失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 竜洋を治めた人達

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第128号(竜洋地域史研究)

竜洋を治めた人達 ── 藩主・中泉代官・明治以降の首長

支配の交代からみる竜洋の近世・近代

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市竜洋

要旨

竜洋(掛塚・袖浦・十束)は、近世には遠州諸藩の藩領と江戸幕府直轄の天領とが入り組む地であり、天竜川河口の低地という地勢のもとで、支配の主体をたびたび替えてきた。本稿は、竜洋町教育委員会編『ふるさと竜洋』巻末の一覧表(資料1・資料2・資料3の二)を主たる典拠として、竜洋を治めた人々を、藩主・中泉代官・明治以降の首長という三つの層に分けて系譜的に整理する。ただし原資料は手書き・旧字体を含み判読の難しい人名・年代が多いため、確実に読み取れる範囲と未確認の範囲を区別し、断定を避ける方針をとる。近世の藩領と天領の二重支配、中泉代官所による天領統治の実務、そして明治の県・郡・町村への行政的な組み替えを通じて、支配の交代という一本の軸から竜洋の近世・近代を描き出すことを課題とする。個々の人物の功績を語る読み物とは別に、誰がいつその地位にあったかという統治の骨格を、史料批判を経て提示する試みである。

キーワード:竜洋/中泉代官/天領/遠州諸藩/掛塚湊/町村制/史料批判

1. 問題設定 ── 「治めた人達」を系譜として読む

竜洋は、磐田市の南西部、天竜川の東岸河口に広がる低地である。近世においてこの地は、掛塚・袖浦・十束という村々のまとまりからなり、一つの藩や一人の代官によって首尾一貫して治められてきたわけではない。遠州の諸藩が入れ替わり、江戸幕府の直轄地としての天領が広がり、それを中泉に置かれた代官所が管轄した。明治に入ればこの枠組みは解体され、県・郡・町村という近代の行政組織へと組み替えられていく。竜洋を「治めた人達」を問うことは、したがって一つの名前を挙げることではなく、支配の主体が交代していく系譜そのものを読むことにほかならない。

本稿の出発点は、この交代の連なりを、確度の異なる情報を混同せずに整理することにある。地域の統治史を書こうとするとき、私たちはしばしば断片的な人名と年代を、あたかも一続きの年表のようにつなげたくなる。しかし後述するように、竜洋の統治者一覧を伝える主たる史料は、判読の難しい手書き資料であり、確実に読み取れる名と、判読に自信のもてない名とが混在している。ここで求められるのは、読み取れたものを史実として、読み取れなかったものを未確認として、それぞれの位置を保ったまま書き留める手続きである。

本稿はこの姿勢のもとで、竜洋を治めた人々を三つの層に分けて論じる。第一は、近世前半に竜洋の一部を含みうる藩領を治めた遠州諸藩の藩主。第二は、天領となった竜洋を実務的に管轄した中泉代官。第三は、明治以降に県・郡・町村の首長として地域を担った知事・郡長・町村長である。この三層は、単に時代を追って並ぶのではなく、藩と天領が同時に併存し、やがて近代行政へ一斉に置き換えられるという、重なりと断絶をともなって連なっている。

あらかじめ、本稿が用いる四つの確度の層を定義しておく。史料によって確認できる事柄を史実、学界で広く受け入れられているが一点では確定しがたい事柄を通説、根拠はあるが未確定の事柄を推定、地域で語り継がれてきた事柄を伝承とし、これらを語の水準で書き分ける。あわせて、「一次史料に突き当たっていない(未確認)」ことと「史料に記載がない(記載なし)」こととを区別する。統治者の系譜という、一見して客観的にみえる主題こそ、この腑分けを怠ると、判読の不確かさを確定した事実のように語ってしまう危うさをはらむ。以下ではまず典拠の性格を確かめ、続いて三層を順に検討し、最後に支配の交代という視座から全体を結ぶ。

