失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 医王寺庭園及び参道

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第45号(御厨文化財研究 一)

医王寺庭園及び参道 ── 鎌田の名勝と信仰空間

庭園の作庭と参道が結ぶ信仰の景観

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市御厨(鎌田)

要旨

医王寺庭園及び参道は、静岡県磐田市鎌田に所在し、2005年(平成17年)11月21日に磐田市の名勝として指定された記念物である。その正式名称は「医王寺庭園」ではなく「医王寺庭園及び参道」であり、庭の意匠のみならず、寺へ至る参道の空間までを一括して名勝とした点に特徴がある。本稿は、この一括指定の論理を、庭・道・土地という三つの層に腑分けして読み解く。公式指定情報として確認できる種別・所在・所有者・指定年月日を史実として押さえたうえで、作庭者・作庭年代については寺伝に諸説があり一次史料で確定しがたい現状を「未確認」として明示し、確度の異なる情報を同一平面で混同しない立場をとる。あわせて、伊勢神宮の御厨に由来する地名「御厨」と、磐田原台地の縁辺という鎌田の地形を背景に置き、庭園と参道が一続きの信仰空間として立ち上がる過程を記述する。名勝を静止した造形としてではなく、参る者の歩みが庭へ至る体験の総体として捉えることを、本稿の基本的な視座とする。

キーワード:医王寺/名勝/庭園/参道/御厨/鎌田/磐田原台地

1. 問題設定 ── なぜ「庭園及び参道」を一括で名勝としたのか

医王寺庭園及び参道は、磐田市鎌田に所在する医王寺の庭園と、その山門へと続く参道とを、ひとまとまりの名勝として市が指定した文化財である1。指定の種別は名勝、指定年月日は2005年(平成17年)11月21日であり、これらは磐田市公式の市指定文化財一覧に基づく事実として確認できる。庭園の名勝指定そのものは各地に例があるが、この医王寺の場合、指定の単位が「庭園」ではなく「庭園及び参道」とまとめられている点に、他の庭園名勝と異なる際立った特徴がある。

この名称は、単なる呼称の問題ではない。庭の意匠だけを取り出して保護するのではなく、寺へ近づく道の空間までを含めて一連の景観として価値を認めた、という制度上の判断が、名称そのものに刻まれている。すなわち「医王寺庭園及び参道」という七字あまりの名は、この文化財を「庭」と「道」という二つの構成要素から成る一続きの空間として読むよう、指定の側からあらかじめ促しているのである。本稿の出発点は、この一括指定の論理を正面から問うことにある。

問いを立てておく。庭園を評価するとき、通常は石組・地割・植栽といった庭の内部構成が対象となる。ところが参道は、庭の外にあって庭へ至るための通路であり、庭そのものではない。にもかかわらず参道までを名勝の単位に含めたのは、なぜか。この問いに答えるには、庭と道を別々に評価してから足し合わせるのではなく、両者が一体となって初めて成り立つ景観の質を読み取る視点が要る。本稿は、庭・道・土地という三つの層に対象を腑分けし、それぞれの層が名勝の価値にどう寄与するかを一つずつ点検していく。

このような一括指定は、庭園を名勝とする多くの事例のなかでも、けっして当たり前の措置ではない。庭園の名勝は、通例、塀や生垣で囲われた庭の内部を単位として価値づけられ、外の道はその外縁として扱われることが多い。ところが医王寺の場合、指定は庭の輪郭で閉じず、寺の外から庭へ向かう道の空間まで及んでいる。この越境こそが、本稿の関心の的である。庭を閉じた造形として囲い込むのではなく、そこへ至る歩みの経験ごと景観を捉えたところに、この指定の独自性がある。そしてその独自性を読み解く手がかりは、庭と道が互いに何を与え合っているのか、という相互の関係のうちにある。

先行する記述を概観しておく。この文化財に関する公表情報の骨格は、磐田市公式の市指定文化財一覧が担っており、種別・所在地・所有者・指定年月日といった基本項目はそこで確認できる。磐田物語では一般読者向けの文化財読みもの「医王寺庭園及び参道」が、この骨格を受けて庭・道・土地の三層から景観を読む枠組みを示している。本稿はその読みものを郷土史研究者向けに再構成し、確度の層を明示しながら、作庭年代・作者をめぐる情報の性格を史料批判の観点から整理し直すことを企図する。

