失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 天竜地区の成り立ち

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第133号(南部低地形成史 四)

天竜地区の成り立ち ── 川と低地がつくった暮らしの記憶

天竜川左岸の低地に開けた集落群

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市南部・天竜地区

要旨

磐田市南部の天竜地区は、天竜川左岸の低地に開けた集落群である。本稿は、この地域を固有名詞の集積としてではなく、天竜川がくり返し運んだ砂と泥がつくった土地のかたち──自然堤防の微高地、後背湿地の低み、旧河道のくぼみ──から読み直す。人々は少しでも高い自然堤防に家を寄せ、低い後背湿地を水田に充て、旧河道の弱い土地を避けて暮らしを設計してきたと考えられる。恵みとリスクがいずれも同じ川に由来するという条件のもとで、集落・水利・信仰・交通がどのように配置されたのかを、地形学・歴史地理学の一般的枠組みに照らして腑分けする。個々の集落名・寺社の由緒・水害の年次については、確度の層を明示し、断定を避けて現地確認・公的資料による裏づけを要する事項として区別した。あわせて、低地に生きてきた地域の記憶を、地名・水利・旧道の履歴とともにどう次代へ継ぐかという課題を、地形の土台から位置づける。

キーワード:天竜地区/天竜川左岸/自然堤防/後背湿地/旧河道/集落形成/地域記憶

1. 問題設定 ── 天竜地区を「川沿い」で終わらせない

天竜地区は、磐田市の南部、天竜川の左岸に広がる低地の一帯である。地図の上では「川のそば」と一言で片づけられがちなこの地域を、本稿はその一言では終わらせずに読み直すことを課題とする。川に近いから単純に水浸しの土地なのではなく、また川から離れているから安全なのでもない。土地のかたちを丁寧に読むと、そこには人々が長い時間をかけて見いだしてきた「住む場所」と「田にする場所」の使い分けが浮かび上がってくる。この使い分けこそが、天竜地区という集落群の骨格を成している。

本稿の出発点は、地域を理解する鍵を固有名詞の数に求めない点にある。どの集落がいつ成立し、どの寺社がどの神を祀るかを一つひとつ確定していくことも郷土史の大切な仕事ではあるが、それらの個別事項は、しばしば一次史料の裏づけを欠いたまま伝えられている。確度の低い年紀や由緒を史実のように連ねれば、記述はかえって信頼を失う。そこで本稿は、まず足もとの土地条件という、地形学・歴史地理学の枠組みで確実に押さえられる土台から論を起こし、その上に集落・水利・信仰・交通を重ねていく順序をとる。土地のかたちは、個々の伝承よりもはるかに動かしがたい根拠だからである1

磐田市域の南部は、東に天竜川、内陸側に磐田原台地、南に遠州灘という大きな枠組みのなかにある。天竜地区はそのうち、川と低地が暮らしの条件を強く決めてきた一帯にあたる。なぜ人がここに住み続けてきたのかを考えるには、川の恵みとリスクをともに見なければならない。増水や湛水という条件を抱えながら、それでも人々がこの低地を離れなかったのは、川がもたらす水と肥沃な土という恵みが、それだけの魅力をもっていたからにほかならない。本稿は、この恵みとリスクの緊張関係のなかで続いてきた地域として天竜地区を描く。

あらかじめ、本稿が用いる記述の作法を明示しておきたい。確実に確認できる土地条件と、現地確認や文化財資料による裏づけを要する個別事項とを、同じ平面で混同しない。地形学の一般的枠組みで説明できることは確実な土台として述べ、個々の集落の正確な位置、寺社の祭神・由緒・創建年代、具体的な水害の年次などについては、断定を避け、確認を要する事項として区別する。「土地のかたちから確実にいえること」と「現地で裏づけるべきこと」を腑分けするこの手続きは、地域史を後世の調べものに耐える形で残すための、最低限の禁欲である。

この作法は、天竜地区に限らず、川と低地に開けた地域を記述するときに一般に有効である。低地の地域史は、しばしば決定的な文書を欠く。荘園の証文や検地帳のような史料が豊かに残る地域は幸運であって、多くの集落は、誰がいつ開いたかを直接語る記録をもたないまま現在に至っている。そうした地域について、確実な土台を欠いたまま年代や由緒を連ねれば、記述は砂上の楼閣となりかねない。土地のかたちという動かしがたい根拠から出発する本稿の順序は、史料の乏しさを逆手にとり、確実にいえることを起点に据えるための方法的な選択でもある。