念のため付け加えれば、統治の系譜をたどる作業は、過去の支配を懐かしむためのものではない。誰がこの土地を治めてきたかを知ることは、いま私たちが暮らす竜洋という区域が、どのような制度の積み重ねの上に形づくられたのかを理解することにつながる。藩の転封、代官の交代、町村の合併といった支配の変化は、そのつど村の境や名、負担のあり方を書き替えてきた。現在の大字や区の区割りにも、こうした近世・近代の統治の痕跡が沈んでいる。系譜を読むとは、その痕跡を掘り起こす作業でもあり、単なる名前の羅列を眺めることとは異なる。

竜洋を治めた支配の三層 藩主 遠州諸藩 横須賀・浜松 掛川ほか 中泉代官 天領を管轄 中泉代官所 約39名 明治以降の首長 県知事・郡長 町村長 議員 藩領と天領は近世に併存し、明治にいずれも近代行政へ組み替えられた。 本稿は各層を、判読可能な範囲と未確認の範囲を区別して整理する。
図1 竜洋を治めた支配の三層。藩主・中泉代官・明治以降の首長を、時代を追う一本の年表ではなく、併存と断絶をともなう系譜として捉える。

2. 典拠の性格 ── 『ふるさと竜洋』巻末一覧の限界

本稿が主たる典拠とするのは、竜洋町教育委員会編『ふるさと竜洋』(昭和52年〔1977年〕3月刊)の巻末に付された一覧表である1。そこには「資料1 遠州の藩主」「資料2 中泉代官」「資料3の二 各地の石高」と題する三種の表が収められ、個々の人物の逸話ではなく、在任期間や石高といった客観的なデータの一覧という性格をもつ。地域の統治構造を俯瞰するには格好の史料であるが、その利用にあたっては、いくつかの限界をあらかじめ確認しておかねばならない。

第一の限界は、判読そのものにある。原資料は手書き・スキャンによる旧字体・変体仮名を含み、人名・年代のなかには判読が難しい箇所が少なくない。とりわけ中泉代官の在任期間一覧は、原本に約39名分が記載されているが、氏名・在任年代の判読に不確かな部分が多い。したがって本稿では、明瞭に読み取れた範囲の代表的な人物のみを掲げ、全項目の網羅的な転記は行わない。読み取れなかった名を空欄のまま放置するのは、無理に推読して誤った名を確定させるよりも、史料に対して誠実な態度だと考える。

第二の限界は、一覧表という様式そのものに由来する。在任期間の一覧は、誰がいつその地位にあったかという統治の骨格を示すが、その人物が竜洋の村々に対して具体的にどのような施策を及ぼしたかまでは語らない。骨格は骨格であって、そこに肉づけを与えるには別種の史料を要する。本稿はこの一覧を、統治の連なりの輪郭を描くための資料として用い、個々の人物評価には踏み込まない。人物の功績を語る読み物としては、すでに「町や村を背負った人達」があり、両者は役割を異にする。

第三に、原資料の編纂者自身が判読の不確かさを自覚していた点も重要である。『ふるさと竜洋』は、竜洋町教育委員会という公的な編纂主体が、地域の来歴を後世に残すために整理した資料であり、そこに掲げられた一覧は、当時読み取りうる範囲での最善の整理と受け取るべきものである。したがって本稿の作業は、この整理をさらに一段、確度の層に沿って腑分けし直すことにある。読み取れた名を史実として、判読に自信のもてない名を未確認として区別し、明治の行政組織のように一般的な制度史の知見で補える部分は、それを背景として明示的に断ったうえで用いる。原資料に固有の年代・人名を、こちらの都合で創作することはしない。

3. 近世の二重支配 ── 藩領と天領のあいだの竜洋

竜洋の近世を理解するうえで、まず押さえるべきは、この地が単一の支配下に一元的に置かれていたわけではないという事実である。近世の遠江には、浜松・掛川・横須賀といった諸藩の藩領と、江戸幕府が直接に治める天領とが、村を単位として入り組んで存在した。竜洋一帯もその例外ではなく、藩領として諸藩の支配を受けた時期・場所と、天領として中泉代官所の管轄下に置かれた時期・場所とが併存した。ここでは、これを近世の二重支配と呼んでおく。

