失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 掛塚湊と廻船問屋

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第29号(竜洋・掛塚湊研究 一)

掛塚湊と廻船問屋 ──「遠州の小江戸」の最盛期

材木輸送から御用米輸送への展開

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市竜洋(掛塚)

要旨

天竜川河口の左岸にひらけた掛塚は、恵まれた天然の良港ではなく、川と海という条件の厳しい境界を人の手で使いこなして成立させた廻船の湊町である。本稿は、掛塚湊の成立から最盛期、そして衰退に至る過程を、文書・統計によって確認できる史実、社伝や口碑として伝わる伝承、地理的条件から導かれる推定の三つの層に腑分けして記述する。とりわけ掛塚が「遠州の小江戸」と呼ばれた最盛期の像──明治25年(1892年)ごろの廻船問屋36軒・大型船59隻という数字を、その根拠となる資料の性格に立ち返って読み直し、繁栄の絶頂と衰退期の数値とを対比する。あわせて、信州伊那谷の榑木を管流し・筏で天竜川に流し、河口で大型の廻船に積み替える一貫した木材輸送のしくみ、材木輸送から伊勢・美濃の御用米輸送への商いの転換、そして鉄道の時代における湊の役割の終焉を、天竜川河口という地理的条件のもとに位置づける。掛塚の盛衰は、水運が物流の主役であった時代の記憶そのものである。

キーワード:掛塚湊/廻船問屋/御用米輸送/遠州の小江戸/天竜川舟運/株仲間/伊豆石

1. 問題設定 ──「良港ならざる湊」をどう記述するか

磐田市の南のはずれ、天竜川が長い旅を終えて海にそそぐ河口の左岸に、掛塚(かけつか)はある。いまは静かな住宅地だが、町を歩くと、ところどころに黒っぽい石を積んだ古い蔵や塀が目につく。この何気ない石の一つひとつが、かつてここが江戸と船で結ばれた「湊町」であった時代の名残である。掛塚を語るとき、人はしばしばその繁栄──「遠州の小江戸」という美称や、河口に集まった多くの廻船問屋の屋敷──から語り起こす。だが本稿が出発点に置きたいのは、むしろその繁栄の前提にある一つの逆説である。

その逆説とは、掛塚が地形の上では決して恵まれた湊ではなかった、という事実である。天竜川の河口は、川が上流から運びつづける土砂によって水深が浅く、大きな船の出入りには本来適さない場所であった。掛塚は、天然の良港がそこにあったから栄えたのではない。川の物流と海の物流とがぶつかり合う条件の厳しい境界を、人の手と組織の力で使いこなすことによって、はじめて湊として成立した町である。したがって掛塚湊の歴史は、恵まれた自然の記録としてではなく、不利な条件をいかに制度と技術で乗り越えたかの記録として読まれるべきものだと考える。

この視点に立つとき、資料の扱いには慎重さが要る。掛塚に関して現在われわれが手にできる情報は、性格を大きく異にする複数の層から成っている。町村制以降の行政沿革や、入港船数を書き上げた明治期の調べ書きは、文書や統計によって確認できる史実の層に属する。廻船問屋の屋敷や貴船神社境内の碑、社伝として語り継がれてきた由来は、地域が選び取って残してきた伝承の層に属する。そして、湊が担った物流上の役割や衰退の必然性といった説明は、地理と経済の条件から導かれる推定の層に属する。これらを同じ平面で混同すれば、確度の低い伝えを史実のように語り、あるいは価値ある伝承を根拠薄弱として切り捨てる誤りに陥りやすい。

先行する記述を概観しておく。掛塚湊については、磐田市観光協会による「遠州の小江戸」の紹介や、地域の郷土史サークルによる「磐田お宝見聞帳」などの普及的な記述が、繁栄の像を広く伝えてきた。より立ち入った検討としては、みなと文化研究事業の一環として書かれた小杉達「掛塚港の『みなと文化』」があり、回船仲間や掛塚港廻船之碑をめぐる記述はここに拠るところが大きい。さらに竜洋町史編纂の過程で集められた木材諸物資輸送関係の資料や、地区の郷土誌がある。本稿はこれらの記述を、確度の層を明示しながら整理し直すことを企図する。

以下ではまず、掛塚が湊として成立するまでの過程と、その前史をめぐる学説の対立を確認する(第2節)。続いて、掛塚の繁栄を支えた天竜川の木材輸送システム(第3節)、廻船問屋という業態の実像(第4節)、材木から御用米への商いの転換(第5節)を順にたどる。そのうえで、最盛期の数字を史料批判の観点から読み直し(第6節)、地理的背景と衰退の過程を検討して(第7節)、結論に至る。図1は、掛塚湊が果たした「川と海をつなぐ変換点」という役割の全体像を、あらかじめ模式的に示したものである。

