失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 長者屋敷遺跡 二重土塁に囲まれた奈良時代の遺跡

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第17号(磐田原台地西縁遺跡研究 一)

長者屋敷遺跡 ── 二重土塁に囲まれた奈良時代の遺跡

遺跡の性格をめぐる論点と古代遠江の地方支配

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市向陽(寺谷)

要旨

磐田市寺谷、磐田原台地西縁に位置する長者屋敷遺跡は、東西約100m・南北約80mの長方形を呈する高さ約3mの土塁に囲まれた奈良時代の遺跡である(県指定史跡)。昭和44年(1969年)の部分的な発掘調査により、南側が二重に築かれた土塁と、その内側に営まれた南北16.5m・東西5.5mの大規模な掘立柱建物跡をはじめとする複数の建物跡が確認された。「長者屋敷」という地名に伝わる有力者の屋敷という伝承が、考古学的な遺構として裏づけられた点にこの遺跡の価値がある。一方で、この施設が郡衙のような官の役所であったのか、在地豪族の私的な居館であったのかという性格については、なお確定的な結論をみていない。本稿は、発掘調査で確認できる事実と、地名に由来する伝承と、性格をめぐる諸説とを確度の層に腑分けし、遺跡の性格を一元的に断定することを避けつつ、古代遠江の地方支配という文脈のなかに長者屋敷遺跡を位置づける作業を試みる。

キーワード:長者屋敷遺跡/磐田原台地西縁/二重土塁/掘立柱建物/郡衙/豪族居館/古代遠江

1. 問題設定 ── 「長者屋敷」という名が投げかける問い

長者屋敷遺跡は、静岡県磐田市寺谷、磐田原台地の西縁に残る県指定史跡である。昭和54年(1979年)11月19日に静岡県の史跡に指定された1。台地の縁に、東西約100m・南北約80mの長方形をなす高さ約3mの土塁がめぐり、その内側には大規模な掘立柱建物跡が営まれていた。奈良時代の遺跡でありながら、これほどの規模の囲繞施設が土塁という形で地表に残る例は、磐田原一帯でも際立っている。

この遺跡には、はじめから一つの謎が付随している。「長者屋敷」という地名が語るのは、かつてこの地に長者、すなわち有力者の屋敷があったという地域の言い伝えである。ところが、その屋敷が具体的に何であったのか──律令国家の地方支配を担った郡衙のような官の役所であったのか、それとも在地の豪族が構えた私的な居館であったのか──という肝心の点については、発掘調査を経てもなお確定していない。本稿の出発点は、この「性格の未確定」という状態そのものを研究対象に据えることにある。

遺跡の研究では、しばしば「規模が大きく、土塁で囲まれ、大型建物を伴うのだから官の施設に違いない」といった推論が、事実の確認と性格の判定とを一足飛びに結んでしまうことがある。しかし、土塁の規模や建物跡の大きさは発掘によって測定できる事実であるのに対し、その施設が何であったかという性格は、事実から解釈をひとつ挟んで導かれる推定である。両者を混同すれば、確認できた事実の確からしさを、確認できていない性格の断定にまで不当に及ぼしてしまう。本稿は、この二つの水準を厳密に切り分けることを、記述の基本姿勢とする。

なぜこうした慎重さが必要なのか。それは、遺跡の性格を性急に確定することが、かえって遺跡のもつ豊かさを痩せさせてしまうからである。「これは郡衙である」と言い切ってしまえば、そこに在地首長の居宅としての顔があった可能性は視野から消え、逆に「豪族の屋敷である」と決めてしまえば、律令国家の地方支配の一端を担った公的な性格が見えなくなる。確度の異なる手がかりを一つの結論へ押し込めることは、遺跡が実際に抱えていたかもしれない複数の性格を、記述の段階で切り捨てることにつながる。地域史の記述において求められるのは、正解を一つ選び出すことよりも、いま確認できる手がかりが何をどこまで語りうるのかを、読者が自分で判断できる材料として提示することである。

