失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 旧東海道と国道1号 ── 磐田バイパスが変えた道の地図

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第69号(豊田・道路史研究)

旧東海道と国道1号 ── 磐田バイパスが変えた道の地図

街道の主役交代と地域の変容

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市豊田

要旨

磐田市街地には、江戸の旧東海道、かつて国道1号であった道(現・静岡県道413号磐田袋井線)、そして現在の国道1号である磐田バイパスという、性格を異にする三本の東西路が並走する。本稿は、この「道の主役交代」を、1876年(明治9年)の道路等級制度に始まる近代道路行政の展開のなかに位置づけ、旧東海道の国道1号化、天竜川渡河部の橋の交代、1981年(昭和56年)の磐田バイパス開通、そして2015年(平成27年)の本線昇格と旧道の県道格下げまでを、年代確定の確度に注意しながら追跡する。とりわけ、国土交通省資料等で裏づけられる史実と、紀行文に由来する町並みの描写や資料によって幅のある年代とを腑分けし、「未確認」と「記載がない」こととを区別する。主役交代とは道の消滅ではなく格の移動であり、旧道は県道として、旧橋は別路線の橋として、なお現役であり続ける。本稿は、この重層を、磐田の地図が静かに保存した交通史の痕跡として記述する立場をとる。

キーワード:旧東海道/国道1号/磐田バイパス/道路等級制度/天竜川橋/県道413号磐田袋井線/主役交代

1. 問題設定 ── なぜ「道の主役交代」を問うのか

見付の愛宕山に立つと、東へ向かってほぼ平行に延びる二本の道が見えるという。一本は江戸の東海道そのもの、もう一本は、つい数年前まで国道1号であった道である。この眺めをめぐる逸話は紀行文に由来するもので、一次史料によって裏づけられた記述ではないが、磐田の道の重層をひとつの光景に凝縮してみせる点で示唆に富む。同じ町を、時代を異にする複数の道が並んで走っている──この事実を出発点として、本稿は道の「主役交代」を主題に据える。

ここで問うのは、「どの道が本当の東海道か」という起源の択一ではない。旧東海道の道筋そのものは、拡幅と改修を重ねながらも現に町なかを抜けており、その連続性を疑う必要はない。むしろ本稿が着目するのは、同じ地域を貫く東西の幹線という「役割」が、時代ごとにどの道へ移っていったかという点である。街道から国道へ、国道からバイパスへ。役割の移動は、道路行政の制度と、自動車という交通手段の普及と、渋滞という都市問題とが交差する地点で起きた。その交差を年代に即してたどることが、本稿の課題である。

この主題を扱うには、事実の確度を層に分けて記述する手続きが欠かせない。磐田の道路史をめぐる記述には、確度の異なる情報が混在しているからである。一方に、道路等級制度の制定年、磐田バイパスの開通年、無料開放や本線昇格の経緯、橋の架橋史といった、国土交通省の資料や公刊された記録によって確認できる史実がある。他方に、大正期の見付の町並みの描写や愛宕山からの眺めをめぐる逸話のような、紀行文に由来し学術的な一次資料の裏づけを欠く伝承的記述がある。そしてその中間に、資料によって記述に幅のある年代や、根拠はあるが一点に確定しがたい推定の領域が横たわる。

本稿では、これらを語の水準で書き分ける。史料で確認できることは史実として、資料に幅のあることは推定として、地域や紀行に伝わることは伝承として扱い、層をまたいだ断定を避ける。あわせて、「未確認」と「記載なし」の区別も保つ。ある年代を本稿が特定しないのは、それが史料に記されていないからではなく、管見の限りいずれの資料が正確かを確定できていないからである場合がある。この二つは似て非なる状態であり、混同すれば道路史の記述はたやすく粗くなる。以下ではまず制度と橋という背景を押さえ、続いて三つの交代の局面を順に検討し、確度の腑分けを経て結論に至る。

なお本稿が対象とする道は、行政上は見付・中泉・豊田といった複数の地区にまたがる。とりわけ現在の国道1号である磐田バイパスは、豊田東インターチェンジをはじめ豊田地区に大きく関わり、市街地の外縁を東西に走る。街道時代の主役であった見付と、バイパス時代の結節点となった豊田とを、一本の東西軸の変遷として結んで読むことに、本稿の地域的な視点がある。