川と海をつなぐ変換点としての掛塚湊 信州・伊那谷の山 榑木を管流し・筏で下る 掛塚湊 天竜川河口 海路で江戸へ 材木 → のち御用米 帰り荷は重しの伊豆石
図1 掛塚湊の役割の全体像。信州から伐り出された材木は筏で天竜川を下り、河口の掛塚で大型の廻船に積みかえられて江戸へ運ばれた。川の物流と海の物流をつなぐこの変換点という性格が、掛塚湊の繁栄と限界の双方を規定した。

2. 史料でたどる掛塚の成立と前史

掛塚という地名が文献に現れる早い例は、室町時代後期にさかのぼる。文明17年(1485年)、禅僧・万里集九が著した漢詩文集『梅花無尽蔵』に「懸塚(かけつか)」の名がみえ、集九はこの地に立ち寄って船主の家に一夜を明かしたと伝わる1。500年以上前から、この河口には船と、それを商う家とがあったことになる。ただし、ここで確認できるのはあくまで「船宿があった」という事実であって、後世の廻船問屋群が形づくる本格的な湊町が15世紀に成立していたことまでを、この記事が保証するわけではない。中世の記録と近世の湊町とを、そのまま同一視することはできない。

掛塚がおかれた地形の条件を、史料は率直に伝えている。港口には浅瀬があり、満潮時でも水深は5尺(約1.5メートル)、干潮時には1尺(約30センチメートル)ほどしかなく、高波のときには船の出入りが困難であったと記録される2。この数値は、掛塚が「恵まれた良港」ではなかったことを端的に示している。第1節で述べた逆説──不利な条件を人の手で克服して成立した湊──は、この前史の段階からすでに掛塚の宿命であった。掛塚の繁栄を語るときには、この地理的な不利をまず前提として押さえておく必要がある。

掛塚湊の前史としてしばしば語られるのが、白羽湊(しろわみなと)である。南北朝時代の延元3年(1338年)、宗良親王が遠江の白羽湊に着いたことが、親王の歌集『李花集』にみえる。問題は、この白羽湊がどこにあったのかをめぐって、見方が一つに定まっていない点である。天竜川河口部の地形は、洪水や土砂の堆積によって歴史のなかで大きく姿を変えてきたため、中世の湊の位置を現在の地図の上に一点で確定することは容易ではない。

説A(竜洋の白羽とする見方)は、現在の竜洋・白羽の地名との連続を重んじ、掛塚湊の前身をこの付近に求める。地名の継承を手がかりとする点に説得力があるが、地名は移動・転用されうるものであり、中世の白羽が現在の白羽と同一地点である保証はない。説B(浜松市の米津海岸にあった湊〔田尻湊〕とする見方)は、河口部の地形変化を重くみて、天竜川の対岸側に湊を想定する。こちらは地形復元に基づく点で堅実だが、現在の白羽の地名との断絶をどう説明するかという課題を残す。両説は、地名の連続を取るか地形の変化を取るかという、依拠する手がかりの違いに根ざしている。

本稿の立場:白羽湊の所在は、現時点でいずれとも断定できない。本稿は両説を対等に併記し、湊の位置の確定は今後の研究に委ねる。ただし、いずれの理解をとるにせよ、室町時代後期にはこの河口付近に船の停泊する湊があり、恵まれない港湾条件がその後の掛塚湊の性格を規定したという点は動かない。なお、中世の荘園(池田荘)との関わりなど、より古い時代の土地の記憶については池田荘と掛塚湊の起源で別にたどっている。

本格的な湊町としての掛塚が姿を現すのは、近世に入ってからである。天下が徳川の支配のもとに安定し、江戸という巨大な消費地が生まれると、そこへ物資を送り込む物流の結節点として、天竜川河口の掛塚に新たな役割が与えられた。次節でみる木材輸送のしくみは、その役割の中核をなすものである。中世の船宿の記憶を土台としつつ、掛塚は近世において、まったく規模の異なる物流拠点へと生まれ変わっていく。

『李花集』にみえる白羽湊(延元3年・1338年)はどこか 遠州灘の海岸線(模式) 天竜川 竜洋・白羽 浜松・米津海岸 説A 竜洋の白羽とする見方 現在の白羽の地名との連続を重んじる 掛塚湊の前身をこの付近に求める 課題:地名は移動・転用されうる 説B 米津海岸の湊(田尻湊)とする見方 河口部の地形変化を重くみる 天竜川の対岸側に位置を求める 課題:現在の白羽の地名との断絶 本稿はいずれとも断定せず、両説を対等に併記する
図2 白羽湊の所在をめぐる二説。海岸線と河口の形は説明のための図式であり、当時の地形を復元したものではない。地名の連続を重んじる説Aと、地形の変化を重くみる説Bは、依拠する手がかりを異にしており、本稿はいずれとも断定していない。

3. 山から湊へ ── 天竜川の木材輸送システム

掛塚湊の繁栄を根底で支えたのは、天竜川の上流から河口までを一貫してつなぐ木材輸送のしくみであった。慶長5年(1600年)前後、徳川家康は信州・伊那谷を幕府の直轄領(天領)とし、この地域では年貢の一部を米ではなく「榑木(くれき)」──杉・檜・椹(さわら)を板状に挽いた材──で納めさせた。年貢が材木そのものであったという点は重要である。すなわち、上流の山で生み出される材木を確実に江戸まで届けることは、単なる商いであるにとどまらず、幕府の財政を支える公的な物流でもあった。この構造が、天竜川の木材輸送に一定の安定と規模を与えた。