そこで本稿では、四つの確度の層を用いる。第一に史実、すなわち発掘調査や文書など資料によって確認できる事柄。第二に通説、研究者のあいだで広く共有されているが一点に確定はできない事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、地域で語り継がれてきた事柄である。長者屋敷遺跡について言えば、土塁と建物跡の規模は史実の層に、「長者屋敷」という地名は伝承の層に、そして施設の性格をめぐる諸説は推定の層に属する。以下ではまず発掘で確認できる事実を確定し(第2・3節)、続いて性格をめぐる二つの主要な説を検討し(第4・5節)、両者を比較して史料批判を加え(第6節)、地理的背景に置き直したうえで(第7節)、結論に至る。

あらかじめ一点、方法上の区別を断っておく。長者屋敷遺跡の性格を直接に記した奈良時代の一次史料は、本稿の調査範囲では確認できていない。これは「そのような史料が存在しないと断定できる(=記載がない)」ことを意味しない。あくまで「管見の限り、性格を裏づける文献に突き当たっていない(=未確認)」という状態である。史料が現に伝わらないのか、伝わっているが筆者が把握していないのかは、それ自体が別に検証を要する問いである。この「未確認」と「記載なし」の区別は、以下の検討を通じて一貫して保持する。

長者屋敷遺跡の平面模式図 東西 約100m 南北 約80m 掘立柱建物跡 16.5m × 5.5m 南西隅・古墳墳丘 南側の土塁は二重に築かれる 高さ約3mの土塁
図1 長者屋敷遺跡の平面模式図。長方形の土塁(約100m×80m)、南側の二重土塁、南西隅に取り込まれた古墳墳丘、内側の大規模掘立柱建物跡という発掘で確認された要素を模式的に示す。各要素の正確な配置ではなく、構成の理解を目的とする。

2. 発掘調査で確認できる事実

性格をめぐる論点に入る前に、発掘調査によって確認できる範囲を確定しておく。長者屋敷遺跡に土塁が残っていることは、地元では古くから知られていた。昭和44年(1969年)に部分的な発掘調査が行われ、それによって土塁の規模と内部の状況が具体的に把握された2。確認された事実は、おおむね次の四点に整理できる。

第一に、土塁の規模である。土塁は東西約100m・南北約80mの長方形を描き、高さは約3mを測る。第二に、その構造である。南側の土塁は一重ではなく二重に築かれていた。第三に、立地の細部である。土塁の南西隅は、既存の古墳の墳丘を取り込むようにして造られている。第四に、内部の建物である。土塁の内側からは、南北16.5m・東西5.5mを測る大規模な掘立柱建物跡をはじめ、複数の建物跡が検出された。これらの発見が、長者屋敷遺跡を「土塁に囲まれた奈良時代の遺跡」として性格づける、事実上の基盤となっている。

ここで強調しておきたいのは、この調査が部分的な発掘であったという点である。土塁の全周にわたる精密な測量や、内部の全面調査が行われたわけではない。したがって、確認された建物跡が遺跡内部の建物配置の全体を代表しているとは限らず、内部にさらに正倉のような貯蔵施設や区画があったのか、あるいは建物群がどのような機能分担のもとに配置されていたのかは、現時点では未解明である。部分調査によって得られた事実は確かな史実であるが、その事実が遺跡の全体像を尽くしていると考えるのは早計である。この調査範囲の限界は、後述する性格論のすべてに共通して課される制約となる。

もう一点、地名との関係を整理しておく。「長者屋敷」という地名は、この地にかつて有力者の屋敷があったという地域の言い伝えに由来すると考えられる4。発掘調査によって実際に土塁と大規模な建物跡が確認されたことは、地名に込められた伝承が考古学的な裏づけを得た好例といってよい。しかし、伝承が裏づけられたのは「この地に大規模な施設があった」という点までであって、「それが長者(有力者)の屋敷であった」という性格の部分までが裏づけられたわけではない。地名は遺跡の存在を言い当てていたが、遺跡の性格を証明する史料ではない。ここでも、確認できた事実と、伝承が主張する性格とを、慎重に切り分けておく必要がある。

確認できる「事実」と、解釈を経る「性格」 発掘で確認 = 史実 ・土塁 約100m×80m・高さ3m ・南側は二重の土塁 ・南西隅は古墳墳丘を取り込む ・掘立柱建物 16.5m×5.5m ほか ・奈良時代(部分調査) 解釈を経る = 推定 ・郡衙(官の役所)か ・豪族の居館か ・荘園経営の拠点か → いずれも未確定 解釈
図2 事実と性格の区別。発掘で測定できる規模・構造は史実の層に属するが、「何であったか」という性格は事実から解釈をひとつ挟んで導かれる推定であり、確度の水準が異なる。