2. 土地のかたち ── 自然堤防・後背湿地・旧河道

天竜川のような大きな川の沿岸では、土地はおおむね三つの単位に分けて理解できる。川が増水のたびに運んだ砂が流路の両側に積もってできた、まわりよりわずかに高い自然堤防。その背後に細かい泥がたまり、水の抜けにくい低く湿った後背湿地。そしてかつて川が流れていた跡が、帯状のくぼ地や周囲より低い土地として残る旧河道である。これらはいずれも派手な地形ではない。数メートル、ときに数十センチという微妙な高低差にすぎない。しかし、その微妙な差こそが、低地に生きる人々の暮らしの土台を静かに決めてきた2

自然堤防は、水はけがよく、洪水のときにも比較的浸かりにくい。それゆえ古くから家屋や道、畑が置かれやすい土地である。天竜地区でも、集落や旧道がこうした微高地に沿って続く傾向があると考えられる。これに対して後背湿地は、水が抜けにくく湿りやすいため、宅地よりも水田に向く。低地の集落で「家は高みに、田は低みに」という配置が生まれやすいのは、この土地条件が背景にある。そして旧河道は、雨水がたまりやすく、周囲より一段弱い土地として、地名や田の区画、道のわずかな曲がりに痕跡をとどめることがある。

ここで一つ、方法上の区別を明示しておきたい。本稿が示す自然堤防・後背湿地・旧河道の対応関係は、地形学で広く認められた一般的な枠組みに基づくものである。すなわち「大河川の低地には概してこうした単位が分布する」という水準では確実にいえる。しかし、天竜地区内のどの区画がどの単位にあたるかという具体的な分布については、これを本稿だけで断定することはしない。区画ごとの正確な分布は、国土地理院の地形分類図や治水地形分類図、そして現地での確認を前提とすべき事項である。ここで述べるのは、断定ではなく、土地のかたちを読むための見取り図である。

この見取り図が有効なのは、それが個々の伝承よりも動かしがたい根拠に立つからである。集落の由緒や地名の起こりは、しばしば後世の付会や記憶の変形を含む。これに対して、土地の高低は容易には変わらない。近代の治水と土地改良が地形を相当に均したとはいえ、旧版地形図や治水地形分類図をたどれば、かつての自然堤防と後背湿地の骨格はなお読み取れる。天竜地区の成り立ちを問うとき、まずこの動かしがたい土台に立ち返ることが、確実な議論の起点となる。

もう一点、土地の単位を読むうえで補っておきたいのは、これらが截然と分かれた区画ではなく、緩やかに移り変わる帯として存在することである。自然堤防から後背湿地への傾斜はしばしば連続的で、どこからが微高地でどこからが湿地かを一線で引けるわけではない。人々はこの連続する高低のなかで、少しでも条件のよい場所を選び、家を建て、田を開いてきた。土地の単位を三つに分けて論じるのは理解のための便宜であって、実際の暮らしは、その境目の曖昧な帯のうえで営まれてきたことを忘れてはならない。土地条件を型として述べる本稿も、この連続性を捨象した見取り図にすぎないことを、あらかじめ断っておく。

天竜川左岸の地形と集落の位置(模式断面) 天竜川 堤防 集落(自然堤防の微高地) 水田(後背湿地) 旧河道の名残 旧道(微高地づたい)
図1 天竜川左岸の地形と集落の位置(模式断面・独自作成)。川に近い高まりに家、低い湿地に田、くぼみに旧河道の記憶が残る。土地条件の一般的な対応関係を概念的に示したもので、特定地点の縮尺・位置を表すものではない。
川沿いの土地は、三つに分けて読める 自然堤防(微高地) 水はけがよい・家や道 自然堤防 旧河道(かつての流路の跡) 後背湿地 水が抜けにくく湿りやすい・水田 派手な地形ではないが、暮らしの土台を静かに決めてきた
図2 川沿いの土地の三つの単位(模式図・独自作成)。自然堤防・後背湿地・旧河道の対応関係を概念的に示したもので、区画ごとの分布は地理院の地形分類図・治水地形分類図と現地での確認を要する。

