磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第11号(古墳時代の磐田原 一)
銚子塚古墳 ── 遠江を治めた王の墓
前方後円墳の構造と被葬者像をめぐって
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
磐田市寺谷、磐田原台地の西縁に築かれた銚子塚古墳は、墳丘長約108メートル、全長にしておよそ110メートルを測る前方後円墳で、静岡県内でも第3位の規模をもつ。本稿は、この古墳の規模・立地・築造年代・副葬品を公開資料に基づいて整理し、そこから導かれる被葬者像を検討する。前方部が低く狭い墳形、葺石・埴輪が確認されないことなどから、築造は古墳時代前期、4世紀後半と推定されている。1880年に後円部から出土したと伝わる三角縁神獣鏡は、ヤマト政権と在地首長との関係を読む手がかりとして注目されてきたが、その解釈には論争があり、被葬者を「遠江の王」と呼ぶ像もまた確定した史実ではなく推定にとどまる。本稿は史実・推定・伝承の層を語の水準で区別し、断定を避けつつ、隣接する小銚子塚古墳を含む古墳群の存在が、この磐田原に代を重ねた首長系譜のあったことを物語る点を重視し、その系譜を後続の国府・国分寺の時代へと接続する視点から論じる。
キーワード:銚子塚古墳/前方後円墳/磐田原台地/三角縁神獣鏡/古墳時代前期/小銚子塚古墳/在地首長
1. 問題設定 ── 文字なき時代の首長墓をどう読むか
銚子塚古墳は、磐田市寺谷、磐田原台地の西の縁に築かれた大型前方後円墳である。木におおわれたゆるやかな丘は、一見すれば自然の小山にしか見えないが、これは人の手で土を盛り上げて築かれた墓であり、静岡県内でも屈指の規模をもつ。古墳が営まれた古墳時代前期は、この地について記した文字史料をほとんど欠く時代である。したがって、墓そのものの構造や副葬品が、当時の社会を知るための第一の手がかりとなる。
本稿の課題は、この古墳が語る事実をどこまで確からしく記述できるかを見定めることにある。古墳研究では、墳丘の規模から被葬者の政治的力量を推し量り、副葬品から広域の政治関係を復元する方法が広く用いられてきた。しかしその推論は、確度の異なる情報を無自覚に重ねると、容易に「遠江を治めた王がここに眠る」という物語へと滑り込みやすい。墳丘が大きいこと、鏡が出土したこと、それ自体は資料に支えられた事柄だが、そこから被葬者の人格や称号を具体的に描き出す段になると、根拠の性格が変わる。本稿はこの境目を丁寧に引き直すことを主眼とする。
そこで、以下では四つの水準を区別して用いる。第一に史実、すなわち現地の墳丘計測や指定文書など、公開資料によって確認できる事柄。第二に通説、研究者のあいだで広く支持されているが一点では確定しがたい事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、地域で語り継がれてきた事柄である。銚子塚古墳の規模や史跡指定は史実の層に、築造年代は推定の層に、被葬者を「王」と呼ぶ像はさらに慎重を要する推定の層に、それぞれ属する。層をまたいだ断定を避けることが、この論考の基本姿勢となる。
あわせて、「未確認」と「記載なし」の区別も保持したい。本稿がある事柄を確認できないと述べるとき、それは「そのような事実が存在しない」という意味ではなく、「管見の限り、それを裏づける資料に突き当たっていない」という意味である。銚子塚古墳の後円部は1880年(明治13年)に掘り返されて以来、内部の埋葬施設について本格的な発掘調査が行われておらず、多くが土の下に眠ったままである。この調査の空白ゆえに、確認できない事柄が数多く残る。その空白を、あたかも解明済みであるかのように埋めてしまわないこと──それが、文字なき時代の首長墓を読む際に、まず守るべき節度である。