磐田市街地を東西に走る三本の道 旧東海道(江戸の街道) 現・生活道路 旧国道1号(現・県道413号磐田袋井線) 2015年 格下げ 磐田バイパス(現・国道1号) 2015年 本線昇格 線の太さは、現在担う交通量のおおまかな序列を模式的に示す。
図1 三本の道の並走。旧東海道・旧国道1号(現・県道413号)・磐田バイパスは、同じ地域を東西に貫く役割を時代ごとに引き継いできた。線の太さは現況の交通序列の模式であり、実測値ではない。

2. 「国道」という制度の成立 ── 明治の道路等級と旧東海道

主役交代を論じる前提として、そもそも「国道」という区分が近代の制度であることを確認しておきたい。江戸時代の東海道は、幕府が管理する五街道の一つではあったが、後の道路法制がいう「国道」ではない。道路が国家の格付けを受けるようになるのは明治以降のことである。1876年(明治9年)、太政官達により、道路がはじめて「国道」「県道」「里道」の三種に分けられ、さらにそれぞれが一等・二等・三等の等級に格付けされる制度が定められた1。旧東海道は、この最初の国道網の骨格をなす路線の一つとして位置づけられ、見付・中泉を含む区間も、この時点で「国道」の名を得たとみられる。

もっとも、当時の国道は現在の自動車道路とは似ても似つかない。荷車や人力車が行き交う程度の道幅しかなく、格付けが与えられたからといって、ただちに近代的な幅員や舗装が備わったわけではない。制度上の格と物理的な整備水準とは、この時期にはまだ大きく乖離していた。1919年(大正8年)には旧道路法が公布され、路線の認定や管理の仕組みが整えられていくが、自動車そのものの普及が遅れたこともあって、本格的な道路の近代化は戦後を待つことになる。現在の国道1号が東海道の経路をほぼそのまま踏襲しているのは、こうした明治以来の制度の積み重ねの結果である。

見付においては、大正期にはなお旧東海道(本通り)沿いに低い屋根の家並みが続き、林や森が町のすぐそばまで迫っていたと伝わる。ただしこの町並みの描写は紀行文に由来するものであり、一次史料によって年次を確定できる性格の記述ではない。やがて町が広がり、自動車の時代がやってくると、この旧東海道の道筋がそのまま拡幅され、歩道を備えた国道1号として使われるようになった。宿場町としての東海道・見付宿の構造については、本論考シリーズの見付宿 ── 東海道二十八番の宿場町、および一般向け記事の東海道・見付宿の面影で扱っている。街道が担っていた宿駅の機能と、後に国道が担う通過交通の機能とは、同じ道筋の上に重なりながらも、その性格を異にする。

道筋がそのまま踏襲されたという事実そのものには、注意を払っておく価値がある。近代の道路整備は、しばしば旧来の街道をまったく無視して新たな線形を引くのではなく、既存の道筋を土台としてその幅を広げ、勾配をならし、路面を固めるという仕方で進んだ。旧東海道が国道1号へと連続的に移行したのも、この漸進的な整備の典型である。したがって、街道と国道とを断絶した別物として描くのは正確ではない。同じ道筋のうえに、宿駅の機能を担った街道の層と、通過交通を担う国道の層とが重なっている。後にこの道筋が県道へと格下げされてもなお生活道路として残るのは、この幾重もの機能の堆積があるからにほかならない。

ここで一点、方法上の留保を置いておく。旧東海道の道筋がいつ拡幅されて初期の国道1号となったのか、その正確な年次は、本稿の調査範囲では確認できていない。これは「そうした事実が存在しない(=記載がない)」ことを意味しない。拡幅は一挙に完成したというより、大正から昭和初期にかけて段階的に進んだと考えるのが道路整備一般の実態に照らして自然であり、一点の年紀で答えること自体に無理がある。制度としての「国道」の付与年(1876年)と、自動車が通行できる幅員をもつ「国道」の完成年とを混同しないことが、以下の議論の前提となる。