3. 集落はどこに置かれたか ── 水との距離の取り方

低地に暮らすうえで人々が向き合ったのは、「水にどれだけ近づき、どれだけ離れるか」という一つの問いであった。水が得られなければ田はつくれず、生活も立ちゆかない。一方で、水に近づきすぎれば増水や湛水の影響を受けやすい。この相反する二つの要請に対する現実的な答えが、自然堤防の微高地に家を寄せ、後背湿地を田に充てるという土地利用だったと考えられる。天竜地区の集落は、こうして「水から近すぎず遠すぎない」位置に置かれてきた可能性が高い3

この「家は高みに、田は低みに」という配置は、天竜地区に固有のものではない。大きな川の低地に共通して見られる集落形成の型であり、歴史地理学ではよく知られた対応関係である。だからこそ、個々の集落名の由来を一つひとつ詮索するよりも、こうした土地条件から「なぜここに住んだのか」を説明するほうが、はるかに確実な議論となる。ある家が微高地に建ち、その背後の低みに田が開けているという配置それ自体が、名を残さなかった無数の人々の土地への判断を、いまも語り続けている。

この点をめぐっては、集落の立地を土地条件から説明する立場と、開発の主体や年代といった歴史的事情から説明する立場とがありうる。前者は地形という動かしがたい根拠に立つ強みをもつが、いつ誰がその集落を開いたかという歴史の具体を語れない。後者は歴史の具体に迫りうるが、天竜地区の場合、開発の主体や年代を直接示す一次史料は、本稿の調査範囲では確認できていない。両者は排他的ではなく、確実な土台としての土地条件の上に、確認しうる限りの歴史的事情を重ねるのが穏当である。

ここで注意しておきたいのは、この「確認できていない」という状態を、「そのような史料が存在しないと断定できる」ことと取り違えてはならない点である。前者は、管見の限り開発年代を裏づける一次史料に突き当たっていないという未確認の状態にすぎない。史料が現に伝わらないのか、伝わっているが筆者が把握していないのか、あるいは元来そうした記録が作られなかったのかは、それ自体が別に検証を要する問いである。本稿は、この未確認と記載なしの区別を保ちながら、土地条件から確実にいえる範囲を丁寧に述べるにとどめる。

この土地条件からの説明には、もう一つの利点がある。名を残した有力者だけでなく、記録に名をとどめなかった多くの人々の営みを、等しく視野に収められる点である。集落を開いた主体を歴史の具体として語ろうとすると、記述はどうしても文書に名の残る人物へ傾く。しかし、微高地に家を寄せ、低みに田を開くという判断は、名の残らない無数の人々がそれぞれの世代でくり返してきたものである。土地のかたちを読むという方法は、こうした匿名の集積としての集落形成を、正面から扱うことを可能にする。誰が開いたかを問えないかわりに、なぜここに住みえたかを、土地の側から確実に答えることができる。

本稿の立場:天竜地区の集落立地は、開発年代や主体を断定する材料を欠く現状では、まず「水から近すぎず遠すぎない微高地への集住」という土地条件から説明するのが最も確実であり、歴史的事情はその土台の上に、確認しうる限りで重ねるべきである。
水との距離の取り方 水は必要 得られなければ 田はつくれない 水は脅威 近づきすぎれば 増水・湛水の影響 答え ── 近すぎず、遠すぎず 家は自然堤防の微高地へ、田は後背湿地へ 相反する二つの要請
図3 水との距離の取り方(模式図・独自作成)。低地で暮らすうえでの相反する二つの要請と、それに対する土地利用上の答えを概念的に示したもの。大河川の低地に共通して見られる型であり、特定地点を表すものではない。

4. 地名と旧河道 ── 土地の履歴を読む手がかり

土地のかたちは、地図の等高線だけでなく、地名や田の区画、道のわずかな曲がりにも痕跡をとどめる。とりわけ旧河道は、かつて川が流れていた跡が帯状の低地として残るため、雨水がたまりやすく、田の一枚だけ水はけの悪い区画や、集落を避けるように曲がる旧道として、いまも土地の起伏に読み取れることがある。こうした痕跡は、土地の古い記憶を読むための、控えめだが確かな手がかりとなる。