あらかじめ、本稿が用いる四つの確度層を定義しておく。第一に史実、すなわち公文書や編纂物など史料によって確認できる事柄。第二に通説、学界で広く支持されているが一点で確定はできない事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、寺や地域で語り継がれてきた事柄である。加えて、「未確認」(管見の限り一次史料に突き当たっていない)と「記載なし」(史料に確かに存在しない)を区別する。この枠組みを、以下の検討を通じて一貫して保持する。

指定の単位が「庭園及び参道」であること 庭の意匠だけを守るなら 庭園 道は外 実際は道の空間を含む一連の景観 参道 山門 庭園 本稿は三つの層に分けて読む 石が組む山水の景 身体を寺へ移す装置 土地 御厨・鎌田の地形
図1 一括指定の構造と本稿の読み方。名称が一語にまとめた価値の中身を、庭・道・土地の三層に分けて読み解く。枠の並びは考え方を示す図式であり、境内の実際の配置を表すものではない。

2. 史料で確認できる範囲 ── 公式指定情報とその性格

三層の検討に入る前に、史料によって確認できる範囲を確定しておく。磐田市公式の市指定文化財一覧によれば、この文化財の名称は「医王寺庭園及び参道」、指定区分は市指定の記念物、種別は名勝、指定年月日は2005年(平成17年)11月21日、所在地は鎌田、所有者・管理者は医王寺である。これらは行政による指定の記録に基づく史実として扱ってよい。名勝とは、庭園・築山・渓谷など、自然または人の手が作り出した土地の景観のうち、観賞上または学術上の価値が高いものに与えられる記念物の種別である2

ここで一つ、史料の性格に注意を促しておきたい。公式一覧が保証するのは、あくまで「この景観が名勝として指定された」という制度上の事実であって、庭がいつ誰の手で作られたか、参道がどのように成立したかといった来歴ではない。指定情報は文化財としての価値づけの結果を記すものであり、その価値がどのような歴史的過程を経て形づくられたかまでを語る性格の史料ではない。名勝という種別は現在の景観の質を評価するものであって、成立年代の確定を含意しない。この区別を踏まえておくことが、後続の各層を評価するうえで欠かせない。

所在地の表記についても一言しておく。一般に流通する情報では所在地番地を鎌田2065-1とするものが見られるが、磐田市公式一覧の記載は「鎌田」までにとどまる。したがって番地の水準は、公式史料で裏づけられた史実ではなく、二次的な情報として扱うのが穏当である。町名としての鎌田は確定できるが、地番の一点までを公式記載で確認できるわけではない。この程度の腑分けを面倒がらずに行うことが、後の世の調べものに耐える記述の前提になる。

公式一覧が「年代」の欄を空欄(該当なし)としている点も見落とせない。これは、庭園・参道の成立年代が制度上は特定されていないことを示す。空欄であることは、年代を記す史料が確かに存在しないと断定できる(=記載なし)ことを意味しない。あくまで、指定の枠組みにおいて成立年代が確定情報として掲げられていない、という状態である。年代の空欄をどう読むかは、第6節で作庭年代の問題として改めて検討する。ここでは、公式情報から引き出せるのは「名勝という現在の評価」であって「成立の歴史」ではない、という限界を確認するにとどめる。

種別が名勝であることの含意にも触れておきたい。記念物には、名勝のほかに史跡・天然記念物があり、それぞれ評価の軸を異にする。史跡が歴史上の事件や施設の跡としての価値を、天然記念物が動植物・地質鉱物としての価値を対象とするのに対し、名勝は土地の景観そのものの観賞上・学術上の価値を対象とする。この文化財が名勝として指定されたということは、庭と道を、歴史の痕跡としてでも、自然物としてでもなく、まず「観賞に堪える一連の景観」として評価した、ということを意味する。作庭者や築造年代の来歴が空欄のままでも指定が成立しうるのは、名勝という種別が現在の景の質を評価軸に据えているからにほかならない。ここに、来歴の確定を待たずに景観の価値を認める、名勝という枠組みの特質がある。