榑木の流送には、川ならではの工夫が凝らされていた。まず、一本ずつ川に流し込む「管流し(くだながし)」によって榑木を天竜川に下し、途中の船明(ふなぎら)・肘荒(ひあらい)などに張られた留綱(とめづな)でせき止める。せき止めた材は、いったん陸へ引き上げて山積みにして貯えておき、必要に応じてそこから筏(いかだ)に組み直し、あらためて川を下って掛塚湊まで送る。ばらばらに流す段階と、筏にまとめて運ぶ段階とを使い分けるこの二段構えは、増水や渇水に左右されやすい川の輸送を、可能なかぎり平準化するための知恵であった。天竜川という「暴れ川」を物流路として飼いならすには、こうした段階的な制御が欠かせなかった。

掛塚が果たしたのは、この川の物流を海の物流へと接続する「変換点」の役割である。川を流れ下ってきた材木は、掛塚においてはじめて、外洋を渡ることのできる大型の廻船に積みかえられた。掛塚湊は、大坂と江戸とを結ぶ廻船の中継地としての性格もあわせ持ち、天竜川舟運の荷を積み替える湊として、単なる一地方港にとどまらない広域物流の結節点になっていた。上流の管流し・筏流しという川の技術と、廻船による海の技術とが交わるこの一点に、掛塚はほかに代えがたい位置を占めていた。

この一貫システムの意義は、掛塚の繁栄が偶然の産物ではなかったことを示す点にある。掛塚が栄えたのは、そこに良港があったからではなく、信州の山から江戸の町までを結ぶ長大な物流の鎖の、ちょうど川と海の継ぎ目にあたる位置を占めていたからである。逆にいえば、その繁栄は上流の森林資源と、それを需要する江戸の存在という二つの外的条件に依存していた。後にみるように、この依存の構造こそが、資源の枯渇や物流路の転換に対して掛塚を脆くする要因ともなった。図3は、山から湊までの木材輸送の流れを整理したものである。

山から湊へ ── 天竜川の一貫木材輸送 榑木(年貢)信州・伊那谷 管流し一本ずつ流す 留綱で貯木船明・肘荒 筏に組む川を下る 掛塚湊廻船に積替 川の物流(緑・青)と海の物流とが、掛塚湊(濃い青)で継ぎ合わされる。
図3 木材輸送システムの流れ。榑木は管流しで天竜川に流され、留綱で貯えられ、筏に組み直されて掛塚まで下る。掛塚はこの川の物流を廻船による海の物流へ接続する変換点であった。

4. 廻船問屋という業態 ── 商い・自治・会所

掛塚湊の主役は、廻船問屋(かいせんどんや)と呼ばれる商人たちであった。廻船問屋を現代のことばに置き換えるなら、物流会社・商社・倉庫業・金融業の役割を少しずつ兼ねた存在だと理解するとわかりやすい。荷主と船主とを結びつけ、船を仕立て、荷を預かり、代金をやり取りし、そして嵐や座礁、相場の変動といった海運につきものの危険を引き受けながら、商いを成立させていた。物と金と危険とが集まるこの結節点を差配する力が、廻船問屋の経済力の源泉であった。

注目すべきは、掛塚においてこの経済力が、湊の商いにとどまらず、村の自治そのものへと及んでいた点である。掛塚では、村役人である村名主が廻船問屋のなかから選ばれ、港の実務を統括する港名主が村名主を兼ねる例もあったと伝えられる。船を持ち湊を差配する者が、そのまま村の自治の担い手でもあったわけである。経済的な力と行政的な権限とが同じ人々の手に集まるこの構造は、掛塚が「廻船問屋の町」として一体的に運営されていたことを物語る。掛塚を代表する廻船問屋・吉岡家の具体的な商いぶりについては、掛塚の豪商・吉岡家と廻船問屋の繁栄で立ち入って論じている。

廻船問屋の営みが、個々の商家の勝手な取引ではなく、一定の規則のもとで組織的に運営されていたことは、残された文書からうかがえる。元禄7年(1694年)の年紀をもつ津倉家文書「掛塚湊廻船連判掟書」や、稲勝家に伝わる「船頭船番船持味帳」には、船主・船頭の名や積荷に関する取り決めが書き留められており、廻船業務が業者の会所(かいしょ)によって統制されていたことを示している。連判の掟書が交わされていたという事実は、掛塚の廻船問屋が互いに規則で結ばれた同業者集団を形づくっていたことの証左であり、後にみる株仲間の存在とも通じるものである。