1876年 太政官達による道路の格付け 道路 国道 旧東海道はここ 県道 里道 一等・二等・三等に細分 制度上の「国道」の付与と、自動車が通れる幅員の完成とは別の事柄である。
図2 道路等級制度の階層。旧東海道は最初の国道網に組み込まれたが、それは制度上の格付けであって、近代的な幅員を備えた道路の完成を意味しない。

3. 天竜川渡河の系譜 ── 渡しから舟橋・木橋・鋼鉄橋へ

東海道・国道1号が磐田の町を抜けるうえで、避けて通れなかったのが天竜川である。江戸時代、この大河は池田の渡しによって舟で越えるほかなかった。渡船から架橋への転換は、道の近代化を象徴する画期であり、以後の橋そのものが幾度も主役を交代していく点で、道路本体の交代劇の縮図でもある。渡しの制度と機能については本論考シリーズの別稿で、また一般向けには池田の渡し ── 天竜川をわたる東海道で扱っており、本稿では架橋以後の系譜に焦点を絞る。

橋の記録は明治初年にさかのぼる。1868年(明治元年)10月、明治天皇の東幸に際して急ごしらえの舟橋が架けられたのが最初の記録とされ、1874年(明治7年)2月には木橋と舟橋を組み合わせた橋が、1878年(明治11年)3月には両岸を結ぶ一本の橋が架かったと伝えられる。また1876年(明治9年)には、全長646間(約1,175メートル)、幅員2間(約3.6メートル)におよぶ賃取橋(通行料を取る橋)としての木橋も架けられている。これらの年次は資料に「伝えられる」水準の記述を含み、一点の史実として確定するには慎重を要するが、いずれにせよ明治の人々が国道の大河越えにいかに苦心したかをうかがわせる。

木橋は洪水のたびに流失と架け替えを繰り返した。この不安定さを克服したのが、県営事業として1933年(昭和8年)6月に完成した「天竜川橋」である。鋼鉄のワーレントラス橋14連からなり、橋長919.5メートル、幅員7.3メートルという規模は、当時の道路橋としては国内で3番目に長いトラス橋であったとされる2。この天竜川橋が、戦前・戦後を通じて国道1号の天竜川渡河部を長く支えた。やがて交通量の増加にともない、すぐ上流側に新たな橋が建設されると、天竜川橋は国道1号としての役目を終え、現在は静岡県道261号磐田細江線の橋として対面通行のまま使われている。旧道の橋がそのまま県道の橋として生き続けているこの構図は、後にみる旧道と県道413号の関係を、数十年先取りしたものといえる。

天竜川橋が国道1号としての現役を退いた正確な年については、資料により記述に幅があり、本稿では特定の年を明記しない。ただし後継の「新天竜川橋」が1965年(昭和40年)8月に完成していることから、昭和40年代前半までに国道1号の座を後継の橋へ譲ったと推定される。新天竜川橋は、国道1号の路線変更にともない、すぐ下流の天竜川橋に代わる新しい渡河部として建設された。当初は片側2車線・計4車線であったが、無料開放後の交通量急増によって慢性的な渋滞ポイントとなり、歩道もなく歩行者が路側帯を歩かざるをえない危険な状態が続いた。そこで1995年(平成7年)から片側4車線・計8車線への拡幅工事が始まり、総事業費およそ460億円をかけて2008年(平成20年)3月に全8車線での供用が始まった。

この新天竜川橋は、行政区域としては磐田市ではなく浜松バイパス側の橋であるが、磐田バイパスと一体の国道1号東西軸を形づくっている。橋の拡幅完了が、同年度に採択される磐田バイパス全線4車線化事業の呼び水になったとみられる点で、川を渡る橋の整備と、市街地外縁を抜けるバイパスの整備とは、一つの東西軸の問題として連動していた。渡河部の橋の系譜──渡し、舟橋、木橋、天竜川橋、新天竜川橋──は、道の主役が交代するたびに川を渡る手段もまた交代してきたことを示している。