地名についても同様のことがいえる。低湿地や水辺、川の跡を思わせる文字を含む小字が、かつての土地条件を伝えている場合がある。ただし、地名から土地の履歴を読む作業には慎重さが要る。地名の由来は、同じ音や字でも複数の解釈が成り立ち、後世の当て字や改称によって元の意味が見えにくくなっていることも多い。特定の小字を根拠に「ここはかつて川であった」と断定するのは、地名研究の方法として危うい。地名は、地形分類図や旧版地形図といった別の資料と照らし合わせて、はじめて土地の履歴を語る証言となる。

この点で、天竜地区の地名を扱う際には、二つの立場を区別しておく必要がある。一方に、地名を土地条件の直接の証拠とみなす立場があり、他方に、地名はあくまで補助的な手がかりであって、地形資料による裏づけを経てはじめて意味をもつとみる立場がある。本稿は後者をとる。地名は魅力的だが、それ単独では確度が低く、地形という動かしがたい根拠と結び合わせてこそ、土地の記憶を語る資料となる。個々の小字の由来を本稿で断定しないのは、この方法上の禁欲による。

地名を慎重に扱うべき理由は、天竜川の流路が歴史的に大きく動いてきたことにも関わる。かつて川であった場所がのちに田や宅地となり、逆に集落であった場所が流されて川筋になることもあった。土地の性格が時代とともに移り変わる地域では、現在の地名が過去のどの段階の土地条件を写しているのかを見極めなければならない。ある小字が水辺を思わせるとしても、それが川の跡なのか、用水路の跡なのか、あるいはまったく別の由来なのかは、地形資料と旧版地形図を重ねて、はじめて判断の緒につく。地名は土地の記憶の断片ではあるが、その断片がいつの記憶であるかまでは、地名だけからは決まらない。

天竜川そのものが流路を大きく変えてきた川であることも、この地域の地名と土地を読むうえで欠かせない前提である。川がつくった村もあれば、川に流された村もあった。旧河道の記憶は、こうした河道変遷の歴史と分かちがたく結びついている。天竜川左岸のより下流側、池田や掛塚をめぐる河道変遷と渡しの記憶については、天竜川がつくった村、流した村 ── 池田・掛塚と渡しの記憶で論じた。天竜地区の旧河道もまた、この大きな河道変遷史の一齣として位置づけられる。

旧河道は土地の履歴に痕跡を残す 旧河道(かつての流路の帯) 湿った田 曲がる旧道 低湿を示す小字
図4 旧河道と土地の履歴(模式図・独自作成)。旧河道は湿った田・曲がる旧道・低湿を示す小字などに痕跡をとどめうる。ただし個々の地名の由来は本稿では断定せず、地形分類図・旧版地形図との照合を前提とする。

5. 寺社と信仰 ── 微高地に置かれた安全装置

川の近くに生きる地域では、寺社や地蔵、水神といった信仰の場が、単なる宗教施設にとどまらない役割を果たしてきたと考えられる。それらはしばしば微高地など水に浸かりにくい場所に置かれ、人々が集まる目印となり、災いを鎮め豊作を願う祈りの中心となった。水とともに生きる暮らしにおいて、信仰の場は心理的にも社会的にも一種の安全装置として機能してきたといえる。位置そのものが、地域の人々の土地への知恵を語っているのである4

天竜地区にも、こうした寺社・堂宇・地蔵が地域のまとまりの核として存在してきたと推測される。ただし、個々の祭神・由緒・祭礼の名称や創建年代を本稿で具体的に断定することはしない。これらは現地の確認や磐田市の文化財関連資料に当たって裏づけるべき事項である。ここで強調したいのは、信仰の場が何を祀るかという内容の水準ではなく、それがどこに置かれたかという位置の水準である。信仰の場の位置が、しばしば土地の安全な高まりと結びついていたという関係こそ、土地条件から確実に述べうる事柄である。

この位置の論理は、集落の立地と同じ土地条件から導かれる。家が微高地に寄り、田が低みに開かれたのと同様に、共同体の祈りの場もまた、水に浸かりにくい高まりに据えられた。洪水のたびに流されるようでは、集落の記憶の拠りどころとして機能しえないからである。寺社の位置は、こうして集落全体の高低の秩序のなかに組み込まれ、微高地の集落・低地の水田・高まりの信仰の場という、一つのまとまった土地利用の体系をかたちづくった。信仰の場を土地から切り離して由緒だけで語るのではなく、集落の高低の秩序のなかに置き直して読むことに、本稿の視点の要がある。

