磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第92号(南部低地研究 一)
於保と大池 ── 南部低地の水と村
大池・低地・農地が支えた南の集落
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
磐田市南部の於保(おぼ)地区は、天竜川下流域の低地に開けた水田農村である。城跡や宿場のような目立つ史跡を持たないこの地区が、なぜ長く人の暮らしを支ええたのか。本稿はこの問いを、水を引く・水を逃がす・微高地に寄るという三つの営みから検討する。大池に代表される溜池と用水は田へ水を届け、排水路は余水を下流へ送り出し、集落と寺社はわずかに高い自然堤防状の微高地に立地した。これらは低地農村に広く通じる立地の論理として説明できる一方、地区名「於保」の由来、大池の築造年代と来歴、近世の旧村と現在の住所表示との対応といった個別の事実は、一次史料で確認できる範囲がなお限られる。本稿はこの一般論として言える部分と、個別に未確認の部分とを混同せず、史実・推定・伝承の層を語の水準で区別しながら、於保を「水と村」の関係として記述する。あわせて近代以降の生活圏の変化と、農地維持・空き家・低地の水害という将来の論点を、衰退論に回収することなく整理し、南部低地の集落史を読む枠組みを提示する。
キーワード:於保/大池/後背湿地/自然堤防/用水と排水/低地集落/南部低地
1. 問題設定 ── なぜ低地に村が根を下ろせたのか
磐田市の南に広がる於保地区は、派手な歴史の主役ではない。城跡もなく、東海道の宿場でもなく、名の知れた大社を戴くわけでもない。天竜川下流域の平坦な低地に、水田と集落が静かに広がっているのが、この地区のいまの姿である。それでもこの土地には、少なくとも近世以来、途切れることなく人が住み、田を耕し、水を分け合ってきた確かな蓄積がある。本稿の出発点は、この「目立たないが続いてきた」という事実そのものを問いに変える点にある。すなわち、低地という一見不利な条件のもとで、なぜ於保に村が根を下ろしえたのかを、地形と水の視点から解き明かすことを課題とする1。
この問いを立てる理由は、地域史の記述がしばしば固有名詞の羅列に流れやすいからである。どの村がいつ成立し、どの寺がいつ創建され、地名の由来が何であるか──こうした個別の事実は確かに大切だが、それらを確認しきれないまま並べても、土地の成り立ちは見えてこない。むしろ、確実に言える構造から出発し、その枠のなかに個別の事実を位置づけていくほうが、於保のような史料の乏しい低地農村を読むには適している。本稿が水と地形を先に据えるのは、それが最も確度の高い土台だからである。
本稿は、この一般向け総論を郷土史研究の観点から組み直したものである。素材とした於保地区総論は、地形・水利・旧村・寺社という土台から於保を平明に描いた読みものであった。本稿はその枠組みを引き継ぎつつ、確度の層をより厳密に腑分けし、「一般論として言えること」と「個別には未確認のこと」との境界を明示することに力点を置く。低地農村の立地論理として広く成り立つ説明と、於保に固有の事実として一次史料で裏づけられる事柄とは、扱いの水準が異なる。両者を同じ平面で語れば、確度の低い推測を史実のように述べ、あるいは確かな地形の理を根拠薄弱として退ける誤りに陥りやすい。
そこで本稿では、四つの層を語の水準で区別する。第一に史実、すなわち史料や公的な地図資料で確認できる事柄。第二に通説、学界や地域で広く受け入れられているが一点では確定しがたい事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、地域で語り継がれてきた事柄である。あわせて「未確認」(管見の限り一次史料に突き当たっていない)と「記載なし」(史料に無いと確認できる)とを区別する。於保に関しては、地形の理は史実に近い確度で語れるのに対し、地区名の由来や大池の来歴は多くが未確認の領域に属する。この差を保つことが、以下の検討の基本姿勢となる。