天竜川を渡る手段の系譜 ── 主役の交代 江戸期池田の渡し 1868舟橋(東幸) 1876賃取の木橋 1933天竜川橋 1965新天竜川橋 橙は年次に「伝えられる」水準を含む記述、青は史実として確認できる架橋。
図3 天竜川渡河の系譜。渡しから舟橋・木橋、そして鋼鉄のトラス橋へ。道の主役が交代するたびに、川を渡る手段そのものも役目を交代してきた。明治初年の橋の年次には資料上の幅がある。

4. 第一の交代:拡幅国道1号と町なか渋滞という宿題

局面①・街道から国道へ

旧東海道の拡幅と、市街地を貫く国道1号の限界

局面の骨子。旧東海道の道筋をそのまま拡幅した国道1号は、見付・中泉の町なかを貫いていた。街道時代には宿場のにぎわいを支えた市街地の道が、そのまま近代の通過交通を担う幹線として使われることになったのである。自動車が増えるにつれ、この構造は無理を露呈する。沿道に家並みと商店が張りつき、交差点が連続する市街地の道は、増大する通過交通をさばくには不向きであった。

渋滞という宿題。町なかを通る国道1号は、慢性的な渋滞に悩まされるようになった。これは磐田に固有の現象ではなく、旧街道を国道に転用した全国の宿場町が等しく抱えた問題であるが、東海道の交通量の大きさゆえに、その深刻さはとりわけ際立っていた。生活の道と通過の道とが同一の道筋の上で衝突し、沿道の暮らしにとっても、東西を急ぐ車にとっても、望ましくない状態が生じた。この渋滞こそが、次の局面である磐田バイパス建設を促した直接の宿題である。

資料的裏づけと限界。市街地の国道1号が渋滞に悩まされたこと自体は、後のバイパス建設の目的として公的資料に明記されており、その限りで史実として扱ってよい。ただし、拡幅がいつ完成し、どの区間がどの幅員で整備されたかという細部は、前章で述べたとおり本稿の範囲では確定しがたい。渋滞の常態化という結果は確認できるが、そこに至る整備過程の年次には、なお未確認の余地が残る。

本稿の評価:街道から国道への第一の交代は、道筋そのものの移動ではなく、同じ道筋に課された役割の過負荷であった。市街地を貫く国道1号の限界が、迂回路という次の解を要請した。

5. 第二の交代:磐田バイパスの成立と有料道路としての運用

局面②・国道からバイパスへ

1981年の開通と、有料道路として始まった迂回路

局面の骨子。市街地の渋滞への解決策として建設されたのが、磐田市中心部を迂回する磐田バイパスである。1981年(昭和56年)3月24日、暫定2車線で全線が開通した3。起点は磐田市見付、終点は磐田市高丘、延長6.6キロメートル。信号機のないバイパスとして、町なかを通らずに東西を抜けられる新しい道が生まれた。開通当初から、暫定2車線では処理しきれないほどの交通量があり、このことが後年の4車線化事業の遠因になったともいえる。

有料道路としての出発。開通当初、磐田バイパスは有料道路であった。市街地を通らずに済む迂回路の建設費を、通行料によって回収する仕組みである。ここで注意したいのは、バイパスが最初から「国道1号の本線」として生まれたのではなく、あくまで本線たる市街地の国道1号を補う有料の迂回路として出発した点である。制度上の位置づけと、実際に担う交通量とのあいだには、この段階でなお隔たりがあった。多くの通過交通が有料のバイパスへ流れる一方で、無料の旧道もなお国道1号本線であり続けたのである。

東海4バイパスという枠組み。磐田バイパスは単独の路線としてではなく、静岡県内の国道1号バイパス網の一環として整備・運用されてきた。藤枝・掛川・浜名の各バイパスとともに「東海4バイパス」と呼ばれ、料金制度や無料化の歩みをおおむね共有している。磐田バイパスの有料から無料への移行を理解するには、この4本をひとまとまりとして運用してきた行政の枠組みを踏まえる必要がある。個別の路線の判断というより、県内の国道1号バイパス網全体の政策として、料金の扱いが決められてきた。

