失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 境松の門前町 ── 東海道の立場と饅頭屋のあった風景

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第99号(中泉・境松研究 一)

境松の門前町 ── 東海道の立場と饅頭屋のあった風景

国分寺門前と街道の交わる場所

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市中泉(境松)

要旨

境松は、磐田市の見付と中泉の境に位置した小さな町である。旧東海道が遠江国分寺跡のそばを抜けるこの一帯で、境松は街道の立場(たてば)として旅人を迎え、国分寺薬師堂と府八幡宮の門前として暮らしを営み、宮前で売られた饅頭は元禄期の案内記に名を残した。本稿は、この境松という土地を、行政上の帰属の二重性、東海道の立場としての機能、門前の商いと名物饅頭、江戸期の東海道絵図に映る家並みの変遷、そして発掘による裏づけという五つの断面から検討する。とりわけ、元禄・文化・天保の三種の絵図を重ねて読むことで浮かぶ家並みの成長と、平成25年度(2013年度)の発掘で確認された鍛冶施設遺構が絵図の農鍛冶の家と位置を一致させた事実に着目し、紙の記録と地下の記録が同一の場所を指し示す様を跡づける。あわせて、菓子勇本店の系譜のように史料と口伝とを区別すべき伝承の扱い方を示し、「境」という地名が磐田の近世交通史と信仰史の結節点であったことを論じる。

キーワード:境松/東海道の立場/国分寺門前/一目玉鉾/東海道絵図/鍛冶遺構/府八幡宮

1. 問題設定 ──「境」という地名が問いかけるもの

境松という地名は、その成り立ちを素直に語っている。見付と中泉という二つの町の境目にあたる場所だったからこそ、境松と呼ばれるようになった1。旧東海道が遠江国分寺跡のそばを通り抜けていくこの一帯は、江戸時代を通じて、見付宿の喧騒とも、中泉代官所や国分寺門前の暮らしとも地続きの、独特の位置にある町だった。二つの町のいずれにも接しながら、そのどちらにも完全には属しきらない。この宙づりの位置こそが、境松という土地の性格を決めている。

本稿の出発点は、この「境」という一語に含まれた問いにある。近代の地名整理は、一つの土地を一つの行政単位へ帰属させることを原則とする。ところが境松は、後述するように、同じ地名でありながら一方では中泉町の一部として、他方では見付町の一部として記録されてきた。ある土地が二つの町にまたがって存在するという事態を、私たちはどう記述すればよいのか。一方の町へ強引に振り分ければ、他方との結びつきが視野から抜け落ちる。この方法上の困難を正面から引き受けることが、境松を論じる前提となる。

さらに境松は、単なる境界の地であるにとどまらない。ここは東海道の立場として旅人が足を止める場所であり、国分寺薬師堂と府八幡宮の門前として参詣の人が行き交う場所であり、名物の饅頭を商う店が並ぶ場所でもあった。街道・信仰・商いという三つの性格が、この小さな町の上に折り重なっている。境松を読むとは、この三つの層がどのように一つの土地へ束ねられていたかを解きほぐす作業にほかならない。

境松のような小さな町を論じる意義についても、ここで述べておきたい。地域史の記述は、しばしば宿場や城下、あるいは著名な社寺といった、記録の豊富な拠点を軸に組み立てられる。だが街道の歴史は、宿場と宿場のあいだに点在する立場や、大寺の門前に営まれた小集落によっても支えられていた。境松のような町は、単独では厚い史料を残さない。それでも、案内記の一文、戸口の記録、絵図の一角、発掘の成果といった断片を丹念に拾い集めれば、街道と門前の暮らしの実像へ一歩近づくことができる。小さな町を軽んじないこと、断片の重なりから像を立ち上げること──これが境松を対象に選ぶ理由である。

史料の性格にも、あらかじめ一言しておきたい。境松に関して残る記録は、社名の書き分け、案内記の一文、門前百姓の戸口の記録、東海道の絵図、発掘調査の成果、そして地蔵尊の銘や地域の口伝といった、性格の異なる断片である。これらは互いに補い合うが、確度の水準は一様ではない。案内記や戸口記録は史料によって確認できる事柄であるのに対し、菓子屋の系譜などは口伝として伝わる事柄であって、両者を同じ平面で語ることはできない。本稿では、史実として確認できる事柄と、地域に語り継がれてきた伝承とを語の水準で書き分け、その区別を保ったまま境松の像を組み立てていく。以下ではまず行政的な帰属の二重性を確かめ、続いて立場・商い・絵図・発掘・地理の順に検討を進める。

