失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 城之崎遺跡 ── 磐田原台地南部の弥生と古墳

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第35号(磐田原台地南部遺跡研究 一)

城之崎遺跡 ── 磐田原台地南部の弥生と古墳

台地の縁に残る住まいと墓の記憶

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市御厨(西貝塚)

要旨

磐田市西貝塚字西山、磐田原台地南部の城之崎丘陵に所在する城之崎遺跡は、弥生時代後期の高地性集落と、古墳時代後期から終末期にかけての城之崎2号墳・3号墳とが同一の丘陵上に重なる複合遺跡である。1970年、ヤマハ発動機株式会社の従業員寮建設計画に伴う緊急発掘調査によって、その一端が記録に残された。本稿は、発掘調査報告書によって確認できる事実を基礎に置き、なぜ弥生集落が低地ではなく台地の縁に営まれたのか、後世の古墳の封土がいかにして古い生活面を保存したのか、二基の古墳の差が在地社会の何を語るのかを、史実・推定・考察の層を区別しながら読み解く。台地上の居住と低地の水辺生業とを結ぶ土錘の存在、礫床から横穴式石室へと展開する埋葬施設の変化を手がかりに、城之崎遺跡を、磐田原台地南部に堆積した時間の重層を読むための入口として位置づける。あわせて、開発と記録保存という近代的な条件が、この遺跡の記憶をいかに残したかにも触れる。

キーワード:城之崎遺跡/高地性集落/欠山式土器/土錘/横穴式石室/二段葺石/磐田原台地南部

1. 問題設定 ── 台地の縁になぜ時間が重なるのか

城之崎遺跡は、磐田市西貝塚字西山、磐田原台地南部の城之崎丘陵上に所在する複合遺跡である1。ここでは、弥生時代後期の竪穴住居跡と、古墳時代後期から終末期にかけての城之崎2号墳・3号墳とが、一つの舌状丘陵の上に重なって確認された。異なる時代の生活と埋葬が同じ地表の下に折り重なるという事態は、それ自体が磐田原台地南部という土地の履歴を象徴している。本稿は、この重層をどう読むかを主題とする。

遺跡を扱う論考には、しばしば二つの誘惑がつきまとう。一つは、出土した遺物や遺構をただ列挙し、目録として完結させてしまう誘惑である。もう一つは逆に、断片的な資料から一足飛びに壮大な地域史を描き出そうとする誘惑である。前者は土地の意味を読み落とし、後者は確度の低い推論を史実であるかのように語ってしまう。本稿がとる姿勢は、そのいずれでもない。発掘調査報告書によって確認できる事実を土台に据えたうえで、その事実が何を語りうるのか、どこから先が推定にとどまるのかを、一段ずつ腑分けしていく。

そこで本稿では、記述の水準をあらかじめ三つに分けておく。第一に、報告書によって確認できる史実、すなわち発掘の時期、所在地、検出された遺構、出土した遺物、墳丘の規模といった事柄である。第二に、その史実から導かれる推定、たとえば高地性集落の性格、古墳築造の背景、周辺遺跡との関係などである。第三に、地域史を読む立場からの考察、すなわち開発と記録保存の関係や、土地の記憶をどう受け継ぐかという視点である。この三層を語の水準で書き分け、層をまたいだ断定を避けることが、以下の検討の基本姿勢となる。なお、現地の現況や周辺地名の照合など、いまだ確かめられていない事項については「未確認」として率直に残す。

城之崎遺跡が興味深いのは、その重層が偶然の産物でありながら、結果として一つの逆説を成り立たせている点にある。後世に築かれた古墳の封土が、それより古い弥生集落の生活面を、侵食から守る保護層として働いた。新しいものが古いものを覆い、覆うことによって守った──この事実が、遺跡全体の性格を規定している。以下ではまず発掘の経緯と資料の性格を確認し、続いて地形と立地、弥生集落、古墳による保存、二基の古墳、周辺遺跡との関係を順に検討し、最後に重層する時間をどう記述するかという問いに立ち返る。