屋号「江戸屋」の廻船問屋 ── 津倉家

吉岡家とならんで掛塚の廻船問屋の実像を今日に伝えるのが、屋号を「江戸屋」と名のった津倉家である。江戸屋という屋号そのものが、この家の商いが江戸との海運に深く結びついていたことを物語っている。津倉家は江戸後期から明治期にかけて廻船問屋・材木商として栄えた豪商で、現存する主屋は明治22年(1889年)、地元の大工・祖父川藤治郎の手によって建てられたと伝わる。通りに面した格子窓をもつ二階建てで、店先の土間から座敷へと続く間取りには、材木商にふさわしい良材がふんだんに用いられている。敷地内の土蔵は、天竜川の水害に備えて伊豆石を丁寧に貼った二階建てで、内部は板張りと漆喰仕上げとなっている。この主屋・座敷棟・土蔵は令和5年(2023年)に国の登録有形文化財となり、水運で栄えた掛塚の記憶を伝える建物として、現在も現地で見学の機会が設けられている。津倉家住宅は、後述する伊豆石という「帰り荷の記憶」を、建物そのものの形で今に伝える貴重な実例でもある。

5. 材木から御用米へ ──「遠州の小江戸」の成立

近世に入り、天竜川上流の森林資源が江戸の町普請や城郭建築などの需要に応じて本格的に切り出されるようになると、掛塚は材木輸送の拠点として急速に発展した。だが江戸時代も中ごろになると、天竜川上流の木材はさすがに伐り尽くされてきた。掛塚の繁栄が上流の森林資源に依存していた以上、資源の枯渇は湊の存立そのものを揺るがしかねない事態であった。ここで掛塚の廻船問屋たちが示した対応が、商いの中身の転換である。すなわち、材木にかわる新たな輸送品目として、御用米(ごようまい)の運搬に乗り出したのである。

御用米輸送とは、伊勢国や美濃国で集められた幕府直轄領の年貢米を、船で江戸まで運ぶ仕事である。第3節でみたように、天竜川上流の年貢が材木そのものであったのと同じく、幕府の年貢米を江戸へ回送する御用米輸送もまた、公的な性格をもつ物流であった。掛塚の廻船問屋は、材木という一つの品目に依存する構造から、幕府の米の輸送という別の柱を得ることで、輸送業者としての基盤を広げた。この転換によって掛塚の廻船問屋はさらに大きな財をなし、湊のまわりには廻船問屋の屋敷が建ち並んだ。そのにぎわいから、掛塚はいつしか「遠州の小江戸」と呼ばれるようになる。

この繁栄が残した、もう一つの痕跡が「伊豆石」である。江戸へ材木や米を運んだ船は、帰り道には積む荷が乏しい。荷の軽いままでは船の重心が高く安定しないため、船主たちは重し(バラスト)として伊豆あたりの石を積んで帰ってきた。そして、その石が掛塚の蔵や塀の材料に転用された。町に今も残る黒っぽい伊豆石は、単なる装飾ではなく、帰り荷という海運経済の合理性がそのまま建材へと姿を変えたものである。前節でふれた津倉家の土蔵に伊豆石が用いられているのも、この文脈のなかで理解される。石を見れば、往路と復路とで積荷の入れ替わる廻船の商いの構造が読み取れるのである。

材木から御用米への転換を、単なる品目の切り替えとしてではなく、掛塚の廻船問屋が示した経営上の適応として評価しておきたい。上流の資源に依存する材木輸送は、資源の枯渇とともにいずれ縮小する運命にあった。廻船問屋たちは、その限界を先読みするかのように、幕府の米という安定した公的需要へ商いの軸足を移した。この柔軟さこそが、掛塚を一時代の材木集散地にとどめず、「遠州の小江戸」と呼ばれる持続的な繁栄へ導いた要因であったと考えられる。図4は、この商いの転換の構図を整理したものである。

商いの転換 ── 材木から御用米へ 材木輸送 近世前期 上流の森林に依存 資源の枯渇 上流の木材を 伐り尽くす 御用米輸送 近世中期以降 伊勢・美濃の年貢米 屋敷が建ち並び「遠州の小江戸」と呼ばれる 往路=材木・御用米/復路=重しの伊豆石(蔵・塀の材料に)
図4 材木から御用米への商いの転換。上流の資源枯渇に対し、掛塚の廻船問屋は幕府の年貢米輸送という公的需要へ軸足を移し、繁栄を持続させた。この経営上の適応が「遠州の小江戸」の成立を支えた。

6. 数字でみる最盛期 ── 36軒・59隻をどう読むか

掛塚の繁栄は、しばしば具体的な数字で語られる。もっとも栄えた明治25年(1892年)ごろには、36軒もの廻船問屋が、あわせて59隻もの大型船を所有していたという3。天竜川河口の小さな町に、これだけの商家と船とが集まっていたことになる。この「36軒・59隻」は、掛塚の最盛期を象徴する数字として広く引かれてきた。だが、こうした数値を扱うときこそ、その数字がどのような資料に由来し、何を数えたものなのかを問い直す作業が要る。数字は一見客観的にみえるが、出所と数え方を異にする数値を無造作に並べれば、かえって湊の実像を見誤らせる。