迂回路がもたらした地域の変容。市街地の外縁を抜けるバイパスの開通は、道の役割を移しただけでなく、沿道の土地利用にも影響を与えた。信号のない高規格の道が通ると、その沿線にはやがて幹線道路型の店舗や事業所が立地し、人の流れの重心が旧市街から郊外の道路沿いへと移っていく。豊田地区がインターチェンジを擁する結節点として比重を高めたのも、この流れのなかにある。街道の宿場としてにぎわった見付の中心から、バイパス沿いの郊外へ。道の主役交代は、単なる路線の付け替えにとどまらず、町のにぎわいの所在そのものを緩やかに動かしていった。ただし、こうした土地利用の変化がどの時期にどの程度進んだかを定量的に跡づけることは本稿の範囲を超えており、ここでは交通の変化がもたらした帰結の方向を指摘するにとどめる。

本稿の評価:磐田バイパスは、国道1号の本線としてではなく、有料の迂回路として生まれた。制度上の格(本線は旧道)と実際の交通の実態(多くはバイパス)との乖離が、この段階の特徴である。
磐田バイパス ── 市街地を迂回する東西路 見付・中泉 市街地 旧国道1号が貫く 見付(起点) 高丘(終点) 磐田バイパス 延長6.6km・信号なし 1981年 暫定2車線で開通。当初は有料の迂回路であった。
図4 磐田バイパスの概略。市街地を貫く旧国道1号(橙・破線)に対し、バイパス(青)は市街地の外縁を迂回する。起点は見付、終点は高丘、延長6.6キロメートル。

6. 第三の交代:無料開放・本線昇格と旧道の県道格下げ

局面③・格の逆転

無料化から本線昇格へ ── そして旧道は県道になる

無料開放の段階。有料道路として生まれたバイパスは、段階を追って無料の公共道路へと転じていく。1999年(平成11年)4月1日、藤枝・掛川・浜名の各バイパスと同時期に、夜間(22時から翌6時まで)の無料化が始まった。そして2005年(平成17年)3月30日22時、日本道路公団から国土交通省がこの道を買い取り、国と静岡県が費用を負担する形で、東海4バイパスがそろって完全に無料開放された4。有料の迂回路として出発したバイパスが、公共の道として町に根づいていく過程である。

4車線化と本線への昇格。無料化によって交通量はさらに増え、とりわけ新天竜川橋の周辺や、豊田東インターチェンジから見付インターチェンジにかけての区間では、慢性的な渋滞が新たな課題として浮かび上がった。これを受けて2008年度(平成20年度)、磐田バイパスの全線4車線化事業が新規に採択される。総事業費53億円をかけて、開通から実に32年を経た2013年(平成25年)3月28日に事業が完了した。そして2015年(平成27年)4月1日、磐田バイパスの全区間が正式に「国道1号の本線」に指定された。

旧道の県道格下げ。本線昇格にともない、それまで国道1号として市街地を通っていた旧道──旧東海道の道筋を踏襲した道──は、静岡県道413号磐田袋井線へと指定変更された5。この県道413号は、磐田市小立野(磐田バイパス・浜松バイパスの小立野インターチェンジ付近、国道1号との交点)を起点に、袋井市国本(国道1号との交点)を終点とする、延長約12.098キロメートルの路線である。見付の市街地では、静岡県道56号磐田停車場線と交差し、静岡県道44号磐田天竜線の起点ともなっている。かつて東西の大動脈を担った道が、いまは磐田市と袋井市を結ぶ一本の県道として、市街地の生活道路的な役割を担いながら現役であり続けている。

格の逆転という帰結。ここで、道の主役交代が完成する。江戸時代は東海道、近代に入ってからは国道1号として町の中心を貫いていた道は、県道という一段格下げされた位置づけになり、代わって町の外を迂回するバイパスが「国道1号」を名乗るようになった。第3節でみた天竜川橋が新天竜川橋に座を譲ったのと同じ構図が、見付・中泉の市街地でも、数十年遅れて繰り返されたのである。制度上の格と交通の実態との乖離は、こうして実態に合わせて解消された。旧東海道を走った軌道の記憶をたどる旧東海道を走った軌道と併せて読むと、この道筋がいかに多くの交通の役割を積み重ねてきたかが見えてくる。