弥生後期の高地性集落 古墳の封土が住居跡を守る 2号墳と3号墳 城之崎遺跡で重なる三つの時間 弥生の住まい・古墳時代の墓・近代の記録が、一つの丘陵上に堆積する。
図1 城之崎遺跡の重層構造。弥生時代後期の高地性集落、古墳時代後期から終末期の二基の古墳が、同一の舌状丘陵上で重なる。本稿はこの重層を、史実・推定・考察の層に腑分けして読む。

2. 発掘の経緯と資料の性格 ── 1970年の緊急調査

城之崎遺跡の全容を語る前に、その知見がどのような条件のもとで得られたのかを確認しておく必要がある。発掘の契機は、ヤマハ発動機株式会社の従業員寮建設計画であった。調査は1970年10月19日から12月9日にかけて、磐田市教育委員会を中心として実施された緊急発掘調査であり、その成果は1978年刊行の発掘調査報告書にまとめられた2。当初の目的は、開発によって失われる城之崎2号墳・3号墳の記録保存に置かれていた。

ところが調査の過程で、二基の古墳の下層とその周辺から、弥生時代後期の竪穴住居跡が確認された。すなわち城之崎遺跡の複合的性格は、はじめから見通されていたのではなく、古墳の調査を進める過程で立ち現れたものである。この経緯は、遺跡の知見が調査の網の目に強く規定されていることを示す。もし建設計画が別の位置であったなら、あるいは記録保存の範囲が古墳だけに限られていたなら、弥生集落は気づかれないまま失われていたかもしれない。

ここで資料の性格について一言しておきたい。発掘調査報告書は、地中に残された痕跡を掘り出し、実測し、記述した一次的な記録である。したがって、そこに記された遺構の位置や規模、出土遺物の種類は、原則として史実の層に属する。ただし報告書は同時に、調査時点の解釈をも含む。土器型式による年代の位置づけ、住居跡の新旧関係、古墳の被葬者像といった判断は、確認された事実そのものではなく、事実に基づく推定である。本稿が報告書を引くにあたっては、この事実と解釈の境界をできるだけ意識し、報告書の記述をそのまま史実として横滑りさせないよう努める。

また、緊急発掘という条件も見落とせない。開発の日程に制約された調査は、悉皆的な発掘とは異なり、対象範囲も工期も限られる。城之崎遺跡について確認できたのは、あくまで建設計画の及ぶ範囲に限られており、丘陵全体の様相が明らかになったわけではない。したがって「確認された住居跡は七軒である」という事実は、「集落全体が七軒であった」ことを意味しない。調査範囲の外に、記録されなかった住居や墓が存在した可能性は、常に留保しておくべきである。開発を単純に文化財破壊とみなすのは一面的だが、開発がなければ調査もなかったという逆説を、手放しの肯定に転じることもまた慎むべきである。記録保存とは、失われる前に痕跡を記述に移し替える営みであり、そのことが対象の全体を救うわけではない。

付け加えれば、緊急発掘によって残された記録それ自体が、いまや一つの資料である。1970年の調査から半世紀を経て、現地は建設によって大きく姿を変えた。現在の私たちが城之崎遺跡の弥生集落や二基の古墳について語りうるのは、ほとんど報告書という紙の上の記録を通してである。遺跡そのものが改変された後も、記述が残るかぎり土地の履歴は参照できる。逆にいえば、記録の精粗が、後世に伝わる情報の限界を定める。本稿が報告書の記載を一つずつ腑分けしようとするのは、この一冊が、城之崎遺跡と現在とを結ぶほぼ唯一の回路だからである。

3. 磐田原台地南部の地形と立地

弥生集落がなぜ低地ではなく台地の縁に営まれたのかを考えるには、まず地形を押さえておく必要がある。磐田原台地は、今之浦川やその支流によって開析され、複数の舌状丘陵に分かれる。城之崎丘陵はその一つで、標高はおおむね海抜14.5メートルから16メートル前後を測る3。台地の縁は、低地・沖積平野・旧潟湖に近い高台であり、台地上の安全性と、低地の水辺資源とを結びつけやすい位置にある。