もっとも、信仰の場の位置と土地条件との結びつきを、あまりに機械的に読むことにも慎みが要る。すべての寺社が防災上の合理だけで立地を選んだわけではなく、勧請の由緒、開発の経緯、あるいは景観上の理由など、さまざまな事情が重なって現在の位置に落ち着いたはずである。したがって本稿は、「信仰の場は必ず微高地にある」と断ずるのではなく、「土地の安全な高まりと信仰の場の位置が結びつく傾向がしばしば見られる」という、確度を抑えた言い方にとどめる。個別の検証は、現地と文化財資料に委ねられる。

信仰の場をめぐっては、水神や川に関わる祈りが、低地の暮らしに特有の位置を占めてきたことも見落とせない。増水と渇水のあいだで田を守る営みは、人の力だけでは制御しきれない自然への畏れと祈りを伴った。水をめぐる祈りの場は、恵みへの感謝と災いへの畏れという、川の二つの顔に対応する心のかたちでもあったといえる。ここでも本稿は、個々の水神の祭神や由緒を断定しないが、水と信仰が低地の共同体において分かちがたく結びついていたという関係そのものは、土地条件の側から確度をもって述べうる。信仰は、低地に生きる人々が水と取り結んだ関係の、目に見えるかたちであった。

信仰の場の「位置」が語るもの 水に浸かりやすい低地 微高地 寺社・堂宇・地蔵・水神 水に浸かりにくい場所が選ばれた 人が集まる目印 災いを鎮め豊作を願う 共同体の安全装置
図5 信仰の場の位置(模式図・独自作成)。信仰の場がしばしば土地の安全な高まりに置かれた関係を概念的に示したもの。個々の寺社の祭神・由緒・創建年代は本稿では断定せず、現地確認や市の文化財関連資料による裏づけを要する。

6. 交通と生活圏 ── 中泉・見付方面とのつながり

低地の集落は、内部で完結していたわけではない。物資のやり取り、寄り合い、商いや祭りを通じて、周辺の地域と結びついていた。天竜地区は、内陸側の中泉や見付の方面、また周辺の農村と、道を介してつながってきたと考えられる。微高地づたいに延びる旧道は、浸水を避けながら人と物を運ぶ生活の動脈であった。集落を結ぶ道が自然堤防の高まりをたどっていたとすれば、それは土地のかたちが交通の経路まで決めていたことを意味する。

この生活圏は、天竜地区を孤立した一帯としてではなく、南部低地の集落群の連なりのなかに置いて考えるべきものである。天竜川左岸の低地には、天竜地区のほかにも、水と農地の関係から集落形成を読める地域が隣り合っている。大池と低地が支えた南の集落については於保と大池 ── 南部低地の水と村で、水田の広がりのなかに点在する旧集落については長野地区の成り立ち ── 水田の広がりと旧集落の輪郭で、それぞれ論じた。天竜地区は、これらの低地の地域と道と水路で結ばれ、南部という一つの生活圏を構成してきた。

近代以降は、橋や道路、鉄道といった新しい交通の整備が、この生活圏のかたちを大きく変えていった。徒歩や舟が中心だった時代には、川や水路が暮らしの境界であると同時に通路でもあった。ところが自動車の時代になると、道路と橋がどこを通るかが地域の重心を左右するようになる。生活の便利さが増す一方で、かつての旧道や水辺の通路が果たしてきた意味は、次第に見えにくくなっていった。微高地づたいの旧道が新しい直線道路に置き換わるとき、土地の高低に刻まれた暮らしの論理も、地表から読み取りにくくなる。

交通の変化を「発展」と一言でくくることには、慎重でありたい。橋や道路の整備が生活を便利にしたのは確かであるが、それは同時に、土地のかたちと交通の経路との対応を切り離す過程でもあった。かつては、道がどこを通るかを土地の高低が決めていた。いまは、道がどこを通るかを技術と計画が決め、土地の高低はその下に隠れる。天竜地区の交通史を読むということは、この対応の切り離しがいつ、どのように進んだのかを、旧版地形図と今昔マップの重ね合わせのなかにたどることでもある。

