磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第145号(遠江国分寺研究 四)
卵塔墓が語る260年 ── 国分寺住職たちの墓碑を読む
墓碑銘から復元する近世の寺の歴史
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
文字史料に乏しい寺院の歴史を、境内に残る石造物からどこまで復元できるか。本稿は、遠江国分寺(磐田市中泉)の墓地に現存する14基の墓塔を対象に、墓碑銘から近世約260年の住職史を復元する試みの射程と限界を検討する。判読しうるのは、1682年(天和2年)に没した憲能から1872年(明治5年)に没した真浄に至る数基にとどまり、大半は風化と火災により法名・年代を欠く。本稿は、読み取れる紀年銘・法名を史実、寺に伝わる事績を伝承として層を分け、判読できない墓塔については推測で補わず「不詳」のまま保持する史料批判の姿勢を採る。あわせて、妻帯せぬ僧が師から弟子へと寺を継ぐ師資相伝の継承、教え子が恩師の墓を建てる筆子中の習わし、境内に交じる回国行者の墓を手がかりに、石が語りうる寺史の輪郭を描く。石造物史料の可能性と、その判読限界に対する禁欲的な手続きの双方を提示することが、本稿の目的である。
キーワード:卵塔墓/無縫塔/遠江国分寺/墓碑銘/師資相伝/筆子中/史料批判
1. 問題設定 ── 文字を欠く寺史を石に問う
遠江国分寺は、天平の詔によって諸国に建てられた古代寺院の一つを起源とし、その後の断絶と再興をくり返しながら、中泉の地に法灯を伝えてきた寺である。古代の壮大な伽藍については本論考シリーズの遠江国分寺の稿で扱い、近世に薬師堂が再興される経緯は中泉代官と薬師堂の再興の稿で、明治の上知令による断絶は明治の廃寺の稿でそれぞれ検討した。本稿が対象とするのは、これらの稿のあいだに横たわる、江戸初期から明治初期に至る近世の住職史である。ところがこの時期の国分寺については、住職の交代や日々の営みを記した文書がまとまって伝わっているわけではない。
長く続いた寺であっても、代替わりの記録や由緒書が体系的に残るとは限らない。中泉代官所とのやり取りや薬師堂再興の経緯は断片的に文書に残るが、誰がいつ住職を務め、いつ没したかという最も基本的な事実は、しばしば境内の墓地に立つ石塔からしか読み取れない。国分寺の墓地には、歴代住職や寺にゆかりのある人物の墓塔が14基残っている。本稿はこの石造物群を主たる史料とみなし、そこに刻まれた紀年銘と法名から、近世の住職史をどこまで復元できるかを問う。
石造物を史料として扱うにあたり、本稿は確度の層を明示する手続きを採る。第一に、墓碑銘や紀年銘によって直接読み取れる事柄を史実として扱う。第二に、寺や地域に伝わる事績を伝承として区別する。第三に、根拠はあるが確定に至らない事柄を推定とする。そして、判読できない墓塔については、推測で年代や人物を補うことをせず「不詳」のまま保持する。これは素材とした現地調査記録が採った方針でもあり、本稿もこれを踏襲する1。読めない石を無理に読もうとすれば、確度の低い推測が史実のように独り歩きしかねない。石造物史料の扱いにおいて、この禁欲は方法上の要をなす。
石造物を歴史史料として扱う視点は、近年の地域史研究のなかで一定の蓄積をもつ。墓塔や石仏、供養塔に刻まれた紀年銘・法名・願主名は、文書がほとんど残らない村や小寺の歴史を復元するうえで、しばしば唯一の手がかりとなる。とりわけ寺院の墓域に立つ歴代住職の墓は、住持の交代という寺史の骨格を、没年という確かな一点で記録する。国分寺の墓塔群も、この石造物史料の一例として位置づけられる。文書の沈黙を、石の銘文がわずかに破る──その関係を見定めることが、本稿の方法的な出発点である。
以下ではまず、対象とする墓塔群の形式を確定し、「卵塔墓」という総称と実際の墓塔形式との関係を検討する。続いて判読しうる墓碑から住職の編年を組み、判読できない墓塔の扱いを史料批判の観点から論じる。さらに、寺を継承した師資相伝の仕組み、境内に交じる回国行者の墓、他寺との規模の対比と墓地の移転を順に検討し、最後に石が語りうる寺史の範囲とその限界を総括する。