公式情報の確度 ── 何が史実で、何が未確定か 史実(公式一覧で確認) ・種別 ── 名勝 ・指定 ── 2005年11月21日 ・所在 ── 鎌田 ・所有 ── 医王寺 未確認・二次情報 ・地番 2065-1 ── 二次情報 ・作庭年代 ── 欄は空欄 ・作者 ── 未確認 ・成立の経緯 ── 未確認
図2 公式指定情報の確度。青は公式一覧で確認できる史実、橙は公式に確定情報として掲げられていない未確認・二次情報。名勝という評価(史実)と、成立年代・作者(未確認)は別の層にある。

3. 庭園を読む ── 石が組む景と観賞の作法

層①・庭園

限られた敷地に山水を凝縮する造形

庭の性格。寺院の庭園は、限られた敷地のなかに山水の景を凝縮させる造形である。石を据え、地割を整え、植栽を配することで、現実の山や谷を縮めて眼前に立ち上げる。庭を歩き、あるいは座して眺めるとき、目の前の数歩の距離が、遠い山あいの景として立ち現れる。医王寺の庭も、この寺院庭園一般の作法のうちに置かれていると考えられる。名勝としての観賞価値は、こうした造形が現実の景を縮景として組織する、その手つきの質にある。

観賞の作法。庭を読むとは、個々の石の名や寸法を暗記することではない。石と石、石と植栽、庭と背後の地形が、どのように関係づけられているかを読むところに、庭を味わう作法がある。庭は静止した造形に見えて、見る位置と季節と光によって表情を変える。朝の斜光に石肌が起きあがる時と、雨後に苔が濃く沈む時とでは、同じ庭が別の景を見せる。名勝としての価値は、その変化の幅のなかに置かれている。したがって庭の評価は、一度きりの観賞ではなく、時をおいて繰り返し向き合うことによってはじめて像を結ぶ。

見る位置という問題。寺院の庭には、堂内や縁側から一定の視点で眺める座観の庭と、園路をめぐりながら景の移り変わりを楽しむ回遊の庭とがある。どちらの型であるかによって、庭が組み立てる景の論理は異なる。座観であれば、主たる視点から見て石組や植栽が最も整って見えるよう、景が一枚の絵のように構成される。回遊であれば、歩む位置ごとに異なる景が現れるよう、視点の移動を前提に石が据えられる。医王寺の庭がいずれの型に近いかを見きわめることは、庭の読みを一段深める。ただしその判定にも現地での観察が要り、本稿は型の断定を避け、庭を読む際に「どこから見るよう設えられているか」を問う視点を提示するにとどめる。

資料上の限界。庭園の作者・作庭年代・各石組の細部については、寺伝や郷土史のなかに諸説があり得るが、それらを一次史料で確定することは、本稿の調査範囲ではできていない。したがって本稿は、確証のない作庭者名や年代を庭の価値の根拠として持ち出すことをしない。庭の価値は、その由緒の華やかさによってではなく、いまそこに残る景の質そのものによって測られるべきものだからである。作庭の伝承に踏み込む場合は、第6節で改めて「伝えられる」「とされる」と語を区別しながら扱う。

本稿の評価:庭園は、名勝の中核をなす造形の層である。その価値は現地で観賞しうる景の質に即して評価すべきであり、作庭者・年代の確定を価値の前提とするべきではない。石組の細部の記述は、一次史料と現地調査の裏づけを得てから稿を改める。
庭園 ── 現実の山水を縮めて庭に組む 現実の山や谷 縮景 石組・地割・植栽の庭 数歩の距離のうちに遠い山あいの景を立ち上げるのが、寺院庭園の作法である。
図3 庭園の造形原理。現実の山水を石組・地割・植栽によって縮景として庭に凝縮する。図は寺院庭園一般の読み方を示す模式であり、医王寺庭園の具体の石配置を写したものではない。