この二重支配は、竜洋という地域の性格と無縁ではない。天竜川の河口に開けた低地は、洪水と川筋の変化にさらされる不安定な土地であると同時に、掛塚湊という舟運の要衝を抱える経済的に重要な土地でもあった。物流と年貢の両面で価値のある河口の地を、幕府が直轄地として押さえようとしたことは、天領支配の背景としてじゅうぶんに理解できる。もっとも、どの村がいつ藩領となり、いつ天領へ編入されたかという具体的な変遷の全体像は、本稿の主典拠だけからは復元しきれず、この点は未確認の部分を多く残す。

天領とは、江戸幕府の直轄地を指す語であり、藩主のかわりに幕府から派遣された代官が、年貢の徴収を中心とする統治にあたった2。竜洋を含む遠江の天領を管轄したのが、中泉(現・磐田市の中心部)に置かれた中泉代官所である。天領の統治は、藩のように世襲の大名が土地と人格的に結びつくのではなく、幕府の官僚である代官が任期をもって交代しながら担う点に特徴がある。したがって天領の統治史は、藩主の系譜よりもむしろ、代官の在任期間の連なりとして立ち現れる。中泉御殿を核とする天領中泉の統治構造については、すでに別稿中泉御殿と天領中泉で論じたが、竜洋の側から見れば、それは自らの村々を治めた支配の一方の柱であった。

藩領と天領という二つの支配は、統治の論理を異にする。藩は、大名家の家格と所領が結びつき、藩主の交代は基本的に幕府の意向による大名の配置換え(転封)として起こる。これに対して天領は、幕府直轄という一貫した枠のなかで、実務者たる代官のみが交代する。竜洋の村々は、この二つの論理が交錯する境界に位置しており、ある村は藩の家臣団を通じて、別の村は代官所の手代を通じて、それぞれ異なる回路で年貢と法度に結びつけられていた。支配の交代を読むとは、この二つの回路がどのように重なり、いつ一方へ収斂したのかを見きわめることでもある。

付言すれば、こうした藩領と天領の入り組みは、竜洋に限ったことではなく、近世遠江の広い範囲に見られた現象である。一つの村が丸ごと一人の領主に属するとは限らず、一村が複数の領主によって分割して支配される相給(あいきゅう)の状態も、近世にはまれではなかった。竜洋の村々がこの相給を経験したか否かを本稿の主典拠から断ずることはできず、その具体は未確認にとどまるが、河口の低地という条件のもとで、支配が単純な一元性に収まりにくかったことは、二重支配という枠組みの背景として押さえておいてよい。支配の交代を読む際に、交代の前後がつねに明快な一対一の置き換えであったと想定するのは、かえって近世の実態から遠ざかる。

近世の二重支配 ── 藩領と天領 藩領 大名(藩主)+家臣団 天領 幕府 → 中泉代官 竜洋の村々 掛塚・袖浦・十束 村を単位に、藩の回路と代官の回路が交錯した。
図2 近世の二重支配の模式図。竜洋の村々は、大名を頂点とする藩領の回路と、幕府=中泉代官を頂点とする天領の回路が交錯する境界に置かれた。

4. 遠州諸藩の藩主 ── 横須賀・浜松・掛川

『ふるさと竜洋』の「資料1 遠州の藩主」には、慶長19年〔1614年〕以降の横須賀・浜松・掛川など遠州各藩の藩主の変遷が、年表形式で記されている。判読できた範囲では、横須賀藩に大須賀忠次(所領6万石)、浜松藩に松平忠次、掛川藩に松平忠照といった藩主の名が確認できる3。ただし、浜松藩の松平忠次、掛川藩の松平忠照については、原資料の判読に不確かさが残り、氏名の確定には要確認の注記を付さざるをえない。詳細な石高の多くも判読できなかった。