旧東海道 見付宿 東海道の宿場 境松 立場・門前 中泉 代官所・国分寺 国分寺薬師堂 ・府八幡宮 見付と中泉の「境」に立つ町
図1 境松の位置。東海道の見付宿と中泉のあいだに位置し、街道と国分寺薬師堂・府八幡宮の門前とが交わる結節点にあたる。境松はいずれの町にも接し、そのどちらにも属しきらない位置にあった。

2. 帰属の二重性 ── 社名の書き分けと行政の境界

境松がどちらか一方の町に属したのではなく、見付・中泉の双方にまたがって存在した町であったことを、端的に示す記録がある。社名の書き方である。県社・八幡宮、すなわち現在の府八幡宮は、古い記録では「中泉町境松」と記された。一方、天御子神社は「見付町境松」と記されていた。同じ境松という地名が、一方では中泉町の一部として、他方では見付町の一部として扱われていたことになる2

この書き分けは、単なる表記の揺れではない。近世から近代にかけて、神社の所在は町村の帰属を示す指標として機能した。その指標が同じ境松のなかで割れているという事実は、境松という空間が行政上の一つの単位へ収まりきらず、二つの町の生活圏が重なり合う場であったことを物語る。地名が一つでありながら帰属が二重であるという状態は、地名整理の原則からすれば例外的だが、境という土地の実態からすれば、むしろ自然な帰結であったといえる。

この二重性が行政の側で解消へ向かうのは、近代も後半に入ってからである。見付・中泉という二つの町の関係が大きく動いたのは、昭和15年(1940年)のことであった。この年、見付町と中泉町が合併し、一つの磐田町が成立する。さらに昭和17年(1942年)には、磐田町役場が国分寺跡の南側、すなわち現在の位置へと移転した。境松は、見付でも中泉でもある町として、この合併の過程をすぐそばで見てきた土地でもある。二つの町が一つになるという出来事を、その境目に立つ町ほど間近に眺めた場所はない。

ここで、境という地名一般の性格にも触れておきたい。境という語をもつ地名は各地に見られ、その多くは、村と村、荘と荘、あるいは国と国の境目に生じた。境は分断の線であると同時に、双方の人が出会い、物と情報が行き交う接触の帯でもあった。市が立ち、道が交わり、神が祀られる場所が境に生まれやすかったのは、そのためである。境松もまた、見付と中泉という二つの町の境にありながら、双方の往来を引き寄せる場として機能した。境を単なる縁辺として周縁化するのではなく、二つの領域が接し交わる中心として読み直すこと。この視点に立てば、境松が立場・門前・商いという複数の性格を帯びたことは、境という土地の性質から導かれる必然として理解できる。

もっとも、行政上の合併が境松の二重性をただちに消し去ったと考えるのは早計である。町の合併は行政区画の統合であって、そこに積み重なってきた生活の記憶や信仰の結びつきを一夜で塗り替えるものではない。府八幡宮を中泉の側から、天御子神社を見付の側から仰いできた人々の意識は、行政の線引きとは別の時間で緩やかに移り変わったはずである。境松という地名が二つの町のあいだに保ってきた緊張は、合併後もなお、この土地の歴史を読むうえでの手がかりであり続ける。地名の帰属が指し示すのは、線で分けられた領域ではなく、重なり合う生活圏の実態なのである。

府八幡宮(八幡宮) 「中泉町境松」 天御子神社 「見付町境松」 境松 同一地名・帰属は二重 社名の書き分けが示す帰属の二重性
図2 社名の書き分け。府八幡宮は「中泉町境松」、天御子神社は「見付町境松」と記された。同じ境松が中泉側・見付側の双方から記録されたことは、この地が二つの町の生活圏の重なる場であったことを示す。

3. 東海道の立場としての境松

境松のもう一つの顔は、東海道の立場(たてば)としてのものである。立場とは、宿場と宿場のあいだ、あるいは宿場のなかでも、旅人や人足が一息つくために足を止める休憩の地を指す。宿駅制度のもとで、宿場は人馬の継立と宿泊を担う公的な拠点として定められていたが、その宿場と宿場を結ぶ道のりのなかには、茶店が並び駕籠かきや荷を運ぶ人足が休む立場が、自然に生まれていった。境松は見付宿の東海道筋にあたり、こうした立場として機能していた。