3. 遺構の構造と規模 ── 二重土塁と掘立柱建物

確認された事実のうち、性格論の手がかりとなる遺構の構造を、いま少し立ち入って読み解いておきたい。まず注目されるのは、土塁が明確な長方形を描いている点である。東西約100m・南北約80mという規模は、自然の地形をゆるやかに囲ったものではなく、あらかじめ一定の区画を意図して設計された造成であることを物語る。方形の区画を土塁で囲むという営みには、内と外とを明確に分ける志向があり、そこに何らかの秩序ある施設が置かれていたことを推測させる。

南側の土塁が二重に築かれている点も見過ごせない。台地の縁という立地を考えると、南側は台地下からの接近に対して開けた方向にあたる可能性があり、そこを二重に固めたことは、防御・区画の意識がとりわけ南面に強く働いたことをうかがわせる。ただし、二重土塁が防御を主目的としたのか、区画の格式を示す象徴的な意味をもったのか、あるいは異なる時期の増築が重なった結果なのかは、部分調査の段階では断じがたい。二重という事実は確実だが、その意図の解釈にはなお幅がある。

南西隅が古墳の墳丘を取り込むようにして造られている点は、この遺跡の性格を考えるうえで示唆に富む。既存の古墳を土塁の一部として利用したことは、造営者がこの台地の縁に先行して存在した古い記憶──古墳時代の首長墓──を意識し、あるいはそれを自らの施設の一角に組み込むことに何らかの意味を見いだしていた可能性を残す。もっとも、古墳の取り込みが立地上の便宜にすぎなかったのか、在地の系譜を象徴的に継承する所作であったのかは、これも解釈の分かれるところであり、事実としては「取り込んで造られている」という点にとどめておくのが穏当である。

内部の掘立柱建物跡は、南北16.5m・東西5.5mという規模から、単なる住居ではなく、相当の格をもつ建物であったと考えられる。掘立柱建物は、礎石を用いず柱を直接地中に埋め込む建築様式で、古代の官衙や有力者の居宅に広く用いられた。これほどの規模の掘立柱建物が複数営まれていたことは、この区画のなかで何らかの公的あるいは準公的な機能が営まれていたことを推測させる。土塁による方形区画と大型掘立柱建物という組み合わせは、後述する郡衙説・豪族居館説のいずれもが依拠する、共通の物的基盤である。

ここで、これらの遺構が「何を語り、何を語らないか」を整理しておきたい。土塁の規模と方形の平面は、この施設が計画的に設計された区画であったことを語る。二重の土塁は、南面に対する区画・防御の意識が強く働いたことを語る。大型の掘立柱建物は、そこに相応の機能と格をもつ建物が建っていたことを語る。だが、これらのいずれもが、その施設を運営した主体が官であったのか私人であったのかまでは語らない。囲繞という形式も、大型建物という規模も、官の役所と有力者の居館の双方に共通してあらわれる要素だからである。遺構の雄弁さと、性格の判定の慎重さとは、両立させなければならない。確認できた構造を過小評価せず、しかしそこから性格を一足飛びに読み取らないという姿勢が、次節以降の諸説の検討を支える土台となる。

磐田原台地西縁 ── 台地の縁が担い続けた役割 4世紀後半銚子塚古墳首長墓 5世紀米塚古墳群群集墳 奈良時代長者屋敷遺跡土塁・掘立柱建物 古墳時代の首長墓から、奈良時代の役所的施設・豪族屋敷へ。同じ台地西縁に性格を変えて営まれ続けた。
図3 台地西縁の時間軸。4世紀後半の銚子塚古墳、5世紀の米塚古墳群に続き、奈良時代の長者屋敷遺跡が同じ台地の縁に営まれた。立地の連続は、この一帯が古代を通じて地域の要地であり続けたことを示す。

4. 論点①:郡衙(官衙)とみる説

論点①・推定/学術的解釈

律令国家の地方役所(郡衙)とみる説

説の骨子。長者屋敷遺跡を、律令国家の地方行政を担った郡衙、すなわち郡家(ぐうけ)に類する官の施設とみる見方である。奈良時代という年代、土塁による方形の区画、大規模な掘立柱建物群という三つの特徴が、各地で確認されている古代官衙遺跡の一般的な様相とよく重なることが、この説の根拠となる3

