の中心としての長い蓄積、陸上交通の要衝性、水運の結節性、城郭ネットワークの北の付け根という、拠点適地としての条件を確かに備えていた。これらの立地条件の多くは、史料や地勢から史実として確認できる。他方、それらの条件を家康がどう評価し、拠点として選ぼうとしたかという意図の側は、当人の判断過程を記す一次史料を欠くため、一貫して推定の域にとどまる。
この事実と意図の隔たりは、地政学的な議論が陥りやすい早合点への戒めでもある。「要衝だったから選ばれた」という語りは、立地の有利さから選定の意図へと橋を架けるが、その橋は史料によって支えられているとは限らない。実際、これだけの条件を備えた見付が拠点そのものにはならず、浜松・中泉が選ばれたという結果は、立地の優位が選定を自動的には決めないことを示している。国府所在論の未確定、水運運用の細部の不明、見付の役割を記す史料の未確認──本稿がくり返し「未確認」と記してきた箇所は、そのまま今後の史料調査が向かうべき地点を指している。
したがって本稿の立場は次のとおりである。見付の地政学を論じるにあたっては、地形・街道・港という立地の事実を史実として丁寧に記述し、それを家康の選定意図に結ぶ部分は推定として明示的に留保する。そのうえで、「未確認」(管見の限り一次史料に突き当たっていない)と「記載なし」(史料に確かに無い)を区別し、通俗的な「自然の要塞」評価は四方位・局面ごとの検証にかける。見付を選ぶ理由を問うことは、最終的に見付が選ばれなかった事実を通じて、立地と選定のあいだにある史料の隔たりを見つめ直す作業でもある。見付・中泉を双子の中心として捉える見取り図の当否、拠点選定の判断過程を記す史料の探索は、第197号・第196号と併せて、本論考シリーズが引き続き取り組むべき課題である。
注
- 1568年(永禄11年)12月の家康の遠江進撃、引馬接収、掛川城攻めの経過については、『磐田市史』通史編および遠州の戦国史関連資料による。年紀の細部は資料により異同がありうる。↩
- 遠江国府(国衙)の所在地は未確定である。見付側(磐田北小〜大見寺、国分寺跡の北)を候補とする見方と、中泉側(御殿・二之宮遺跡)を初期国府とみる見方が並立する。御殿・二之宮遺跡からの奈良期の大型建物跡・土器・木製品の出土については、磐田市の発掘調査関連資料による。↩
- 社山城が磐田原台地の北端、天竜川の急崖上に15世紀末から存在し、浜松・二俣方面の監視を担ったとされる点は、城郭関連資料および伝承による。築城年代・機能の細部には未確認の部分が残る。↩
- 対武田戦において北条氏の水軍が掛塚湊に上陸したと伝わる記録による。今之浦・掛塚湊の水域の範囲は、後世の干拓により現地形からの直接復元が難しい。↩
- 高天神城攻防(1574年攻略〜1581年奪還)、馬伏塚城の改修と高力清長の配置、1578年の横須賀城築城(大須賀康高)、六砦による包囲、1582年の周辺廃城の経過については、高天神城の戦い関連の城郭資料および伝承による。年紀・配置の細部には資料間で異同がある。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 m057 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。立地の条件(地形・街道・港)を史実として記述し、それを家康の選定意図に結ぶ部分は推定として区別した。第197号(中泉選定)と対をなし、重複を避けて「見付を選ぶ地政学的理由」に軸を置いた。
参考文献・参考資料
- 磐田市『磐田市史』通史編 中世・近世(磐田市、該当章)。
- 磐田市教育委員会『御殿・二之宮遺跡』発掘調査報告関連資料。
- 静岡県『静岡県史』通史編2 中世(静岡県、該当章)。
- 小和田哲男ほか『遠江の戦国時代』関連の戦国史概説。
- 「高天神城の戦い」関連の城郭資料(横須賀城跡・馬伏塚城跡・高天神城跡)。
- 社山城・見付宿・今之浦・掛塚湊に関する磐田市域の地誌・城郭資料。
- 磐田市立図書館所蔵資料(見付編、磐田の戦国武将物語)。
- 文化庁「国指定文化財等データベース」遠江国分寺跡の項 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田市 公式サイト「遠江国分寺跡」「御殿・二之宮遺跡」関連ページ https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之の磐田論考 第197号「中泉御殿の史実 ── 家康の鷹狩り・秋鹿家・大池を資料で読む」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/197/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之の磐田論考 第196号「見付に残る幻の城 ── 城之崎城と徳川家康の築城伝説を検証する」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/196/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 m057「なぜ家康は見付を選んだのか ── 国府・東海道・今之浦の地政学」 https://iwata-monogatari.net/m057.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 m055「見付に残る幻の城」特集ポータル関連資料 https://iwata-monogatari.net/m055.html (最終閲覧:2026年7月26日)。