高台に営まれた弥生集落は、しばしば「高地性集落」と呼ばれる。この語には、争乱を避けるための防御的集落という含意がつきまとってきた。しかし城之崎遺跡の立地を、防御の一語で説明し尽くすことはできない。台地の縁という場所は、見晴らしがきき、湿潤な低地を避けて居住でき、同時に眼下の川や潟湖・水田へすぐに下りられる。防御、見張り、湿地環境への対応、低地水域の生業利用──こうした複数の要因が重なった土地利用として読むのが穏当である。高地性集落を防御一元論で説明することには、近年の研究でも慎重な見方が示されている。

台地の縁という立地は、居住と生業の分業を空間に刻む。人が眠り、煮炊きし、土器を据える生活の場は乾いた高台に置き、食料を得る生業の場は湿った低地に置く。両者のあいだを人が日々往復する。この往復こそが、高地性集落の生活を成り立たせていた。城之崎遺跡の弥生集落を「山の上に逃げ込んだ集落」とだけ理解するのは、この往復の動線を視野から落とすことになる。台地南部という地形は、防御と生業という一見相反する要求を、高台と低地の使い分けによって同時に満たしていたと考えられる。

この立地の選択には、より長い時間の背景も横たわる。磐田原台地の南から西にかけての縁辺は、縄文時代には海進によって入り込んだ内海や潟湖に面しており、西貝塚の貝塚文化はその水辺環境のなかで営まれた。海退が進み、潟湖が縮小して沖積平野が形づくられていく過程は、弥生時代の低地開発の前提となった。城之崎丘陵の縁に弥生集落が営まれた背景には、こうした水辺環境の後退と、低地が生業の場として利用可能になっていく地形変化があったと考えられる。台地の縁とは、後退していく水辺と、新たに開かれていく低地とが接する、変化の縁でもあった。ただし、当時の汀線や潟湖の正確な位置は本稿では確定しえず、地形変化の大枠を推定として述べるにとどめる。

城之崎遺跡 西貝塚 鎌田・鍬影遺跡 二之宮遺跡 松林山古墳 磐田原台地南部と水辺の関係 今之浦川 低地・沖積平野・旧潟湖を模式化
図2 城之崎遺跡の立地模式図。正確な地図ではなく地形理解のための概念図である。台地の縁に置かれた集落は、高台の居住と低地の生業とを結ぶ位置にある。周辺の遺跡名は位置関係の目安として示した。

4. 弥生後期の高地性集落 ── 七軒の住居と生業

報告書では、弥生時代後期の竪穴住居跡が七軒確認されている。北群に1号から4号住居跡、南群に5号から7号住居跡が配され、出土した土器の型式から、弥生時代後期後葉、いわゆる欠山式期に位置づけられる4。住居跡には、柱穴、炉、側溝、入口施設、二段溝などが確認される。新旧関係については、4号住居跡が先行し、3号住居跡などが後続する可能性が指摘されているが、これは重複関係や出土土器からの推定であって、絶対年代を確定するものではない。

個々の住居跡の形を子細に列挙することは、ここでの目的ではない。むしろ問うべきは、この七軒が高台の上でどのような生活空間を組織していたか、そしてその生活が低地とどう結ばれていたかである。床面積は、判明するもので約15平方メートルから25平方メートルほどに分布し、複数の世帯が同時期に、あるいは時期を違えて丘陵上に住まいを構えていたことがうかがえる。南群の一部は侵食を受けて隅部のみが残り、当初の規模を復元しがたい。ここでも、確認された遺構が集落の全体像そのものではないという留保が生きてくる。