この説の説明力。古代の郡衙は、郡司が政務をとる政庁と、税として集めた稲を納める正倉、実務を担う館などから構成され、しばしば方形の区画のなかに大型の掘立柱建物を規則的に配置した。長者屋敷遺跡の土塁で囲まれた方形区画と大型掘立柱建物は、この官衙の様相と形態上よく整合する。奈良時代が律令制による地方支配の整備が進んだ時期にあたることも、この地に官の施設が置かれたとする推定を支える背景となる。遠江国は複数の郡に分かれており、各郡にはそれを治める郡家が置かれたと考えられているから、磐田原の要地にその一つが営まれたと想定することには、一定の合理性がある。

資料的裏づけと限界。ただし、この説を確定するには、なお決め手を欠く。郡衙遺跡であることを強く示す遺物や遺構──たとえば「郡」や特定の官名を記した墨書土器、規則的に並ぶ正倉群、政庁の典型的な建物配置など──が長者屋敷遺跡で確認されたという記録には、本稿の調査範囲では突き当たっていない。部分調査であるがゆえに、そうした証拠がまだ検出されていないだけなのか、もともと存在しないのかも判じがたい。また、この遺跡を遠江国のどの郡の郡家に比定するかという具体的な対応関係も、確定した見解には至っていない。したがって郡衙説は、形態上の整合という強い状況証拠に支えられた有力な推定ではあるが、確定した史実として語ることはできない。

年代からみた背景。奈良時代は、律令国家が戸籍・計帳の作成や田租の徴収といった地方支配の実務を、国司・郡司を通じて全国に及ぼそうとした時期にあたる。その実務の現場となったのが、国ごとの国府と、郡ごとの郡家であった。遠江国もまた複数の郡に分かれ、それぞれに郡家が営まれたと考えられている。磐田原の西縁という、古墳時代以来の在地勢力の拠点であり、かつ交通の要衝でもあった立地に、律令期の地方役所が置かれたと想定することには、時代背景の面からも一定の合理性がある。ただし、この背景的な整合は、あくまで「置かれていてもおかしくない」という蓋然性を示すにとどまり、「現に置かれていた」ことを証明するものではない。背景の合理性と、個別の遺跡の性格判定とを混同しないことが肝要である。

本稿の評価:郡衙説は、方形区画・大型掘立柱建物・奈良時代という三点で古代官衙の一般像とよく整合する、説明力の高い推定である。ただし郡家であることを直接に証する遺物・遺構は未確認であり、「官衙に類する施設であった可能性が高い」という水準を超えて断定することは、現状では控えるべきである。

5. 論点②:豪族居館とみる説と、その他の可能性

論点②・推定/伝承との接続

在地豪族の居館とみる説

説の骨子。長者屋敷遺跡を、律令の官職体系に直接連なる役所ではなく、在地の有力者(豪族)が構えた私的な居館とみる見方である。「長者屋敷」という地名が伝える「有力者の屋敷」という理解と、この説はもっとも素直に接続する。土塁で囲まれた大規模な屋敷という姿は、地域に富と権力を蓄えた在地首長の居宅として読むこともできる。

この説の説明力。土塁による囲繞と大型建物は、必ずしも官の施設に固有のものではなく、有力者の居館にも共通してみられる要素である。とりわけ、南西隅に古墳の墳丘を取り込んでいる点は、この説にとって示唆的である。古墳時代の首長墓を自らの屋敷の一角に組み込むことは、在地の系譜を受け継ぐ有力者が、先祖ないし先行世代の権威を可視的に継承しようとした所作として読み解く余地を残す。律令制のもとで郡司などの地方官に任じられた在地首長は、官の顔と在地首長の顔とを併せもっていたから、官衙説と豪族居館説は、必ずしも截然と対立するとは限らない。

その他の可能性。これら二説のほかにも、論理的には、荘園経営の拠点(荘家)や、寺院に関連する施設など、いくつかの可能性が排除しきれない。奈良時代から平安時代にかけて、有力寺社や貴族による土地経営の拠点が地方に営まれた例はあり、土塁で囲まれた区画がそうした経営拠点であった可能性も、原理的には残る。ただし、これらの可能性を積極的に支える具体的な根拠は、長者屋敷遺跡については乏しく、現状では主要な二説に対する留保的な選択肢という位置づけを超えない。