この一覧に横須賀・浜松・掛川の三藩が並ぶこと自体に、遠州の政治地理が反映されている。横須賀藩は遠州南部の海に近い地に、掛川藩は東海道の要衝に、浜松藩は遠州西部の中核にそれぞれ置かれた藩であり、いずれも竜洋を含む天竜川下流域の周辺に位置する。竜洋の村々が、これらの藩のいずれかの藩領に属した時期があったのか、あるいは主として天領であり続けたのかは、原資料の一覧からは一義的には読み取りがたい。一覧が「遠州の藩主」を広く掲げているのは、竜洋そのものの領主というより、この地域を取り巻いた近世大名の布置を示す趣旨と解するのが穏当であろう。

幕末に近い時期の藩主として、一覧には牧野定久(浜松藩)、池田正太郎(掛川藩、複数回にわたり記載)といった名も見える。牧野定久は、人物読み物「町や村を背負った人達」でも取り上げられる人物であり、浜松藩と竜洋地域を結ぶ幕末の人脈として記憶されてきた。ただし、これらの藩主の在任期間や竜洋との具体的な関係については、原資料の年代表記の判読が難しく、確定的なことは述べられない。ここでも、読み取れた名を記録し、読み取れなかった年代を未確認とする原則を保つ。

藩主の系譜を読むうえで注意すべきは、大名の交代が地域の意思とは無関係に、幕府による配置換えとして起こる点である。転封によって藩主が替われば、その藩領に属した村々は、前触れもなく新たな大名の支配下に移される。竜洋の村々にとって、藩領であることは、遠くの城下に座す大名の顔ぶれが、自らの関与しえない事情で入れ替わり続けることを意味した。一覧に並ぶ藩主名の交代は、こうした近世大名の可動性を、竜洋の側から映し出した記録として読むことができる。判読の限界ゆえに個々の関係を確定できないとしても、藩という支配の主体が固定的でなかったという構造は、一覧の全体から確かに看取される。

竜洋を取り巻く遠州の政治地理 天竜川 浜松藩 遠州西部 掛川藩 東海道 横須賀藩 遠州南部 竜洋 掛塚湊 位置は概念図。竜洋は天竜川河口に開け、諸藩と天領に取り巻かれた。
図3 竜洋を取り巻く遠州の政治地理(概念図)。浜松・掛川・横須賀の諸藩に囲まれ、天竜川河口の掛塚湊を抱える竜洋の位置を示す。距離・方位は正確な地理を表さない。

5. 中泉代官の系譜 ── 天領支配の実務

竜洋を治めた支配のうち、もっとも継続的にこの地に及んだのが、天領を管轄した中泉代官である。『ふるさと竜洋』の「資料2 中泉代官」には代官の名が挙げられており、判読できた範囲では、井伊秀用(貞享・元禄のころ)、西尾忠照(文化10年〔1813年〕ごろ、横須賀)といった名が確認できる。これとは別に、原資料には正保2年〔1645年〕から嘉永6年〔1853年〕にいたる、約39名分の詳細な中泉代官の在任期間一覧が掲載されている4。天領支配のおよそ二世紀にわたる連なりが、一覧として残されているのである。

この一覧の最初期の代官として、竹本久兵衛の名が挙がる。竹本久兵衛は、正保2年〔1645年〕より慶安元年〔1648年〕まで在任したと記される。一覧の末尾、39番目に位置するのが、人物読み物でも紹介される林伊太郎であり、嘉永6年〔1853年〕から安政5年〔1858年〕まで在任したことが確認できる。すなわちこの一覧は、17世紀半ばの竹本久兵衛に始まり、幕末の林伊太郎に至る、中泉代官所の歴代を通覧する骨格をなしている。もっとも、その中間に位置する多くの代官については、氏名・在任年代の判読が難しく、全39名を網羅的に転記することはできなかった。ここに掲げうるのは、あくまで明瞭に読み取れた代表的な数名にとどまる。

表1 中泉代官の在任期間 ── 判読できた代表例(『ふるさと竜洋』資料1・資料2による)
代官在任期間(原資料の記載)一覧上の位置・備考
竹本久兵衛正保2年〔1645年〕より慶安元年まで約39名一覧の最初期
井伊秀用貞享・元禄のころ〔要確認〕資料2に記載
西尾忠照文化10年〔1813年〕ごろ/横須賀資料2に記載
林伊太郎嘉永6年〔1853年〕より安政5年〔1858年〕まで一覧最後の39番目