2. 立地と規模 ── 磐田原台地西縁の前方後円墳
まず、公開資料によって確認できる規模から押さえておく。銚子塚古墳の墳丘長は108メートルと計測され、周濠を含めた全長はおよそ110メートルにおよぶ1。これは静岡県内に数ある古墳のなかで第3位の規模にあたる。円い後円部と、ばち形に開く前方部が一体となった前方後円墳で、「銚子塚」の名は、横から見た墳丘の姿が酒をそそぐ器の銚子に似ることに由来すると伝えられる。この呼称は土地の人々による命名であり、伝承の層に属する事柄だが、墳丘の形態的特徴をよく捉えた呼び名である。
各部の寸法をより細かく見ると、後円部は直径およそ60メートル、高さおよそ8メートル、前方部は長さおよそ80メートル、高さおよそ4.5メートルとされる。後円部が高く盛り上がり、前方部が低く平たく伸びるこの姿は、後述するように築造年代を推し量る手がかりとなる。墳丘のまわりには幅およそ10メートルの周濠がめぐり、外側には土塁の一部も残るという。高さ8メートルといえば二階建ての家の屋根を越える。その土量を人力のみで運び、突き固めて築いた労力の大きさは、被葬者を支えた集団の規模を推し量る一つの尺度となる。
次に立地である。古墳が据えられたのは、磐田原台地の西の縁、その下を天竜川が流れる崖に臨む位置である。台地の縁は川へ向かって急に落ち込んでおり、墳丘は川筋を上り下りする人にも、麓に暮らす人にもよく見えたと考えられる。古墳は死者を葬る施設であると同時に、「これほどの墓を築かせる力をもつ者がここにいる」という事実を、生者に対して示すモニュメントでもあった。見晴らしのきく台地の縁がわざわざ選ばれた背景には、この可視性への配慮があったとみるのが通説的な理解である。
この立地は、天竜川という交通路との関係でも読み解ける。天竜川は、内陸の山地と遠州灘とを結ぶ水運の動脈であり、その流域は東西の陸路とも交差する要衝であった。川に臨む台地の縁に大型墳を築くことは、この水陸の結節点を押さえた首長の存在を、地形のうえに刻む行為でもあった。もっとも、古墳の立地が交通の掌握を「意図して」選ばれたのか、結果としてそう読めるにすぎないのかは、資料の上で判別しがたい。ここでは、立地が交通路と密接に関わる事実を確認するにとどめ、その動機の断定は控える。
規模の記述に際して、もう一点補っておきたいのは、墳丘の造営が要した労力の意味である。これほどの土量を人力のみで掘り、運び、突き固めるには、のべ数万人規模の労働を編成する必要があったとみてよい。それは、田畑を耕す日々の生業の合間に、近隣の集団を束ねて長期にわたり働かせうる指導力があってはじめて可能になる。墳丘の大きさは、単に被葬者一個人の富を表すのではなく、その背後にあった労働編成の仕組みの規模を映している。この点で、規模の数値は、被葬者を支えた社会の厚みを測る指標として読むべきものである。ただし、動員が強制によるものであったか、共同の営みとしての性格をもっていたかは、墳丘そのものからは読み取れず、ここでも解釈の断定は避けねばならない。
3. 築造年代の推定 ── 墳形・葺石・埴輪から
銚子塚古墳の築造は、古墳時代前期、4世紀の後半ごろと推定されている2。今からおよそ1600年前にあたる。この年代は、文字による同時代史料から導かれたものではなく、墳丘の形態と、墳丘に伴う要素の有無から推し量られた推定である。したがって、その根拠を明示し、どの程度の幅をもつ推定なのかを確認しておく必要がある。
第一の根拠は墳形である。前節で述べたとおり、銚子塚古墳は後円部が高く、前方部が低く狭い。前方部が発達して後円部と同等の高さ・幅をもつようになるのは古墳時代の中期以降であり、前方部が未発達な段階は前期に位置づけられる。銚子塚古墳の前方部の低平さは、この形態編年のうえで前期を指し示す。第二の根拠は、墳丘に葺石と埴輪が確認されないことである。斜面を石でおおう葺石や、墳丘上に樹立される埴輪は、後の時代の大型古墳に広く伴うが、銚子塚古墳にはこれらが認められていない。この不在もまた、比較的古い段階の古墳であることの傍証とされてきた。