資料的裏づけと限界。豪族居館説の弱みは、郡衙説と裏返しの関係にある。私的な居館であったことを積極的に証する史料や遺物もまた、本稿の範囲では確認できない。「長者屋敷」という地名は、あくまで後世に定着した伝承であって、奈良時代の当事者がこの施設をどう呼び、どう用いたかを直接に伝えるものではない。地名を根拠に居館説を確定することは、伝承を史実へと不当に格上げすることになりかねない。

本稿の評価:豪族居館説は、地名の伝承と古墳墳丘の取り込みという点で説得力をもつ推定である。しかし郡衙説と同じく直接の証拠を欠く。両説は排他的とは限らず、在地首長が官の役割を担った施設という、両者の中間的な理解の余地も残されている。
遺跡の性格をめぐる諸説の分岐 土塁の方形区画+ 大型掘立柱建物 郡衙説 官の役所 豪族居館説 在地首長の居宅 荘園拠点説ほか 留保的な選択肢 中間
図4 性格をめぐる諸説の分岐。同一の物的基盤から郡衙説・豪族居館説・荘園拠点説などが分岐するが、郡衙説と豪族居館説は「官を担う在地首長の施設」という中間的理解によって接続する余地を残す。

6. 諸説の比較と史料批判

ここまで見た諸説は、しばしば「郡衙か、豪族の屋敷か」という択一の問いのもとに並べられる。しかし各説は、依拠する手がかりの性格が異なる。郡衙説は遺跡の形態と奈良時代という年代に、豪族居館説は形態に加えて地名の伝承と古墳墳丘の取り込みに、それぞれ重心を置く。手がかりの層が異なる説を同一の平面で優劣化することは、方法として適切でない。以下の比較表は、各説を確度の層・内容・依拠する手がかり・史料批判上の留意点において対等の粒度で並べ、確からしさの水準を可視化することを目的とする。特定の説をあらかじめ優位に置く書式を避け、各行の情報量をそろえることで、読者が自ら判断できる状態をつくることを心がけた。

表1 長者屋敷遺跡の性格をめぐる諸説の比較 ── 確度の層・内容・手がかり・史料批判上の留意点
確度の層主な内容依拠する手がかり留意点(史料批判)
郡衙(官衙)説推定(有力)律令国家の地方役所(郡家)に類する官の施設とみる。方形の土塁区画、大型掘立柱建物群、奈良時代という年代、古代官衙遺跡との形態的類似。墨書土器・正倉群など郡家を確証する遺物・遺構は未確認。特定の郡への比定も未確定。
豪族居館説推定在地の有力者(豪族)が構えた私的な居館とみる。「長者屋敷」の地名(伝承)、南西隅の古墳墳丘の取り込み、土塁囲繞と大型建物。私的居館を証する史料・遺物は未確認。地名は後世の伝承であり性格を直接証明しない。
荘園拠点説ほか推定(留保的)寺社・貴族による土地経営の拠点、寺院関連施設などとみる。古代に地方経営拠点が営まれた一般的事例。長者屋敷遺跡に固有の積極的根拠は乏しく、選択肢としての提示にとどまる。

この比較から見えてくるのは、諸説が単純に競合しているというより、それぞれが同じ遺跡の異なる側面に光を当てているという事実である。郡衙説は遺跡の「公的機能」を、豪族居館説は「在地の系譜」を、荘園拠点説は「経営の主体」を、それぞれ説明しようとする。とりわけ郡衙説と豪族居館説は、律令制下の郡司が在地首長でもあったという当時の実態を踏まえると、鋭く対立するというより、一つの施設のもつ二つの顔として重なり合う可能性がある。官の役所としての機能と、在地有力者の居宅としての性格とが、同じ土塁のなかに同居していたと考えることも、あながち無理ではない。