一覧の末尾に林伊太郎が置かれていることには、天領支配の終焉が幕末と重なるという時代の区切りが映っている。嘉永から安政にかけての時期は、対外的な危機が幕政を大きく揺さぶった局面であり、その渦中で中泉代官所の系譜もまた閉じられていく。竜洋の側から見れば、二世紀にわたって続いた代官による支配が、幕府そのものの動揺とともに終わりへ向かう、その最後の代官として林伊太郎の名が記録されたことになる。人物読み物がこの林伊太郎に光を当てるのも、彼が単なる39番目ではなく、一つの支配の様式を締めくくる位置に立っていたからにほかならない。系譜の末尾に立つ者は、しばしばその制度の全体を背負って記憶される。

代官の系譜が、藩主の系譜と根本的に異なるのは、その交代の論理である。大名の交代が家の転封として起こるのに対し、代官の交代は、幕府の官僚人事として起こる。代官は幕府の役人であり、任地に土地を世襲的に保有するのではなく、任期を終えれば別の任地へ移り、あるいは中央の役職へ転じる。したがって中泉代官の一覧に並ぶ約39の名は、竜洋という一つの土地に、幕府の統治機構が二世紀にわたって切れ目なく官僚を送り込み続けた、その連続性の記録として読める。藩主の交代が地域にとって外部からの不連続な出来事であったのに対し、代官の交代は、天領統治という制度の連続性のなかで反復された内部の更新であった。

ただし、この連続性を過度に均質なものと見なすことには慎重でありたい。約39名という数それ自体は原資料に明記されているが、個々の代官が実際に中泉に常駐したのか、あるいは他の任地と兼帯したのか、手代を通じた間接的な支配がどの程度を占めたのかといった実務の内実は、一覧からは読み取れず未確認である。天領の代官支配は、しばしば広域を少人数で管轄する希薄な統治でもあった。一覧が示すのは在任者の連なりという骨格であって、その骨格に日々の統治という肉がどのように付いていたかは、別の史料に問わねばならない。この区別を保つことが、一覧を史料として正しく用いる条件である。

中泉代官の系譜 ── 天領支配の連続 1645竹本久兵衛 貞享・元禄井伊秀用 1813頃西尾忠照 1853林伊太郎(39) 正保2年(1645)〜嘉永6年(1853)に約39名。中間の多くは判読困難で未掲載。
図4 中泉代官の在任タイムライン。竹本久兵衛(1645年)に始まり林伊太郎(1853年、39番目)に至る約39名の連なりのうち、明瞭に判読できた代表例のみを示す。

6. 石高と村 ── 支配の単位としての掛塚・袖浦・十束

支配の交代を村の側から見るとき、鍵となるのが石高である。近世の統治は、村を単位として石高を定め、それに応じて年貢を課す仕組みを基礎とした。誰が治めるかという支配の主体が交代しても、治められる村と、その村に付された石高という単位は、統治の座標として持続する。『ふるさと竜洋』の「資料3の二」には、袖浦地区・十束地区の各集落の石高が記載されており、竜洋の村々が近世の統治体系のなかでどのように単位化されていたかを示している。

掛塚地区の石高については、原資料をもとに別稿「掛塚・袖浦・十束の村域変遷と石高」で扱われているため、本稿では立ち入らない。袖浦・十束の各集落の石高も、原資料には具体的な数値が記されているが、判読の難しい箇所が多く、代表的な項目を示すにとどめる。数値の網羅的な転記は、判読の確度が確保できないかぎり、かえって誤りを固定化する危険があるため、本稿では行わない。ここでも、読み取れる範囲と未確認の範囲を区別する原則を保つ。