4. 参道を読む ── 道という構成要素と信仰空間への移行

層②・参道

身体を寺の側へ移していく装置

道の性格。参道は、ただの通路ではない。寺の外と内を分け、参る人の身体を少しずつ寺の側へと移していく装置である。道幅、勾配、両側の樹木や石垣、足元の質感が、歩く者の感覚を整えていく。俗界の側から山門をくぐる前の道、徐々に日常から離れていく感覚——そうした参道の体験があってはじめて、庭の静けさが際立つ。名勝の単位に参道が含められたということは、この道の空間そのものにも観賞上の価値が認められた、ということだと読み取れる。

視界の開閉として読む。参道を読むときに見たいのは、道がどの方向から寺へ近づくか、どこで視界が開き、どこで閉じるか、という点である。両側に樹々が迫れば視界は閉じ、歩む者の意識は足元と前方へ絞られる。ふいに視界が開けば、そこに山門や庭の入口が現れる。この閉じと開きの律動が、参る者の身体を信仰の場へと導く。庭が空間の到達点であるとすれば、参道はそこへ至る時間の経験であり、両者は「点」と「線」として補い合っている。

松並木と樹々の見方。東海道筋をはじめ、遠州の街道や参道には松並木が連なる景がしばしば残る。寺の参道においても、両側に立つ樹々は、道に方向と陰影を与える重要な要素である。参道沿いに松や古木があれば、それは道の年輪を示す生きた標であり、石組という動かぬ造形とは別の、生きて育つ時間の流れを刻む3。樹木は伐られれば戻らない。参道の景観を守るとは、道そのものだけでなく、その両側に立つ樹々の連なりを守ることでもある。ただし現地の樹種・本数・並木の現況は、季節や手入れによって変わるため、本稿では具体の本数を断定せず、「道の両側に樹々の連なりを読む」という枠組みを示すにとどめる。

境としての参道。参道が「ただの通路ではない」ということを、もう少し掘り下げておきたい。参道は、俗なる外界と聖なる寺内とを分ける境の役割を担う。山門はその境を象徴する構築物であるが、境は門の一点にあるのではなく、参道を歩むあいだにゆるやかに立ち現れる。入口では日常の意識のままであった歩みが、樹々の陰を抜け、足元の質感の変わり目を越えるうちに、しだいに参るという構えへと変わっていく。この移行の緩やかさが、参道という空間の眼目である。庭がいかに優れた造形であっても、境を越える経験を欠いたまま唐突にそこへ立てば、庭の静けさは十分に働かない。参道は、庭の景を受けとめる準備を、歩む者の身体に整えさせる。庭と道を一括した名勝は、この準備の過程までを景観の価値として囲い込んだのである。

本稿の評価:参道は、庭という到達点へ至る時間と身体の層である。庭と一括で名勝とされた意味は、この道の経験を含めて景観を保存しようとした判断に読み取れる。庭を「点」、参道を「線」として補い合う関係で捉えるのが、一括指定を理解する鍵である。
参道 ── 視界の閉じと開きが身体を寺へ移す 入口・俗界の側 樹々で視界が閉じる 山門・視界が開く 石垣・足元が変わる 道幅・勾配・樹木・足元の質感が、少しずつ身体を寺の側へ移していく。
図4 参道の経験構造。視界の閉じと開き、足元の質感の変化が、参る者の身体を信仰の場へと移していく。図は道という構成要素の読み方を示す模式であり、医王寺参道の現状を写したものではない。

5. 一括指定の論理 ── 庭・道・土地の三層と比較

ここまで庭園と参道を別々に読んだ。しかし名勝としての「医王寺庭園及び参道」の要点は、この二つを足し合わせたところにではなく、両者が一体となって成り立つ景観の質にある。庭だけを取り出しても、参道だけを取り出しても、この名勝は完結しない。参道という時間の経験を経て庭という到達点に至る、その一連の歩みそのものが観賞の対象なのである。以下の比較表は、庭・道・土地の三層を対等の粒度で並べ、それぞれが名勝の価値にどう寄与するかを可視化することを目的とする。