史料批判の観点からは、いずれの説についても「性格を直接に証する奈良時代の史料・遺物は未確認である」という同一の限界が課される。この限界は諸説に等しく課されるのだから、それを理由に特定の説だけを退けることはできない。むしろ問うべきは、各説がどの手がかりに立脚し、その手がかりがどこまでを語りうるのか、という点である。遺跡の形態は施設の格を、地名は地域の記憶を、古墳の取り込みは在地の系譜を、それぞれ異なる仕方で証言する。どの説も単独では性格を確定できず、また確定できないことをもって説の価値を否定することもできない。

両説が接続しうるという理解は、律令制の地方支配が在地社会の上に築かれたという、より一般的な事情に根ざしている。律令国家は、地方を統治するにあたって、中央から派遣した国司だけでこれを担わせたのではなく、その土地に古くから根を張っていた在地首長を郡司として登用し、彼らの伝統的な支配力を国家の統治機構のなかに取り込んだ。郡司に任じられた在地首長にとって、その拠点は、公務をとる役所であると同時に、一族の暮らす居宅でもありえた。長者屋敷遺跡を「郡衙か居館か」と截然と二分することが難しいのは、そもそも古代の地方支配において、官の施設と在地有力者の私的な拠点とが、はじめから分かちがたく結びついていたためである。この点を踏まえれば、性格を一つに確定できないことは、資料の不足という消極的な事情だけでなく、対象そのものがもっていた両義的な性格の反映でもあると理解できる。

この整理は、郷土史の記述にとって一つの含意をもつ。遺跡を語るとき、私たちはしばしば「結局これは何だったのか」という問いに引き寄せられ、一つの答えを性急に選び取ろうとする。しかしその態度は、確度の異なる手がかりを無理に一つの結論へ押し込め、選ばれなかった可能性を切り捨てることにつながりやすい。ここで採った確度の腑分けは、そうした性急な一元化を避け、それぞれの手がかりを、それが属する層のなかで正当に評価するための手続きである。確認できた規模や構造は史実として、地名に伝わる理解は伝承として、性格の判定は推定として、それぞれの位置を保ったまま書き留める。これは長者屋敷遺跡に限らず、性格の未確定な遺跡一般に適用できる記述の作法であると考える。

確度の四段階 ── 混同しないための弁別 史実 発掘で確認 土塁・建物跡 通説 研究者間で共有 推定 根拠あり未確定 性格の諸説 伝承 地域で語り継ぐ 「長者屋敷」 本稿は各手がかりをこの四段階に腑分けし、層をまたぐ断定を避ける。
図5 確度の四段階。長者屋敷遺跡では、土塁と建物跡が史実、性格の諸説が推定、「長者屋敷」の地名が伝承にあたる。語の水準でこれらを書き分けることが、遺跡を読む前提となる。

7. 背景としての地理 ── 台地西縁と古代遠江の地方支配

性格をめぐる諸説を検討したうえで、なお視野に入れておくべきは、長者屋敷遺跡の地理的背景である。この遺跡は、磐田原台地の西縁という、古代を通じて要地であり続けた場所に営まれている。同じ台地西縁には、4世紀後半の銚子塚古墳・小銚子塚古墳、5世紀の米塚古墳群が所在する5。古墳時代の首長墓が営まれた台地の縁に、時代を経て、奈良時代の役所的施設ないし豪族屋敷が置かれた。同じ立地に異なる性格の施設が連続して営まれたことは、この一帯が古代を通じて地域の中心的な場所であり続けたことを物語る。

この立地の連続性は、長者屋敷遺跡の性格を考えるうえでも意味をもつ。古墳時代の首長墓を築いた在地勢力の系譜が、律令制の時代に地方官として編成され、その拠点をこの台地の縁に構えたと考えれば、郡衙説と豪族居館説とが接続する回路が見えてくる。南西隅に古墳墳丘を取り込んだ造営は、こうした系譜の継承を象徴する所作として読む余地を残す。台地西縁という同じ場所が、首長墓から役所的施設へと役割を変えながら使われ続けたことは、在地の権力が古墳時代から律令期へと形を変えて連続した可能性を、地理の面から支える。