石高という単位が支配の座標として持続したことは、近世の統治史を読むうえで重要な含意をもつ。藩領であれ天領であれ、村に付された石高は、その村がどれだけの年貢負担能力をもつと見積もられたかを表す数値であり、支配の主体が交代しても引き継がれた。掛塚・袖浦・十束の村々は、藩主が転封し、代官が交代しても、なお同じ石高の村として台帳に記され続けた。支配者は替わり、村は残る──この非対称は、統治史を人物の系譜としてだけでなく、村という持続する基盤の側から捉え直す視点を要求する。

とりわけ竜洋の場合、この基盤は天竜川の営力によって絶えず揺さぶられていた。河口の低地は、洪水のたびに川筋を変え、砂の堆積と浸食によって耕地の輪郭を書き替えた。石高が定める村の姿と、現実の土地の姿とのあいだには、つねに緊張があったと考えられる。掛塚湊の繁栄が示すように、この地は農の村であると同時に舟運と交易の場でもあり、石高という農本主義的な単位だけでは捉えきれない富をも抱えていた。支配の単位としての石高を確認することは、逆にその単位から外れて動いていた竜洋の経済の厚みを、照らし返すことにもなる。

この村という単位の持続は、統治される側から見た近世社会の底堅さを示すと同時に、支配の主体にとっての利点でもあった。すでに石高が定まり、村としてのまとまりが機能している土地は、新たに支配者となった者にとって、そのまま徴税と支配の基盤として引き継ぐことができる。藩主が替わっても代官が交代しても、村の側が統治の受け皿として存続していたからこそ、支配の交代はさほどの混乱をともなわずに反復されえた。竜洋の掛塚・袖浦・十束が、幾度の交代を経てなお村としての連続性を保ったことは、支配者の系譜だけを追っていては見えてこない、地域社会そのものの持続を物語っている。

支配の単位 ── 支配者は替わり、村は残る 藩主(交代) 代官(交代) 近代の首長 村と石高 ── 掛塚・袖浦・十束 持続する統治の座標 石高は支配の主体が替わっても引き継がれ、村を統治の単位として持続させた。
図5 支配の単位としての村と石高。藩主・代官・近代の首長という支配の主体が交代しても、村と石高は統治の座標として持続した。

7. 明治の断絶と連続 ── 県・郡・町村への組み替え

近世の藩領・天領という枠組みは、明治維新によって一挙に解体される。廃藩置県により大名の支配は終わり、天領も幕府の消滅とともにその根拠を失った。かわって竜洋を治める枠組みとなったのが、県・郡・町村という近代の行政組織である。『ふるさと竜洋』には、明治初年から昭和にいたる静岡県知事・磐田郡長の一覧が、西暦・和暦とともに年表形式で記載されている。県政・郡政という、竜洋町を取り巻く上位の行政組織の変遷を示す記録である。氏名の判読ができた範囲では複数の知事・郡長の名が確認できるが、手書き文字の判読が難しく、本稿でも全項目の転記は見送る。

この明治の組み替えには、断絶と連続の両面がある。断絶の側面は明白である。藩主も代官も姿を消し、世襲でも幕府官僚でもない、県令・知事・郡長という新たな官職が地域の上位に立った。明治初年には、廃藩置県後の行政区画として大区小区制が敷かれ、やがて町村制へと展開していく5。竜洋の村々は、この過程で近代的な自治体の枠組みへと再編され、掛塚町・袖浦村・十束村といった町村が形づくられていった。支配の論理は、上からの年貢徴収を軸とする近世的なものから、住民を単位とする近代的な地方自治へと、性格を大きく変えた。

他方で、連続の側面も見落とせない。県・郡という上位組織のもとで、実際に地域を担ったのは、掛塚町長・袖浦村長・十束村長といった、地元に基盤をもつ首長たちであった。原資料には、これらの町村長の一覧、および竜洋町議会議員(昭和30年〔1955年〕ごろ)の氏名が記載されている。掛塚・袖浦・十束の三町村が合併して竜洋町が成立した後、その初代町長となった竹内善平の名も、この一覧のなかに確認できる。近世の村が近代の町村へと姿を変えながらも、地域を担う人の連なりは途切れなかった。支配の主体が外から替わり続けた近世とは対照的に、明治以降の地域首長には、地元の共同体から立つという連続の性格が見てとれる。