以下ではまず、於保の位置と地形を確認し、南部低地という舞台の性格を押さえる。続いて、水を引く・水を逃がす・微高地に寄るという三つの論点を順に検討し、それぞれについて一般論と個別事実の確度を腑分けする。そのうえで旧村・大字・現在地名の重層を史料批判の観点から整理し、近代以降の変化と将来の課題を展望して、結論に至る。起源や由来を一つに決めることではなく、水と土地と人の関係を確度の層を保ったまま記述することが、本稿の一貫した目的である。
2. 於保の位置と地形 ── 南部低地という舞台
於保地区は、磐田市の中心市街である見付・中泉から南へ下った、天竜川下流域の平坦な低地に位置する。北に台地と市街地、南に海へ向かう平野、西に天竜川という地理のなかで、於保はおおむね「水田が広がる低地の農村」という性格を強く帯びてきた。磐田物語では地区分類上、この一帯を南部地区の一つとして扱う。行政上も、於保は磐田市の地区区分・自治会区分のなかで用いられる呼称であり、その範囲は近代以降の区割りに依拠する。
この低地を歩いても、目を引く高台や崖はほとんど見あたらない。代わりに目に入るのは、わずかな高低差と、網の目のように走る水路、そして田のなかに点在する集落である。「平らに見えて、実は少しずつ高さが違う」というこの地形こそが、於保の集落と農地の配置を理解する鍵になる。標高が低いがゆえに、水をどう扱うかが暮らしの根本的な前提となってきたと考えられる。豊かな土でありながら、水の始末を誤れば田も家も損なう。この両面性が、於保という土地の基調をなす。
天竜川下流域の低地は、河川が長い年月をかけて運んだ土砂が堆積してできた沖積地である。こうした土地は一般に、川に近い側にやや高い自然堤防が形成され、その背後に一段低い後背湿地が広がる。前者は水はけがよく畑や屋敷地に、後者は水がたまりやすく水田に用いられるのが、低地の土地利用の定型である2。この地形区分は、治水地形分類図や旧版地形図で確認できる範囲では、南部低地一帯にも広く当てはまると考えられる。ただし、於保の具体的などの地点がどの区分にあたるかの比定は、現地に即した確認を要する事柄であり、本稿では一般的傾向として述べるにとどめる。
ここで確度の層を明示しておきたい。天竜川下流域が沖積低地であること、そこに自然堤防と後背湿地という地形の対が生じること、それが土地利用を左右することは、地形学的にほぼ確実な史実の水準で語れる。一方、地区名「於保」の漢字表記と読みの由来については諸説が伝えられており、いずれか一説を史実として採ることはできない。素材とした一般向け総論も、この由来については断定を避けていた。本稿もこの姿勢を踏襲し、地名の由来は未確認の伝承の層に置く。土地の理は確度高く、名の由来は確度低く──この差を保つことが、於保を読む出発点である。
もう一点、地形と歴史の時間軸を切り離して考える必要がある。天竜川下流域の低地が沖積地として形づくられたのは地質学的な長い時間の産物であり、そこに人が水田を開いて村を営んだのは、はるかに新しい歴史時代のできごとである。低地の存在それ自体は、集落の成立年代を直接には保証しない。於保に人が住みはじめた時期を一次史料で確定することは、本稿の範囲では難しく、この点は未確認としておく。確実に言えるのは、少なくとも近世には複数の村落から成る農村地帯であったとされることであり、その先の起点は推定の領域にとどまる。
「於保」の表記と読みは断定しない
地区名「於保」の読みや漢字表記の由来については、複数の伝えがあり、一次史料で一説に確定できる状態にはない。地名研究では、地形や開発の由来を語源に求める解釈がしばしば示されるが、そうした語源説は魅力的である一方、後世の付会と区別しにくい弱点をあわせ持つ。本稿は特定の語源説を採らず、「於保」を近世以来この一帯を指してきた地域名として、その来歴を未確認のまま扱う。名の由来を確定することよりも、名の指す土地がどのような水と地形の条件のうえに成り立ってきたかを読むことを優先する。
3. 論点①:水を引く ── 大池と用水
低地で稲作を営むには、逆説的ではあるが、まず水を確保しなければならない。標高が低く水がたまりやすい土地であっても、田植えの季節に必要な量の水が、必要な場所へ、必要なだけ届くとは限らない。降雨だけに頼れば、天候に左右されて収穫が不安定になる。そこで低地の農村は、溜池と用水路によって水を貯え、分配する仕組みを築いてきた。於保において、その水を引く仕組みの象徴として語られてきたのが「大池」である。
