磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第42号(向陽地区研究 一)
高塚太郎平新道 ── 全財産を投じて拓いた道
一個人の私財がひらいた明治の道普請
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
明治のはじめ、遠江の台地では東海道より北に車馬の通れる道が一本もなかったと伝えられる。向笠村の資産家・高塚太郎平は、私財を投じて独力で新道を拓き、明治20年(1887年)に完成させたとされる。県が認めた通行料の徴収権を用いず道を無償で開放したと語り継がれる一方、彼は晩年に全財産を失って世を去った。本稿は、この事績を伝える現存の典拠が、向笠史談会が2014年に建てた解説板と、向笠小学校が公表する沿革記述という、いずれも顕彰の性格をもつ二次的な記録である点に着目する。両者は道の長さ・幅・工期において食い違い、事業の規模を直接記す明治期の一次史料は管見の限り確認できない。本稿は数値を一元化せず両論を併記し、「未確認」と「記載なし」を区別しつつ、私財による道普請という顕彰的言説を史料批判の対象として腑分けする。事績の骨格を尊重しながら、その確度の層を保ったまま記述することを課題とする。
キーワード:高塚太郎平/向笠村/賃取道/道路開鑿/豊田橋/顕彰と記憶/史料批判
1. 問題設定 ── 顕彰譚をどう扱うか
高塚太郎平(たかつかたろべい)の名は、いまも磐田市向笠に一枚の解説板として残る。向笠史談会が2014年(平成26年)6月に建てたその看板は、明治初年ごろまでこの地方の東海道より北には大八車の通れる道が一本もなく、向笠村に生まれた太郎平が私財を投じて独力で新道を拓いた、と伝えている1。学校の建設費を寄付し、次いで道に全財産を注ぎ、県が認めた通行料さえ取らず、最後はすべてを失って世を去った──こう要約される生涯は、地域の記憶のなかで一個人の献身の物語として語り継がれてきた。
本稿の出発点は、この物語を疑い、あるいは否定することにあるのではない。むしろ、これほど鮮明な献身譚がどのような資料に支えられているのかを一つずつ点検し、事実として確認できる部分と、顕彰の語りとして受け止めるべき部分とを腑分けすることにある。郷土史において、地域の恩人をたたえる言説は、しばしば事績の細部を単純化し、あるいは劇的に整える。その語りを史実そのものと取り違えれば、確度の異なる情報を同じ平面へ並べる誤りに陥りやすい。逆に、顕彰的だからと退けてしまえば、地域が何を記憶として選び取ってきたかという貴重な手がかりを失う。
そこで本稿は、以下の枠組みを設定する。すなわち、史料によって確認できる事柄を史実、根拠はあるが確定に至らない事柄を推定、地域で語り継がれてきた事柄を伝承と呼び分け、これらを語の水準で書き分ける。加えて、「該当する一次史料に管見の限り突き当たっていない」状態を未確認、「史料に当該の記述がないと確認できる」状態を記載なしとして区別する。この二つは似て非なるものであり、混同すれば、確かめられていないだけの事柄を「無かったこと」として切り捨てる過ちを生む。
太郎平の事績は、この腑分けの手続きを試すのにふさわしい素材である。というのも、彼の道普請を伝える現存の典拠は、後述するとおり顕彰の性格が濃く、しかも数値において互いに食い違う。事業そのものの骨格──明治20年の完成、全私財の投入、独力での事業、通行料の不徴収──は複数の記録で一致するが、その規模を裏づける明治期の公文書や普請帳のたぐいは、本稿の調査範囲では確認できていない。以下では、まず典拠の性格を吟味し、続いて道路環境・人物・事業規模・通行料・晩年を順に検討し、最後に結論として顕彰と史料批判の関係を整理する。
2. 典拠の性格 ── 二つの顕彰的記録と一次史料の不在
高塚太郎平新道について、本稿がよりどころとしうる現存の典拠は、大きく二つである。一つは、向笠史談会が2014年6月に道の入口付近へ建てた解説板であり、いま一つは、磐田市立向笠小学校が公式サイトの「学校の自慢・歴史」の欄で公表している沿革記述である2。この二つはいずれも、太郎平の事績を後世に伝え、その功績をたたえるために編まれた記録という点で、性格を共有している。
