磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第15号(竜洋・掛塚祭礼研究 一)
掛塚まつりと豪華屋台 ── 湊町がはぐくんだ祭礼文化
廻船問屋の繁栄と屋台・囃子の展開
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
天竜川河口の湊町・掛塚に伝わる貴船神社例祭「掛塚まつり」は、9台の総漆塗り屋台と県指定無形民俗文化財「掛塚祭屋台囃子」を核とする遠州屈指の祭礼である。本稿は、この祭礼を「廻船問屋の繁栄が育てた文化」として理解する通説を、史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けして検証する。貴船神社が徳川家光から朱印地8石を受けたことは文書で確認できる史実であるが、現存最古の屋台を寛政10年(1798年)とする年紀や、起源を中世に遡らせる説明は、資料の性格を異にする。とりわけ屋台彫刻の作者を諏訪立川流とみる説と名古屋の御用彫師とみる説は併存しており、本稿は両者を排他的に裁定せず、掛塚屋台が複数の彫刻系譜を集めた合作であった可能性を重くみる。あわせて京風とされる囃子の系統を、湊町が江戸と上方の双方に開かれていた交易史のなかに位置づけ、屋台文化の「源流」論を一方向の伝播ではなく相互影響として読み直す。
キーワード:掛塚まつり/貴船神社/廻船問屋/総漆塗り屋台/立川流/掛塚祭屋台囃子/遠州屋台文化
1. 問題設定 ── 「富が育てた祭り」をどう論じるか
掛塚まつりは、静岡県磐田市掛塚の貴船神社(きぶねじんじゃ)を中心に営まれる祭礼で、正式には「遠州掛塚貴船神社例祭」と呼ばれる。毎年10月の第三土曜・日曜に、9つの町内からそれぞれ曳き出される総漆塗りの大屋台が、神輿の渡御に供奉して掛塚の町並みを練り歩く。屋根の曲線から柱・梁の組物にいたるまで漆と金箔で覆われ、随所に精緻な木彫刻をはめ込んだこの屋台の群れは、遠州の秋を代表する光景として知られてきた。
この祭礼を語るとき、地域ではしばしば「廻船問屋の富が育てた祭り」という一句が用いられる。天竜川河口の掛塚湊が江戸期に廻船の湊町として栄え、その経済力が屋台の豪華さを支えたという理解は、掛塚まつりの性格を的確に言い当てている。本稿もこの理解を出発点として共有する。しかし郷土史の記述として一歩踏み込むなら、「富が育てた」という一句を、どの部分は史料で確認でき、どの部分は伝承として語られ、どの部分は推定にとどまるのかを、腑分けしておく必要がある。
本稿の課題は、掛塚まつりを構成する諸要素──神社の沿革、屋台の年代、彫刻の作者、囃子の系統、他地域への波及──を、それぞれの資料的根拠に照らして確度の層ごとに整理し直すことにある。祭礼の華麗さを称えることは容易だが、その華麗さがいつ、どのような経路で形づくられたのかを問うと、答えはしばしば一枚の史料では確定しない。年紀を伝える資料が社伝や口碑であるのか、文書であるのかによって、断定できることの範囲は大きく変わる。
ここで用いる四つの層を、あらかじめ定義しておく。第一に史実、すなわち文書や編纂物など史料によって確認できる事柄。第二に通説、学界や地域で広く受け入れられているが一点で確定はできない事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、地域で語り継がれてきた事柄である。この四層を語の水準で書き分け、層をまたいだ断定を避けることが、以下の検討の基本姿勢となる。あわせて、「未確認」(管見の限り一次史料に突き当たっていない)と「記載なし」(史料に無いと確認できる)とを区別して用いる。
掛塚まつりを扱う先行の記述としては、地域史誌である『竜洋町史』や、掛塚湊の廻船史を扱った郷土資料、屋台囃子の文化財指定に伴う調査記録などがある。これらは祭礼の次第や由来、屋台の年紀、囃子の曲目を伝える中心的な媒体であるが、その多くは近世の一次史料を直接引くのではなく、地域に伝わる口碑や社伝を織り込みながら祭礼像を描いている。本稿は、これらの記述を確度の層を明示しながら整理し直し、掛塚まつりという祭礼が「湊町の富」というひとつの母体から、どのように複数の文化要素を束ねていったのかを記述することを企てる。以下ではまず史料で確認できる神社沿革を押さえ、続いて経済的母体、屋台の年代、彫刻の作者、囃子、波及の順に検討し、結論に至る。