竜洋町の成立は、明治以来の町村がさらに統合されていく昭和の市町村合併の流れのなかに位置づけられる。掛塚町・袖浦村・十束村という別々の自治体が一つの竜洋町へまとまったことは、近世以来それぞれに歩んできた掛塚・袖浦・十束の三地域が、行政的に一体化された画期であった。原資料が合併前の各町村長と、合併後の竜洋町議会議員とを併せて記録しているのは、この統合の前後を一望に収めようとする編纂上の意図の表れと読める。誰が治めたかという一覧は、こうして地域の輪郭が描き替えられていく過程そのものを、人名の連なりとして刻んでいる。近代の統治史は、支配者が地域の外から与えられる歴史から、地域が自らの代表を選び出していく歴史へと、その重心を移していったのである。

この明治の組み替えは、天竜川の治水という竜洋固有の課題とも深く結びついていた。近世を通じて洪水に苦しんだ天竜川下流域にとって、近代的な治水と植林は地域の存亡に関わる事業であり、その中心を担った金原明善の営みは、行政組織の組み替えと並行して進んだ地域再編のもう一つの軸であった。金原明善の治水事業とその評価については別稿金原明善 天竜川と向き合った治水の生涯で論じたが、支配の交代という本稿の視点から見れば、明治の統治は、県・郡・町村という行政の組み替えと、治水という自然への働きかけの組み替えとを、同時に進める営みであった。誰が治めるかという問いは、この地では、天竜川とどう向き合うかという問いと、つねに分かちがたく結ばれていたのである。

明治の組み替え ── 近世から近代の統治へ 近世 藩領(藩主) 天領(中泉代官) 年貢を軸とする支配 近代 県知事・郡長 掛塚町・袖浦村・十束村 → 竜洋町(合併) 住民を軸とする自治 廃藩置県 大区小区制→町村制 支配の枠組みは断絶したが、地域を担う人の連なりは町村へと引き継がれた。
図6 明治の組み替え。藩領・天領という近世の枠組みは廃藩置県で解体され、県・郡・町村へ再編されたが、地域を担う人の系譜は町村へと連続した。

8. 結論 ── 支配の交代を通じてみる竜洋

本稿は、竜洋を治めた人々を、藩主・中泉代官・明治以降の首長という三つの層に分け、支配の交代という一本の軸から近世・近代を通覧した。得られた見取り図は次のとおりである。近世の竜洋は、遠州諸藩の藩領と幕府直轄の天領とが交錯する二重支配のもとにあり、そのうち天領は中泉代官所が管轄した。代官の系譜は、竹本久兵衛(1645年)から林伊太郎(1853年、39番目)に至る約39名の連なりとして、二世紀にわたる天領統治の連続性を骨格として残している。明治にはこの枠組みが解体され、県・郡・町村という近代行政へと組み替えられ、掛塚町・袖浦村・十束村を経て竜洋町へと至った。

この通覧から浮かび上がるのは、支配の交代の論理が、層ごとに異なっていたという事実である。藩主の交代は、幕府による転封として、地域の外から不連続に訪れた。代官の交代は、天領統治という制度の連続性のなかで、内部的に反復された。そして明治以降の首長の交代は、地元の共同体から人が立つという、下からの連続性を帯びた。外からの不連続、制度の連続、地元の連続──この三つの異なる交代の様式が、竜洋の統治史を重層的に形づくってきた。誰が治めたかを問うことは、こうした支配の様式の違いを見きわめることでもある。

同時に本稿は、この見取り図が、判読の難しい手書き資料の上に立っていることを、くり返し確認してきた。藩主の氏名には要確認の注記が付き、中泉代官の約39名は大半が判読困難であり、知事・郡長・町村長の一覧も網羅的な転記を見送った。したがって本稿が描いたのは、統治の連なりの輪郭であって、その内実の全容ではない。読み取れた名を史実として、読み取れなかった名を未確認として区別し、明治の制度史のように一般的知見で補える部分はそれと断って用いた。この禁欲的な手続きこそが、断片的な一覧を、後世の調べものに耐える形で残す条件だと考える。