比較のために、江戸へ向かう廻漕船の数の推移をみておこう。記録によれば、その数は文化年間(1804〜1818年)に38隻、天保2年(1831年)に40隻、明治17年(1884年)に36隻であり、江戸後期から明治前期までほぼ一定の水準を保っていた。ここで注意したいのは、この「廻漕船数」と、先の「大型船59隻」とが、必ずしも同じものを数えていない可能性である。前者は江戸へ向かう船の数、後者は廻船問屋が所有する大型船の総数であり、数える対象がずれている。したがって「38隻から59隻へ増えた」と単純に接続することはできない。同じ「隻」という単位でも、何を母数とした数字かを確かめないまま比べることは、史料批判の観点から慎むべきである。

もう一つ、数字の変化として押さえておきたいのが、貴船神社の境内に昭和3年(1928年)に建立された「掛塚港廻船之碑」の伝える姿である。この碑が建てられた時点では、回船仲間は18人、所有する船は38艘であったと刻まれている4。明治25年ごろの36軒・59隻という最盛期の数字と比べると、碑が建てられた昭和初期には、廻船問屋の数も船の数も、およそ半分近くにまで減っていたことになる。ただしこの碑は、繁栄の絶頂を記念して建てられたものではない。鉄道の時代を経て湊の役割が失われていくなかで、なお港と海運の記憶を後世に残そうとした人々の意志によって建てられた記念碑である。碑に刻まれた数字は、繁栄そのものよりも、繁栄が過ぎ去りつつあった時代の自己認識を伝えている。

掛塚の廻船問屋が、組織立った商業集団であったことも、資料から裏づけられる。静岡県立中央図書館の学習資料には、掛塚湊の廻船問屋が株仲間(独占的な同業者組織)を形成していたことを示す史料が紹介されている。株仲間の存在は、掛塚が個々の商家の偶然の集まりではなく、参入や取引を規制する組織的な商業拠点であったことを示す。第4節でみた元禄7年の連判掟書や会所による統制と考え合わせれば、掛塚の廻船業が近世を通じて一貫して組織的に運営されていたことがうかがえる。数字に表れる繁栄の背後には、こうした制度の裏づけがあった。

以上を踏まえ、掛塚湊に関して残された主な数値記録を、その種別・出所・確度とともに一覧に整理しておく(表1)。ここで確度の欄を設けたのは、数字ごとに拠って立つ資料の性格が異なるためである。行政統計に基づく数値と、碑文に刻まれた数値、普及的な紹介に由来する数値とを、同じ確からしさのものとして扱うことはできない。表を通覧すれば、掛塚の「数字」が単一の帳簿から得られる整合的な系列ではなく、性格を異にする複数の資料の寄せ集めであることが見て取れるはずである。

表1 掛塚湊に関する主な数値記録 ── 年次・数値・種別・出所・確度
年次数値数えた対象主な出所確度の層
文明17年(1485年)港口の水深 満潮5尺/干潮1尺港口の浅瀬の水深『梅花無尽蔵』ほか関連記述史実(文献)だが解釈に留保
文化年間(1804〜1818年)38隻江戸へ向かう廻漕船竜洋地区郷土誌ほか推定を含む記録値
天保2年(1831年)40隻江戸へ向かう廻漕船竜洋地区郷土誌ほか推定を含む記録値
明治17年(1884年)36隻江戸へ向かう廻漕船竜洋地区郷土誌ほか推定を含む記録値
明治25年(1892年)ごろ廻船問屋36軒・大型船59隻問屋数・所有する大型船観光協会等の普及的紹介最盛期の像・出所要確認
明治28年(1895年)日本形405隻・西洋形19隻一年間の入港船「航路標識位地構造方及入港船舶調べ」史実(調べ書き)
明治39年(1906年)156隻入港船竜洋地区郷土誌ほか推定を含む記録値(最後の高原)
昭和3年(1928年)回船仲間18人・船38艘回船仲間と所有船掛塚港廻船之碑(貴船神社境内)史実(碑文)だが衰退期の値

明治も後半に入ると、掛塚に出入りする船の姿そのものが変わっていく。明治28年(1895年)の「航路標識位地構造方及入港船舶調べ」には、一年間の入港船として日本形船405隻に対し西洋形船19隻が記録され、最大級の船としては西洋形500トン積、日本形1,600石積の名がみえる。さらに明治36年(1903年)には、西洋型帆船・第七石宝丸(181.46トン)が進水し、その奉納額が貴船神社に残されている。和船の湊であった掛塚が、洋式帆船の時代に対応しようとしていた証しである。もっとも、この対応が湊の延命につながったかといえば、次節でみるとおり、時代の趨勢はすでに海運そのものから離れつつあった。数字は繁栄を語ると同時に、その繁栄を支えた条件がしだいに崩れていく過程をも記録している。図5に、廻漕船数の推移を示す。