2. 史料で確認できる貴船神社の沿革
祭礼の主体である貴船神社そのものについて、史料で確認できる範囲をまず確定しておく。貴船神社は天竜川河口の掛塚に鎮座する湊の鎮守で、祭神は水にまつわる一切を司る神とされ、農業・林業・漁業・醸造業・航海業の守護神として崇敬されてきたと伝わる。水を司る神を湊町がまつるという構図は、河口の集落が水運と漁労に生きてきた歴史と分かちがたく結びついている。
神社の草創について、地域では室町時代以前の創立と伝えられ、天正4年(1576年)に社殿が再建されたとされる。ただしこれらの年紀は、社伝ないし地域の伝えとして語られてきたものであり、草創や再建の事実を直接に記す同時代の一次史料に本稿が突き当たっているわけではない。したがって創立・再建の年代は、現段階では伝承の層に置いて扱うのが穏当である。神社の古さそれ自体を否定する材料はないが、年紀を史実として断定する根拠もまた、本稿の範囲では未確認である。
これに対して、文書によって確認できる史実がひとつある。1648年(慶安元年)10月24日、江戸幕府三代将軍・徳川家光から貴船神社へ朱印地8石が寄進された1。将軍の朱印状は幕府の公式文書であり、その寄進の事実と石高は、社伝や口碑とは資料の性格を異にする史実として扱ってよい。ここから確実に言えるのは、17世紀半ばの時点で貴船神社が幕府から所領を安堵されるほどの由緒ある鎮守と認められていたこと、そして掛塚という湊が幕府の視野に入る要地であったことである。朱印地の存在は、掛塚湊の鎮守としての貴船神社の位置づけを、幕藩体制の枠内で裏づける。
ここで区別しておきたいのは、神社の由緒の古さと、現在われわれが目にする屋台を伴う祭礼の形式とを、そのまま同一視できない点である。中世以前に遡ると伝わる神社であることと、9台の総漆塗り屋台が曳き回される現行の祭礼形式が中世に成立していたこととは、論理的に別の事柄である。祭礼の起源を「中世に遡る」と語る説明は地域に根強いが、それは神事としての水運・航海安全祈願の古さを述べたものであって、豪華屋台という形式の古さを保証するものではない。神社の沿革は祭礼の背景であり、屋台形式の成立年代を直接には語らない。この切り分けを保つことが、次章以降の年代論の前提となる。
3. 母体としての廻船問屋 ── 掛塚湊の経済
掛塚まつりの華麗さを支えた母体は、天竜川河口に開けた掛塚湊の廻船経済である。近世の掛塚は、天竜川の水運によって上流の信州・遠州山間部から運び下された木材の集散地となり、これを江戸へ廻送する材木廻船の湊として栄えた。加えて幕府の御用米輸送にも関わり、廻船問屋のもとには材木と海運の利益が蓄積された。貴船神社と海の安全を祈る水神信仰に錨や石灯籠が奉納されてきたことも、この湊が船持ち・船頭・廻船問屋の信仰に支えられていたことを物語る。
この経済的母体を押さえておくことは、屋台の豪華さを理解するうえで欠かせない。総漆塗りに純金箔を惜しみなく施し、京都・江戸・名古屋の一流の職人を招いて数年がかりで一台を仕立てるという営みは、余剰の富がなければ成り立たない。各町内が競い合って自慢の屋台を作り上げたと伝えられるのも、湊町に富が集中し、その富を町内単位で祭礼へ注ぐ社会構造があったからにほかならない。屋台は単なる囃子の舞台ではなく、廻船問屋の経済力と町内の誇りを可視化した移動式の美術工芸品であったと理解できる。
もっとも、「富が屋台を生んだ」という因果を、あまりに単純に描くことには留保が要る。富の存在は豪華な屋台を可能にする条件ではあるが、その富を祭礼へ、しかも彫刻と漆という特定の様式へ振り向けさせた回路は、経済だけでは説明しきれない。同じ富が学問や慈善や別の消費へ向かうこともありえたはずである。掛塚においてそれが屋台という形をとったのは、湊町の共同体が屋台を町内の格と結びつけて理解する文化を、あらかじめ共有していたからだと考えられる。経済的母体と文化的選択とは、区別して論じる必要がある。
掛塚湊の交易が江戸方面へ開かれていたことは、屋台の様式が江戸・名古屋の職人技を取り込んだ事実と整合する。しかし後述するように、囃子には上方風・京風の趣が指摘されており、湊が江戸だけでなく上方とも太いつながりをもっていたことをうかがわせる。廻船の湊とは、一方向の航路の終点ではなく、複数の文化圏が交差する結節点である。掛塚まつりの諸要素が江戸系と上方系の双方を含みうるのは、この湊町の交易構造に根ざしていると推定される。