本稿の評価:第三の交代は、単なる無料化ではなく「格の逆転」であった。実際に主役を担っていたバイパスが制度上も本線となり、旧道は県道へと格下げされて、名と実がようやく一致した。
2015年 ── 格の入れ替わり 〜2015年(それまで) 2015年4月1日〜 旧道 = 国道1号 バイパス = 迂回路 旧道 = 県道413号 格下げ バイパス = 国道1号本線 昇格 名(制度上の格)と実(実際の交通)が、ここで一致した。
図5 格の入れ替わり。2015年の本線昇格により、実際に主役を担っていたバイパスが制度上も国道1号本線となり、旧道は県道413号へ格下げされた。名と実の乖離が解消した局面である。

7. 年代確定の確度と史料批判 ── 「未確認」と「記載幅」の腑分け

ここまでたどった主役交代の各局面は、いずれも年代を伴って語られる。しかしその年代の確度は一様ではない。道路史を扱う際にもっとも避けるべきは、確度の異なる年紀を同じ平面に並べ、すべてを等しく確定した事実のように記すことである。以下の比較表は、本稿が用いた主な年代を、その確度の層とともに整理し、どの記述が史実として確認でき、どの記述に幅があり、どの記述が未確認にとどまるかを可視化することを目的とする。

表1 磐田の道の主役交代 ── 主な年代とその確度の層
出来事年代確度の層依拠する資料留意点(史料批判)
道路等級制度の制定1876年史実太政官達、国交省「道の歴史」制度上の格付け。近代的幅員の完成とは別。
明治初年の架橋(舟橋・木橋)1868〜1878年史実/一部に幅天竜川の架橋史資料個別の年次に「伝えられる」水準の記述を含む。
旧東海道の拡幅・初期国道1号化大正〜昭和初期未確認正確な年次は本稿の範囲で確定できず。段階的と推定。
天竜川橋の完成1933年史実静岡県・国交省資料橋長919.5m。諸元は資料で確認できる。
天竜川橋の国道1号退役昭和40年代前半(推定)推定/記載幅各種資料(幅あり)資料により記述に幅。新天竜川橋完成(1965年)から推定。
磐田バイパス開通1981年史実国交省浜松河川国道事務所暫定2車線・延長6.6km。開通日まで確認できる。
東海4バイパス完全無料開放2005年史実国交省・道路公団関係資料夜間無料化(1999年)を経ての完全無料化。
本線昇格・旧道の県道格下げ2015年史実県道413号関係資料県道413号の延長約12.098kmも確認できる。

この整理から見えてくるのは、磐田の道路史が、確度の高い史実の骨格のうえに、幅のある年代と未確認の空白とを部分的に含んでいるという構造である。制度の制定、橋の完成、バイパスの開通、無料開放、本線昇格といった近代以降の主要な出来事は、国土交通省や静岡県の公的資料によっておおむね年月日の水準まで確認できる。これらは道路行政の記録として文書に残されやすい性格の事柄であり、その限りで確度が高い。

これに対して、二つの領域で確度が下がる。第一は「記載幅」の領域である。明治初年の架橋の年次や、天竜川橋が国道1号としての現役を退いた年は、資料によって記述に幅がある。これは史料が存在しないのではなく、複数の記述が併存し、いずれを採るべきかを一点に決めがたい状態である。本稿がこれらの年を断定せず、退役年については新天竜川橋の完成年から推定するにとどめたのは、この幅を尊重したためである。第二は「未確認」の領域である。旧東海道が拡幅されて初期の国道1号となった正確な年次は、本稿の調査範囲では確認できていない。これは「そうした事実がなかった(=記載なし)」のではなく、「管見の限り確定的な資料に突き当たっていない」という状態を指す。

この「記載幅」と「未確認」の区別、そして「未確認」と「記載なし」の区別は、道路史の記述にとって実務的な含意をもつ。地域の歴史を書くとき、私たちはしばしば年表の空欄を嫌い、それらしい年を一つ選んで埋めたくなる。だがその態度は、幅のある記述を無理に一点へ収束させ、確認できていないことを確認できたかのように装う誤りにつながりやすい。ここで採った確度の腑分けは、そうした性急な確定を避け、後続の調査が空白を正確に引き継げるようにするための手続きである。史実は史実として、推定は推定として、未確認は未確認として書き留める。この禁欲は、道路史に限らず地域史一般に通じる記述の作法であると考える。