大池のような溜池は、雨の多い時季や上流からの水を貯め、田が水を必要とする時季に少しずつ放って用水路へ送る、いわば水の貯金箱にあたる。溜池から引かれた用水は、水路をたどって田から田へと配られ、低地の水田を潤す。この溜池と用水の系統が、於保の水田農業を成り立たせてきた前提であったと考えられる3。地区名にまで「大池」が結びついて語られること自体が、この溜池が地域の水利にとって中心的な存在であったことを物語る。
ただし、ここで確度の腑分けが必要である。「溜池と用水が低地水田を支えた」という一般的な仕組みは、低地農村に広く通じる説明として確度高く述べられる。一方、於保の大池が具体的にいつ築かれ、どれほどの規模を持ち、現在どのような姿で残っているのかといった個別の事実は、本稿の範囲では一次史料で確認できていない。素材とした一般向け総論も、個々の溜池の築造年代・規模・現存状況は公的資料での確認が必要だとして、断定を避けていた。本稿もこの限界を引き継ぐ。大池が水利の核であったこと自体は推定として述べうるが、その来歴の細部は未確認の領域に置く。
水を引く仕組みは、たんなる土木の問題にとどまらず、共同体のあり方に深く関わる。用水は上流の田から下流の田へと順に配られるため、水が乏しい年には上流と下流の利害が対立しやすい。誰の田へどれだけ水を回すかを公平に取り決め、干天のときには水を見回り、抜け駆けの取水を防ぐ役割が要る。各地の低地農村で水番と呼ばれる見回りの役が置かれ、用水の配分に細かな慣行が発達したのは、この必然によると考えられる。於保においても、水を分け合うための取り決めが共同体の結びつきを強めてきたと推測できるが、その具体的な慣行の内容は、地域に即した史料の博捜を要する課題である。
この「水を引く」という営みは、天竜川と人との長い関わりの一断面でもある。天竜川がつくった低地に暮らす村々が、川の水をどう引き、どう恵みに変えてきたかは、南部一帯に共通する主題であり、既刊の天竜川がつくった村、流した村で池田・掛塚の渡しとともに論じたところである。於保の大池と用水は、その大きな水の系のなかに置かれた、低地側の水利の一つとして位置づけられる。川から遠い後背の低地であればこそ、溜池という水の備えがいっそう重い意味を持ったと考えられる。
4. 論点②:水を逃がす ── 排水と後背湿地
水を引くことと表裏をなすのが、水を逃がすことである。低地の水田は、必要なときに水を得られるだけでは足りない。梅雨や台風の時季に降りすぎた雨、上流から押し寄せる出水を、速やかに下流へ送り出せなければ、田も家も水につかってしまう。標高が低く水はけの悪い後背湿地では、この排水こそが暮らしの死活を握る。「水を得る」と「水を逃がす」は、低地農業の表裏一体の二つの顔であり、そのどちらを欠いても田は成り立たない。
後背湿地とは、河川がつくった自然堤防の背後に広がる、水はけの悪い低い土地である。粘土質で水がたまりやすく、古くから水田として利用される一方、いったん水が入ると抜けにくいという弱点を併せ持つ。この地形区分は治水地形分類図などで確認でき、低地集落の立地を考えるうえで欠かせない手がかりとなる。於保の水田の多くも、こうした後背湿地状の低地に開かれたと考えられる。豊かな稲作の土台であると同時に、浸水のリスクを抱えた土地でもあるという二面性が、ここでも一貫している。
排水の仕組みは、用水と同じく共同体の調整を要する。自分の田の水を早く抜こうとすれば、下流の田や集落に負担が集中する。誰かが堰を上げ下げすれば、その影響は水路をつうじて広く及ぶ。したがって排水路の維持、樋門の管理、出水時の水の逃がし方は、個々の家の判断に委ねられず、地域全体での取り決めのもとに置かれる必要があった。用水の配分が乏水期の対立を生むとすれば、排水の管理は増水期の対立を生む。低地の村に強い結びつきが育ちやすいのは、水を引くときも逃がすときも、単独では立ち行かない構造があったからだと推測できる。