表1 城之崎遺跡 弥生時代後期 竪穴住居跡一覧 ── 報告書に基づく検出遺構の整理
住居跡平面形推定床面積主な検出遺構・遺物新旧・残存の状況
1号北群隅丸方形約15㎡4本柱、平地炉、薄手の甕形土器後期集落の基本例
2号北群方形約19㎡広口壺形土器、刷毛目の壺形土器北群の一例
3号北群方形/隅丸方形約23㎡平地炉、壺形土器、台付甕形土器後続住居の可能性
4号北群隅丸方形約22㎡二段溝、垂木ピット、土錘先行住居・生業を示す遺構
5号南群方形約25㎡屋外炉の可能性、壺形土器最大級の住居跡
6号南群方形不明入口拡張施設、側溝侵食で一部のみ残存
7号南群方形不明隅部のみ残存侵食の影響を強く受ける

住居跡の新旧関係にも一言しておきたい。報告書は、4号住居跡が先行し、3号住居跡などが後続する可能性を指摘する。もしこの前後関係が正しければ、七軒すべてが同時に存在したのではなく、丘陵上の居住が時期を追って移り変わっていったことになる。すなわち城之崎の弥生集落は、一時点の景観としてではなく、ある幅をもった時間のなかで、住まいが建て替えられ、場所を少しずつ移しながら継続した営みとして読むべきである。ただし、こうした新旧関係は住居跡の重複や出土土器の比較から導かれる推定であり、各住居の存続年数や同時に存在した棟数を数量的に確定できるわけではない。

出土した土器には、壺形土器、甕形土器、高坏形土器などが含まれる。器種の機能を大づかみに言えば、壺は貯蔵、甕は煮炊き、高坏は供献や儀礼に関わる器と考えられる。これらが一つの集落から出土することは、貯蔵・調理・儀礼という生活の基本的な諸相が、この高台の上で完結的に営まれていたことを示す。欠山式土器は、弥生時代後期後葉の年代を考える手がかりとなる型式であり、集落の存続時期を大まかに位置づける物差しとして機能する。

とりわけ注目したいのは、4号住居跡から出土した土錘である。土錘は漁網に付ける重りと考えられる遺物であり、その存在は、高台の集落が低地・水域の生業と結びついていた可能性を具体的に示す。城之崎遺跡の弥生集落を、防御のために高所へ退いた集落とだけ見るのでは足りない。高台を居住の場としながら、眼下の低地の水域を生業の場として利用する、柔軟な土地利用の姿がここに現れている。土錘という一点の遺物が、前章で述べた高台と低地の往復という仮説に、物質的な裏づけを与えるのである。もっとも、土錘一点から漁労の規模や比重までを論じることはできず、水辺利用の存在を示す手がかりとして扱うにとどめる。

高台の住居 低地・潟湖・川 土錘 安全な居住地と水辺の生業 往復する生活動線
図3 高台居住と低地生業の関係。4号住居跡から出土した土錘は、丘陵上の集落を低地の水域利用と結びつけて読むための手がかりである。矢印は日々くり返された生活の動線を模式化した。

5. 古墳が住まいを守る ── 封土と保存の逆説

城之崎遺跡を読むうえで中心となるのは、古いものを新しいものが守ったという逆説である。丘陵の上では、長い年月のあいだに自然侵食が進み、旧表土層の多くが流失していた。前章で触れた南群の住居跡が隅部のみを残すのも、この侵食の帰結である。ところが、2号墳・3号墳の墳丘直下では、旧表土層や弥生時代の遺構面が良好に保存されていた。侵食がすべてを削り取っていくなかで、古墳の直下だけが取り残されたのである。

その理由は、古墳の封土にある。封土は、本来は墳丘を構成するために盛られた土であって、弥生集落を守る目的で置かれたものではない。しかし結果として、この盛土が、直下の弥生時代の生活面を覆い、雨や風による侵食から遮る保護層として働いた。古墳時代後期の墓が、それより数百年古い弥生時代の住居跡を、意図せずしてパックしたことになる。土地の履歴のなかで、後の時代の営みが前の時代の痕跡を偶然に守るという事態が、ここに具体的な形をとって現れている。