ここで、両者が顕彰的な二次記録であることの含意を明確にしておきたい。看板は、事業からおよそ百二十年を経た時点で、地域の史談会が現地に建てたものである。学校の沿革記述も、太郎平を「向笠小学校の恩人」として位置づける文脈のなかで書かれている。いずれも、事業の当事者が同時代に残した普請帳・出納簿・県への願書といった一次史料ではなく、後世の編者が伝承や既存の記録を整理して叙述した二次的な記録にあたる。したがって、そこに記された数値や経緯を、そのまま同時代の事実と等値することはできない。
もっとも、二次記録であることは、直ちに信頼性の低さを意味しない。看板は現地確認によって実在が確かめられ、学校の記述は公的機関が継続的に公表するものであって、いずれも一定の根拠に立つと考えられる。問題は、両者が事業の規模をめぐって食い違う点にあり、その食い違いを裁定できる一次史料が、本稿の調査範囲では確認できていないことにある。ここで注意すべきは、これが未確認の状態であって、記載なしと断ずるものではないことである。明治期の県には道路の開鑿や賃取道の許可に関わる公文書が作られたはずであり、そうした史料が現に伝わらないのか、伝わっているが筆者が把握していないのかは、それ自体が別に検証を要する問いである。
この区別を保つことには、実際上の意味がある。もし「一次史料は無い」と早々に断じてしまえば、二つの二次記録のどちらか一方を選ぶか、あるいは両者の中間をとるかという、根拠の弱い操作に走りがちになる。しかし「一次史料は未確認である」と位置づければ、いま採るべき態度はおのずと定まる。すなわち、確認できる範囲では二次記録の記述を尊重しつつ、両者が食い違う数値については一元化せず両論を併記し、将来の一次史料の発見によって判定が前進しうる余地を、記述のうえに開いておくことである。本稿はこの態度をとる。
なお、二つの二次記録を突き合わせるにあたっては、両者が独立した情報源であるのか、一方が他方を参照した可能性があるのかにも注意を払う必要がある。看板と学校の沿革記述が、共通のより古い伝えや同一の郷土資料に由来しているならば、両者の一致はそれぞれ独立した裏づけにはならず、一つの源が二度反響しているにすぎないことになる。逆に、両者が別系統の伝えに拠っているのであれば、一致点はより確からしく、相違点はそれぞれの系統の異同を映すものとして読める。現時点でこの依存関係を確定する材料はないが、二次記録の一致をもって直ちに史実の確度が二重になったと見なすことは避けたい。
3. 明治初年の道路環境 ── 東海道以北に車馬道なし
太郎平の事業の意義を測るには、まず彼が道を拓いた当時の道路環境を押さえておく必要がある。向笠史談会の看板は、明治初年ごろまでこの地方の東海道(現在の国道1号)より北には、車馬すなわち大八車の通行できる通路が無く、人々が不便をきたしていた、と書き起こしている。この一文が、事業全体の前提をなす。
東海道(現在の国道1号)は、遠州の台地の南縁を東西に貫く近世以来の大動脈であった。しかしその北側に広がる向笠・大藤・岩田といった向陽の旧村は、荷車の通らない土地に取り残されていたと伝えられる。大八車は、江戸期から昭和にかけて物資輸送を担った、人が曳く二輪の荷車である。その大八車が通れないということは、米も薪も茶も、すべて人が背負うか、馬の背に振り分けて運ぶほかなかったことを意味する。輸送手段の制約は、そのまま産業の制約に直結する。
この地方の産物を思い浮かべれば、荷車道の不在がもたらす制約はより具体的になる。向陽の台地とその周辺では、米のほか、茶や薪炭、養蚕にかかわる産物などが生み出されていたと考えられるが、これらはいずれも一定の量をまとめて運んでこそ商品となる。人の背や馬の背による小口の輸送では、運べる量にも到達できる範囲にも限りがあり、遠隔地の市場と結びつくことは難しい。太郎平が「産業の発展には道路の開発が必要だ」と考えたと看板が伝えるとき、その念頭にあったのは、こうした産物を荷車でまとめて運び出し、より広い経済圏へつなぐという見通しであったと読める。道は移動の便であると同時に、産物を商品へ変える装置でもあった。荷車の通る一本の道が地域の生業を動かしうるという見通しこそ、太郎平を私財の投入へと向かわせた発想の核にあったと考えられ、後年に豊田橋と接続してからの発展の伝えも、この見通しが現実のものとなった一端を語っている。
ここで、いくつかの語を史料批判の観点から吟味しておきたい。「道が一本もなかった」という表現は、看板の叙述に忠実であるが、これを字義どおり「いかなる通路も存在しなかった」と読むのは適切でない。人や馬の通う徒歩道・馬道の類はあったと考えるのが自然であり、看板が述べているのは、あくまで車馬(大八車)の通行できる道の不在である。すなわち問題は道の有無そのものではなく、荷車が通れる規格の道の不在にあった。この点を取り違えると、事業の性格を「無から道を生んだ」という過度な物語へ膨らませてしまう。太郎平が拓いたのは、既存の徒歩道の系を、荷車の通れる規格へ引き上げ、あるいは新たな線形で結び直す事業であったと理解するのが穏当である。