この排水という課題は、川辺の低地に暮らす人々が長く向き合ってきた生活の技術でもある。天竜地区の水辺の暮らしを扱った既刊の川の恵みと怖さ ── 天竜地区の水辺の生活史で述べたように、川がもたらす恵みと怖さの両面に折り合いをつけることが、南部低地の生活史の通奏低音をなす。於保もまた、この恵みと怖さの均衡のうえに営まれてきた。用水と排水という二つの系統をどう調整し続けるかが、村の存続を左右してきたのである。
ここでも確度を分けておく。後背湿地が浸水しやすいこと、排水が低地農業に不可欠であることは、地形学的にほぼ確実に述べられる。一方、於保のどの水路が近世のどの排水路にあたるか、現在の水路が近世以来の経路をそのまま継いでいるかは、改修の履歴を踏まえた確認を要し、本稿では未確認とする。近代以降、低地の水路はしばしば付け替えや暗渠化を経ており、現在の姿を過去の姿とそのまま重ねることはできない。水を逃がす仕組みの一般的な重要性は確度高く語れても、その具体的な経路の歴史は、慎重に留保すべき事柄である。
5. 論点③:微高地に寄る ── 集落と寺社の立地
「水田が広がる低地」と聞くと、人々が田のなかに均等に散らばって住んでいたように思いがちだが、実際はそうではない。低地集落の多くは、周囲よりわずかに高い微高地や自然堤防の上に、家を寄せ合うようにして立地する傾向がある。理由は単純で、平時の暮らしやすさと、増水時に水をかぶりにくいことの両方を満たすからである。数十センチの高さの差が、平時にはほとんど意識されないまま、増水の一夜には浸水するかしないかを分ける。低地の暮らしは、この微妙な高低差を読む知恵のうえに成り立ってきた。於保の集落も、この一般的な低地集落の論理から外れないものと考えられる。
集落の核には、しばしば神社や寺、墓地が置かれる。これらは信仰の場であると同時に、共同体が集まる場であり、水利の取り決めや農作業の段取りを話し合う実務の舞台でもあったとみられる。寺社が微高地に立地することが多いのは、洪水のときに最後まで水につからない安全な場所だったからだと推測できる。祈りの場が、同時に避難の場でもあったという二重性は、低地の宗教施設にしばしば見られる。本稿では個別の寺社名を断定的に列挙することは避けるが、「集落・微高地・寺社が一体で立地する」という構造そのものが、於保のような低地農村を読む確かな手がかりになる。
この立地論理を、水を引く・水を逃がすという先の二論点と重ねると、於保に村ができた理由が一つの像を結ぶ。すなわち於保は、用水を引いて田を開ける肥沃な低地でありながら、水をかぶりにくい微高地という逃げ場も備えていた場所だった、と整理できる。豊かさとリスクが隣り合わせの土地で、人々は微妙な高低差を読み、最も合理的な場所に暮らしの拠点を構えた。水を引ける低さと、水を避けられる高さ。この二つの条件が一つの土地のなかに共存していたことが、低地農村の成立を可能にしたと考えられる。
もっとも、この立地の説明は低地集落一般に通じる論理であり、於保に固有の事実として一次史料で裏づけたものではない点は明記しておく。どの集落がどの微高地に立地しているかの具体的な比定は、治水地形分類図と現地確認に拠らねばならず、本稿の範囲を超える。本稿が述べうるのは、於保がこの一般的な立地論理のよく当てはまる典型的な低地農村であること、そしてその構造を読むことが個々の地名を追うより於保の本質に迫る近道であること、この二点である。構造は確度高く、個別の比定は未確認、という腑分けをここでも保つ。
低地の集落が、田の真ん中ではなく、わずかに高い土地の縁に立つこと。その数十センチの高さの差が、何百年もの暮らしを支えてきたこと。この一見ささやかな事実のなかに、南部低地の集落史の核心がある。派手な城も宿場も持たない於保が、それでも長く人の暮らしを支ええたのは、この微高地という土台があったからにほかならない。土地の理を読み、最も合理的な場所を選ぶ──その積み重ねが、低地の村を形づくってきたのである。
6. 旧村・大字・地名の重層 ── 対応を慎重に読む
於保地区は、近代以前には複数の村落から成る地域であり、明治以降の町村制と、その後の合併を経て、現在の磐田市の地区区分に至っている。地域史を読むうえで最も注意を要するのは、近世の村名、近代の大字、そして現在の住所表示が、必ずしも一対一で対応しない点である4。「むかしの村名」と「いまの町名」を安易に重ねると、範囲や性格を誤って受け取ってしまう恐れがある。地名は同じ文字でも、時代によって指す範囲が伸び縮みする。この重層をほどく作業が、於保の旧村を読む前提となる。