この逆説には、遺跡の読み方にかかわる含意がある。私たちはしばしば、遺跡を古い順に地層として読み、上へ行くほど新しいと考える。城之崎遺跡でもその原則は生きているが、同時にこの遺跡は、新しい層が古い層を破壊するとは限らないこと、むしろ保存の条件になりうることを教える。開発と保存が対立するのと同じ構図が、地中の時間のなかにも見いだせる。古墳の築造は、弥生集落の生活面をいったんは覆い隠した。だがその被覆こそが、二十世紀の発掘まで生活面を伝え残した。破壊と保存が同じ営みの表と裏であるという事実は、次章で扱う古墳そのものの評価にも通じる論点である。

層位という観点からも、この事実は考えるところが多い。城之崎遺跡では、地山層の上に弥生時代の遺構面があり、その上を古墳の封土が覆う。本来ならこの積み重なりの上位に、さらに後の時代の土地利用の層が乗るはずだが、丘陵上ではその中間の層が侵食で失われている。古墳の直下だけが、削られずに古い層序を保った。つまりこの遺跡で私たちが読みうるのは、連続した地層の断面ではなく、侵食が削り残した部分的な記録である。遺跡から復元される時間は、しばしばこのように断片的であり、残ったものと失われたものとを腑分けしながら読む必要がある。城之崎遺跡の重層は、完全な保存の結果ではなく、偶然の被覆と選択的な侵食とが組み合わさって成り立った、いわば欠落を含んだ重層なのである。

古墳封土が保護層になる 古墳封土 旧表土層 弥生時代の竪穴住居跡 侵食で失われた旧地表 侵食
図4 封土と保存の逆説。丘陵上の旧表土は侵食で失われた一方、古墳の墳丘直下だけは弥生時代の遺構面が保護された。後の時代の墓が、より古い暮らしの跡を意図せず守ったことになる。

6. 二基の古墳 ── 城之崎2号墳と3号墳

城之崎遺跡には、性格を異にする二基の古墳が近接して営まれている。両者の差は、単なる規模の大小ではなく、埋葬施設・外部施設・副葬品の質にわたっており、古墳時代後期から終末期にかけての在地集団の変化を読む手がかりになる。以下、報告書の記述に沿って両墳の特徴を確認したうえで、その差の意味を考える。

城之崎2号墳

礫床と鉄製品の古墳 ── 6世紀後葉

城之崎2号墳は、南北径約13.2メートル、東西径約12.1メートル、墳丘高約1.13メートルの円墳で、6世紀後葉に位置づけられる5。周囲には周溝がめぐる。内部主体は横穴式石室状の掘り方をもつが、石室の壁体は確認されず、礫を敷いた床、すなわち礫床を主体とする構造であった。床面や構造には、排水を意識したとみられる工夫が認められる。

出土遺物には、須恵器の提瓶、刀子、鉄鏃などがある。提瓶は副葬用の土器として、刀子や鉄鏃は工具・武器として理解できる。刀子・鉄鏃の配置については、実用の道具・武器という理解に加えて、邪を払う辟邪的な意味を帯びた副葬とみる読みも成り立ちうる。ただし、この点は報告書の記述からただちに確定できるものではなく、複数の読み取りの一つとして留保しておく。

城之崎3号墳

二段葺石と装身具の古墳 ── 7世紀前葉

城之崎3号墳は、2号墳の南西約40メートルに位置し、南北径約16メートル、東西径約17.8メートルの楕円形の円墳である。築造時期は7世紀前葉に位置づけられる。最大の特徴は二段の葺石で、これは墳丘を保護するだけでなく、墓域を視覚的に際立たせる役割をも担ったと考えられる。内部主体は横穴式石室の平面プランをもつ。

3号墳は盗掘を受けているが、須恵器のほか、金銅張りの耳環、水晶製の勾玉、碧玉製の管玉、丸玉・小玉、鉄製品などが確認されている。とりわけ耳環や勾玉・管玉といった装身具は、被葬者の地位や、地域社会の階層化を考える手がかりとなる。須恵器に坏蓋・坏身・平瓶・長頸瓶などの器種がそろうことは、葬送儀礼の充実と、外部の流通との関わりをうかがわせる。