江戸へ向かう廻漕船の数 50隻 25隻 0 38隻 40隻 36隻 文化年間 1804〜1818年 天保2年 1831年 明治17年 1884年 三つの時点をつないだ線であり、その間の増減を示すものではない(独自作成)
図5 江戸へ向かう廻漕船数の推移。文化年間38隻、天保2年40隻、明治17年36隻と、江戸後期から明治前期までほぼ一定の水準を保っていた。この「廻漕船数」と最盛期の「所有大型船59隻」とは数えた対象が異なる点に注意を要する。

7. 地理と衰退 ── 天竜川河口と鉄道の時代

掛塚湊の盛衰を理解するには、その地理的条件へ立ち返る必要がある。第2節でみたとおり、天竜川の河口は土砂の堆積で浅瀬が多く、出入りする船の座礁が絶えなかった。この不利を補おうとした営みの一つが、掛塚灯台である。天竜川河口の東岸・駒場に立つこの灯台の前身は、旧幕臣・新井信敬が明治13年(1880年)に私財を投じて築いた、菜種油を灯火とする私設灯台であった。信敬は好んだ酒を断ってまで燃料代を捻出し、みずから毎晩火をともし続けたと伝わり、この私設灯台は「改心灯台」とも呼ばれた。のち明治30年(1897年)3月25日、私設灯台の北西18メートルの位置に、国(逓信省)による正式な掛塚灯台が完成する。現在、全国に3,118基ある灯台のうち、明治期に建てられて現存するものはわずか64基とされ、掛塚灯台はその貴重な一基である。個人の善意から始まった灯が国の灯台へ引き継がれたこの経緯は、掛塚という湊が官民を問わず多くの人の手で支えられてきたことを象徴している。

湊としての盛衰の裏側で、掛塚は行政区画としても変遷を重ねた。明治22年(1889年)4月1日、町村制の施行により掛塚村など5村が合併して「長上郡掛塚村」が発足し、明治29年(1896年)4月1日には郡制施行にともなって所属郡が磐田郡へ変わり、同年6月29日に町制を施行して「磐田郡掛塚町」となった。昭和25年(1950年)の国勢調査時点で、掛塚町の人口は6,847人を数えている。そして昭和30年(1955年)4月1日、掛塚町は十束村・袖浦村と合併して竜洋町となり、掛塚町としての歴史に幕を下ろした。平成17年(2005年)には竜洋町が磐田市へ合併し、現在に至る。掛塚は旧竜洋町の中心であり、川袋・白羽・十郎島・平松・駒場・岡・中島など天竜川河口の集落とともに、いまの竜洋地区の生活圏を形づくってきた。なお、遠州灘に面したもう一つの湊町・福田の展開については、福田湊の発展と遠州の漁業史で別に論じており、河口の廻船湊である掛塚と、外海の漁業・海運を担った福田とを対比することで、遠州の湊町の多様さが見えてくる。

掛塚湊の役割に終止符を打ったのは、思わぬ方向からの変化──鉄道であった。明治22年(1889年)、東海道線が開通する。重い荷を船でゆっくり運ぶ時代から、汽車で速く運ぶ時代へと、物の流れの基本構造そのものが変わった。掛塚の湊が担ってきた輸送は、しだいに鉄道へ取って代わられていく。ここで見誤ってはならないのは、これが掛塚固有の失敗や怠慢によるものではなかった、という点である。水運から鉄道への転換は日本全体の物流構造の変化であり、掛塚はその大きな趨勢のなかで役割を終えたのである。

天竜運輸と運賃同盟 ── 湊の終焉を早めたもの

木材の鉄道輸送の可能性をいち早く見通したのが金原明善であった。明善は、東海道線全通と同じ明治22年(1889年)、天竜川西岸に天竜運輸会社を設立し、鉄道の停車場から木材を陸送するしくみに乗り出す。明治31年(1898年)には天竜川駅が開業し、木材は中野町(現在の浜松市)地先で陸揚げされて列車で運ばれる流れが太くなっていった。なお資料には、当初の東海道線は中泉から南下して掛塚を経由し浜松へ向かうルートが考えられていたが、地元の廻船業者が反対したため現在のルートになった、という経緯が記されている。ただし、この種の「鉄道忌避」の話は全国各地に伝わる一方、史料的な裏付けを欠く例が多いことが指摘されており、掛塚についても計画路線の実否を含めて慎重な検討を要する5。本稿では、資料の記述として紹介するにとどめる。

海運の側も、手をこまねいていたわけではない。明治33年(1900年)には掛塚の船主たちが運賃同盟を結んで陸送への対抗を図り、鉄道側との間で運賃をめぐる紛糾も起きた。しかし日清・日露の両戦争を経て物流の主軸は着実に鉄道へ移り、明治39年(1906年)には池田村から中泉駅へ人車軌道が敷かれて、天竜川東岸の木材までが中泉駅経由の鉄道輸送に流れるようになる。この人車軌道が、のちの中泉軌道につながっていく。鉄道側が運賃率を引き下げると、価格競争において掛塚港の廻船問屋は決定的な打撃を受けた。港湾は増大する木材の移出に設備の面で適応できず、製材の中心も中野町付近の工場地帯へと移っていった。