生活圏を考えるうえで、市域の内陸側にあたる中泉・見付方面との関係は、とりわけ大きな軸である。中泉は近世に代官所が置かれた行政の拠点であり、見付は東海道の宿場として栄えた交通の要であった。天竜地区のような低地の農村は、こうした行政と交通の拠点と道で結ばれることで、米や産物を送り出し、必要な物資を受け取る回路を確保していた。低地の集落は、それ自体で自足していたのではなく、内陸の拠点との交換のなかで暮らしを成り立たせていた。天竜地区を読むとは、この交換の回路のなかに低地の集落群を位置づけ、川がつくった土地と人がつくった道との重なりを見ることでもある。

7. 恵みと条件 ── 同じ川の二つの顔と近代の変化

ここまで見てきた集落・地名・信仰・交通は、いずれも天竜川という一つの存在に由来する条件のうえに成り立っている。そしてその川は、恵みとリスクという二つの顔をもつ。肥沃な土と豊かな水という恵みと、増水・湛水という条件は、別々のものではなく、同じ天竜川がもたらす二つの側面である。田を潤す水は、あふれれば低地を浸す水でもある。微高地をつくった砂泥の堆積は、同時に水のたまりやすい旧河道をも残した。恵みと条件は、切り離すことができない。

だからこそ、川を一方的に「怖いもの」として煽るのでも、「豊かさの源」として美化するのでもなく、土地条件として冷静に受けとめる姿勢が、この地域を理解するうえで欠かせない。次の比較表は、天竜地区を読むための観点を整理し、それぞれについて土地・暮らしから確実にいえることと、現地確認や公的資料による裏づけを要することとを、対等の粒度で並べたものである。確実な土台と要確認の事項を同じ表のなかで区別することで、読者が自ら確度を判断できる状態をつくることを心がけた。

表1 天竜地区を読むための観点 ── 確実にいえること/要確認・確認方法の腑分け
観点地形・暮らしから確実にいえること要確認・確認方法(断定を避ける事項)
地形天竜川左岸の低地で、自然堤防・後背湿地・旧河道の組み合わせから成る。区画ごとの分布は地理院の地形分類図・治水地形分類図で確認する。
集落の位置水から近すぎず遠すぎない微高地に家が寄る傾向があると考えられる。集落の正確な位置は今昔マップで明治期と現在を重ねて検証する。
地名低湿・水辺・旧河道を思わせる小字が土地条件を伝える場合がある。個々の由来は断定せず、地形資料・旧版地形図との照合を要する。
水利・農地低い後背湿地が水田に充てられ、水を引く・逃がす仕組みが発達した。用水・排水路の系統は現地と公的資料で確認する。
寺社・信仰寺社・地蔵・水神が共同体の核となり、安全な高みに置かれやすい。祭神・由緒・祭礼名・創建年は文化財資料で裏づける(本稿では断定しない)。
交通中泉・見付方面や周辺農村と道でつながり、近代に橋・道路で再編。旧道の経路は今昔マップと旧版地形図で確認する。
災害低地ゆえに洪水・浸水の条件を歴史的に抱えてきた。具体の浸水想定・水害年次は磐田市ハザードマップ・公的記録で確認する。

近代以降、天竜川の治水は段階的に進められ、堤防や排水の整備によって、かつてより安定した土地利用が可能になっていったと考えられる。これは低地での農業や居住の条件を改善した大きな変化であった。同時に、道路網の発達や自動車社会化は、人々の移動と生活圏を再編し、農地の一部が宅地や他用途へ転換する動きも生んだ。ただし、治水の具体的な年次や水害の履歴を本稿で年表として確定することはしない。これらは磐田市の公的記録やハザードマップに当たって裏づけるべき事項であり、確度の層を保って扱う5