二基を並べると、一世代ほどの時間差のうちに、埋葬のありようが変化していったことが見えてくる。2号墳の礫床・刀子・鉄鏃は、実用性と、あるいは呪術的な性格を帯びた副葬という印象を与える。これに対して3号墳の二段葺石・横穴式石室・装身具は、威信を示す財と、それを実現するための労働動員とを前面に出す。墳丘がやや大きくなり、墓域の表示が強化され、副葬品が威信財へと傾く。この変化を、在地首長層の上昇や再編の反映とみることは可能だが、二基のみの比較から地域社会の階層構造そのものを復元するには慎重でありたい。ここでは、あくまで両墳が示す差の方向性を記述するにとどめる。

この時期は、古墳時代のなかでも、大型の前方後円墳が姿を消し、横穴式石室をもつ中小の円墳が群れをなして築かれるようになる後期から終末期にあたる。城之崎2号墳・3号墳は、規模の上では首長級の墓ではなく、こうした後期古墳の一般的なありようのなかに位置づけられる。にもかかわらず、二基のあいだに看取される副葬品の変化は、地域社会の内部での差異化が、この時期にも静かに進んでいたことをうかがわせる。大型古墳の造営が終わった後にも、墓を通じて地位を示そうとする営みは、形を変えて続いていた。二基の古墳は、その持続と変容を、小さな規模のうちに刻んでいる。もっとも、両墳の被葬者が血縁で結ばれた同一の家系であったか、あるいは別個の集団に属したかは、現存する資料からは判断できず、ここでは近接して営まれた二基という事実のみを確実な出発点とする。

城之崎2号墳 城之崎3号墳 礫床・刀子・鉄鏃/6世紀後葉 二段葺石・横穴式石室・装身具/7世紀前葉 時間差 階層差
図5 二基の古墳の比較。左の2号墳は礫床と鉄製品、右の3号墳は二段葺石・横穴式石室・装身具が目立つ。両者を並べることで、一世代ほどの時間差と、造営力・副葬の性格の変化が見えてくる。
表2 城之崎2号墳・3号墳の比較 ── 時期・墳丘・埋葬施設・副葬品・読み取り
比較項目城之崎2号墳城之崎3号墳読み取り(推定)
時期6世紀後葉7世紀前葉一世代程度の時間差が想定される
墳丘小型円墳(径約12〜13m)やや大きい楕円形円墳(径約16〜18m)規模と造営力の差
外部施設周溝二段葺石・浅い周溝墓域の視覚的表示の強化
内部主体礫床中心(石室壁未確認)横穴式石室の平面プラン埋葬施設の発展
副葬品須恵器提瓶、刀子、鉄鏃須恵器各種、耳環、勾玉、管玉ほか被葬者層の変化・階層性
性格の印象実用性・呪術性が前に出る威信財・労働動員が目立つ在地首長層の上昇・再編の可能性

7. 周辺遺跡のなかの城之崎

城之崎2号墳・3号墳は、孤立した古墳ではない。城之崎遺跡を磐田原台地南部という広がりのなかに置き直すと、縄文・弥生・古墳の各時代を通じて、この一帯が継続的に人の営みの舞台であったことが見えてくる。縄文時代には、御厨地区の西貝塚に代表される潟湖・貝塚の文化があった。弥生時代には、二之宮遺跡や鎌田・鍬影遺跡といった低地の大規模集落が営まれた。古墳時代には、松林山古墳、堂山古墳、城之崎丸山古墳など、磐田原台地南部を代表する古墳群が展開する。城之崎の二基の古墳は、この古墳群の一角に連なる。

周辺遺跡を時代ごとに並べてみると、この一帯が特定の時代にだけ栄えた場所ではなく、縄文から古墳時代を通じて、環境の変化に応じて人の営みの重心を移しながら、継続的に利用されてきた土地であったことが分かる。水辺に貝塚を営んだ縄文の暮らし、低地を開いた弥生の集落、台地上に墓域を築いた古墳時代の社会──それぞれが同じ地形のうえで、異なる資源と異なる立地を選び取ってきた。城之崎遺跡が一つの丘陵に弥生集落と後期古墳を重ねているという事実は、この土地利用の連続と変化とを、一箇所で読み取れる稀な条件を与えている。