2. 卵塔という墓塔形式と対象の確定
本稿が「卵塔墓」と呼ぶ対象について、まず用語を確定しておきたい。卵塔とは、塔身を継ぎ目のない卵形にかたどった僧侶の墓塔で、正しくは無縫塔(むほうとう)という2。継ぎ目のない一石であることが、迷いを離れた僧の境地を象徴するとされ、中世以降、住持を務めた僧の墓としてひろく用いられてきた。寺の墓地に立つ歴代住職の墓を総称して「卵塔」「卵塔場」と呼ぶ慣用は、この形式の代表性に由来する。
ところが、国分寺の墓地に残る14基を実際に確認すると、その形式は無縫塔に一様ではない。現地で分類しうる範囲でも、五輪塔、舟形(舟形光背をかたどったもの)、角柱型などが混在し、風化のため形式そのものを特定できないものも少なくない。すなわち「卵塔墓」という総称は、住職の墓域全体を指す慣用的な呼称であって、個々の墓塔がすべて無縫塔であることを意味しない。この総称と実態のずれを最初に押さえておくことは、石造物を史料として読むうえでの第一歩である。呼称に引きずられて、五輪塔や角柱を無縫塔と取り違えれば、形式編年の出発点から誤ることになる。
墓碑銘を判読するとは、単に年号を読むことにとどまらない。僧の墓塔には、法名(戒名)に加えて、和尚・首座といった位号や、示寂の日付、時に建立者の名が刻まれる。これらを組み合わせることで、その僧が住持であったか否か、いつ寺に入りいつ没したかを推し量ることができる。しかし国分寺の墓塔群では、こうした情報がまとまって読めるのは限られた基にとどまり、多くは法名の断片すら判別しがたい。形式による分類が先に立ち、銘文による裏づけがそれに伴わないという状態が、判読作業の実際である。
石造物を史料として読むとき、編年の手がかりとなるのは、紀年銘・法名・戒名、そして墓塔の形式である。このうち紀年銘は最も直接的な年代情報を与えるが、これを欠く墓塔では、形式の型式学的な変遷から時期を推し量るほかない。しかし形式編年には幅があり、五輪塔や舟形がある型を示すからといって、その造立年を一点に定めることはできない。まして風化が進めば、形式の判別そのものが困難になる。したがって本稿は、紀年銘の読める墓塔を編年の骨格に据え、形式のみが分かる墓塔をそこに強く結びつけることは避ける。
対象の性格も確定しておく。古代の遠江国分寺は、七重塔を備えた壮大な官寺であった。だが本稿が扱う近世の国分寺は、その古代寺院の後身として中泉の一角に法灯を伝えた、規模の小さな寺である。14基という墓塔の数は、この近世の小規模な寺のありようを反映している。古代の大伽藍と近世の小寺とを同じ「国分寺」の名で括りながらも、両者の規模の落差を見失わないことが、この墓塔群を正しく位置づける前提となる。
3. 判読しうる墓碑 ── 憲能から真浄への260年
14基のうち、法名と没年をある程度まで判読できるのは限られた墓塔である。そのなかで年代の枠組みを与えるのが、最も古い紀年を示す①と、最も新しい紀年を示す⑦の二基である。まず①は五輪塔で、法名と没年月日が判読でき、1682年(天和2年)に没した憲能の墓と読める3。憲能は、江戸初期に中泉代官の中野七蔵・高室昌重の関与のもとで薬師堂の再興を担った住職として、別稿で検討した人物にあたる。墓碑銘に読める没年と、代官所文書に断片的に残る事績とが、ここで一人の住職の像として結びつく。
他方、⑦は角柱型の墓塔で、1872年(明治5年)に没した真浄の墓である。真浄は薬師堂の片隅に机を並べ、近隣の子どもたちに読み書きを教える寺子屋を開いていたと伝わる住職で、その墓塔には「筆子中」による建立をうかがわせる記録が残る。憲能から真浄まで、判読しうる紀年をつなぐと、その間はおよそ260年に及ぶ。近世を通じて国分寺に住職が置かれ続けたこと、少なくとも住持の墓が造立され続けたことが、この二基を両端とする編年から読み取れる。真浄の没年は、上知令による国分寺の断絶と時期を接しており、明治の廃寺の稿で扱った近代の転換に、そのまま接続する。