そこで本稿では、旧村名・大字・現在の地名の対応を、断定ではなく整理の枠組みとして示すにとどめる。下の表は、地域でしばしば言及される観点を、確認・整理できることと、断定を避けるべき点とに分けて並べたものである。特定の説を優位に置く書式を避け、各行の情報量をそろえることで、読者が自ら確度を判断できる状態をつくることを心がけた。個々の地名の範囲・由来・対応関係は、磐田市史や治水地形分類図、今昔マップなどで現地に即して確認する必要がある。
| 観点 | 確度の層 | 確認・整理できること | 断定を避ける点・留意 |
|---|---|---|---|
| 地区名「於保」 | 史実/伝承 | 南部の低地農村地帯を指す地域名・地区名として用いられている。 | 漢字表記・読みの由来には諸説があり、一説に断定しない。 |
| 旧村・大字 | 史実/推定 | 近世の複数村落 → 近代の大字 → 現在の地区区分という重層がうかがえる。 | 旧村名と現在の町名・丁目を一対一で対応させない。範囲のズレを前提に読む。 |
| 大池・溜池 | 推定 | 用水(水を引く)の核として、溜池が地域の水利に関わってきたと考えられる。 | 個々の池の築造年代・規模・現存状況は、公的資料での確認を要する。 |
| 用水・排水路 | 史実/推定 | 水を引く用水と、水を逃がす排水の両系統が低地農業を支えてきた。 | 現在の水路と近世の水路が同経路とは限らない。改修の履歴を考慮する。 |
| 微高地・後背湿地 | 史実 | 集落・寺社は微高地、水田は後背湿地という立地傾向が読み取れる。 | 具体的地点の比定は、治水地形分類図・現地確認に拠る。 |
| 寺社・墓地 | 推定/伝承 | 集落の核として共同体をまとめる役割を担ってきたと考えられる。 | 個別の寺社名・祭礼・創建年代は、確認できた範囲を超えて記さない。 |
この整理から見えてくるのは、於保を読むときに最も確度が高いのは地形と水利の層であり、地名の由来や個別の寺社・溜池の来歴は、多くが推定と未確認の領域にとどまるという事実である。よく検索される南部の地名のいくつかも、於保や周辺を語るうえで言及されることがあるが、それらがどの旧村・大字・現在の住所に対応するかは、地域や時期によって扱いが異なりうるため、本稿では確実な対応を主張しない。むしろ、地名そのものより、「水を引き、田を守り、微高地に寄って住む」という構造の共通性に注目するほうが、南部低地の理解には資すると考える。
この確度の腑分けは、郷土史の記述一般にとって一定の含意を持つ。地域の歴史を書くとき、私たちはしばしば「本当のところはどうだったのか」という問いに引き寄せられ、複数の伝えのなかから一つの正解を選び取ろうとする。しかしその態度は、確度の異なる情報を無理に一つの平面へ押し込め、選ばれなかった伝えを切り捨てることにつながりやすい。史料で確認できることは史実として、地域が語り継いできたことは伝承として、それぞれの位置を保ったまま書き留める。於保のように個別の史料が乏しい低地農村では、この禁欲的な手続きこそが、かえって土地の成り立ちを正確に伝える道になる。
7. 近代以降と将来 ── 生活圏の変化と課題
近代から現代にかけて、於保地区の暮らしは大きく変わってきた。かつて徒歩や荷車で結ばれていた集落と農地は、自動車道路の整備によって、より広い生活圏のなかに組み込まれていった。買い物や通勤、通学の行き先は、地域内で完結するものから、市街地や幹線道路沿いの施設へと広がってきたと考えられる。同時に、農地の一部が宅地や事業用地へ転換され、田のなかに新しい住宅が点在する景観も生まれた。こうした変化は利便性を高める一方で、旧来の集落と農地の境界、小字の呼び名、水路の意味といった土地の記憶を見えにくくする側面も併せ持つ5。
於保の暮らしを支えてきた要因を整理すれば、肥沃な低地の農業生産力、水を分け合う共同体の力、そして近代以降の交通整備による生活圏の拡大、ということになる。しかしこれらの強みは、担い手の減少や土地利用の転換によって、そのまま弱点へ転じうる裏面を持つ。豊かな農地は、耕す人がいなければ荒れる。水を分け合う共同体は、家が減れば用水・排水の共同管理が揺らぐ。交通の便は、暮らしの重心を地域の外へ移し、集落の空洞化を早めもする。強みと弱みは同じ条件の表と裏にある。