また、この不便がいつまで続いたのかという時期の限定も、慎重を要する。看板は「明治初年頃まで」とするが、明治初年はおおむね1868年前後を指し、これは太郎平が事業に着手したとされる時期(後述)や完成年(明治20年=1887年)とは開きがある。したがって「道が無かった」状態と「太郎平が道を完成させた」時点との間には、二十年ほどの幅がある。この幅のなかで、他の道路整備がどこまで進んでいたのかは、本稿では確認できていない。事業の意義を独力の偉業として際立たせる語りは、この間の他の動きを背景に退けがちであり、その点にも留意しておきたい。
4. 高塚太郎平という人物 ── 二つの私財投入
道の検討に入る前に、事業の主体である高塚太郎平その人について、典拠が伝える範囲を確定しておく。向笠小学校の沿革記述によれば、太郎平は弘化2年(1845年)に磐田郡向笠村で生まれた。近隣の村々に田畑や山林を持つ資産家の長男であり、25歳で19代目の当主となったとされる3。「19代」という代数は、この家が長く続いた旧家であったことを伝える伝承的な数え方であり、その一代ごとの厳密な系譜を本稿で裏づけているわけではない。ここで確認できるのは、太郎平が相応の資力をもつ家の当主であったという、事業の前提となる階層的背景である。
太郎平の名が地域の記録に残る理由は、道だけではない。沿革記述は、彼が28歳のときに学校建設のための資金を全額寄付したことを伝える。弘化2年生まれの28歳は、明治6年(1873年)にあたる。向笠地区の成立を扱った別稿で述べたとおり、向笠小学校は明治6年11月、新豊院を仮校舎として「磐田学校」の名で開校したと伝えられる。学制が公布されて間もない時期に、一人の資産家が学校の建設費を丸ごと引き受けたことになる。学制公布は明治5年(1872年)であり、全国で就学の場の確保が急がれていた最中の寄進である。
「19代目の当主」という伝えは、この家が近世を通じて向笠に根を張ってきた旧家であったことを物語る。近隣の村々に田畑や山林を分散して所有する形は、近世の在村地主に広く見られたあり方であり、その資力が、学校建設費の全額寄付や道普請への私財投入を可能にした物質的な基盤であったことは疑いない。ただし、資産家であることと、その資産を公共の事業へ投じることとは、別の事柄である。同じ階層の当主が皆このような寄進を行ったわけではない以上、太郎平の選択を階層的背景だけで説明し尽くすことはできない。背景としての資力と、個別の選択とを、ここでも切り分けて捉えておきたい。
学校に私財を投じ、次に道に私財を投じる。太郎平という人物の輪郭は、この二つの寄進によってかたちづくられている。ただし、両者を一続きの「私財を投じ続けた生涯」として滑らかに語ることには、方法上の注意が要る。学校寄付(明治6年)と道の完成(明治20年)との間には十四年の開きがあり、その間の彼の資産の推移や、二つの寄進を貫く一貫した動機を直接に記す史料は、本稿では確認できていない。顕彰の語りは、二つの善行を「私心なき献身」という一つの人格像へまとめあげようとするが、それは後世の解釈であって、同時代の自己証言ではない。
本稿の立場を一文で述べれば、次のとおりである。太郎平が学校と道の双方に私財を投じたという事実の骨格は、複数の記述で一致する史実に準ずる伝承として尊重するが、その動機を「無私の精神」といった内面へ帰する説明は、史料に裏づけられた事実ではなく顕彰的な解釈として扱い、断定を避ける。人物を英雄化する語りと、確認できる事実とを分けて記すことが、かえってこの人物の輪郭を確かなものにすると考える。
5. 道の区間と規模 ── 食い違う数値の史料批判
本稿の中心的な論点は、道の区間と規模をめぐって、二つの典拠が数値を食い違わせている点にある。まず、両者の記述をそのまま並べて示す。特定の一方を正しいと決める書式を避け、対等の粒度で対照することを心がける。
| 項目 | 向笠史談会の看板(2014年6月) | 磐田市立向笠小学校 公式サイト | 史料批判上の留意点 |
|---|---|---|---|
| 区間 | 小笠郡原谷川西岸より天竜川東岸まで | 久努村名栗から久努西・今井・向笠・大藤・富岡の各村を通り磐田村匂坂西を終点とする | 川(地理)と村名という記述方式の違い。おおむね同一の道の東西端を指すと読める。 |