こうした周辺遺跡との関係は、城之崎遺跡の弥生集落の位置づけにも光を当てる。台地の縁の高台に営まれた城之崎の集落と、低地に展開した二之宮・鎌田などの大規模集落とは、同じ時代の異なる立地選択として対比できる。低地に大集落を構える人々がいる一方で、台地の縁に小規模な集落を営む人々がいた。この立地の違いが、集団の性格や生業の重心の違いを反映しているのか、あるいは同一の集団による使い分けなのかは、城之崎遺跡単独では決めがたい。周辺の低地遺跡の様相と突き合わせて初めて論じうる問いであり、ここでは今後の課題として書き留めておく。

古墳についても同様である。磐田原台地南部には、前方後円墳である銚子塚古墳のように、遠江を治めた首長級の墓と目される大型古墳が存在する。松林山古墳もまた、この地域の古墳時代前期を代表する。これらの大型古墳と、城之崎のような後期の中小古墳とを同じ台地上に並べてみると、古墳時代を通じた墓の階層構造と、その時期的な移り変わりが浮かび上がる。前期の大型前方後円墳から、後期の群集する中小円墳へという流れは、この地域に限らず広く認められる傾向であり、城之崎2号墳・3号墳はその後期の局面に位置づけられる。台地の縁という立地に注目すれば、奈良時代の長者屋敷遺跡のように、台地西縁に営まれた後の時代の遺跡とも、地形と土地利用という点で比較の糸口をもつ。

縄文 西貝塚 潟湖・貝塚 弥生 城之崎遺跡 二之宮・鎌田 古墳 松林山・堂山 城之崎丸山 周辺遺跡を時代ごとに結ぶ 城之崎遺跡は、弥生集落と後期古墳を同じ丘陵上に重ね、周辺遺跡の時間的つながりを読む入口となる。
図6 周辺遺跡の時代別ネットワーク。縄文の潟湖・貝塚、弥生の高台・低地集落、古墳時代の古墳群を単純化して結んだ模式図である。城之崎遺跡は、その結節点の一つとして読むことができる。

8. 結論 ── 重層する時間をどう記述するか

本稿は、城之崎遺跡を、弥生時代後期の高地性集落と古墳時代後期から終末期の二基の古墳とが同一の丘陵上に重なる複合遺跡として捉え、その重層を史実・推定・考察の層に腑分けしながら読んできた。得られた見取り図は次のとおりである。台地の縁という立地は、高台の居住と低地の生業とを結ぶ選択であり、4号住居跡出土の土錘がその水辺利用に物質的な裏づけを与える。後世の古墳の封土は、侵食が旧地表を削り取っていくなかで、弥生の生活面を意図せず保存した。そして二基の古墳は、一世代ほどの時間差のうちに、礫床から横穴式石室へ、鉄製品から装身具へと、埋葬のありようを変えていった。

これらの事実から、どこまでを語りうるか。集落の全体規模、高台と低地に住み分けた集団の関係、古墳の被葬者像、在地社会の階層構造──いずれも、城之崎遺跡単独の資料からは確定できない。確認できるのは、限られた調査範囲に現れた痕跡であり、そこから復元しうる地域史像は、周辺遺跡の様相と突き合わせて初めて像を結ぶ。本稿がくり返し留保を置いてきたのは、確度の低い推論を史実に横滑りさせないためである。遺跡を読む営みは、確認できることと推定にとどまることとの境界を、丁寧に引き続ける作業にほかならない。