素材とした調査記録では、法名と没年をある程度まで判読できる住職の墓塔に①から⑦の番号が振られ、それ以外の墓塔と区別されている。この番号づけ自体が、判読の可否という基準に基づく整理であって、造立の順序や住持の代数をそのまま示すものではない。したがって、番号を代数と読み替えて憲能を初代、真浄を第七代とみなすような解釈は成り立たない。番号は判読しやすさの目印であり、住職の系譜を復元するには、なお別の史料を要する。この点も、石造物史料を扱ううえで踏み外してはならない一線である。
この二基のほかに、住職の系譜とは別の紀年を伝える墓塔がある。⑭は舟形の墓塔で、1765年(明和2年)の年号とともに花屋春法の名を刻む。花屋春法は住職ではなく、諸国の霊場を巡り歩いた回国行者とみられる人物で、その扱いは第6節に譲る。ここで確認しておきたいのは、判読しうる紀年をもつ墓塔が、住職の墓に限られないという点である。境内の墓塔群は、住持の系譜と、寺に縁を結んだ他者の墓とが交じり合って構成されている。したがって、読める年号を機械的に住職の編年へ組み込むことはできず、被葬者の性格を一基ごとに吟味する必要がある。
| 番号 | 形式 | 年代(墓碑銘) | 被葬者 | 確度の層と留意点 |
|---|---|---|---|---|
| ① | 五輪塔 | 1682年(天和2年)没 | 憲能(住職) | 史実。法名・没年月日が判読可。確認しうる最古の住職墓。薬師堂再興に関わる。 |
| ⑦ | 角柱 | 1872年(明治5年)没 | 真浄(住職) | 史実(紀年)+伝承(事績)。寺子屋・筆子中の伝えは伝承の層。 |
| ⑭ | 舟形 | 1765年(明和2年) | 花屋春法(回国行者) | 史実(紀年)。住職ではなく寺に縁を結んだ他者。編年には別枠で扱う。 |
| ②〜⑥・⑧〜⑬ | 五輪塔・舟形・角柱・不詳 | 不詳 | 不詳 | 風化・焼損により法名・年代を特定できず。推測で補わず不詳として保持。 |
260年という数字は、字義どおりには最古と最新の紀年の差にすぎない。だが、その幅の内側に判読できない多くの墓塔が並んでいる事実こそ、見落とせない。もし憲能と真浄のあいだに住持が絶えていたなら、両者の墓は孤立した二点にとどまり、その間を埋める墓塔群は存在しないはずである。読めない墓塔がこれだけ残っていること自体が、両端のあいだに住持が継起していたことを、間接的に裏づけている。編年の両端を画す二基と、そのあいだを埋める沈黙の墓塔群とは、あわせて一つの継続を証言している。数の上での260年は、こうして質の上での「途切れなさ」へと読み替えられる。
表1に整理したとおり、確度の層は墓塔ごとに異なる。①の憲能は紀年・法名ともに読め、史実として扱える。⑦の真浄は、没年という紀年は史実の層に属するが、寺子屋を開いたという事績や「筆子中」の建立という伝えは、墓塔と周辺の記録から導かれる伝承の層に属する。両者を同じ史実として並べるのではなく、紀年は史実、事績は伝承として書き分けることで、墓碑が確かに語る部分と、伝えによって補われる部分との境界が保たれる。この境界を曖昧にすれば、石が語っていないことまで石に語らせてしまう。
4. 判読できない墓碑をどう扱うか ── 「不詳」の史料批判
ここまで紀年を判読しうる墓塔を見てきたが、14基のうち大半は、法名も年代も特定できない。②から⑥、⑧から⑬にかけては、風化や損傷により銘文が読めず、形式の分類すらできないものもある。素材とした現地調査記録は、こうした墓塔について、年代や記載事項を推測で埋めることをせず「不詳」のまま示す方針を採った。本稿もこの方針を史料批判上の要点とみなす。読めない銘文から人物や年代を推し量ることは、一見して寺史を豊かにするように見えて、実は確度の低い推測を史実の列に紛れ込ませる行為にほかならない。
判読を妨げている原因は一様ではない。国分寺は江戸期から幾度か火災に見舞われた記録があり、墓地の石塔にもその痕跡が残る。⑪にあたる墓塔は、火を受けたとみられて石材が赤く変色しており、こうした焼損が銘文の判読をいっそう困難にしている。②から⑥、⑧から⑬に「不詳」が並ぶ背景には、260年という歳月に加えて、寺という場所が受けてきた火災の履歴がある。石は文字を長く保つ媒体ではあるが、火と風雨の前では、その記憶もまた失われていく。