| 長さ | 12km | 13km | 1kmの差。測定の基準・起終点の取り方の違いによる可能性。 |
| 幅 | 2m | 3.6m | 差が大きい。区間により幅が異なった可能性、または規格と実態の差。 |
| 工期 | 5年間 | 6年間 | 着手年の取り方で1年前後する。完成年は一致。 |
| 完成 | 明治20年 | 明治20年4月11日(可睡斎で落成式) | 完成年は一致。落成式の日付は小学校側のみが記す。 |
| 費用 | 全私財を投じて | 6,000円を超えた | 定性的記述と概数。両者は矛盾せず、重ね読みが可能。 |
まず、一見すると別の道のように見える区間の記述から検討する。看板は川という地理で、小学校は村名で、それぞれ道の東西の端を示している。東の起点とされる久努村(現在の袋井市域)のあたりは原野谷川の流域にあたり、西の終点とされる匂坂西は天竜川の東岸に位置する。したがって、両者はおおむね同じ道を、地理と行政村という別の言葉で描いていると読むのが妥当である。区間の記述方式の違いは、実質的な矛盾ではない。
問題は、長さ(12kmと13km)・幅(2mと3.6m)・工期(5年と6年)の差である。長さの1km、工期の1年は、起終点や着手時点の取り方によって生じうる範囲であり、決定的な対立とは言い難い。これに対し、幅の2mと3.6mという差は無視しがたい。荷車がすれ違えるかどうかは、道の機能を大きく左右するからである。この差を説明する仮説はいくつか立てられる。第一に、区間によって幅が一定でなかった可能性。第二に、当初の規格(あるいは計画幅)と、実際に施工された幅との差である可能性。第三に、後年の改修で拡幅された値を、一方の典拠が採っている可能性である。いずれも推論の域を出ず、これを裁定する一次史料は本稿では確認できていない。
付け加えれば、明治期の道の「長さ」や「幅」という数値は、そもそも一義に定まりにくい性質をもつ。長さは、どの地点を起終点にとるか、屈曲した道の実延長で測るか直線距離で近似するかによって変わる。幅もまた、路面の有効幅で測るか、側溝を含む敷地幅で測るかで異なりうる。まして、事業から百年以上を経て編まれた二次記録が、それぞれ別の資料や伝えに拠って数値を採録したのであれば、値がずれること自体はむしろ自然である。数値の不一致を直ちに「どちらかが誤り」と断ずるのではなく、測定と記録の来歴が異なりうることを踏まえて読むのが、史料批判の基本的な作法である。
この観点は、道の現在の姿を推測するうえでも意味をもつ。仮に一方の記録が計画時の規格を、他方が完成後あるいは後年改修後の実測を伝えているとすれば、二つの数値はいずれも誤りではなく、異なる時点の道を指していることになる。明治20年(1887年)に完成したとされる道が、その後の改修や周辺の道路網の整備のなかで、幅を広げられ、あるいは線形を変えられていった可能性は十分にある。とすれば、現在のどの路線が太郎平の道を受け継いでいるのかという問いも、単一の時点の道を探すのではなく、時間のなかで変化してきた道筋として捉え直す必要がある。
したがって本稿は、これらの数値を一方に決めず、両論を併記する立場をとる。明治20年(1887年)の完成、全私財の投入、独力での事業という骨格は二つの典拠で一致しており、事業の実在そのものは動かない。動くのは規模を示す数値であり、その振れ幅を消してしまうことは、かえって記録の実態を偽ることになる。数値の一致しない部分を「およそ12〜13km、幅は2〜3.6m」といった幅のある形で記すことこそ、現存の典拠に忠実な態度である。なお、落成式が営まれたと伝えられる可睡斎は、秋葉常夜灯を扱った別稿で触れた秋葉総本殿であり、火伏せの神を祀って遠州一円の信仰を集めてきた寺である。新道の完成を祝う式がこの地で営まれたとすれば、事業が一村の営みを超えて受け止められていたことをうかがわせる。
6. 通行料の不徴収と豊田橋 ── 制度と実際
この道の話が単なる土木の記録に終わらないのは、通行料をめぐる一点にある。向笠小学校の沿革記述によれば、この道は完成してから13年間、通行料を徴収することが県から認められていたという4。すなわち、私財を投じた者がその投資を回収する道は、制度として用意されていた。近代の日本各地には、私費で道や橋を築いた者に一定期間の通行料徴収を許す「賃取道」「賃取橋」の仕組みがあり、太郎平の道もその枠組みのなかに置かれていたと理解できる。