その規模を伝える記録が、文政6年(1823年)のものである。この時点で、境松には門前百姓13軒・50人が暮らしていたと記録されている3。13軒という戸数は、それ自体としては小さな集落の規模である。しかし、この数を「門前百姓」と呼んでいる点に、境松という町の性格がよく表れている。彼らは国分寺薬師堂の門前に暮らす百姓であると同時に、東海道の立場を支える人々でもあった。門前という信仰の性格と、立場という街道の性格とを併せ持つ、小さいながらも活気のある町だったことがうかがえる。

立場という場が担った役割にも、なお注意を払っておきたい。宿場が公的な継立と宿泊の機能を独占的に担ったのに対し、立場は制度の外側で自然に発達した非公式の休憩地であった。旅人が湯茶をとり、駕籠かきや人足が肩の荷を下ろし、荷付けの牛馬が水を飲む。そうした日常の往来の需要が、茶店を成り立たせ、立場を町へと育てた。境松が門前百姓の集落でありながら立場としても機能したのは、国分寺薬師堂への参詣者という信仰の往来と、東海道を行く旅の往来とが、この一点で重なったからである。立場は、街道が生んだ商いの場であると同時に、門前の暮らしと街道の経済とが接続する結び目でもあった。

境松の茶店の賑わいは、当時のよく知られた紀行文にも描かれている。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』には、境松の茶店の場面が登場する。弥次郎兵衛・喜多八の道中に描き込まれるほどに、境松の立場は東海道を行き交う人々にとって印象に残る存在だったのだろう。旅の滑稽本という娯楽の書物のなかに、実在の地名として境松の茶店が刻まれていること自体が、この町が街道の記憶のなかで一定の位置を占めていたことを物語る。もっとも、滑稽本は文芸作品であって地誌ではないから、そこに描かれた茶店の情景を、そのまま当時の実景の写生と受け取ることには慎重でありたい。作品が地名を選び取ったという事実こそが、ここでの証言の核心である。

宿場継立・宿泊 境松立場・茶店13軒50人 宿場継立・宿泊 立場としての境松 ── 旅人が一息つく場所 文政6年(1823年)の記録に門前百姓13軒・50人。
図3 立場の機能。立場は宿場と宿場のあいだで旅人や人足が休む場であった。境松は見付宿の東海道筋にあたり、門前百姓13軒・50人(文政6年)が立場を支えた。

4. 名物饅頭と門前の商い ──『一目玉鉾』の記述

境松を語るうえで欠かせないのが、饅頭屋の存在である。元禄2年(1689年)に刊行された『一目玉鉾』という書物には、「八幡宮 宮のまへ饅頭名物也」という一文がある4。八幡宮の宮の前、つまり境松のあたりで饅頭が名物として売られていたことを伝える記述である。『一目玉鉾』は井原西鶴の作とされる名所案内の書で、街道沿いの地名と名物を書き連ねた実用の書物であった。その一項として境松の饅頭が挙がっているという事実は、この町の名物が広く旅人の知るところであったことを示している。

元禄期といえば、江戸時代の前半にあたる。この頃すでに境松が、東海道を行く旅人に名物の饅頭で知られる町として案内記に名を残していたことになる。国分寺の門前、府八幡宮の宮前という立地が、参詣客と道中の旅人の双方を集める土地柄をつくり、そこに商いが根づいていったのだろう。門前の信仰と街道の往来という二つの人の流れが交わる場所であればこそ、饅頭を商う店が成り立ち、その評判が書物に載るほどに育ったと考えられる。名物とは、単に味の評判にとどまらず、人が集まる場所の証でもある。

伝承の扱い ── 菓子勇本店の系譜

境松の饅頭屋・金五郎と、中泉の菓子屋

この饅頭屋の系譜については、興味深い伝承が中泉に残っている。中泉の菓子勇本店は、境松で開業した饅頭屋・金五郎の子孫にあたると伝わる5。もしこの伝えが事実に即しているなら、元禄期の案内記に載った境松の名物饅頭の系譜が、店の場所を中泉へ移しながらも、菓子屋という形で今日まで途切れずに続いてきたことになる。街道の立場という場が失われたのちも、そこで培われた商いの技と信用が別の土地へ受け継がれたとすれば、地域の生業の連続性を考えるうえで示唆に富む事例である。