表1 医王寺庭園及び参道を構成する三層 ── 性格・価値・依拠する資料・確度
構成の層空間の性格観賞・学術上の価値依拠する資料確度と留意点
庭園(点)限られた敷地に山水を凝縮する造形。到達点。石組・地割・植栽が組む縮景の質。季節と光で変化する景。現地観賞、公式の名勝評価。名勝=史実。作庭年代・作者は未確認。石組細部は現地調査を要する。
参道(線)俗界と寺内を分け、身体を寺へ移す通路。時間の経験。視界の開閉、勾配、松並木や樹々の連なりが与える経験の質。現地観賞、街道・参道の松並木文化。一括指定の対象=史実。樹種・本数の現況は変動し、断定を避ける。
土地(場)御厨・鎌田の台地と低地。庭と道を載せる地形。伊勢御厨に遡る地名と古墳群が示す土地の重層。地名の由来、磐田原台地の地形、古墳の分布。地名の由来は通説的理解。寺と地形の具体的対応は推定。

この比較から見えてくるのは、三層が競合するのではなく、それぞれ名勝の異なる側面を担っているという事実である。庭園は「造形の到達点」を、参道は「そこへ至る時間の経験」を、土地は「両者を載せ意味づける場」を、それぞれ受けもつ。庭を「点」、参道を「線」、土地を「場」と置けば、名勝はこの点・線・場が重なり合った総体として立ち上がる。一括指定は、この重なりをまるごと保存しようとした判断だと読める。庭だけを名勝とすれば、そこへ至る経験と、それを載せる土地の記憶とが、価値の枠の外へこぼれ落ちてしまう。

この点で、庭と道を一括する指定は、景観保護の考え方として一歩踏み込んでいる。境内や社叢を含めて一体的に守る発想は寺社の文化財では珍しくないが、庭園そのものの名勝に参道を明示的に含めた例は、必ずしも多くない。指定の単位をどこで区切るかは、その景観の何を価値の核とみなすかという判断を映し出す。医王寺の場合、価値の核は庭の造形単体ではなく、道から庭へと至る空間の連続そのものに置かれた。これは、文化財を「もの」としてではなく「経験の場」として捉える視点であり、庭を訪れる身体の動きまでを保護の対象に組み込んだ点で、示唆に富む区切り方だと考える。区切りの引き方それ自体が、この名勝の思想を語っている。

史料批判の観点からは、三層のいずれについても「成立の歴史を直接記す一次史料は限定的である」という共通の限界が課される。庭の作庭年代も、参道の整備時期も、公式情報の水準では確定していない。この限界は三層に等しく課されるのだから、それを理由に特定の層だけを軽んじることはできない。むしろ問うべきは、各層がどの資料に立脚し、その資料がどこまでを語りうるのかである。現地で観賞しうる景観は現在の価値を、地名と地形は土地の来歴を、それぞれ異なる仕方で証言する。確定できないことをもって、景観の価値そのものを否定することはできない。

この整理は、文化財を読むうえで一定の含意をもつ。庭園を読むとき、私たちはしばしば「誰がいつ作ったのか」という来歴の華やかさに引き寄せられ、作庭者の名や年代を価値の中心に据えたくなる。しかし作者と年代が未確認であることは、庭の景の質を少しも損なわない。名勝という評価は現在の景観に与えられたものであり、その景を丁寧に読むことと、来歴を確定することとは、本来まったく別個の作業であって、一方の欠如が他方の価値を損なうわけではない。両者を混同せず、確定できる史実と未確認の来歴とを語の水準で書き分けること——それが、この名勝を後世の調べものに耐える形で記述する作法だと考える。

6. 作庭年代・作者をめぐる確度の腑分け

論点・作庭年代/作者

寺伝の諸説と、確定しがたい成立年代

問題の所在。庭園の名勝としての価値が現在の景に即して評価されるとしても、いつ、誰の手でこの庭が営まれたのかという問いは、なお関心を引く。寺院の庭園については、開山や中興の年代、著名な作庭家への仮託など、寺伝のなかに来歴が語られる例が少なくない。医王寺の庭についても、寺伝や郷土史のうちに作庭をめぐる伝えがあり得る。しかし本稿は、それらを一次史料で裏づけるには至っていない。

三つの態度の区別。ここで、確度の異なる三つの態度を区別しておきたい。第一に、寺伝として「◯◯の作と伝えられる」と語られる場合、それは伝承の層に属し、史実とは資料の性格を異にする。第二に、庭の様式や石組の手法から時代の幅を絞り込むことは推定として可能だが、それには現地の詳細な調査と、他の遺構との比較が要る。第三に、作庭年代を記した棟札・記録・古図などの一次史料が見いだされれば、それははじめて史実の水準に達する。現状は、第一の伝承の水準にとどまり、第二・第三の裏づけは本稿では未確認である。