賃取道の仕組みは、公共の道路整備を担う財政の乏しかった時代に、私費による道づくりを促すための制度的な誘因であった。私財を投じた者に一定期間の通行料徴収を認めることで、投資の回収を保証し、次の担い手を生み出す。その意味で、太郎平に与えられた13年間の徴収権は、彼の献身を前提とした特例ではなく、当時の道路行政の一般的な枠組みの適用であったと見るのが妥当である。だからこそ、その権利を行使しなかったという選択が際立つ。制度が回収を保証していたにもかかわらず取らなかったという事実は、制度の存在を背景に置いてはじめて、その意味の重みを正しく測ることができる。
ところが、太郎平はその権利を用いなかった、と伝えられる。同校の記述は「新しい道はだれでもただで通ることができました。太郎平さんは、自分がどんなに貧しくなっても通行料を取ることをしませんでした」と記す。制度上は認められた徴収を、当人が行使しなかった──ここに、この事績が単なる普請の記録を超えて語り継がれてきた核心がある。
ただし、この点こそ史料批判が最も要る箇所である。第一に、「13年間の徴収を県が認めた」という制度的事実と、「太郎平が一切徴収しなかった」という行為の事実は、確度の水準が異なる。前者は県の許可という制度に関わる記述であり、本来なら県の公文書によって裏づけうる性質のものだが、その一次史料は本稿では確認できていない。後者は、そもそも「取らなかった」という不作為であって、不作為を積極的に証する史料は原理的に残りにくい。第二に、なぜ取らなかったのかという動機については、沿革記述も語っておらず、本稿もこれを推測で補うことはしない。顕彰の語りは、この不徴収を「無私」の証として意味づけるが、それは解釈であって、当人の証言ではない。
もう一つ、この道が孤立した一本ではなかったことも記録にとどめておきたい。看板は、新道が明治16年(1883年)に開通した天竜川の豊田橋(木造の橋)と結ばれて、おおいに発展したと伝える。橋のなかった天竜川を渡ることがどれほどの難事であったかは、天竜川の橋と渡船を扱った別稿で述べたとおりである。その天竜川に木造の橋が架かり、東岸から東へ太郎平の新道が伸びたことで、川を渡る手段と荷車の通れる道とが接続した。渡河と陸送の二つの隘路が、この時期に相前後して解かれたことになる5。興味深いことに、佐口行正氏所蔵史料のなかには「遠江国豊田橋架設略面/明治十六年二月彫刻」と題された刷り物が残されており(旧豊田町の地名を扱った別稿参照)、看板が伝える豊田橋の開通年は、この一枚の同時代資料によっても側面から裏づけられる。単独では確認できない事柄も、こうして周辺の史料と照らし合わせることで、確度を一段引き上げうる。
7. 没落と顕彰 ── 因果の非明示と記憶の保存
道は残ったが、太郎平の身代は残らなかった。向笠小学校の沿革記述は、その最期を短く伝える。銀行から借りた金をめぐる裁判に負けて、土地も家も金も、すべて失った。そして明治32年(1899年)、太郎平は56歳でこの世を去った、と。学校の建設費を全額寄付し、道に全財産を注ぎ、認められた通行料さえ取らなかった人物が、財産を失って世を去る──この事実の並びは、それ自体が強い物語性を帯びる。
だからこそ、ここで史料批判の姿勢を崩してはならない。第一に確認すべきは、道づくりが没落の直接の原因であったと、典拠が明記しているわけではない点である。沿革記述が述べるのは、あくまで「銀行から借りた金をめぐる裁判に敗れて全財産を失った」という経過であって、その借金が道普請のためであったのか、別の事業や事情によるものであったのかは、記されていない。したがって「道に私財を注いだために没落した」という因果は、事実の並びから読者が引き寄せられがちな解釈ではあるが、史料に裏づけられた因果ではない。本稿はこの点を未確認として留保する。事実の継起と因果関係とを取り違えないことは、人物史を書くうえでの基本である。
第二に、この没落の経緯を伝えるのが、彼を顕彰する側の記録であるという点にも留意したい。顕彰の語りにおいて、恩人の悲劇的な最期は、その献身をいっそう際立たせる働きをもつ。「すべてを失ってもなお通行料を取らなかった」という叙述は、事実であると同時に、献身を最大化する物語の型でもある。ここで大切なのは、この叙述を偽と断ずることではなく、それが顕彰という文脈のなかで選ばれ、整えられた叙述であることを意識したうえで受け止めることである。事実の核と、それを包む物語の型とを、腑分けして読む。