低地農村に共通する将来の論点として、次の三つが重なってくる。第一に農地の維持である。担い手の高齢化が進み、後継者が確保されなければ、水田の管理が難しくなり、用水・排水の共同管理も揺らぎかねない。第二に空き家・相続未整理地の問題である。家が空き、土地の権利関係が整理されないまま放置されると、集落の景観と防災の両面で課題が生じうる。所有者がたどりにくくなれば、農地の集約も災害時の対応も難しくなる。第三に低地ゆえの水害への備えである。大雨の頻度が増せば、排水の能力や避難の体制が改めて問われることになる。低地であることは、成立の条件であると同時に、将来のリスクでもある。
もっとも、これらは一方的に暗い未来を意味するものではない。「衰退する」と決めつけるのは早計である。むしろ、いくつかの条件が重なったときに弱くなりうる点を見きわめ、どうすれば暮らしと記憶を続けられるかを考えることが要る。静かな農地の景観、水とともに生きてきた地域の知恵、集落に残る記憶は、これからの時代にむしろ価値を増しうる。条件が続くなら弱くなりうる点を直視しつつ、記録され、語り継がれることで、於保は衰退ではなく再定義へと向かいうる地域である。地域史の役割は、失われる前に土地の来歴を書き留め、次の判断の材料を残すことにある。
8. 結論 ── 「水と村」として於保を読む
本稿は、磐田市南部の於保地区を、水を引く・水を逃がす・微高地に寄るという三つの営みから読み直した。得られた見取り図は次のとおりである。天竜川下流域の沖積低地に、自然堤防と後背湿地という地形の対が生じ、大池に代表される溜池と用水が田へ水を届け、排水路が余水を下流へ逃がし、集落と寺社はわずかに高い微高地に寄って立地した。この構造は、低地農村に広く通じる立地の論理として、ほぼ確実な確度で語れる。於保は、その論理のよく当てはまる典型的な南部低地の村である。
一方で、地区名「於保」の由来、大池の築造年代と来歴、近世の旧村と現在の住所表示との対応、個別の寺社の創建といった固有の事実は、本稿の範囲では一次史料で確認できず、多くが推定と未確認の領域にとどまる。本稿が一貫して保ったのは、この一般論として言えることと個別に未確認のこととを混同しない姿勢である。地形の理は確度高く、名や来歴の細部は確度低く──この差を語の水準で書き分けることが、史料の乏しい低地農村を正確に伝える要諦であると考える。
したがって本稿の立場は明確である。於保を読むとは、目立つ史跡や確定した起源を探すことではなく、水と土地と人の関係という構造を、確度の層を保ったまま記述することである。派手な城も宿場も持たないこの地区が、それでも長く人の暮らしを支ええたのは、水を引ける低さと水を避けられる高さが一つの土地に共存し、それを分け合う共同体が営まれてきたからにほかならない。個々の地名を追うより、この構造の共通性を読むことが、於保の本質に迫る近道である。
最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、大池をはじめとする溜池の築造年代・規模・現存状況は、公的資料と現地調査によって、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、旧村・大字・現在地名の対応は、磐田市史と旧版地形図・今昔マップを突き合わせることで、暫定の整理をより確かな比定へ進めうる。第三に、用水・排水の具体的な経路とその改修の履歴は、水利慣行の史料とあわせて検討されるべき主題である。これらはいずれも、本稿が設定した四層の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。個別の史料を焦って断定に用いるのではなく、確度の層を保ったまま資料を積み上げていくこと──その地道な手続きの先にこそ、於保という低地の村が抱えてきた記憶の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。南部低地の各集落の比較や、隣接する長野地区との関係については、本論考シリーズで稿を改めて論じたい。