仮託が生じやすい理由。寺院庭園の来歴が確定しにくい背景には、いくつかの一般的な事情がある。第一に、庭は建物のように棟札を残しにくく、造営の記録がそもそも作られなかった場合が少なくない。第二に、庭は後の世に幾度も手を入れられ、当初の姿と現状とが必ずしも一致しない。第三に、権威づけのために著名な作庭家の名が後世に仮託される例が、庭園史ではしばしば見られる。これらの事情は、医王寺の庭に固有の問題ではなく、寺院庭園を扱う際に広く付きまとう困難である。だからこそ、伝えられる作者名を鵜呑みにせず、また逆に来歴の伝承そのものを無価値として退けもしない、二重の慎重さが求められる。様式から時代を絞る様式編年の手法も有力だが、それには比較の基準となる遺構の蓄積と、改修の履歴を見分ける眼が要り、机上の推論だけで年代を断ずることはできない。

「空欄」の読み方。第2節で触れたとおり、公式一覧の年代欄は空欄である。この空欄を「作庭年代が確かに不明である」と読むか、「確定情報として掲げるだけの一次史料が現状では整っていない」と読むかは、慎重を要する。前者は年代の不在を断ずる読みであり、後者は未確認の状態を認める読みである。本稿は後者の立場をとる。すなわち、成立年代を記す史料が元来存在しなかったのか、存在したが今日に伝わらないのか、伝わっているが筆者が把握していないのかは、それ自体が別個に検証を要する問いであり、いずれか一つに決めつけるべきではない。

本稿の立場。以上を踏まえ、本稿は作庭者・作庭年代について、確証のない人名・年代を本文に書き込まない方針を貫く。庭の価値を語るのに、来歴の確定は必須ではないからである。ただし、寺伝に伝わる来歴それ自体は、地域が庭をどのような記憶とともに受け継いできたかを示す資料として尊重する。伝承を史実の劣位に置くのでもなく、伝承を史実と偽るのでもない——この二重の禁欲が、来歴をめぐる記述の基本姿勢である。

本稿の立場:作庭年代・作者は現状では未確認であり、寺伝の来歴は伝承として扱う。確証のない年代・人名を庭の価値の根拠として本文に持ち込まないことを、記述の原則とする。

7. 背景としての地理 ── 御厨・鎌田の台地と低地

庭・道・土地の三層のうち、最後に土地の層を検討する。名勝は空中に浮かぶ造形ではなく、鎌田というこの土地の起伏のうえに成り立っている。所在地の御厨という地名は、伊勢神宮の御厨(みくりや)に由来する。御厨とは、神宮へ供える物資を貢進した荘園・所領を指す語で、この一帯がかつて伊勢の神領と結びついていたことを、地名そのものが伝えている4。中世の御厨制と鎌田の関わりについては、本論考シリーズの鎌田御厨 ── 伊勢神宮領だった村の名残で詳しく論じた。また、この土地に根づいた伊勢信仰の受容は、鎌田神明宮 ── 遠州のお伊勢さまにも別の形で刻まれている。

この地名の重みは、庭と道の景に奥行きを与える。名勝としての医王寺庭園及び参道も、御厨という土地の重層のうえに置かれている。庭や道の景観は、その場かぎりの造作ではなく、神宮の御厨に遡る地名と、古い開発の記憶を背後に負っている。新貝・鎌田を含む御厨地区には、松林山古墳をはじめとする大型の前方後円墳も分布し、古い時代からこの土地が拓かれ、人の営みが厚く積み重なってきたことがうかがえる。土地の名を知ってから庭と道を見ると、景の奥行きが一段深まる。