4. 屋台の起源と年代 ── 確度の層の腑分け
掛塚まつりの中心をなす9台の大屋台について、その起源と年代を確度の層に分けて検討する。屋台は掛塚の本町・横町・新町・仲町・大当町・蟹町・砂町・田町・東町という9つの町内から、それぞれ一台ずつ曳き出される。総漆塗りに金箔・金具・彫刻を施したその姿は現在に伝わるが、いつ、どのようにこの形式が成立したのかを問うと、確実に言える範囲は限られる。
まず伝えられるのは、現存する屋台のうち最も古いものが寛政10年(1798年)に遡るという年紀である2。18世紀末という時期は、掛塚湊の廻船経済が成熟した局面と重なり、屋台の華麗化が近世後期に本格化したとみる理解と整合する。ただしこの年紀は、屋台そのものに残る墨書や修理銘、あるいは町内の文書に基づくものか、地域の言い伝えに基づくものかによって、確度が異なる。本稿の範囲では、1798年という年紀の一次的根拠を直接に確認できていないため、これを確度の高い推定として扱い、断定は避ける。少なくとも「現存最古の屋台が18世紀末に遡る」という理解は、近世後期の富の蓄積という背景と矛盾せず、蓋然性が高い。
これに対して、祭りの起源そのものを「中世に遡る」とする説明は、性格の異なる主張である。これは屋台という形式の起源ではなく、水運と航海の安全を祈願する神事としての起源を述べたものと解するのが自然である。神事の古さと屋台形式の古さは、前章で述べたとおり別の層に属する。豪華屋台が中世から存在したことを示す史料は本稿の範囲では確認できず、この点は未確認とせざるをえない。屋台形式の成立は、むしろ近世、それも廻船経済が成熟した後期に置くのが穏当であろう。
屋台の年代を考えるうえでもう一点重要なのは、屋台が一度作られて固定される器物ではなく、修理・改修を重ねながら伝えられる可塑的な存在だという点である。漆は塗り替えられ、彫刻や金具は補修・追加され、部材が入れ替わることもある。したがって「この屋台は1798年のもの」という言い方は、部材のすべてがその年に遡ることを意味しない。現在の姿は、初製の時点から幾度もの手を経て累積した結果である。屋台の年代を単一の年で語ることには、こうした方法上の限界がつきまとう。
以上を、確度の層ごとに一覧へ整理しておく。次の表は、掛塚まつりを構成する主要な年紀・要素を、依拠する資料と史料批判上の留意点とともに並べ、確度の水準を可視化することを目的とする。特定の年紀を史実のように扱う書式を避け、各行の情報量をそろえることで、読者が自ら確度を判断できる状態をつくることを心がけた。
| 要素 | 年紀 | 確度の層 | 依拠する資料 | 留意点(史料批判) |
|---|---|---|---|---|
| 貴船神社の創立 | 室町時代以前 | 伝承 | 社伝・地域の伝え | 草創を記す同時代史料は未確認。年代は断定しない。 |
| 社殿の再建 | 1576年(天正4年) | 伝承 | 社伝 | 再建を直接記す一次史料は未確認。 |
| 朱印地8石の寄進 | 1648年(慶安元年) | 史実 | 徳川家光朱印状 | 幕府公式文書に基づく。掛塚湊の要地性を裏づける。 |
| 現存最古の屋台 | 1798年(寛政10年) | 推定 | 屋台の年紀・地域の伝え | 年紀の一次的根拠は要確認。近世後期の富と整合し蓋然性は高い。 |
| 祭りの起源 | 中世 | 推定・伝承 | 地域の伝え | 神事の起源を述べたもの。豪華屋台形式の中世成立は未確認。 |
| 屋台囃子の県指定 | 1970年(昭和45年) | 史実 | 静岡県の文化財指定 | 指定名称・指定日は公的記録による。 |
この表から読み取れるのは、掛塚まつりの年代論が、性格を異にする複数の資料層の上に立っているという事実である。朱印地の寄進と囃子の県指定は文書・行政記録に基づく史実であり、動かしがたい。これに対し、神社創立・社殿再建・屋台年紀・祭り起源は、社伝や地域の伝えに基づく伝承ないし推定であって、確度を一段落として扱う必要がある。「富が育てた祭り」という通説を史料批判の観点から精密化するとは、まさにこの層の区別を保ちながら祭礼像を描くことにほかならない。