ただし、これらの根拠には慎重な扱いを要する点がある。形態編年は全国的な傾向を地域へ当てはめる方法であり、地域差や築造集団の事情によって例外が生じうる。また葺石・埴輪の不在は、「元来伴わなかった」場合と、「かつて存在したが失われた、あるいは未検出である」場合とを、現状では判別しがたい。後円部が本格的な発掘調査を経ていない以上、内部から得られる年代情報も欠いたままである。よって「4世紀後半」という推定は、複数の傍証が整合的に指し示す蓋然性の高い推定ではあるが、一点に確定した史実ではない。本稿はこれを、確度の高い推定として扱う。
年代推定の方法について、いま少し立ち入っておきたい。古墳の年代は、墳形のほか、副葬品の型式、埴輪の有無や型式、周濠の形状など、複数の指標を突き合わせて絞り込まれるのが通例である。銚子塚古墳の場合、そのうち墳形と葺石・埴輪の不在という限られた指標に依拠せざるをえない。副葬品として伝わる三角縁神獣鏡も、それ自体は古墳時代前期の年代観と矛盾しないが、伝世資料であるために出土層位を欠き、築造年代の決め手として用いるには慎重を要する。指標が限られるほど、推定の幅は広がる。「4世紀後半」という表現は、そうした幅を含んだ中心値として理解すべきであり、前後に一定の振れをもつことを前提に扱うのが適切である。年代を一つの数字で示すことの便宜と、その数字がもつ不確かさとを、同時に意識しておきたい。
4. 副葬品と三角縁神獣鏡 ── ヤマトとの関係をめぐって
被葬者の力量と広域の関係を読む手がかりは、副葬品である。銚子塚古墳では、1880年(明治13年)に後円部が掘り返された際、銅鏡・巴形銅器・銅鏃が出土したと伝えられる3。出土したと伝わる銅鏡は三角縁神獣鏡と呼ばれる種類で、直径およそ17センチ、縁の断面が三角形をなし、背面に神仙や霊獣の像をあらわした、古墳時代前期を代表する鏡である。あわせて巴形銅器1点、銅鏃2点が見つかったと伝わる。ただしこれらは正式な発掘調査による出土品ではなく、明治期の掘削に伴う伝世資料である点に留意を要する。出土の状況や共伴関係の記録には限界があり、副葬の全容を復元することはできない。
三角縁神獣鏡は、単なる装飾品ではないとされる。古墳時代前期、ヤマトの政権が各地の有力な首長へ配り与えた「結びつきの証」であったとする理解が、長く通説的な位置を占めてきた4。同じ鋳型から作られた同笵鏡が遠く離れた古墳から出土する事例があり、それらを結ぶと、ヤマトを中心とした政治的なネットワークの広がりが浮かび上がる、というのがこの説の骨子である。この見方に立てば、銚子塚古墳の被葬者は、遠くヤマトの中央政権とつながりをもつ在地首長であったことになる。
あわせて出土したと伝わる巴形銅器・銅鏃についても触れておく。巴形銅器は、渦を巻くような形をした青銅製品で、盾や靫(ゆぎ)などの装具に飾りとして取りつけられたと考えられており、古墳時代前期の副葬品としてしばしば鏡と共伴する。銅鏃は青銅製の鏃で、実用の武器というより儀礼的・威信的な性格をもつ品とみられている。これらは、被葬者が武的な性格を帯びた首長であったことを推し量る手がかりとされるが、いずれも伝世資料であって出土時の位置関係は不明であり、鏡とあわせてどのような副葬構成をなしていたかは復元できない。副葬品の一つひとつが語りうる範囲を、伝世資料という制約のなかで見極める必要がある。
もっとも、三角縁神獣鏡の性格をめぐっては、なお論争がある。この鏡が中国からの舶載鏡なのか、日本国内で製作された仿製鏡なのか、その製作地の問題は決着をみていない。また、鏡が中央から一元的に配布されたとする見方に対しては、首長どうしの横のつながりを通じて流通した可能性を重くみる見解もある。配布の主体・経路を一つに定めきれない以上、鏡の存在から「被葬者はヤマトに臣従していた」といった政治的従属関係まで踏み込んで断定することはできない。確実に言えるのは、被葬者がこの種の威信財を入手しうる立場にあり、広域の交流の圏内にあったという点までである。