ただし、この系譜はあくまで伝承であって、史料によって金五郎から菓子勇本店に至る系譜のすべてが裏づけられているわけではない。饅頭を商う店が門前や街道沿いに複数あったであろうことを思えば、元禄期の記述にいう饅頭屋と、後世の菓子勇本店の祖・金五郎とを、ただちに同一の系譜として結ぶには、なお慎重さを要する。伝承であることは、この伝えの価値を損なうものではない。むしろ、境松で始まった商いの記憶が中泉の菓子屋という形で語り継がれてきたという事実そのものが、この町の歴史を考えるうえで重要な資料である。

名物饅頭という事象は、街道の経済史のなかに置き直すと、より広い文脈を得る。近世の街道沿いには、宿場や立場ごとに名物と称する食べ物が生まれ、旅の楽しみとして、また土産として、人の往来のなかで消費された。名物は、その土地の産物であると同時に、旅という移動が生んだ商品でもある。境松の饅頭が元禄期の案内記に載ったということは、この町が東海道の名物地図のなかに位置を占めたことを意味する。門前の参詣者と街道の旅人という二重の客層に支えられて、境松の饅頭は、一過性の商いにとどまらず、書物に記されるほどの定着した名物へと育ったのである。

本稿の立場:境松の名物饅頭が元禄期の案内記に載ったことは史料で確認できる史実として扱い、菓子勇本店へ至る系譜は史料による裏づけと口伝を区別したうえで、地域が選び取ってきた記憶を示す伝承として位置づける。

5. 絵図に映る家並みの変遷

境松がどのように広がっていったかは、江戸時代を通じて作られた三種の東海道絵図から読み取ることができる。元禄3年(1690年)の絵図、文化3年(1806年)の絵図、そして天保13年(1842年)の絵図である。それぞれの絵図に描かれた家数や特徴を比べると、境松という町が時代とともに姿を変えていった様子が浮かび上がる。一枚の絵図は、ある一時点の断面を写すにすぎない。しかし性格の近い絵図を年代順に並べれば、その断面の連なりから、町が育っていく過程を推し量ることができる。

表1 境松を描いた東海道絵図三種の比較 ── 作成年・家並みの特徴・読み取りうる変化
絵図作成年家数・特徴読み取りうる変化
東海道絵図元禄3年(1690年)境松の家並みが東海道沿いに描かれる。立場としての町の姿が確認できる初期の記録。
東海道絵図文化3年(1806年)元禄期の絵図と比べて家数が増える。門前の町としての広がりが読み取れる。
東海道絵図天保13年(1842年)家並みがさらに整い、農鍛冶の家など職人の存在も描き込まれる。商人・職人を含む複合的な門前町への成長。

三種の絵図を並べて見ると、境松が元禄期の小さな立場から、江戸後期にかけて次第に家数を増やし、職人や商人を含む複合的な門前町へと育っていったことがわかる。一枚の絵図だけでは見えてこない変化が、複数の絵図を重ねることで初めて像を結ぶ。とりわけ天保13年の絵図に農鍛冶の家が描き込まれている点は、この町が単なる休憩の場や参詣の門前にとどまらず、鉄を扱う職人の営みまでを内に抱えるようになっていたことを示している。元禄から天保へと至るおよそ150年のあいだに、境松は立場から複合的な門前町へと姿を変えた。この成長の過程が三種の絵図に段階的に映し込まれていること自体が、性格の近い史料を年代順に配列して比較する方法の有効性を、具体的に示している。

ただし、絵図から家数の変化を読むにあたっては、史料批判上の留意も要る。絵図は測量図ではなく、街道を旅する視点や、絵図を作らせた側の関心に応じて、家並みを取捨選択して描くものである。したがって、絵図に描かれた家数の増減を、そのまま実際の戸数の増減と等号で結ぶことはできない。絵図が示すのは、あくまで「そのように描かれた」という記録であって、その背後にある実態は、他の史料や地下の証拠と照らし合わせて初めて確かめられる。次章で扱う発掘の成果は、まさにこの照合を可能にするものであった。