寺そのものの名にも一言しておきたい。寺号の「医王」は、病を癒す仏である薬師如来の異称として広く知られる。医王寺という寺号を持つ寺は各地にあり、薬師信仰との結びつきが一般に想起される。ただし、当寺の本尊や草創の経緯について、本稿は一次史料を確認していない。したがって、この寺号から本尊や創建を推し量ることはせず、あくまで「医王」という名が薬師信仰の広がりのなかにある呼称だという一般的な理解を記すにとどめる。名勝の主題は庭と参道の景観にあり、寺の草創史はそれとは別に、寺蔵史料の検討を経て論じられるべき主題である。ここでは、庭と道が信仰の場に営まれた景観であることを確認し、その信仰の内実の詮索には踏み込まない。

次に地形を見る。鎌田は、磐田原台地とその縁辺、そして周囲に広がる低地のあわいに位置する。磐田原台地は天竜川と太田川(今之浦)に挟まれた洪積台地で、その縁辺には古墳・遺跡が集中する5。鎌田もまた、台地の縁と低地が接する地形のなかにあり、水が得やすく、人が住み着きやすい条件を備えてきたと考えられる。寺がどの高さに営まれ、参道がどの斜面を上り下りするかは、この台地と低地の関係に規定される。庭の背後にどんな地形が控え、参道がどの縁を通るかを、台地・低地という地勢の枠で読むと、庭と道が土地に根ざしている様子が見えてくる。

ただし、寺の立地と地形の具体的な対応関係——庭がまさに台地縁のどの高さにあり、参道がどの斜面をたどるか——を精密に記すには、現地の踏査と地形図の照合が要る。本稿はその水準の記述を推定の枠にとどめ、断定を避ける。地名の由来や台地の成り立ちは通説的な理解として述べうるが、この寺・この参道と地形との一対一の対応は、なお現地確認を経て確かめるべき事柄だからである。土地の層についても、語りうる確度の幅を見きわめる姿勢を保つ。庭・道・土地のいずれの層でも、確かめられることと確かめきれないことの境を明示することが、景観を軽々しく物語化しないための歯止めになる。

鎌田 ── 台地の縁と低地のあわい 低地(水が集まる) 磐田原台地(洪積台地) 台地の縁 参道 医王寺・庭園 寺と参道がどの高さを通るかは、台地縁と低地の関係に規定される(対応の詳細は推定)。
図5 鎌田の地形断面。磐田原台地の縁辺と低地のあわいに寺と参道が位置する関係を示す模式図。高さ・勾配は誇張した図式であり、実際の断面や寺の正確な位置を表すものではない。

8. 結論 ── 名勝を信仰空間の総体として読む

本稿は、市指定の名勝「医王寺庭園及び参道」を、庭・道・土地の三つの層に腑分けして読んだ。得られた見取り図は次のとおりである。種別が名勝であること、2005年(平成17年)11月21日に指定されたこと、所在が鎌田であること、所有者が医王寺であることは、公式一覧に基づく史実である。一方、庭の作庭年代・作者、参道の整備時期は、公式情報の水準では確定しておらず、本稿の範囲では未確認である。庭園は造形の到達点を、参道はそこへ至る時間の経験を、土地は両者を載せ意味づける場を、それぞれ担っている。

この文化財の要点は、名称が「庭園及び参道」と一括されたところに、あらかじめ示されている。庭だけを名勝とすれば、そこへ至る歩みの経験と、それを載せる御厨・鎌田の土地の記憶とが、価値の枠からこぼれ落ちる。庭を「点」、参道を「線」、土地を「場」として重ね合わせたとき、名勝ははじめて一続きの信仰空間の総体として立ち上がる。一括指定は、この重なりをまるごと保存しようとした判断だと読める。名勝を静止した庭の造形としてではなく、参る者の歩みが庭へ至る体験の総体として捉える——これが本稿の立場である。

名勝=点・線・場の総体としての信仰空間 場 ── 御厨・鎌田の台地と低地(土地の記憶) 線 ── 参道 時間の経験 点 ── 庭園 造形の到達点 信仰空間 体験の総体 参道(線)を経て庭園(点)に至る歩みが、土地(場)のうえで一続きの信仰空間を成す。
図6 名勝の総体構造。庭を「点」、参道を「線」、御厨・鎌田の土地を「場」として重ね合わせると、名勝は参る者の歩みが庭へ至る信仰空間の総体として立ち上がる。一括指定は、この重なりをまるごと保存しようとした判断だと読める。