したがって本稿の立場は明確である。城之崎遺跡の価値は、珍しい遺物が出たことにあるのではなく、弥生の住まい、古墳時代の墓、そして1970年の記録保存という異なる時間が、一つの丘陵の上に重なって見えることにある。磐田の土地は、単なる地面ではない。そこには、暮らし・祈り・労働・開発・保存の時間が積み重なっている。開発は、この重なりを消し去る力であると同時に、記録を残す契機ともなった。だが、記録されなければ土地の記憶は失われる。緊急発掘によって残された城之崎遺跡の知見は、その原則をいまに伝える。

最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、現地の現況と現在地の照合、周辺地名の検討は、本稿では未確認のまま残した。第二に、高台の城之崎集落と低地の二之宮・鎌田遺跡群との関係は、両者の年代と生業を突き合わせることで、立地選択の意味をより精確に描きうる。第三に、城之崎二基の古墳を含む磐田原台地南部の後期古墳群を総体として捉える作業は、前期の大型古墳から後期の中小古墳への移行を、地域社会の変化として論じる主題へと接続する。これらはいずれも、本稿が設定した史実・推定・考察の枠組みのなかで、未確認を確認へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。台地の縁に残された住まいと墓の記憶を、後世の調べものに耐える形で書き留めていくこと──その地道な手続きの先に、磐田原台地南部という土地の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。

本稿が扱った御厨・西貝塚をはじめ、磐田原台地の周辺には、古い暮らしの記憶を宿した家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の履歴にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。地面の下に眠る時間を記録することと、その上に建つ家を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 城之崎遺跡の所在地・地形・複合遺跡としての性格は、磐田市教育委員会の発掘調査報告書による。本稿では「西貝塚字西山」「磐田原台地南部・城之崎丘陵」という所在・地形の記載を史実の層として扱う。
  2. 発掘は1970年10月19日から12月9日にかけて、ヤマハ発動機株式会社の従業員寮建設計画に伴う緊急調査として実施され、成果は1978年刊行の報告書にまとめられた。調査年月日・契機・刊行年は史実として扱う。
  3. 標高は報告書の記載に基づき海抜約14.5メートルから16メートル前後とする。地形区分(舌状丘陵・今之浦川による開析)は、報告書および地理院地図・旧版地形図による確認を併用した。
  4. 弥生時代後期後葉・欠山式期という年代の位置づけは、出土土器の型式に基づく報告書の判断であり、確認された事実に基づく推定として扱う。絶対年代を一点で確定するものではない。
  5. 2号墳を6世紀後葉、3号墳を7世紀前葉とする年代、および墳丘規模・埋葬施設・副葬品の記載は報告書による。年代は型式学的な位置づけであり、両墳の一世代程度の時間差も推定である。

参考文献・参考資料

  • 磐田市教育委員会『城之崎遺跡発掘調査報告書』磐田市教育委員会、1978年。
  • 磐田市教育委員会・磐田市文化財課ほか 埋蔵文化財関連公開資料(城之崎遺跡・城之崎2号墳・3号墳に関する記録)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
  • 静岡県教育委員会 編『静岡県の埋蔵文化財』関連資料(磐田原台地南部の遺跡分布)。
  • 国土地理院「地理院地図」(電子国土Web) https://maps.gsi.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 国土地理院 旧版地形図・治水地形分類図(今之浦川流域・台地縁辺の旧地形の確認)。
  • 松林山古墳 関連発掘調査報告(磐田原台地南部 古墳時代前期の様相)。
  • 堂山古墳・城之崎丸山古墳 関連文化財資料(台地南部後期古墳群)。
  • 二之宮遺跡・鎌田遺跡ほか 低地集落関連資料(弥生時代の低地開発)。
  • 文化庁「国指定文化財等データベース」 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語「城之崎遺跡 ── 弥生後期高地性集落と後期古墳群を読む」 https://iwata-monogatari.net/u004.html (本稿の素材となった一般向け記事。最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第11号「銚子塚古墳 ── 遠江を治めた王の墓」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/011/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第17号「長者屋敷遺跡 ── 二重土塁に囲まれた奈良時代の遺跡」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/017/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語「御厨地区」(地区分類・沿革の整理。最終閲覧:2026年7月25日)。