注
- 於保が磐田市南部の天竜川下流域の低地にあたり、水田農業を中心としてきた地域であることは、磐田市の地区区分および一般的な地誌的理解による。集落の成立年代を直接記す一次史料は本稿の範囲では確認できていない。↩
- 自然堤防と後背湿地という沖積低地の地形区分、およびそれが土地利用を規定する傾向については、国土地理院の治水地形分類図・旧版地形図で確認できる範囲による。於保の個別地点の比定は現地確認を要する。↩
- 溜池と用水が低地水田を支える仕組みは低地農村に広く通じる一般的な説明である。於保の大池の築造年代・規模・現存状況は、公的資料での確認を要し、本稿では未確認とする。↩
- 近世の村名・近代の大字・現在の住所表示が一対一で対応しないことは、町村制と合併の経緯を踏まえた地域史研究の一般的な留意点であり、個別の対応は磐田市史等での確認を要する。↩
- 近代以降の道路整備・宅地化による生活圏の変化と、低地の水害リスクについては、今昔マップ、磐田市都市計画図、および磐田市ハザードマップ・洪水浸水想定区域図で確認できる範囲による。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 s015「於保地区総論」の内容を、郷土史研究の観点から史料批判を加えて再構成した論考版である。地形・水利の一般論として確度高く述べうる事柄と、地区名の由来・大池の来歴・旧村と現在地名の対応など個別に未確認の事柄とを、語の水準で書き分けた。
参考文献・参考資料
- 磐田市『磐田市史』通史編・地誌編(旧村沿革・地名・地区区分の確認)。
- 国土地理院「地理院地図」 https://maps.gsi.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 国土地理院 治水地形分類図(自然堤防・後背湿地・旧河道の確認) https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/fusui.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 谷謙二「今昔マップ on the web」(明治期〜現在の集落・道路・水田・水路の変化比較) https://ktgis.net/kjmapw/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田市「ハザードマップ・洪水浸水想定区域図」(低地の浸水リスクの確認) https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田市「都市計画図・用途地域図」(土地利用の確認)。
- 総務省統計局・e-Stat 国勢調査(人口・世帯・高齢化の確認) https://www.e-stat.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田市教育委員会・文化財関係の公開資料(寺社・旧村・小字の確認)。
- 大石浩之の磐田論考 第74号「川の恵みと怖さ ── 天竜地区の水辺の生活史」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/074/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之の磐田論考 第37号「天竜川がつくった村、流した村 ── 池田・掛塚と渡しの記憶」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/037/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語「南部地区」 https://iwata-monogatari.net/01005-nanbu.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 s015「於保地区総論 ── 大池・低地・農地が支えた南の集落」 https://iwata-monogatari.net/s015 (最終閲覧:2026年7月25日)。