没落は数字にも表れている。明治39年(1906年)の入港船156隻という記録を最後の高原として、掛塚の船数・取扱量は明治末から大正にかけて減少に向かい、大正中期に計画された天竜軽便鉄道も実現しないまま、湊は静かに役目を終えていった。かつて港のあった入江に「港湾」の地名が残るのみとなる。500年にわたって川と海をつないできた湊の歴史が、時代の転換のなかで幕を閉じたのである。ただし、この衰退を単純な「敗北」と読むのは正確ではない。掛塚は、川と海が物流の主役であった時代に必要とされた役割を、果たしきった町である。むしろ注目すべきは、湊としての役割が終わったのちも、掛塚が自らの来歴を語り継ぐ手立てを手放さなかったことだろう。伊豆石の蔵や津倉家住宅のような旧廻船問屋の建物、掛塚灯台、そして貴船神社境内の掛塚港廻船之碑は、いずれも経済活動そのものが終わったあとに、意識して残されてきた記憶の器である。図6に、水運から鉄道への転換の構図を示す。

荷の流れが、川と海から線路へ移る 上流の木材信州・伊那谷方面 天竜川を下る筏・管流し 掛塚湊で積替廻船で海路 江戸へ 旧来の水運 明治22年(1889)東海道線が開通 天竜運輸会社金原明善が同年設立 中泉駅経由の陸送人車軌道・運賃引下げ 鉄道の整備 明治39年(1906)の入港156隻を最後の高原に、明治末〜大正で湊の役割は終わる(独自作成・位置関係を示す図ではない)
図6 水運から鉄道への転換。上段は旧来の水運の経路、下段は鉄道側の整備を示す。両者の競合のなかで掛塚の廻船問屋は打撃を受け、明治末から大正にかけて湊は役割を終えた。掛塚の衰退は固有の失敗ではなく、日本全体の物流構造の転換の結果であった。
材木・榑木天竜川の管流し 御用米・年貢米江戸廻米 「遠州の小江戸」廻船問屋の繁栄 掛塚湊 輸送品目の転換 材木輸送から御用米輸送へと軸足を移し、湊町の最盛期を築いた。
図7 掛塚湊における輸送品目の転換。天竜川の材木輸送に始まり、御用米・年貢米の廻米へと軸足を移すなかで、掛塚は「遠州の小江戸」と呼ばれる最盛期を迎えた。

8. 結論 ──「遠州の小江戸」の最盛期をどう位置づけるか

本稿は、天竜川河口の掛塚湊について、その成立から最盛期、衰退に至る過程を、史実・推定・伝承の三層に腑分けして検討した。得られた見取り図は次のとおりである。掛塚は恵まれた天然の良港ではなく、港口の浅瀬という不利な条件を、木材輸送の一貫システムと廻船問屋の組織的な商いによって克服して成立した湊であった。その繁栄は、信州の森林資源と江戸の需要という二つの外的条件に依存しており、材木の枯渇に際しては御用米輸送への転換によって、この依存の構造を組み替えることで持続をはかった。そして水運から鉄道への物流構造の転換とともに、湊はその役割を終えた。

「遠州の小江戸」と呼ばれた最盛期の像──明治25年ごろの廻船問屋36軒・大型船59隻という数字は、掛塚の繁栄を象徴するものとして尊重されてよい。ただし本稿が繰り返し確認したように、この数字は行政統計に基づく厳密な計数というより、繁栄の記憶を伝える普及的な数値であり、江戸へ向かう廻漕船数や、碑文に刻まれた昭和初期の回船仲間18人・船38艘という数字とは、数えた対象も資料の性格も異なる。これらを同じ確度のものとして無造作に接続するのではなく、それぞれの数字が何を、どの資料に基づいて数えたのかを腑分けしてはじめて、掛塚の盛衰は正確に描ける。繁栄の絶頂の数字と、衰退期の碑文の数字とを対置することは、掛塚が一つの時代の始まりと終わりの双方を、自らの記録として残してきたことを示している。

したがって本稿の立場は明確である。掛塚湊は、恵まれた良港が自然に栄えたという物語としてではなく、条件の厳しい境界を制度と技術と組織の力で使いこなした湊として記述されるべきである。この視点に立つとき、掛塚の衰退もまた、敗北としてではなく、水運が果たすべき役割を果たしきったのちの、物流構造の転換への応答として理解される。史実・推定・伝承を混同せず、「未確認」(管見の限り一次史料に突き当たっていない事柄)と「記載なし」(史料に存在しない事柄)とを区別し、数字を出所に立ち返って読むこと──この禁欲的な手続きこそが、湊町の記憶を後世の調べものに耐える形で残す方途であると考える。