より広い枠組みでは、長者屋敷遺跡は古代遠江の地方支配の空間構造のなかに置かれる。奈良時代の遠江国には、国司が政務をとる国府が置かれ、国分寺・国分尼寺が建立され、各郡には郡家が営まれた。国府は見付周辺に置かれたとする見方が有力であり、遠江国分寺は磐田市街の一角にその壮大な伽藍跡を残す。長者屋敷遺跡が郡衙であったとすれば、それは国府を頂点とする地方支配網の一結節点にあたり、国府・国分寺・郡家という律令の統治装置が磐田原の一帯に集中して営まれたことを意味する。もっとも、これは郡衙説を前提とした場合の推論であり、長者屋敷遺跡を国府や国分寺と直接に結ぶ一次史料が確認されているわけではない。

台地西縁という立地の意味も、あわせて考えておきたい。磐田原台地の縁は、眼下に平野を見おろす見晴らしのよい地形であると同時に、台地の上と下とを分ける境界でもある。こうした地形は、周囲を統べる施設を置くのにふさわしく、古墳時代の首長がここに墓を営み、奈良時代の造営者がここに土塁の区画を構えたことは、いずれもこの立地の優位を見込んだ選択であったと考えられる。境界的な地形に施設を置くことは、そこを支配の拠点として可視化する効果をもつ。長者屋敷遺跡が郡衙であれ豪族の居館であれ、この台地の縁という場所そのものが、地域を統べる者の拠点にふさわしい象徴性を帯びていたことは、性格の当否を超えて指摘できる。

ここで留意すべきは、これらの背景がいずれも、遺跡の性格を確定するものではなく、性格の推定を支える文脈にとどまるという点である。国府の所在そのものが、なお具体的な位置をめぐって論点を残す主題であり、地方支配の空間構造を一枚の完成した地図として描き出せるわけではない。長者屋敷遺跡をこの構造のどこに位置づけるかは、遺跡の性格をどう推定するかに依存しており、背景と性格とは相互に支え合う関係にある。したがって本稿は、この地理的背景を、性格を確定する根拠としてではなく、諸説の意味を深める文脈として提示するにとどめる。

古代遠江の地方支配のなかの長者屋敷遺跡 遠江国府 遠江国分寺 大寺・伽藍 郡家(郡衙) 長者屋敷遺跡か 国府を頂点とし、国分寺・郡家が営まれた。長者屋敷を郡家とみるのは推定であり、直接の史料は未確認。
図6 古代遠江の地方支配の模式。国府を頂点に国分寺・郡家が配された統治構造のなかで、長者屋敷遺跡を郡家(郡衙)とみる位置づけはあくまで推定であり、国府・国分寺と直接に結ぶ一次史料は本稿では未確認とする。

8. 結論 ── 事実の確定と性格の留保

本稿は、長者屋敷遺跡について、発掘調査で確認できる事実と、地名に由来する伝承と、性格をめぐる諸説とを、史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けして検討した。得られた見取り図は次のとおりである。土塁の規模(東西約100m・南北約80m・高さ約3m)、南側の二重構造、南西隅の古墳墳丘の取り込み、内部の大規模な掘立柱建物跡(南北16.5m・東西5.5m)、そして奈良時代という年代は、昭和44年の部分調査によって確認された史実である。「長者屋敷」という地名は、この地に有力者の施設があったことを言い当てた伝承であり、発掘によって施設の存在が裏づけられた。しかし、その施設が郡衙のような官の役所であったのか、在地豪族の私的な居館であったのかという性格は、なお確定していない。

性格をめぐっては、郡衙説と豪族居館説という二つの主要な推定が対峙する。郡衙説は、方形区画・大型掘立柱建物・奈良時代という三点で古代官衙の一般像とよく整合する。豪族居館説は、地名の伝承と古墳墳丘の取り込みに支えられる。両説はいずれも直接の証拠を欠き、同一の史料批判上の限界を共有する。そして、律令制下の郡司が在地首長でもあったという当時の実態を踏まえれば、両説は截然と対立するのではなく、「官を担う在地首長の施設」という中間的な理解によって接続しうる。本稿の立場は、この性格を一つに断定することを避け、確認された事実の上に、諸説を確度を明示して併記するというものである。

したがって本稿の姿勢は明確である。遺跡研究における記述は、「唯一の性格を言い当てる作業」から「事実と性格の水準を分離し、それぞれの確度を記述する作業」へと組み替えられるべきである。史実・通説・推定・伝承を混同せず、「未確認」と「記載なし」を区別し、伝承を史実の劣位に置かず、有力な推定を確定説と偽らない。この禁欲的な手続きこそが、性格の未確定な遺跡を、後世の調べものに耐える形で残す方途であると考える。長者屋敷遺跡の価値は、性格が一つに定まらないことにあるのではなく、地名の伝承を考古学が裏づけ、なおかつ古代遠江の地方支配を問い直す手がかりを提供している点にある。