あわせて、紀行文に由来する記述の扱いにも触れておきたい。大正期の見付の町並みや愛宕山からの眺めをめぐる叙述は、地域の景観の記憶を伝える証言ではあるが、その性格は一次史料とは異なる。これらを町並みの年次を確定する根拠として用いることはできないが、道の変化を人がどう感受してきたかを読む対象としては貴重である。史料批判とは、こうした記述を切り捨てることではなく、それが属する層を見きわめ、層にふさわしい仕方で用いることにほかならない。

さらに、確度の層は固定されたものではなく、調査の進展によって移動しうる点も付言しておく。いま「未確認」に置かれている拡幅の年次も、地方の道路整備記録や当時の告示に当たることができれば「史実」へと移り、「記載幅」にとどまる退役年も、路線変更の公的告示に突き当たれば一点へ収束するかもしれない。逆に、いったん史実とされた年次が、後の史料の発見によって再検討を迫られることもある。したがって本稿が示した確度の腑分けは、最終的な結論ではなく、いまの資料状況における暫定的な見取り図である。重要なのは、各記述が現時点でどの層に属するかを明示し、後続の調査がその層の移動を正確に記録できる状態を保つことである。年表の空欄をそれらしい年で埋めて見かけを整えるより、空欄を空欄として、その理由とともに残すほうが、道路史の記述としてはるかに誠実である。

年代の確度 ── 三つの層の弁別 史実 公的資料で確認 制度・開通・昇格 推定・記載幅 資料に幅がある 明治の架橋・退役年 未確認 確定資料に未到達 拡幅の正確な年 「未確認」は「記載なし」ではない。空白は後続の調査へ正確に引き継ぐ。
図6 年代の確度の三層。史実・推定/記載幅・未確認を区別し、層をまたいだ断定を避ける。とりわけ「未確認」を「記載なし」と混同しないことが、道路史記述の要点である。

8. 結論 ── 主役交代が地図に残したもの

本稿は、磐田市街地を東西に貫く道の役割が、旧東海道から国道1号へ、そして磐田バイパスへと移っていった過程を、三つの交代の局面に分けて検討した。得られた見取り図は次のとおりである。1876年の道路等級制度によって旧東海道は「国道」の格を得たが、近代的な幹線としての整備は戦後に及んだ。その旧東海道を拡幅した国道1号は市街地を貫いて渋滞を招き、これを迂回するために1981年に有料の磐田バイパスが開通した。バイパスは無料化を経て、2013年の4車線化完了と2015年の本線昇格により制度上も国道1号本線となり、旧道は県道413号へ格下げされた。天竜川を渡る橋もまた、渡しから舟橋・木橋・天竜川橋・新天竜川橋へと、道の主役に応じて交代を重ねてきた。

いまの磐田市街地には、性格の異なる三本の「東海道の記憶」が並んでいる。江戸時代そのままの旧東海道、かつて国道1号として町を貫いた道(現・県道413号)、そして現在の国道1号である磐田バイパスである。町を歩く人にとっては、どれも「昔からある道」に見えるかもしれない。だがそれぞれが背負ってきた役割は、時代ごとにまったく異なる。道の名や格付けが変わっても、道そのものはそこに残り続ける。主役を退いた旧道は県道として、役目を終えた天竜川橋は別路線の橋として、いまも人と車を通している。格下げとは廃止ではなく、担う役割が変わって新たな持ち場を得ることであり、地図の上では複数の時代の道が同時に生きているのである。

したがって本稿の立場は明確である。道の主役交代とは、道の消滅や置換ではなく、役割の移動と格の再配置として記述されるべきである。街道が国道になり、国道がバイパスに主役を譲っても、旧い道は格を下げて生き続け、地図の上に層をなして残る。この重層こそが、磐田の交通史が地図の上に書き残したものである。起源を一つに決めるのでも、最新の道だけを主役として語るのでもなく、それぞれの道がどの時代にどの役割を担い、いまどの格に置かれているかを、確度の層を保ったまま書き留めること──それが道路史の記述に求められる作法である。