顕彰物を史料として扱うには、それが「いつ」「誰によって」「何のために」作られたかを、つねに意識する必要がある。2014年の看板は、事業から百年以上を経た地域社会が、失われつつある記憶を書きとめようとして建てたものである。そこには、当時の史談会が入手しえた資料と、地域に伝わってきた語りとが、選び取られて凝縮している。したがって看板の記述は、明治の事実をそのまま映す鏡ではなく、平成の地域社会が明治の事業をどう記憶し、何を後世へ残そうとしたかをも同時に語る資料である。この二重性を踏まえれば、看板は史料批判の対象であると同時に、それ自体が一つの歴史的所産として読むべき対象でもある。
そのうえで、なお記録すべきは、この人物の仕事を書き留めたのが、公式の史書ではなく地域自身であったという事実である。名を大きく残すことのなかった一人の仕事を、向笠史談会は2014年に一枚の看板として現地に刻んだ。向笠城砦跡の標柱と同じく、こうした地元の顕彰物は、公的な史書に載りきらない記憶をつなぎ止める細い糸である。史料批判の対象としての顕彰物と、記憶の担い手としての顕彰物──この両面をあわせ持つものとして、看板を扱うのが適切であろう。批判的に読むこととその価値を認めることは、矛盾しない。
8. 結論 ── 顕彰から確度の腑分けへ
本稿は、高塚太郎平新道の事績を、それを伝える二つの顕彰的な二次記録──向笠史談会の看板(2014年)と向笠小学校の沿革記述──に即して検討し、確認できる史実、確認できない未確認、伝承と顕彰的解釈を腑分けしてきた。得られた見取り図は次のとおりである。太郎平が向笠村の資産家であったこと、明治6年(1873年)に学校建設費を寄付したこと、明治20年(1887年)に東海道以北の新道を完成させたこと、その道が明治16年開通の豊田橋と接続したこと、そして彼が明治32年(1899年)に財産を失って世を去ったことは、複数の記述が一致して伝える事績の骨格である。
一方で、道の長さ・幅・工期は二つの典拠で食い違い、事業規模を直接記す明治期の一次史料は本稿の範囲では未確認である。県が認めたとされる13年間の通行料徴収権も、太郎平がそれを行使しなかったという不作為も、いずれも当人の同時代史料ではなく後世の顕彰的記録に拠っており、その動機は記されていない。没落と道普請との因果も、史料には明示されていない。これらを一つの滑らかな献身譚へ均してしまえば、確度の異なる情報が同じ平面に並び、事業の実像はかえって見えにくくなる。
したがって本稿の立場は明確である。すなわち、私財による道普請という事績の骨格は史実に準ずるものとして尊重しつつ、その数値は一元化せず両論を併記し、「未確認」と「記載なし」を区別し、顕彰的な解釈を事実と偽らない。この禁欲的な手続きは、太郎平の功績を割り引くものではない。むしろ、確度の層を保ったまま記すことによって、事業の骨格はより確かなものとして残り、看板や学校の記述が担ってきた地域の記憶も、その正当な位置において生き続ける。英雄化は人物を一枚の絵に閉じ込めるが、腑分けは人物を検証可能な記録として後世へ手渡す。
視野を広げれば、太郎平の道普請は、近代初頭の地方において、公共のインフラがしばしば私人の資力と意志に支えられて実現した事情の、一つの事例として位置づけられる。国家や府県による道路整備の体制が十分に整う以前、橋や道といった公共の便は、地域の有力者の寄進や賃取制度によって補われることが少なくなかった。太郎平の事業をこの一般的な文脈のなかに置くことは、彼の功績を相対化して小さく見せることではない。むしろ、一個人の選択がどれほど大きな公共的帰結をもたらしえたか、そしてその選択がどれほど属人的で不安定な基盤の上にあったかを、同時に照らし出すことになる。
最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、明治期の県の道路関係公文書──開鑿の願書、賃取道の許可、費用の記録──を博捜することで、規模や通行料をめぐる未確認の状態を史実へ押し上げうる余地がある。第二に、新道が現在のどの路線に受け継がれているかは、区間の記述が地理と村名で異なるため本稿では特定できず、旧地籍図や近代の路線変遷史料との突き合わせを要する。第三に、太郎平の没落の経緯は、当時の銀行取引や訴訟の記録が残れば、因果の当否を検証しうる。これらはいずれも、本稿が設定した確度の枠組みのなかで、未確認を一歩ずつ史実へと近づけていく作業に属する。向陽の台地に一個人がひらいた道の記憶は、そうした地道な手続きの先にこそ、確かな像を結んでいくはずである。古代の地方支配を刻む長者屋敷遺跡を論じた別稿(第17号)と同じく、向陽の交通と土地の記憶は、なお検証を待つ主題である。