元禄3年 1690 文化3年 1806 天保13年 1842 絵図に映る家並みの成長 橙は天保絵図に描かれた農鍛冶の家。家数の増加は実測ではなく絵図上の描写である。
図4 絵図に映る家並みの変遷。元禄から天保へ、境松の家並みは段階的に厚みを増し、天保絵図には農鍛冶の家(橙)が加わる。ただし絵図の家数は実測ではなく描写であり、実態は他史料との照合を要する。

6. 発掘が裏づけた鍛冶の家 ── 絵図と地下の記録

絵図という紙の上の記録を、地面の下から裏づける発見があった。平成25年度(2013年度)の発掘調査では、鍛冶施設の遺構が見つかっている。そして、この遺構の位置が、天保期の絵図に描かれた農鍛冶の家の跡と一致することが確認された。絵図という紙の上の記録と、発掘という土の中の記録とが、境松という同じ場所を指し示していたことになる。

この一致がもつ意味は小さくない。前章で述べたとおり、絵図は描写であって実測ではなく、そこに描かれた家を実在の建物とただちに等号で結ぶことはできない。ところが、絵図が農鍛冶の家を描いた位置と、発掘で鍛冶施設の遺構が現れた位置とが重なったことで、少なくともこの一点については、絵図の描写が地下の物証によって裏打ちされた。紙の記録と土の記録という、まったく由来の異なる二つの証拠が同じ場所を指すとき、その示す事実の確からしさは飛躍的に高まる。これは、文献史料と考古資料を突き合わせる作業が地域史においてもちうる力を、よく示す事例である。

史料批判の観点から、この照合の手続きをもう少し丁寧に見ておきたい。絵図と発掘の一致は、両者が独立に得られた記録であるからこそ意味をもつ。もし絵図を参照して発掘地点を選び、その結果として絵図どおりの遺構が出たというのであれば、それは循環であって独立の裏づけとはいえない。逆に、絵図の描写と発掘の成果とがそれぞれ別個に成立し、事後に照合したところ位置が一致したのであれば、これは相互に独立な二系統の証拠が収斂したことを意味する。本稿は、絵図に描かれた農鍛冶の家と発掘の鍛冶遺構の対応を、後者のたぐいの照合──独立な記録の収斂──として評価する。

鍛冶という生業が門前町に営まれた点にも、いくらか立ち入っておきたい。農鍛冶は、鍬・鎌といった農具の製作と修理を担う職人であり、農村の暮らしに不可欠の存在であった。境松に農鍛冶の家があったということは、この町が旅人相手の茶店や饅頭屋だけで成り立っていたのではなく、周辺の農村を客とする職人の営みまでを内包していたことを示す。街道の往来に向いた顔と、在地の農村に向いた顔と。境松は、その両方を併せ持つ複合的な町であった。天保期の絵図に農鍛冶の家が描き込まれ、それが地下の遺構と一致したという事実は、この町の生業の多層性を、確かな物証をもって裏づけるものである。

この事例が教えるのは、地域史の記述において、一つの種類の史料だけに寄りかかることの危うさと、性格の異なる史料を重ねることの実りである。文献だけでは「そう描かれた」ことしか言えず、発掘だけでは「ここで鉄を扱った」ことしか言えない。両者を突き合わせて初めて、天保期の境松に農鍛冶の家が実在し、それが絵図にも記録されたという、より確かな像が立ち上がる。境松という小さな町は、この文献と考古の対話を可能にする、恵まれた条件を備えた場所であったといえる。

天保期の絵図 農鍛冶の家を描く =紙の記録 2013年度発掘 鍛冶施設の遺構 =土の記録 位置が一致 同一地点を指す 絵図と発掘の収斂 ── 独立な二記録が同じ場所を指す
図5 絵図と発掘の照合。天保期の絵図が描いた農鍛冶の家と、平成25年度(2013年度)の発掘で確認された鍛冶遺構が同一地点で一致した。由来の異なる二系統の記録が収斂することで、事実の確からしさが高まる。

7. 門前町を支えた地理と暮らし ── 台地・井戸・信仰

境松の暮らしを考えるうえで、この町が置かれた地理的条件を見落とすことはできない。境松を含む見付・中泉の台地上の暮らしを支えてきたのは、井戸の水であった。低地とは異なり、台地の上では水の確保が容易ではなく、井戸は人々の暮らしに直結する存在だった。街道の立場として旅人に湯茶をふるまい、門前で饅頭を商うにも、まず水が要る。台地の町の生業は、井戸の確保という地理的な制約の上に成り立っていた。