ここで方法上の区別を明示しておきたい。ある墓塔の法名が「不詳」であることは、その墓塔にもともと法名が刻まれていなかったことを意味しない。多くの場合、それは「かつて刻まれていたはずの銘文が、風化・焼損によって読めなくなっている」状態、すなわち未確認である。これに対し、史料に記述そのものが存在しない状態は記載なしであり、両者は峻別されなければならない。摩滅した石が沈黙しているのか、それとも元来語るべき文字をもたなかったのかは、それ自体が別個の検証を要する問いである。「不詳」の一語を、この区別を保ったまま用いることが肝要である。
焼損した石をめぐっては、もう一つ留意すべきことがある。火を受けて変色し、あるいは表面が剥落した石は、判読が困難になるだけでなく、破損して原形を失い、あるいは後に造り替えられることもある。現存する墓塔が、造立当初の石そのものなのか、後世の補修や再建を経たものなのかは、銘文だけからは判じがたい。国分寺が幾度かの火災を経ていることを踏まえれば、いま境内に立つ墓塔のなかに、当初の石を失って後に建て直された墓が含まれている可能性も、あらかじめ視野に入れておく必要がある。石は不変の媒体ではなく、寺の被災とともに更新されうるものである。
判読できない墓塔が多いという事実は、しかし単なる欠落ではない。それは、この墓塔群が経てきた時間の長さと、寺が被ってきた災厄の履歴を、沈黙のかたちで証言している。読める墓碑が住職の名と没年を語るのに対し、読めない墓碑は、寺がくぐり抜けてきた歳月そのものを語る。史料としての石造物を評価するとき、判読しうる情報の多寡だけを基準にすれば、この沈黙の証言は視野から抜け落ちてしまう。「不詳」を欠損として切り捨てるのではなく、時間と災厄の記録として書き留めることも、石を読む作法の一部である。
5. 師資相伝という継承のかたち
石が語る住職史を、寺の継承のしくみに照らして読み直しておきたい。国分寺の住職は、代々血縁によって継がれてきたわけではない。仏門の僧は妻帯せず、寺は師資相伝、すなわち師僧から弟子僧へと法を伝えるかたちで住持の座を継承する。弟子となる僧は、掛川の龍華院や比叡山延暦寺といった格式ある寺で修行を積んだのち、縁あって国分寺の住職として迎えられたと伝わる。継承の軸が血縁ではなく法脈にあることは、近世の墓塔群を読むうえで見落とせない前提である。
血のつながりに頼らない継承であるがゆえに、代替わりのたびに、外から新たな僧が寺に入ってくる。憲能から真浄まで、名の残る住職だけでも複数の代替わりを経ており、その一人ひとりが薬師堂の護持や地域との関わりを担った。判読できない②から⑥、⑧から⑬の墓塔の少なからぬ数も、こうして外部から迎えられた住持の墓であったと考えるのが自然である。墓塔群が語るのは、単なる没年の羅列ではなく、絶えず外から人を迎え入れながら維持されてきた、一つの寺のかたちである。ただし、個々の不詳墓を特定の代の住職に比定することは、根拠を欠くため本稿では控える。
弟子僧が修行した掛川の龍華院は、徳川家ゆかりの格式をもつ寺として知られ、比叡山延暦寺は天台の総本山である。国分寺の住持となる僧が、こうした格式ある寺で研鑽を積んだと伝わることは、中泉の小寺が孤立していたのではなく、より広い寺院のネットワークのなかに位置づけられていたことを示している。師資相伝は、単に一寺の内部で法を伝えるだけでなく、外部の大寺と地方の小寺とを法脈で結ぶ回路でもあった。国分寺の住職史は、この回路を通じて、遠江の一寺を越えた広がりのなかに置き直すことができる。判読できない墓塔の一つひとつも、そうした法脈のどこかに連なる僧の墓であったと考えられる。