最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、竜洋のどの村がいつ藩領となり、いつ天領へ編入されたかという村ごとの支配の変遷は、本稿の主典拠だけでは復元できず、検地帳や村方文書の博捜を要する。第二に、中泉代官の約39名の全容は、他の天領史料や幕府の代官人事の記録と照合することで、判読の空白を一歩ずつ埋めうる。第三に、明治の県・郡・町村の首長の系譜は、静岡県史・磐田郡制の記録と突き合わせることで、より精確に描きうる。支配の交代という軸は、これらの作業を貫く一本の糸となる。支配者は替わり、村は残る──その非対称のなかに、竜洋という土地が近世から近代へと歩んだ道筋が刻まれている。個々の人物の功績に光を当てる読み物とあわせて読まれることで、この統治の骨格は、はじめて血の通った地域史として立ち上がるはずである。

本稿でたどった藩主・代官・町村長の系譜は、竜洋の土地が幾重もの支配を経てきたことの記録である。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の来歴にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 竜洋町教育委員会編『ふるさと竜洋』(昭和52年〔1977年〕3月刊)巻末「資料1 遠州の藩主」「資料2 中泉代官」「資料3の二 各地の石高」による。原資料は手書き・スキャンによる旧字体・変体仮名を含み、判読の難しい人名・年代を多数含む。
  2. 天領は江戸幕府の直轄地の通称で、幕府から派遣された代官が年貢徴収などの統治にあたった。竜洋を含む遠江の天領は中泉(現・磐田市中心部)の中泉代官所が管轄した。
  3. 「資料1」による。横須賀藩・大須賀忠次(所領6万石)は判読できたが、浜松藩・松平忠次、掛川藩・松平忠照は氏名の判読に不確かさが残り〔要確認〕とした。
  4. 「資料2」および関連する一覧による。正保2年〔1645年〕から嘉永6年〔1853年〕まで約39名分が記載され、竹本久兵衛が最初期、林伊太郎が最後の39番目にあたる。中間の代官には判読困難な箇所が多い。
  5. 大区小区制は明治初年、廃藩置県後に敷かれた行政区画制度であり、その後の町村制(一般に明治22年〔1889年〕施行)へと展開する近代地方制度史の一段階にあたる。制度史上の一般的経緯として付記する。

付記:本稿は一般読者向け資料編 r035 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判と統治史の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)と「未確認/記載なし」の区別を保ち、原資料に判読困難と明記された人名・年代は〔要確認〕・未確認として扱った。原資料にない固有の年代・人名の創作は行っていない。

参考文献・参考資料

  • 竜洋町教育委員会編『ふるさと竜洋』竜洋町、昭和52年(1977年)3月(巻末「資料1 遠州の藩主」「資料2 中泉代官」「資料3の二 各地の石高」)。
  • 磐田物語「竜洋を治めた人達 ── 遠州の藩主・中泉代官・明治以降の首長一覧」(r035/本稿の素材資料編) https://iwata-monogatari.net/r035.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語「町や村を背負った人達」(r021/人物読み物) https://iwata-monogatari.net/r021.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語「掛塚・袖浦・十束の村域変遷と石高」(r034) https://iwata-monogatari.net/r034.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第4号「中泉御殿と天領中泉 ── 徳川直轄地の統治」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/004/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第29号「掛塚湊と廻船問屋 ── 『遠州の小江戸』の最盛期」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/029/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第34号「金原明善 天竜川と向き合った治水の生涯」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/034/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、近世・近代の該当章)。
  • 『静岡県史』通史編(静岡県、近世・近代の該当章)。
  • 『角川日本地名大辞典 22 静岡県』角川書店、1982年(掛塚・袖浦・十束および遠江天領の項)。
  • 国立公文書館デジタルアーカイブ「代官・郡代関係史料」 https://www.digital.archives.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 竜洋町史編さん関係資料(町村合併・町議会関係、竜洋町)。
  • 佐口行正氏所蔵史料(竜洋・掛塚関係)。