こうした近代以降の変化は、一様に「発展」とも「衰退」とも言いきれない。便利さが増す一方で、低地であるという土地の素性が消えるわけではなく、旧道・水路・小字といった土地の履歴を語る手がかりが、整備や開発のなかで見えにくくなっていく面もある。発展の要因である道・橋・農地改良・住宅地化と、弱さの要因である低地のリスク・農地管理の負担とを、同じ地域のなかで同時に見ておく必要がある。天竜川左岸の低地に生きる暮らしの厚みと川との緊張関係については、川の恵みと怖さ ── 天竜地区の水辺の生活史でより具体的に扱った。本稿はその生活史を、地形の土台の側から支える総論として位置づけられる。

恵みと条件を一体として受けとめるこの見方は、防災の考え方にも通じる。低地であることを危険としてのみ語れば、住むこと自体が否定されかねない。逆に、恵みだけを語れば、備えの必要が見えなくなる。土地のかたちを知り、どこが高くどこが低いか、どこに旧河道の弱さが残るかを踏まえたうえで、住まい方と避難のかたちを選ぶ──これは恐れをあおる話ではなく、土地を知る者の前向きな知恵である。天竜地区に生きるとは、川の二つの顔をともに引き受け、その上で暮らしを設計し続けることであった。近代の治水はこの引き受けの条件を変えたが、低地であるという土地の素性そのものを消したわけではない。

同じ川の二つの顔 ── 恵みと条件 天竜川 砂・泥・水 恵み 肥沃な土・水・微高地 条件(リスク) 増水・湛水・旧河道 恵みとリスクは切り離せない。土地条件として冷静に受けとめる。
図6 同じ川の二つの顔(模式図・独自作成)。肥沃な土と水という恵みと、増水・湛水・旧河道という条件は、いずれも同じ天竜川に由来する。両者は分かちがたい。

8. 結論 ── 川と低地がつくった記憶の継承へ

本稿は、磐田市南部の天竜地区を、固有名詞の集積としてではなく、天竜川左岸の低地という土地のかたちから読み直してきた。得られた見取り図は次のとおりである。自然堤防の微高地に家が寄り、後背湿地の低みに水田が開かれ、旧河道のくぼみが土地の弱さと履歴を残す。信仰の場は水に浸かりにくい高まりに据えられ、旧道は微高地をたどって周辺と結んだ。これらはいずれも、恵みとリスクを同じくする天竜川という一つの存在への、人々の長い応答の跡である。天竜地区の成り立ちは、この土地条件への応答の積み重ねとして、確実に描くことができる。

この読み直しが依拠したのは、個々の伝承ではなく、土地の高低という動かしがたい根拠であった。集落名の由来も、寺社の創建年代も、水害の年次も、本稿はあえて断定しなかった。それらは現地確認や公的資料による裏づけを要する事項として、確度の層を区別したまま留保した。確実にいえることと要確認のこととを腑分けするこの手続きは、確度の低い情報を史実のように連ねる誘惑を退け、地域史を後世の調べものに耐える形で残すための禁欲である。土地のかたちという確かな土台の上に、確認しうる限りの歴史を少しずつ重ねていくこと──それが本稿のとった方途である。

この方途は、地域に対して過度に悲観的でも楽観的でもない立場を可能にする。低地であることは、たしかに水害という条件を課す。しかし同じ土地条件が、肥沃な農地と、川とともに培われた暮らしの知恵をも育ててきた。天竜地区を「弱い土地」と決めつけるのでも、「豊かな土地」と美化するのでもなく、恵みと条件をともに引き受けてきた地域として、その履歴を正確に書き留めること。それが、次の世代がこの土地とどう向き合うかを自分で判断するための、確かな材料になる。

したがって、これからの天竜地区を考えるときも、本稿は「衰退する」と決めつけることはしない。むしろ、いくつかの条件がどう動くかによって、地域の姿は大きく変わりうる。鍵となるのは、低地という土地条件が続く以上つねに要となる水害への備え、担い手が減るなかでの農地の維持、相続が整理されないまま放置される土地や空き家への対応、そして自然堤防・旧河道・旧道・小字といった土地の記憶の継承である。これらは「このまま記録されなければ」「この条件が続くなら」という条件つきの課題であって、あらかじめ定まった運命ではない。