注
- 向笠史談会「高塚太郎平新道」看板(2014年〔平成26年〕6月建立)。現地確認による。以下、本稿で「看板」と記すのはこの解説板を指す。↩
- 磐田市立向笠小学校 公式サイト「学校の自慢・歴史」。以下、本稿で「向笠小学校の沿革記述」「同校の記述」と記すのはこの記載を指す。↩
- 生年(弘化2年=1845年)、家督相続(25歳で19代目)、および28歳での学校建設費寄付は、いずれも向笠小学校の沿革記述による伝承であり、これを裏づける同時代の一次史料は本稿では確認できていない。↩
- 完成後13年間の通行料徴収許可、および太郎平が徴収しなかったとする記述は、向笠小学校の沿革記述による。県の許可に関わる公文書は本稿の範囲では未確認である。↩
- 豊田橋の明治16年(1883年)開通は看板による。佐口行正氏所蔵史料「遠江国豊田橋架設略面/明治十六年二月彫刻」は、開通年を側面から裏づける同時代資料として参照できる。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 k056 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・推定・伝承)を語の水準で区別し、二つの顕彰的二次記録の食い違いを両論併記のまま提示した。数値の一致しない箇所は幅をもった記述にとどめ、事業と没落の因果は未確認として留保した。
参考文献・参考資料
- 向笠史談会「高塚太郎平新道」看板(2014年〔平成26年〕6月建立)現地確認。
- 磐田市立向笠小学校 公式サイト「学校の自慢・歴史」(生年・家督・学校建設への寄付・新道の区間と規模・通行料・晩年について)(最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 k056「高塚太郎平新道 ── 全財産を投じて拓いた、東海道より北の道」 https://iwata-monogatari.net/k056.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 k033「向笠地区の成立と太田川・敷地川の記憶」 https://iwata-monogatari.net/k033-mukasa.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 k030「岩田・大藤・向笠をつなぐ丘陵と水の記憶」 https://iwata-monogatari.net/k030.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 r039「天竜川の橋と渡船」 https://iwata-monogatari.net/r039.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 c087「秋葉常夜灯 ── 可睡斎・秋葉総本殿」 https://iwata-monogatari.net/c087.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 c019「佐口行正氏所蔵史料 目録」(「遠江国豊田橋架設略面/明治十六年二月彫刻」を含む) https://iwata-monogatari.net/c019.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 t006「旧豊田町の地名と、土地の記憶」 https://iwata-monogatari.net/t006.html (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之の磐田論考 第17号「長者屋敷遺跡 二重土塁の奈良時代遺跡」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/017/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、近代の交通・道路に関する章)。
- 学制(明治5年〔1872年〕太政官布告)関係法令。
- 静岡県 明治期道路関係公文書(道路開鑿の願書・賃取道許可・県令等)※本稿では未確認。将来の検証課題として掲げる。