この師資相伝の継承を、最も具体的な像として伝えるのが⑦の真浄である。真浄は薬師堂の片隅で寺子屋を開き、近隣の子どもたちに読み書きを教えた。その墓塔には「筆子中」による建立をうかがわせる記録が残る4。筆子中とは、寺子屋で学んだ教え子たちの集まりを指す語で、恩師の墓を教え子たちが共同で建てる習わしは、江戸期の寺子屋文化にひろく見られたものである。国分寺の場合も、真浄に読み書きを教わった中泉の子どもたちが、成長ののちに師の墓を建てたと考えられる。師から弟子へと法が伝わる寺の内部の継承に対し、筆子中の建碑は、寺と地域の子どもたちとを結ぶ外向きの関係を石に刻んでいる。
寺子屋が薬師堂という場所で開かれていたことにも、注意を払っておきたい。薬師堂は、住民が薬師如来に日々手を合わせに来る信仰の場であり、そこに子どもたちの学びの場が重なっていた。信仰と教育が一つの堂宇のなかで営まれていたことは、近世の寺が地域社会のなかで果たした役割の広がりを示している。真浄という一人の住職の墓塔は、師資相伝という寺内部の継承と、寺子屋という地域への開かれとが交わる結節点として読むことができる。
6. 境内に交わる他者の墓 ── 回国行者と場の開放性
14基の墓塔群には、国分寺の住職ではない人物の墓も含まれている。その代表が、第3節で紀年のみ触れた⑭の花屋春法である。舟形の墓塔に1765年(明和2年)の年号とともにその名を刻むこの人物は、諸国の霊場を巡り歩く回国行者であったとみられる。行脚の途上でこの地に立ち寄り、国分寺で生涯を終えたか、あるいは寺と縁を結んで墓を建てられたものと考えられる。住職の系譜とは別に、こうした行者の墓が境内に加わっていることは、国分寺が地域の外からも人を迎え入れる場であったことを物語る。
回国行者の墓が境内にあるという事実は、近世の寺が担った機能の一面をよく示している。街道を行き交う巡礼や行者にとって、寺は宿を借り、時に終焉の地ともなる開かれた場であった。国分寺が東海道の宿場に近い中泉に位置していたことも、こうした来訪者を受け入れる背景をなしたと推される。住職たちの墓が寺の内部の継承を語るのに対し、花屋春法の墓は、寺が外に向かって開かれていたことを、一基の石として証している。墓塔群を住職史としてのみ読むと、この開放性は視野から漏れてしまう。
回国行者の墓が寺に営まれる背景には、近世に盛んであった巡礼と廻国の習俗がある。書写した経を全国の霊場に納めて歩く廻国の行者は各地に見られ、その途上で病を得て客死する者も少なくなかった。行き倒れた行者や旅の宗教者を、地縁のない寺が引き取って葬るという営みは、近世の寺院にひろく認められる。花屋春法の墓も、こうした宗教的な移動のありようを、中泉の一角に刻んだものとして読むことができる。住職の墓が寺の内部の継承を語るのに対し、この一基は、寺を通り過ぎていった人の移動を語っている。境内の墓塔群は、定住する住持と、通過する行者という、二つの異なる時間を同居させている。
寺のにぎわいを補う記録もある。天保13年(1842年)には薬師如来の開帳が行われた記録があり、この時期の国分寺が薬師堂を中心に一定の活気を保っていたことがうかがえる。開帳は、秘仏を一定期間公開して参詣を募る行事であり、近隣はもとより遠方からも人を集める機会であった。墓塔の並びだけを見れば、静かな住職の墓域という印象を受けるが、周辺の記録と重ね合わせると、参詣者や行者が行き交う開かれた寺の姿が立ち上がる。石造物史料は、こうした文献の記録と突き合わせて初めて、その背景を得る。
薬師堂を核とする国分寺には、住職や行者の墓のほかにも、庶民の信仰が寄せられてきた。薬師如来は病を癒す仏として篤く信仰され、開帳のたびに参詣の人を集めた。回国行者がこの地に足をとどめた背景にも、薬師霊場としての国分寺の性格があったと推される。墓塔群が語る住職の系譜は、こうした庶民信仰の厚みに支えられて初めて、代を重ねることができた。石に刻まれた住持の名の背後には、名を残さぬ多くの参詣者の存在がある。墓碑から寺史を読むという作業は、石が名を刻んだ者だけでなく、名を刻まなかった者の営みにも、想像を及ぼす手続きを含んでいる。
7. 規模と移転 ── 龍華院との対比が照らすもの