この台地の水にまつわる記憶を、一つの証言が伝えている。見付中学校(現在の磐田南高等学校)には、かつて大きな井戸があったという。明治44年(1911年)生まれの卒業生が、この大井戸について回想を残していると伝えられている。学舎の記憶とともに、境松に隣接するこの台地一帯の生活用水の姿を伝える証言である。ただし、これは当時を知る人の口から語られた伝聞として受け止めておきたい。個人の回想は、その時代の暮らしの手触りを伝える貴重な資料であると同時に、記憶の性質上、年代や規模の細部については史料による裏づけと区別して扱うべき性格をもつ。

信仰の営みもまた、この町に静かな物証を残している。境松には地蔵尊立像が伝えられ、その背中には「明和9年 境松村」(1772年)という銘が刻まれている。境松が「村」として、そして地蔵尊を建てて祀るだけの信仰の営みをもつ集落として、18世紀後半に確かに存在していたことを伝える物証である。年号を刻んだ石造物は、いわば地面に据えられた日付入りの証言であり、文書史料の乏しい小集落にとって、その存在を確かめる貴重な手がかりとなる。あわせて、山中豊平による「中泉村絵図」にも境松の景観が描かれており、中泉側から見た境松の姿を伝える資料として、東海道絵図とはまた別の角度から、この町の輪郭を補ってくれる。東海道絵図が街道を旅する視点から境松を描いたのに対し、中泉村絵図は在地の村の視点からこの町を捉えている。視点の異なる複数の絵図を重ねることは、前章で見た絵図と発掘の照合と同じく、記録の性格を吟味しながら像を確かめる作業にほかならない。

こうした地理と暮らしの層は、境松を磐田のより大きな歴史のなかへ位置づけ直す。境松の門前という性格は、そのそばにあった遠江国分寺の存在と切り離せない。古代の大寺の門前に営まれた集落という性格が、近世の門前町へと連なっていく。同時に境松は、東海道の宿場である見付宿の街道筋にあって、宿駅制度の秩序のなかに置かれてもいた。さらに、府八幡宮を仰ぐこの一帯は、国府台と府八幡宮の千三百年にわたる歴史とも地続きである。国分寺の門前、見付宿の街道、そして国府ゆかりの八幡宮という三つの磐田の中心が交わる地点に、境松は立っていた。境という地名は、二つの町の境であると同時に、信仰・街道・国府という三つの歴史の層が接する境でもあったのである。

境松 台地・井戸の暮らし 国分寺門前 古代の大寺 東海道 見付宿の街道 府八幡宮 国府ゆかりの社 三つの歴史の層が交わる境
図6 境松に交わる三つの層。国分寺門前という信仰、東海道という街道、府八幡宮という国府ゆかりの社。境松は二つの町の境であると同時に、磐田の三つの歴史の層が接する結節点であった。

8. 結論 ──「境」の町をどう記述するか

本稿は、境松という一つの土地を、帰属の二重性・立場としての機能・門前の商い・絵図に映る家並みの変遷・発掘による裏づけ・地理と暮らしという六つの断面から検討した。得られた像は次のとおりである。境松は、見付と中泉のいずれにも属しきらない「境」の町でありながら、まさにその境であったことによって、東海道の立場・国分寺薬師堂と府八幡宮の門前・名物饅頭の商いという複数の性格を一身に引き受けた。二つの町が接する場所は、二つの町の往来が交わる場所でもあったのである。境という縁辺に見えた土地は、その実、複数の流れが集まる交わりの中心にほかならなかった。

この検討を通じて確かめられたのは、性格の異なる史料を重ねることの実りである。社名の書き分けは行政的な帰属の二重性を、案内記と紀行文は街道の記憶を、東海道絵図は家並みの成長を、発掘調査は地下からの裏づけを、地蔵尊の銘と絵図は信仰と景観を、それぞれ別の角度から証言する。とりわけ、天保期の絵図に描かれた農鍛冶の家と平成25年度の発掘で確認された鍛冶遺構とが同一地点で一致した事実は、紙の記録と土の記録という由来の異なる二系統の証拠が収斂した好例であり、文献史料と考古資料を突き合わせる作業が地域史においてもちうる力を、具体的に示している。