最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、旧東海道が拡幅されて初期の国道1号となった正確な年次は、大正から昭和初期の県・地方の道路整備記録を博捜することで、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、天竜川橋が国道1号の現役を退いた年については、複数資料の記述の幅を突き合わせ、路線変更の告示等に当たることで、推定を通説へと押し上げうる。第三に、市街地を貫いた国道1号の渋滞の実態と、バイパスへの交通転換の推移は、交通量調査の時系列を追うことで、より定量的に描きうる。これらはいずれも、本稿が設定した確度の腑分けの枠組みのなかで、未確認を史実へ、記載幅を確定へと詰めていく作業に属する。名を変えても残り続ける道の全体像は、その地道な手続きの先に、少しずつ像を結んでいくはずである。

本稿が扱った見付・中泉・豊田の一帯には、街道と国道の変遷を見つめてきた古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。道の歴史を書き留めることと、その沿道の土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 1876年(明治9年)の太政官達により、道路は国道・県道・里道の三種に分けられ、それぞれが一等・二等・三等に格付けされた。旧東海道はこの最初の国道網の骨格に組み込まれた。
  2. 県営事業として1933年(昭和8年)6月に完成した天竜川橋は、鋼鉄のワーレントラス橋14連からなり、橋長919.5メートル、幅員7.3メートル。当時、国内で3番目に長いトラス橋であったとされる。
  3. 磐田バイパスは1981年(昭和56年)3月24日に暫定2車線で全線開通した。起点は磐田市見付、終点は磐田市高丘、延長6.6キロメートル、信号機のないバイパスである。
  4. 東海4バイパス(磐田・藤枝・掛川・浜名)は、1999年(平成11年)4月1日の夜間無料化を経て、2005年(平成17年)3月30日に完全無料開放された。
  5. 2015年(平成27年)4月1日、磐田バイパスが国道1号本線に指定され、旧道は静岡県道413号磐田袋井線(磐田市小立野〜袋井市国本、延長約12.098キロメートル)へ指定変更された。

付記:本稿は一般読者向け記事 t038 の内容を、郷土史研究者向けに確度の層の腑分けと史料批判の観点から再構成した論考版である。道路等級制度・バイパスの開通年・無料化・本線昇格・橋の架橋史を史実として扱い、明治初年の架橋年次や天竜川橋の国道退役年を「記載幅」、旧東海道の拡幅時期を「未確認」として区別した。

参考文献・参考資料

  • 国土交通省中部地方整備局 浜松河川国道事務所「磐田バイパス|国道1号|道路事業」 https://www.cbr.mlit.go.jp/hamamatsu/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 国土交通省中部地方整備局 浜松河川国道事務所「天竜川に橋を架ける|天竜川の概要|河川事業」 https://www.cbr.mlit.go.jp/hamamatsu/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 国土交通省「道路:道の歴史/道路:道の歴史:近代の道」 https://www.mlit.go.jp/road/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 静岡県「静岡県の道」関連資料(天竜川橋の解説) https://www.pref.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 太政官達第六十号(明治9年)道路等級ヲ定ム。
  • 旧道路法(大正8年法律第58号)。
  • Wikipedia「磐田バイパス」 https://ja.wikipedia.org/wiki/磐田バイパス (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • Wikipedia「国道1号」 https://ja.wikipedia.org/wiki/国道1号 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • Wikipedia「新天竜川橋」 https://ja.wikipedia.org/wiki/新天竜川橋 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • Wikipedia「天竜川橋」 https://ja.wikipedia.org/wiki/天竜川橋 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • Wikipedia「静岡県道413号磐田袋井線」 https://ja.wikipedia.org/wiki/静岡県道413号磐田袋井線 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • フォートラベル「旧東海道は、今どうなっているんだろう(1)・・磐田市見付」(紀行文。大正期の町並み描写・愛宕山からの眺めの出典) https://4travel.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
  • 磐田物語 t038「旧東海道と国道1号・県道の主役交代 ── 磐田バイパスが変えた道の地図」 https://iwata-monogatari.net/t038 (最終閲覧:2026年7月25日)。