以上を、確度の層に沿って表に整理しておく。規模や史跡指定のような史実の層と、築造年代や被葬者像のような推定の層とを、同じ粒度で並べることで、どこまでが確認済みで、どこからが推論なのかを一望できるようにした。表の作成にあたっては、特定の説を優位に置く書式を避け、各項目の留意点を対等に記すことを心がけた。
| 項目 | 内容 | 確度の層 | 留意点 |
|---|---|---|---|
| 墳丘規模 | 墳丘長約108メートル、全長約110メートル、県内第3位。 | 史実 | 現地計測に基づく。周濠を含むか否かで全長表記に幅がある。 |
| 墳形 | 前方部が低く狭い前方後円墳。 | 史実 | 形態自体は確認できる。年代への読み替えは編年に依存する。 |
| 築造年代 | 古墳時代前期、4世紀後半ごろ。 | 推定 | 墳形・葺石埴輪の不在による。内部調査を欠き一点確定は困難。 |
| 副葬品 | 三角縁神獣鏡・巴形銅器・銅鏃。 | 推定(伝世) | 1880年の掘削に伴う伝世資料で、正式調査の出土記録ではない。 |
| ヤマトとの関係 | 三角縁神獣鏡が政治的つながりを示すとする。 | 推定・通説 | 鏡の製作地・配布経路に論争。従属関係までは断定できない。 |
| 被葬者 | 一帯を治めた在地首長=古代の「王」。 | 推定 | 規模・副葬品からの推論。人格・称号を復元する史料はない。 |
| 史跡指定 | 1956年国史跡指定、1979年範囲追加指定。 | 史実 | 指定文書により確認できる。 |
5. 被葬者像の諸相 ──「遠江の王」という呼称の射程
ここまでの検討を踏まえて、被葬者像を論じる。県内第3位という墳丘規模、威信財としての三角縁神獣鏡、交通の要衝を望む立地──これらを合わせると、被葬者がこの一帯を治めた有力な在地首長であったという像が導かれる。大勢の人々を長期にわたって動員し、これほどの墳丘を築かせえたこと自体が、その指導力の大きさを物語る。墓の規模は、そのまま被葬者の力の大きさを映すというのが、古墳研究の基本的な見方である。この意味で、被葬者を古代の磐田原の「王」と呼ぶことには一定の根拠がある。
ただし、「王」という呼称の射程には注意が要る。ここでいう王とは、後の律令国家における国司のような制度化された官職でも、記紀に名を残す特定の人物でもない。それは、考古資料から推し量られる在地の政治的首長を、便宜的に言い表した呼称にすぎない。被葬者の名、その支配の及んだ範囲、他の地域首長との関係、世襲の実態──こうした具体的な事柄を復元する文字史料は、本稿の範囲では存在しない。したがって「遠江を治めた王」という表現は、被葬者の力量の大きさを直感的に伝える言い回しとしては有効だが、それ以上の具体像を保証するものではない。
この点は、地域史の記述においてとりわけ誤解を招きやすい。大型古墳の被葬者を「王」と呼ぶと、あたかも一人の英雄的人物が広い領域を統べていたかのような像が立ち上がる。しかし考古資料が語るのは、そうした人格の物語ではなく、大規模な労働力を編成し、威信財を入手しうる社会的な仕組みが磐田原に存在した、という構造の事実である。被葬者個人の英雄譚へと像を膨らませることは、資料の裏づけを超えた飛躍にあたる。本稿は、被葬者を在地首長と位置づけるにとどめ、その人格・事績の具体的復元には踏み込まない立場をとる。