最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、白羽湊の所在をめぐる二説は、河口部の地形変遷を復元する地理学的な検討と、地名史料の博捜とを重ねることで、なお前進させうる余地がある。第二に、明治25年ごろの「36軒・59隻」という数字の一次的な典拠は、本稿の範囲では確定できておらず、竜洋町史編纂資料や地区郷土誌の原本にあたって出所を確かめる作業が残されている。第三に、湊としての経済活動が終わったのちも、掛塚の富と技術と誇りは、貴船神社の例祭・掛塚まつりの絢爛な屋台という形で受け継がれた。この祭礼文化と屋台については掛塚まつりと豪華屋台で扱っており、湊の経済史と祭礼史とを接続する作業は、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。恵まれない河口に一つの湊町を成立させ、時代の転換とともに静かに幕を下ろし、なおその記憶を語り継いできた掛塚の歩みは、水運の時代の遠州を映す、確かな一つの鏡である。

本稿の舞台である竜洋・掛塚のような河口の町には、水運で栄えた時代からの古い家や土蔵、代を重ねてきた土地が今も数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 掛塚(懸塚)の名は、万里集九『梅花無尽蔵』文明17年(1485年)の記述に現れるのが早い例とされる。集九が船主の家に宿をとったと伝わる点については、地域の郷土史記述による。
  2. 港口の水深が満潮時でも5尺(約1.5メートル)、干潮時には1尺(約30センチメートル)ほどで、高波の際には出入りが困難であったとの記録は、掛塚湊の港湾条件を伝える基本的な数値であり、恵まれた良港ではなかったことを示す。
  3. 明治25年(1892年)ごろの廻船問屋36軒・大型船59隻という数字は、磐田市観光協会など普及的な紹介に広く引かれる最盛期の数値である。行政統計に基づく厳密な計数ではない可能性があり、一次的な典拠の確認を要する。
  4. 回船仲間18人・船38艘の数字は、貴船神社境内に昭和3年(1928年)建立の「掛塚港廻船之碑」に拠る。小杉達「掛塚港の『みなと文化』」に紹介がある。繁栄の絶頂ではなく、衰退期の自己認識を伝える数値である点に留意を要する。
  5. 東海道線が当初は掛塚経由で計画され、廻船業者の反対で現ルートになったとする「鉄道忌避」の伝えは、全国に類話が分布する一方で史料的裏付けを欠く例が多いことが指摘されており、掛塚についても計画路線の実否を含め慎重な検討を要する。本稿は資料の記述として紹介するにとどめた。

付記:本稿は一般読者向け記事 r036「掛塚湊の成立と廻船問屋」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・推定・伝承)を語の水準で区別し、町村制以降の行政沿革や明治期の入港船調べを史実、社伝・口碑として伝わる由来を伝承、湊の物流上の役割や衰退の必然性を地理・経済からの推定として扱った。

参考文献・参考資料

  • 磐田市観光協会「掛塚湊の碑」「遠州の小江戸と呼ばれた掛塚湊」(掛塚湊・廻船問屋の概要)。
  • 磐田お宝見聞帳「竜洋地区と天竜川」「掛塚湊の町並み跡」(地域郷土史サークルによる紹介)。
  • 小杉達「掛塚港の『みなと文化』」みなと文化研究事業(日本財団図書館アーカイブ収載)。回船仲間・掛塚港廻船之碑に関する記述。 https://nippon.zaidan.info/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 静岡県立中央図書館 学習資料「江戸時代の株仲間の役割 ~安定供給と物価~」(掛塚湊廻船問屋の株仲間に関する史料)。 https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 文化遺産オンライン「旧津倉家住宅主屋」「旧津倉家住宅土蔵」(国登録有形文化財、屋号「江戸屋」津倉家の沿革・建築)。 https://bunka.nii.ac.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 国税庁「年貢米の江戸回送」(御用米輸送のしくみの確認)。 https://www.nta.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • Wikipedia「掛塚町」「掛塚灯台」(町村制・郡制・合併の年次、灯台の沿革確認)。 https://ja.wikipedia.org/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 海上保安庁「灯台ONEタップビュー」、ふじのくにメディアチャンネル(掛塚灯台・新井信敬「改心灯台」の沿革)。 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 元禄7年(1694年)津倉家文書「掛塚湊廻船連判掟書」、稲勝家文書「船頭船番船持味帳」(会所による廻船統制。上記資料所引)。
  • 金原明善記念館所蔵「掛塚港輸出荷物調」(文久2年〜明治5年の運賃・出荷量。上記資料所引)。
  • 「航路標識位地構造方及入港船舶調べ」明治28年(1895年)(日本形・西洋形の入港船数、最大船の規模。上記資料所引)。
  • 竜洋町史編纂資料・掛塚湊/木材諸物資輸送編、竜洋地区郷土誌「七、交通運輸の変遷」(存在確認。原本は現地資料での裏取りを推奨)。
  • 磐田物語 r036「掛塚湊の成立と廻船問屋 ── 材木輸送から御用米輸送、『遠州の小江戸』の最盛期へ」 https://iwata-monogatari.net/r036 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語「大石浩之の磐田論考」第15号「掛塚まつりと豪華屋台」(/oishi-ronko/015/)、第24号「福田湊の発展と遠州の漁業史」(/oishi-ronko/024/)。