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磐田物語竜洋地区 / 十束村の成立と平松・中島の新田開拓史

竜洋地区の記憶 第四回 | 町村沿革

十束村の成立と平松・中島の新田開拓史 ── 河口低地を美田に変えた近世の土木

天竜川の氾濫と砂嵐に阻まれた荒野を、不屈の精神と巧みな治水技術で豊かな穀倉地帯へと生まれ変わらせた「十束村」。江戸時代の新田開発から明治の村成立までの歴史的歩みを追います。

現在の竜洋地区の東部や北部を占めるエリアは、かつて「十束村(とつかむら)」と呼ばれた農村地帯でした。ここは天竜川の旧流路が幾度も通り、砂礫と泥に覆われた湿地帯でしたが、江戸時代中期の豪農や開発請負人たちによって泥土から田畑へと拓かれ、明治の合併を経て地域の強固な農業基盤を築き上げました。

本稿の要点
  • 氾濫原と砂地を拓く新田開発:江戸時代、幕府の開拓奨励や豪商の資金により、平松や中島などのエリアで大規模な新田・新開の開墾が断行されました。
  • 十の集落が結束した「十束村」の誕生:明治22年、平松・中島・堀之内など、開拓地を中心とする十の自然集落が合併し、行政村「十束村」が成立しました。
  • 排水と灌漑の土木インフラの確立:天竜川の逆流を防ぐ樋門の整備や、縦横に張り巡らされた排水路(井路)の建設により、安定した米作りが可能となりました。

荒れ狂う河口湿地を拓いた江戸時代の新田開発

天竜川の河口近くに広がる平松や中島の周辺は、かつては大雨が降るたびに水が停滞し、冬には遠州灘からの強風で砂が吹き積もる不毛の荒野でした。この困難な土地に目をつけ、本格的な開拓が始まったのは江戸時代中期のことです。幕府の新田開発奨励策に呼応し、地元の有力者や掛塚の廻船問屋が資金を出し合い、大規模な排水土木工事が開始されました。

まず行われたのが、湿地の水を排水するための掘割(水路)の建設と、天竜川からの逆流を防ぐ堅固な土堤の築堤です。過酷な重労働の末に砂地と泥土は徐々に乾いた土へと変わり、黄金色の稲穂が実る新田(しんでん)が誕生していきました。全国的に見ても、江戸時代は戦国期以来の土木技術の蓄積と、大規模な労働力を動員できる体制が整った時期にあたり、幕府や諸藩が年貢の増収を狙って新田開発を強く奨励しました。天竜川下流域の低湿地もその流れの中で、少しずつ耕地へと姿を変えていった土地の一つです。

十の村々が手を取り合って誕生した「十束村」

明治22年(1889年)4月1日、日本全国で近代的な行政区画を整備する「町村制」が施行されました。これに伴い、この開拓エリアに点在していた十の自然集落が合併し、新しい村が誕生することになりました。合併したのは宮本村・中島村・平間村・堀之内村・松本村・高木村・下本郷村・上本郷村・赤池村、そして新田集落である仁兵衛新田の10か村です。いずれも天竜川の氾濫原に張り付くように営まれてきた小さな集落で、単独では水害にも財政にも耐えきれない規模でした。

この新村は、合併した旧村・新田の数が「十」であること、そして地域の結束を固める束(たばね)となることを願い、「十束村(とつかむら)」と命名されました。それまで個別に水害対策や水利調整を行っていた各集落が、一つの強固な自治体となったことは、地域全体の防災力と産業の近代化を劇的に推し進める契機となりました。なお十束村は発足当初、豊田郡に所属していましたが、明治29年(1896年)4月1日の郡制改編により磐田郡へと編入され、以後は磐田郡十束村として歩むことになります。合併前の各村は、いずれも天竜川の乱流と隣り合わせの小村で、単独の石高・戸数では堤防や樋門といった大規模な普請を担いきれず、水害のたびに周辺の村々へ助けを求めざるを得ない状況にありました。十村が一つの行政体へまとまったことで、初めて村域全体を見渡した治水計画や、共同での用水管理が可能になったのです。これは単なる行政区画の統合にとどまらず、水と共に生きるほかなかった低地の集落が、初めて「面」としての自治力を持った出来事だったといえます。

十束村のその後 ── 竜洋町への合流と一部分村の歴史

昭和30年(1955年)4月1日、十束村は隣接する袖浦村・掛塚町と新設合併し、「竜洋町」が発足しました。町名は天竜川の「竜」と遠州灘の「洋」を組み合わせたもので、川と海の両方に育まれてきたこの地域の性格をよく表しています。ところがその2週間後、同年4月15日には、旧十束村のうち赤池・上本郷・下本郷・仁兵衛新田の4地区が竜洋町から分離し、隣の豊田村へ編入されるという再編が行われました。天竜川沿いの集落は当時、水利や耕地のつながりから見て豊田村側との結びつきが強い地区もあり、成立直後に境界の微調整が入ったことになります。十束村役場は現在の座標でいうと北緯34度41分53秒・東経137度48分26秒の付近にあったと記録されており、東海道本線豊田町駅の南側一帯、天竜川左岸の低地に位置していました。

排水土木と豊かな水田地帯への変貌

十束村の農民たちが直面し続けたのは、やはり水との戦いでした。低地であるため、天竜川の水位が上がると水路の水が引かなくなり、深刻な内水被害が発生しました。そこで村は共同で資金を募り、主要な排水口に近代的な煉瓦造りやコンクリート造りの「樋門(ひもん)」を建設しました。

また、網の目のように通された用水路(井路)の共同清掃や管理システムを確立し、公平な水配りと迅速な排水を両立させました。先人たちが泥にまみれて築き上げたこれらの水利システムは、十束の平野を遠州を代表する穀倉地帯へと変貌させ、その農業技術の伝統は現在の竜洋地区の豊かな米・野菜づくりへと確実に受け継がれています。竜洋町は平成17年(2005年)4月1日、旧磐田市・福田町・豊田町・豊岡村との合併により新しい磐田市の一部となりましたが、十束の集落が積み上げてきた治水と耕地の記憶は、地区の田園風景の中に今も刻まれています。

※合併した村名の詳細(宮本・中島・平間・堀之内・松本・高木・下本郷・上本郷・赤池・仁兵衛新田)や郡の変遷、昭和30年の分村については行政資料・地名辞典類で確認できる事実ですが、各集落における新田開発の具体的な着手年や事業主体名までは、現時点で一次資料による裏付けが取れていません。伝承の域を出ない部分は「とされる」「伝わる」という表現にとどめています。

この地域の家・土地・空き家について

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主な参考資料

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