「王」という語を用いることの効用も、否定はしない。専門的な「首長」という語よりも、「王」という言葉のほうが、文字なき時代にこれほどの墓を築かせた力の大きさを、読者に直感的に伝える。一般向けの記事がこの呼称を選ぶのは、その伝達力ゆえである。問題は、呼称の便宜と、それが招く具体像の過剰とを、書き手が区別できているかどうかにある。本稿は論考版として、「王」を政治的地位の比喩として引き受けつつ、その語に人格の物語を託さないという線を引く。呼称は像を喚起する道具であって、事実の代替物ではない。
もう一つ、被葬者の性別や続柄についても、確たることは言えない。古墳の被葬者を男性の首長と当然に想定する叙述は、しばしば無意識の前提に基づく。副葬品の組成から被葬者の性格を推し量る方法はあるが、本古墳では正式な発掘調査を欠き、副葬品も伝世資料にとどまるため、その手がかりも限られる。被葬者を「王」と呼ぶとき、その語がまとう男性的・英雄的な含意までを、資料に裏づけられた事実として引き受けるべきではない。呼称はあくまで首長の政治的地位を指すものとして、限定的に用いる。
6. 古墳群と首長系譜 ── 小銚子塚古墳と代替わり
銚子塚古墳を単独の墓として見ると、被葬者は孤立した一人の首長として立ち現れる。しかし視野を広げると、この古墳は一つの古墳群のなかに位置づけられる。銚子塚古墳のすぐ近く、後円部から十数メートルほど北西に離れた場所には、小銚子塚古墳という別の古墳が寄り添っている。全長およそ46メートルのこの古墳は、前方後円墳ではなく前方後方墳──後ろの部分(後方部)も方形をなす、二つの方形の塚を重ねたような形式の古墳である。前方後方墳は静岡県内で5例しか知られておらず、なかでも小銚子塚古墳はその規模で県内第2位にあたる貴重な例だという。
前方後円墳と前方後方墳という二つの墳形が隣り合って残ることには、いくつかの読み方がある。両者を築造集団の性格の違いに結びつける見方、あるいは築造時期の前後や被葬者間の格差に結びつける見方などである。前方後方墳もまた古墳時代の早い段階に各地で築かれた形式であり、二基が近接して営まれた事実は、この地に古墳を継続して築くだけの首長層が存在したことを示す。ただし、両古墳の被葬者がどのような血縁・政治関係にあったのかを直接に語る資料はなく、その具体的な関係は推定の域を出ない。
前方後方墳という墳形そのものにも、一言しておく価値がある。前方後円墳が古墳時代を通じて各地の首長墓の主流をなしたのに対し、前方後方墳は前期を中心に一定の地域・時期に営まれた形式で、その分布や意味づけをめぐっては研究上の関心が寄せられてきた。両形式の関係を、政治的な序列の反映とみる見解もあれば、系統や信仰の違いに求める見解もあり、一様ではない。小銚子塚古墳が県内でも希少な前方後方墳の一例である事実は、この磐田原の首長層が、単純な一系統では捉えきれない複数の要素を抱えていた可能性を残す。ここでも本稿は、二つの墳形の並存という事実を確認するにとどめ、その意味づけについては諸説のあることを記録しておく立場をとる。
さらに、この一帯には全部でおよそ10基の古墳が点在し、「銚子塚古墳群」を形づくっている。一基の大型墳が孤立して残るのではなく、複数の古墳が群をなすという事実は、一人の首長にとどまらず、その一族や後継者が代を重ねてこの台地に葬られたことを推測させる。すなわち、磐田原には一代限りではない、安定した首長の系譜が存在したと考えられる。銚子塚古墳・小銚子塚古墳の二基は、1956年(昭和31年)11月に国の史跡に指定され、のちの1979年(昭和54年)には指定範囲が追加された5。
もっとも、この「系譜」もまた慎重に扱うべき推定である。古墳群を構成する各古墳の築造年代・被葬者の関係は、悉皆的な調査を経て初めて確定できるものであり、現状ではその多くが未確認のままである。群として残ること自体は、首長層の継続を強く推測させるが、それが直系の世襲であったか、複数の系統の交替であったかまでは判別しがたい。本稿は、磐田原に首長の系譜が代を重ねて存在した蓋然性が高いことを確認するにとどめ、その内部構造の復元は今後の調査に委ねる。