あわせて本稿は、確度の異なる情報を混同しないという記述の作法を、境松の事例に即して確かめてきた。案内記に載った名物饅頭や、戸口の記録に見える門前百姓の数は、史料によって確認できる史実である。これに対し、菓子勇本店へ至る饅頭屋の系譜や、大井戸をめぐる卒業生の回想は、地域が語り継いできた伝承・伝聞であって、史料による裏づけとは区別して扱うべき事柄である。伝承を史実の劣位に置くのではなく、それが属する層のなかで正当に評価すること──史実は史実として、伝承は伝承として、それぞれの位置を保ったまま書き留めること。これが「境」の町を記述するにあたって本稿が採った基本の姿勢である。

最後に、本稿が残した課題を記しておきたい。第一に、東海道絵図三種に描かれた家並みの変遷は、絵図上の描写であって実測ではないため、他の戸口史料や地籍資料との照合によって、実態としての戸数の推移をさらに確かめる余地がある。第二に、菓子勇本店へ至る饅頭屋の系譜は、近世の商家史料や過去帳などを博捜することで、伝承と史料の距離を一歩詰めうる主題である。第三に、境松と国分寺門前・見付宿・国府台との関係は、それぞれの土地の歴史と併せて検討されるべき大きな主題であり、本論考シリーズの関連各号と接続して論じられるべきものである。境という土地は、分けることではなく交わることによってその性格を得た。その交わりの厚みを、確度の層を保ったまま一つずつ書き留めていくこと──その地道な手続きの先にこそ、境松という小さな門前町が磐田の歴史のなかで占めてきた位置が、少しずつ像を結んでいくはずである。

本稿の舞台である境松や中泉、見付には、街道と門前の暮らしとともに受け継がれてきた古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 境松の地名が見付と中泉の「境」に由来することは、地域の地誌類に共通して見える理解である。旧東海道が国分寺跡のそばを抜けるこの一帯の位置については、小杉達『国分寺ものがたり』(国分寺奉賛会、令和4年〔2022年〕)による。
  2. 府八幡宮(八幡宮)が「中泉町境松」、天御子神社が「見付町境松」と記された社名の書き分けによる。同一地名が二つの町の側から別々に記録された点を、帰属の二重性を示す指標として扱う。
  3. 文政6年(1823年)時点で境松に門前百姓13軒・50人が居住したとする記録による。戸口の記録として史実の層に属するが、集計の基準や範囲については留保を要する。
  4. 『一目玉鉾』元禄2年(1689年)刊に「八幡宮 宮のまへ饅頭名物也」とある。同書は街道の名所・名物を記した案内記であり、境松の饅頭が広く知られた名物であったことを示す。
  5. 中泉の菓子勇本店を境松の饅頭屋・金五郎の子孫とする伝承による。金五郎から菓子勇本店に至る系譜のすべてが史料で裏づけられているわけではなく、あくまで口伝として、史実とは区別して扱う。

付記:本稿は一般読者向け記事 n042「境松の門前町 ── 東海道の立場と饅頭屋のあった風景」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・伝承・伝聞)を語の水準で区別し、元禄2年の『一目玉鉾』の記述・文政6年の戸口記録・平成25年度の発掘成果を史実として、菓子勇本店の系譜および大井戸の回想を伝承・伝聞として扱った。

参考文献・参考資料

  • 小杉達『国分寺ものがたり』国分寺奉賛会、令和4年(2022年)、38〜40頁。
  • 『一目玉鉾』元禄2年(1689年)刊。
  • 十返舎一九『東海道中膝栗毛』。
  • 東海道絵図(元禄3年〔1690年〕作成)。
  • 東海道絵図(文化3年〔1806年〕作成)。
  • 東海道絵図(天保13年〔1842年〕作成)。
  • 平成25年度(2013年度)発掘調査概報。
  • 山中豊平「中泉村絵図」。
  • 境松 地蔵尊立像銘「明和9年 境松村」(1772年)。
  • 府八幡宮(県社・八幡宮)由緒書。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
  • 磐田物語 n042「境松の門前町 ── 東海道の立場と饅頭屋のあった風景」 https://iwata-monogatari.net/n042 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 c017「旧磐田市の成り立ち ── 村から町、町から市へ」 https://iwata-monogatari.net/c017.html (最終閲覧:2026年7月25日)。