国分寺の墓塔群の性格を測るために、僧を送り出した側の寺と比べてみたい。師資相伝で僧を輩出した掛川の龍華院は、朱印高100石余を有する格式高い寺で、卵塔墓だけでも40体ほどが境内に残るという5。これに対して国分寺の墓塔は14基にとどまり、両者の規模の差は数の上でも明らかである。朱印地を多く抱える大寺院と、中泉の一角の小寺との落差が、墓塔の数にそのまま表れている。
ただし、基数の少なさをそのまま寺の格の低さと読むのは早計である。国分寺の墓塔群が語っているのは、江戸初期の憲能から明治初期の真浄まで、途切れることなくおよそ260年にわたって住持が置かれ続けたという事実である。朱印地を多く抱える大寺院ではなくとも、中泉の一角で薬師堂を守り、寺子屋を開き、行き交う行者を受け入れながら、小規模なりに寺として機能し続けた歴史が、14基という数のなかに凝縮されている。数の多寡は寺の格を測る一つの尺度ではあるが、継続の長さという別の尺度を併せ見なければ、墓塔群の意味を取り違える。
墓地の移転という事実は、国分寺の近世史が、堂宇の焼失と再建、そして立地の変化をくり返す非直線の歩みであったことを、あらためて浮かび上がらせる。薬師堂が再興・移転されるたびに、その西側にあった墓地もまた動いた。堂と墓とが一体で移されたという伝えは、住職たちの墓が、単独の記念物ではなく、薬師堂を核とする寺の空間の一部として扱われてきたことを示している。石塔を訪ねるだけでは見えないこの来歴は、現地で墓地の位置関係を確かめ、周辺の言い伝えと突き合わせて初めて像を結ぶ。
墓塔群を読むうえで、もう一つ加えておくべき事実がある。それは、墓地の場所そのものが移り変わってきたという点である。現在、国分寺の墓地は新薬師堂の西側に位置しているが、これは当初からの場所ではない。もともとの墓地は旧薬師堂の西側にあり、薬師堂が再興・移転される過程で、墓地もあわせて現在地へ移されたと伝えられている。堂宇だけでなく、住職たちの眠る場所そのものが動いてきたという事実は、国分寺の歩みが一直線ではなかったことを物語る。
墓地の移転は、石造物史料の解釈にも影響を及ぼす。墓塔がいま立っている位置は、必ずしも造立当初の位置ではない。移設の過程で墓塔の配列が変わり、あるいは失われた墓塔があった可能性も否定できない。したがって、現在の墓塔の並びや基数を、そのまま近世の墓域の姿と見なすことはできない。14基という数字も、移転を経て現存する数であって、造立された墓塔の総数を示すとは限らない。この点は、判読できない墓塔を「不詳」として扱うのと同じく、石が置かれた文脈の変化に対する慎重さを要求する。
8. 結論 ── 石が語りうる寺史とその限界
本稿は、遠江国分寺の墓地に残る14基の墓塔を史料として、墓碑銘から近世の住職史をどこまで復元できるかを検討した。得られた輪郭は次のとおりである。判読しうる紀年は、1682年(天和2年)の憲能から1872年(明治5年)の真浄までを画し、この二基を両端として、近世を通じておよそ260年にわたり住持の墓が造立され続けたことが読み取れる。憲能は薬師堂再興の担い手として、真浄は寺子屋を開いた住職として、それぞれ墓碑銘と周辺の記録を通じて像を結ぶ。しかし、この二基と回国行者・花屋春法の墓を除けば、大半の墓塔は風化と火災により法名も年代も特定できず、「不詳」のまま残る。
したがって本稿の立場は明確である。石造物は、文字史料の乏しい寺の歴史に近づくための貴重な手がかりであるが、その復元力は判読しうる墓碑の数と保存状態によって厳しく限界づけられており、判読できない部分を推測で補ってはならない。読める紀年は史実として、伝わる事績は伝承として、読めない銘文は「不詳」として、それぞれの確度の層を保ったまま書き留めること──この禁欲的な手続きこそが、石を後世の調べものに耐える史料として残す方途である。「未確認」と「記載なし」を区別し、移転という墓域の来歴に留意することも、その手続きの一部をなす。
本稿の作業がもつ一般的な含意にも触れておきたい。文書史料の乏しい寺や村の歴史を書くとき、石造物は、しばしば唯一の同時代史料となる。だが石は、読めるものだけを読み、読めないものを推測で補わないという禁欲を守って初めて、信頼に足る史料となる。判読の限界を限界として明示し、確度の層を保つこと──国分寺の墓塔群に対して本稿が試みたこの手続きは、磐田の他の寺社や墓域の石造物を読むときにも、そのまま用いることのできる作法であると考える。石は雄弁ではないが、読み手が沈黙を沈黙として尊ぶかぎり、確かなことを確かに伝える。