7. 背景としての地理 ── 古墳の時代から国府の時代へ
銚子塚古墳の意義は、この一基のうちにとどまらない。古墳が築かれた磐田原台地は、のちに遠江国分寺や国府が置かれた一帯と、同じ大地の上にある。国分寺の造営や国府の設置は8世紀なかばのことであり、銚子塚古墳の築造からおよそ400年を隔てる。だが、この時間の隔たりを超えて、同じ台地が古代磐田の中心であり続けたことは注目に値する。古墳の時代から国府の時代へ、この地に人と力が集まる状態は途切れることなく続いたと考えられる。
この連続をどう説明するかは、慎重を要する問題である。古墳時代の首長系譜が、そのまま律令期の郡司層へ、さらには国府を支えた在地勢力へと直接につながったと断定できる史料は存在しない。両者のあいだには数世紀の空白があり、その間の政治的変動を跳び越えて系譜を接続することはできない。確実に言えるのは、古墳の時代から国府の時代まで、この台地が一貫して有力な人々の活動の舞台であった、という地理的事実の水準にとどまる。遠江国府の所在そのものにも諸説があり、それ自体が未確定の主題である。
それでも、地理的背景は銚子塚古墳の意味を深める。ヤマトの朝廷がこの地を遠江国の中心として選んだ背景に、古墳時代以来この台地に力が蓄積されていた事情があったとみることは、蓋然性のある推定である。まちの中心が、ある時点で唐突に定められたのではなく、長い助走の果てに選ばれたと読むことは、磐田という土地の歴史を、断片ではなく連なりとして捉える視点を与える。本論考シリーズでも、遠江国分寺や遠江国府と府八幡宮を論じてきたが、それらの前史として、古墳時代の首長墓は位置づけられる。
磐田市域には900基を超える古墳が点在するといわれる。それだけ多くの古墳が営まれたということは、この地が古くから栄えていたことの端的な現れである。銚子塚古墳は、その数ある古墳のなかでも、とりわけ大きく、とりわけ古い。国府や国分寺という文字史料に彩られた古代磐田の像の、さらに奥に横たわる、まちの最も深い層の記憶──それが、この磐田原の大型前方後円墳である。
8. 結論 ── 規模の記述から系譜の記述へ
本稿は、銚子塚古墳の規模・立地・築造年代・副葬品・被葬者像を、公開資料に基づき確度の層を区別しながら検討した。得られた見取り図は次のとおりである。墳丘長約108メートルという規模、前方部の低平な墳形、周濠の存在、1956年の国史跡指定は、公開資料によって確認できる史実の層に属する。これに対し、4世紀後半という築造年代、三角縁神獣鏡が示すヤマトとの関係、被葬者を在地首長=「王」とみる像は、根拠はあるが未確定の推定の層に属する。そして「銚子塚」という名の由来は伝承の層にある。これらを混同せず、それぞれの位置に置いたまま記述することが、本稿の一貫した手続きであった。
とりわけ強調したいのは、被葬者像の扱いである。県内屈指の墳丘規模と威信財の存在は、被葬者が有力な在地首長であったことを強く推測させる。しかしその人格・称号・支配範囲を具体的に復元する史料は存在せず、後円部の本格的な発掘調査も行われていない。したがって「遠江を治めた王」という呼称は、首長の政治的地位を言い表す便宜的な表現として限定的に用いるべきであり、そこに英雄的な人物像を読み込むことは資料の裏づけを超える。本稿が被葬者の具体像を推定にとどめ、断定を避けたのは、この理由による。
結びに、本稿の視座を一つ示しておきたい。銚子塚古墳を語るとき、私たちはその「大きさ」に目を奪われ、一基の巨大墳と一人の王という像へと記述を収斂させがちである。しかし、この古墳の真の意義は、隣接する小銚子塚古墳を含む古墳群として残り、磐田原に代を重ねた首長系譜のあったことを物語る点にある。規模の大きさから系譜の厚みへ、一人の王から継続する首長層へと記述の焦点を移すこと──それが、文字なき時代の磐田原を、後世の調べものに耐える形で書き留める方途であると考える。古墳群各基の年代と相互関係、副葬品の再検討、そして国府時代への接続の可否については、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。