したがって本稿の姿勢は明確である。文化財を読む作業は、「作者と年代を突き止める作業」から「確度の層を分離し、それぞれの価値を正当に記述する作業」へと組み替えられるべきである。史実・通説・推定・伝承を混同せず、「未確認」と「記載なし」を区別し、伝承を史実の劣位に置かず、確証のない来歴を史実と偽らない。この禁欲的な手続きこそが、名勝を後世の調べものに耐える形で残す方途であると考える。

最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、庭園の作庭年代・作者については、寺蔵の記録・棟札・古図や近世の郷土史料を博捜することで、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、庭の石組・地割の様式論的な分析は、現地の詳細な実測と、遠江の他の寺院庭園との比較を経て、はじめて推定を通説へ押し上げうる。第三に、寺と参道の立地と台地縁・低地の地形との対応は、地形図の照合と現地踏査によって精密化されるべき主題である。これらはいずれも、本稿が設定した三層と四確度の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと積み上げていく作業に属する。庭と道と土地を切り離さず、一続きの信仰空間として読み続けること——その地道な手続きの先にこそ、この名勝が抱えてきた景観の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。

本稿の舞台である鎌田や御厨には、寺社や庭とともに受け継がれてきた古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 名称・指定区分・種別・指定年月日・所在地・所有者は、磐田市公式ウェブサイト「市指定文化財」一覧の記載による。種別は名勝、指定年月日は2005年(平成17年)11月21日、所在地は鎌田、所有者・管理者は医王寺である。
  2. 名勝は文化財保護法にいう記念物のうち、庭園・築山・渓谷など、観賞上または学術上の価値が高い土地の景観に与えられる種別である。ここでは磐田市の市指定文化財としての名勝を指す。
  3. 参道沿いの松並木・樹木は、石組と異なり生育・枯損によって姿を変えるため、その現況は季節と手入れに左右される。本稿は具体の樹種・本数を断定せず、道の両側に樹々の連なりを読む枠組みを示すにとどめる。
  4. 御厨は、伊勢神宮などへ供進物を納めた所領を指す語である。鎌田における御厨制の展開については本論考シリーズ第28号で論じた。
  5. 磐田原台地は天竜川と太田川(今之浦)に挟まれた洪積台地で、その縁辺に古墳・遺跡が集中する。鎌田は台地の縁と低地が接する地形に位置する。寺・参道と地形の具体的対応は現地踏査を要し、本稿では推定にとどめる。

付記:本稿は一般読者向け記事 u028「医王寺庭園及び参道」の内容を、郷土史研究者向けに確度の層の区別と史料批判の観点から再構成した論考版である。種別・所在・所有者・指定年月日を史実、作庭年代・作者に関する寺伝を伝承、地形・地名からの読みを推定・独自考察として書き分けた。

参考文献・参考資料

  • 磐田市『市指定文化財』一覧ページ(名称・指定区分・種別・指定年月日・所在地・所有者) https://www.city.iwata.shizuoka.jp/sports_midokoro/bunkazai/bunkazainitsuite/1002039.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 u028「医王寺庭園及び参道」 https://iwata-monogatari.net/u028.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 c021「磐田市の指定文化財一覧」。
  • 大石浩之「鎌田御厨 ── 伊勢神宮領だった村の名残」大石浩之の磐田論考 第28号、磐田物語、2026年。
  • 大石浩之「鎌田神明宮 ── 遠州のお伊勢さま」大石浩之の磐田論考 第13号、磐田物語、2026年。
  • 静岡県観光情報「ハローナビしずおか」掲載の医王寺庭園及び参道紹介 https://hellonavi.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、御厨・鎌田の該当章)。
  • 磐田市『磐田市史』資料編(近世・寺院関係史料の該当項)。
  • 磐田原台地の地形・地質に関する郷土地理資料(天竜川・太田川流域)。
  • 御厨地区の成り立ちと御厨制に関する中世史・荘園史関係文献。
  • 寺院庭園の作庭と観賞に関する庭園史概説。
  • 文化庁「文化財保護法」記念物(名勝)の定義に関する解説 https://www.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 佐口行正氏所蔵 御厨地区関係史料。