最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、判読できない墓塔については、拓本の採取や銘文の再調査によって、「不詳」の一部を「未確認」から「判読可」へ押し上げられる余地がある。第二に、龍華院や延暦寺で修行した住持の法脈をたどることで、外部の寺院文書から国分寺の歴代住職の一部を補える可能性がある。第三に、墓地移転の経緯と時期を、薬師堂再興の記録と突き合わせて確定することは、墓塔の配列と基数を正しく解釈するための前提となる。これらはいずれも、石が沈黙する部分に、別の史料の光を当てていく作業に属する。石が語りうることの限界を見定めたうえで、なお石に問い続けること──その地道な往復のなかにこそ、文字を欠く寺の歴史が、少しずつ像を結んでいくはずである。
注
- 墓塔14基の形式・年代・法名の記述、および「不詳」として推測を交えない方針は、素材とした現地確認記録と、小杉達『国分寺ものがたり』(国分寺奉賛会、令和4年発行)pp.29-32に依拠する。↩
- 卵塔は、塔身を継ぎ目のない卵形にかたどった僧侶の墓塔で、正しくは無縫塔という。継ぎ目のない一石であることが、迷いを離れた僧の境地を象徴するとされる。歴代住職の墓域全体を「卵塔」「卵塔場」と総称する慣用はこの形式の代表性に由来し、墓域内の個々の墓塔がすべて無縫塔であることを意味しない。↩
- 墓塔①は五輪塔で、法名と没年月日が判読でき、1682年(天和2年)に没した憲能の墓と読める。憲能は江戸初期の薬師堂再興に関わった住職で、その事績は本論考シリーズ第132号で検討した。↩
- 墓塔⑦には「筆子中」による建立をうかがわせる記録が残る。筆子中とは寺子屋の教え子たちの集まりを指し、恩師の墓を教え子が共同で建てる習わしは江戸期の寺子屋文化にひろく見られた。↩
- 掛川・龍華院の朱印高100石余、および卵塔墓約40体という規模は、前掲『国分寺ものがたり』の記述による。国分寺14基との対比は、規模の差を示すと同時に、基数と寺の格を短絡させないための留意点でもある。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 n040 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・伝承・推定)を語の水準で区別し、1682年・1765年・1872年の紀年銘を史実、寺子屋・筆子中の伝えを伝承として扱い、判読できない墓塔は推測で補わず「不詳」として保持した。
参考文献・参考資料
- 小杉達『国分寺ものがたり』国分寺奉賛会、令和4年(2022年)、pp.29-32。
- 国分寺境内の墓塔・石造物、現地確認記録。
- 磐田市史編さん委員会編『磐田市史』通史編、磐田市(近世の寺社に関する章)。
- 磐田市教育委員会編『磐田市の文化財』該当項。
- 静岡県編『静岡県史』通史編・近世(寺院と檀家に関する章)。
- 大久保道舟ほか『日本仏教史』近世篇(寺院制度・師資相伝に関する章)。
- 大石一久ほか『石造物の見方・調べ方』(墓塔形式・無縫塔・紀年銘の判読に関する概説)。
- 石川松太郎『藩校と寺子屋』教育社歴史新書(寺子屋・筆子中に関する章)。
- 掛川・龍華院関係資料(朱印高・卵塔墓に関する記述)。
- 中泉代官所関係史料(薬師堂再興・寺社支配に関する記録)。
- 佐口行正氏所蔵史料(中泉・国分寺関係)。
- 文化庁「国指定文化財等データベース」 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 n040「卵塔墓が語る260年 ── 国分寺住職たちの墓碑を読む」 https://iwata-monogatari.net/n040 (最終閲覧:2026年7月25日)。