注
- 墳丘長は108メートルと計測され、全長は周濠を含めておよそ110メートルとされる。県内第3位の規模という位置づけを含め、計測値は磐田市および静岡県の文化財関係資料による。↩
- 4世紀後半という築造推定は、前方部の低平な墳形と、葺石・埴輪が確認されないことを主たる根拠とする。全国的な形態編年を地域に適用した推定であり、内部の発掘調査に基づく年代決定ではない。↩
- 1880年(明治13年)に後円部が掘り返された際の出土と伝わる。三角縁神獣鏡(直径約17センチ)・巴形銅器1点・銅鏃2点とされるが、正式な発掘調査による出土記録ではなく、伝世資料である点に留意を要する。↩
- 三角縁神獣鏡をヤマト政権が各地首長へ配布した威信財とみる理解は通説的な位置を占めるが、鏡の製作地(舶載か仿製か)や配布経路をめぐっては論争が続いており、本稿はこれを確定説ではなく有力な推定として扱う。↩
- 銚子塚古墳・小銚子塚古墳は1956年(昭和31年)11月に国の史跡に指定され、1979年(昭和54年)に指定範囲が追加された。指定名称は「銚子塚古墳附小銚子塚古墳」。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 t001「銚子塚古墳と、遠江を治めた王の眠り」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・推定・伝承)を語の水準で区別し、墳丘規模・史跡指定を史実、築造年代・被葬者像を推定、「銚子塚」の名の由来を伝承として扱った。
参考文献・参考資料
- 磐田市(教育委員会)「銚子塚古墳附小銚子塚古墳」公式ウェブサイト解説 https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 文化庁「文化遺産オンライン」銚子塚古墳 附 小銚子塚古墳(国指定史跡) https://bunka.nii.ac.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- しずおか文化財ナビ「銚子塚古墳」 https://bunkazai.pref.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 静岡県教育委員会「しずおかの文化財」学習資料 銚子塚古墳の項 https://www.pref.shizuoka.jp/kyouiku/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田市観光協会「銚子塚古墳附小銚子塚古墳」 https://www.kanko-iwata.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 「銚子塚古墳 (磐田市)」ウィキペディア日本語版 https://ja.wikipedia.org/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田市『磐田市史』通史編、磐田市、該当章(古墳時代)。
- 磐田市教育委員会 編『磐田市内遺跡発掘調査報告』関係各号。
- 小林行雄『古墳時代の研究』青木書店、1961年(三角縁神獣鏡・同笵鏡論)。
- 都出比呂志『前方後円墳と社会』塙書房、2005年。
- 佐口行正氏所蔵史料(磐田原の古墳・地誌関係)。
- 磐田物語 t001「銚子塚古墳と、遠江を治めた王の眠り」 https://iwata-monogatari.net/t001 (最終閲覧:2026年7月25日)。