最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、天竜地区内の自然堤防・旧河道の区画ごとの分布と、各集落の正確な位置・旧村や大字小字との対応は、地理院地図・今昔マップ・現地での確認によって、未確認の状態を一歩前進させられる。第二に、個々の寺社・地蔵・水神の祭神・由緒・創建年代は、文化財資料と現地調査によって裏づけられるべき主題である。第三に、天竜川の河道変遷と天竜地区の旧河道との対応は、より下流側の池田・掛塚をめぐる河道史と併せて検討されるべきである。いずれも、本稿が設定した「確実な土地条件の上に、確認しうる歴史を重ねる」という枠組みのなかで、未確認を確認へと押し上げていく作業に属する。川の近くに生きるという条件は、この地域の弱さであると同時に、川と低地がつくった記憶の豊かさでもある。その記憶を土地のかたちとともに書き留めておくことが、次の世代へ手渡すための確かな一歩になると考えている。

本稿の主題である天竜地区をはじめ、天竜川左岸の低地には、川とともに受け継がれてきた古い家や田、そして相続の整理が進まないままの土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした低地の土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。土地のかたちと暮らしの履歴を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 本稿は天竜地区を磐田物語の「南部」分類として扱う。天竜地区の親ポータルは南部地区ページ(/01005-nanbu.html)であり、於保・長野など天竜川左岸の低地の諸地域と一つの生活圏を構成する。
  2. 自然堤防・後背湿地・旧河道という大河川低地の土地単位とその対応関係は、地形学で広く認められた一般的枠組みである。区画ごとの具体的分布は国土地理院の地形分類図・治水地形分類図によって確認すべき事項であり、本稿では断定しない。
  3. 「家は高み、田は低み」という集落形成の傾向は、歴史地理学において大河川低地に共通して認められる型として知られる。天竜地区内の各集落の成立年代・開発主体を直接記す一次史料は、本稿の調査範囲では確認できていない(未確認)。
  4. 信仰の場の位置が土地の安全な高まりと結びつく傾向は、低地の集落にしばしば見られるが、個々の寺社の立地要因は勧請の由緒・開発経緯など多様でありうる。本稿は傾向の指摘にとどめ、個別の祭神・由緒・創建年代は文化財資料・現地確認による裏づけを要する事項として断定しない。
  5. 近代の治水年次・水害履歴の具体は、磐田市ハザードマップおよび公的記録によって確認すべき事項である。本稿では年表としての確定を避け、確度の層を保って扱った。

付記:本稿は一般読者向け記事「天竜地区総論 ── 川と低地がつくった暮らしの記憶」(s013)の内容を、郷土史研究者向けに、確実な土地条件と要確認の個別事項とを腑分けする観点から再構成した論考版である。自然堤防・後背湿地・旧河道の対応関係と「家は高み・田は低み」の集落形成を確実な土台として扱い、集落名・寺社の由緒・水害の年次は断定を避けて確認を要する事項とした。

参考文献・参考資料

  • 国土地理院「地理院地図」および地形分類図・治水地形分類図(自然堤防・後背湿地・旧河道など土地条件の確認) https://maps.gsi.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 「今昔マップ on the web」(明治期以降の旧版地形図と現在の比較、旧道・集落・水田・水路の変化) https://ktgis.net/kjmapw/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田市「わがまちハザードマップ」(洪水・浸水想定の確認) https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田市都市計画図・用途地域図(土地利用・市街化の確認)。
  • 磐田市統計資料・国勢調査・e-Stat(人口・世帯・高齢化・農地転用の傾向) https://www.e-stat.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田市文化財・埋蔵文化財関係資料、寺社・旧村・小字の地域史資料(信仰・共同体の裏づけ)。
  • 『磐田市史』通史編・資料編(磐田市、該当章)。
  • 静岡県『静岡県史』通史編(近世・近代の天竜川治水関係の章)。
  • 建設省・国土交通省中部地方整備局 天竜川水系関係資料(河道変遷・治水史)。
  • 佐口行正氏所蔵史料(旧村・水利・小字関係)。
  • 磐田物語「天竜地区総論 ── 川と低地がつくった暮らしの記憶」(s013) https://iwata-monogatari.net/s013.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第37号「天竜川がつくった村、流した村」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/037/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第74号「川の恵みと怖さ ── 天竜地区の水辺の生活史」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/074/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第92号「於保と大池 ── 南部低地の水と村」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/092/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第119号「長野地区の成り立ち ── 水田の広がりと旧集落の輪郭」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/119/ (最終閲覧:2026年7月25日)。