最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、遺跡の性格については、内部の全面的な調査によって正倉群や政庁の配置、あるいは性格を示す遺物が確認されれば、未確認の状態を大きく前進させられる余地がある。第二に、長者屋敷遺跡を遠江国のどの郡と結ぶかという比定は、周辺の郡家関連遺跡や文献の検討と併せて追究されるべき主題である。第三に、古墳時代の首長墓から奈良時代の施設へという台地西縁の連続は、在地権力の系譜という観点から、銚子塚古墳・米塚古墳群を含めて総合的に検討する価値がある。これらはいずれも、本稿が設定した四層の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。性格を一つに決める誘惑を退け、確度の層を保ったまま資料を積み上げていくこと──その地道な手続きの先にこそ、長者屋敷遺跡が古代遠江の歴史のなかで占めた位置が、少しずつ像を結んでいくはずである。

本稿の舞台である寺谷や磐田原台地の一帯には、古い時代の記憶とともに受け継がれてきた家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 長者屋敷遺跡は昭和54年(1979年)11月19日に静岡県の史跡に指定された。指定区分・種別・所在地については磐田市文化財課の現地案内および磐田市公式ウェブサイトによる。
  2. 昭和44年(1969年)の部分的な発掘調査によって、土塁の規模(東西約100m・南北約80m・高さ約3m)、南側の二重構造、南西隅の古墳墳丘の取り込み、内部の掘立柱建物跡(南北16.5m・東西5.5m)ほか複数の建物跡が確認された。磐田市文化財課の現地案内パンフレットによる。
  3. 古代の郡衙(郡家)は、政庁・正倉・館などから構成され、方形の区画のなかに大型掘立柱建物を配することが多い。長者屋敷遺跡の形態は、こうした古代官衙遺跡の一般的様相と整合するが、郡家を確証する遺物・遺構は本稿の調査範囲では未確認である。
  4. 「長者屋敷」の地名は、この地に有力者の屋敷があったという地域の伝承に由来すると考えられる。発掘によって裏づけられたのは施設の存在であって、施設の性格ではない点に留意を要する。
  5. 同じ磐田原台地西縁には、4世紀後半の銚子塚古墳・小銚子塚古墳、5世紀の米塚古墳群が所在する。いずれも県指定史跡であり、磐田物語の該当ページに詳しい。

付記:本稿は一般読者向け記事 k038 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、発掘で確認された土塁・建物跡の規模を史実、「長者屋敷」という地名を伝承、施設の性格をめぐる諸説を推定として扱った。

参考文献・参考資料

  • 磐田市文化財課『磐田原台地西縁の遺跡 ── 銚子塚古墳 附 小銚子塚古墳/米塚古墳群/長者屋敷遺跡』現地案内パンフレット(平成25年〔2013年〕3月発行、令和7年〔2025年〕11月改訂)。
  • 磐田市公式ウェブサイト「県指定文化財」長者屋敷遺跡の項 https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 k038「長者屋敷遺跡 ── 東西100m・南北80mの二重土塁に囲まれた奈良時代の遺跡」 https://iwata-monogatari.net/k038 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 c021「磐田市の指定文化財一覧」 https://iwata-monogatari.net/c021 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 k047「銚子塚古墳・小銚子塚古墳」 https://iwata-monogatari.net/k047 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 k037「米塚古墳群」 https://iwata-monogatari.net/k037 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 n019「国府台と府八幡宮 ──「国府」を名のる土地の千三百年」 https://iwata-monogatari.net/n019 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之「遠江国分寺 ── 古代地方の大寺と伽藍」大石浩之の磐田論考 第7号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/007/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
  • 静岡県『静岡県史』通史編・古代(静岡県、該当章)。
  • 山中敏史『古代地方官衙遺跡の研究』(塙書房、1994年)。
  • 『延喜式』巻二十二(民部式)・『和名類聚抄』遠江国郡郷の条。
  • 文化庁「国指定文化財等データベース」 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。