5. 屋台彫刻の作者比定 ── 立川流説と名古屋御用彫師説
掛塚の屋台を「遠州屈指」たらしめている最大の要素は、随所にはめ込まれた木彫刻である。中国の故事や日本の神話、鳳凰・龍といった瑞獣を題材に、立体的な透かし彫りが施され、羽の動きや表情の細部まで緻密に表現されている。この彫刻の作者をめぐっては、地域の伝えのなかに二つの系譜が併存しており、掛塚屋台の美術史的位置を論じるうえで避けて通れない論点となっている。以下、両説を対等の粒度で併記する。
諏訪立川流の名工によるとする説
説の骨子。掛塚屋台の彫刻を、信州諏訪の代表的な彫刻一門「立川流(たてかわりゅう)」の手によるものとみる説である。立川流は、諏訪出身の立川和四郎冨昌(1744〜1807年)を祖とし、江戸で宮大工・彫刻の技術を学んだのち諏訪に戻って独立、19世紀前半のおよそ40年間にその名声を全国へ広めた一門として知られる3。豊川稲荷や飛騨高山の屋台彫刻などにも作風を残しており、遠州の屋台彫刻を全国的な立川流の系譜のなかに位置づける根拠となる。
この説の説明力。立川流は社寺建築と一体の彫刻を得意とし、屋台という建築的な構造物への装飾に適した技術体系をもっていた。掛塚屋台の透かし彫りに見える構図の骨格や瑞獣の扱いを、立川流の作風の展開として読むことは、遠州・三河・信州にまたがる彫刻文化の広がりのなかで祭礼を理解する視野を与える。
資料的裏づけと限界。立川流帰属を確定するには、屋台の部材に残る作者銘や、注文の経緯を記す町内文書などの一次史料が要る。個々の屋台の彫刻がすべて立川流工房の作と一次史料で裏づけられるかは、本稿の範囲では未確認である。立川和四郎冨昌の活動時期(18世紀後半〜19世紀初頭)は現存最古屋台の年紀(1798年)と重なりうるが、時期の整合はただちに作者の同定を意味しない。
名古屋の御用彫師によるとする説
説の骨子。掛塚屋台の彫刻を、名古屋城の御用達を勤めた江坂兵衛や、彫長(ほりちょう)一門など、名古屋を拠点とする第一流の彫師の手によるものとみる説である。名古屋は近世を通じて木彫刻の一大産地であり、その御用彫師たちが遠州各地の祭礼屋台に関わったことは、地域に広く伝えられている。
この説の説明力。掛塚湊の交易圏を考えると、名古屋の職人を招く経路は現実的である。名古屋の彫師が手がけたとすれば、掛塚屋台を尾張の彫刻文化圏との関わりのなかに位置づけることができ、囃子の上方風とはまた別の、東海地域の職人ネットワークとの結びつきを示す手がかりとなる。
資料的裏づけと限界。名古屋御用彫師説もまた、個々の屋台の作者を一次史料で確定するには裏づけを要する。江坂兵衛や彫長といった名は地域の伝えのなかで語られてきたが、どの屋台のどの部分が誰の作かを、注文文書・作者銘によって網羅的に示すことは、本稿の範囲では未確認である。名の伝わり方それ自体が、後世の顕彰のなかで整えられた可能性も排除できない。
二説は、しばしば「掛塚屋台の彫刻は立川流か、名古屋の彫師か」という択一の問いのもとに並べられる。しかし9台の屋台は、それぞれ別の町内が、別の時期に、別の予算と伝手で仕立てたものである。とすれば、ある屋台は立川流系の彫師に、別の屋台は名古屋の彫師に発注された、という併存はむしろ自然に想定される。加えて、一台の屋台のなかでも、彫刻・漆・金具はそれぞれ別の職人が分業で担い、修理の過程で後補が加わる。作者を一つの一門へ一元化しようとすること自体に、方法上の無理がある。
本稿の立場。掛塚屋台の彫刻を単一の系譜に帰属させる必要はなく、諏訪立川流系と名古屋御用彫師系の双方が、9台の屋台群という総体のなかに併存した合作の集積とみるのが、資料的にも実態的にも穏当である。作者比定を精密化するには、屋台ごとの部材銘・町内文書の博捜が不可欠であり、本稿はその作業を今後の課題として明示するにとどめる。掛塚祭 屋台と屋台囃子に残る信仰と文化の記憶に伝わる個別屋台の来歴の記録は、その手がかりとなりうる。
6. 掛塚祭屋台囃子 ── 京風の音と湊の記憶
掛塚まつりの完成度を、視覚的な豪華さと並んで支えているのが、屋台の上で奏でられる祭囃子である。「掛塚祭屋台囃子」は、1970年(昭和45年)6月2日に静岡県指定無形民俗文化財に指定された4。指定名称・指定日は公的な文化財記録に基づく史実であり、この囃子が屋台と一体の文化財として公認されていることを示す。演奏は笛・大太鼓・小太鼓の3種の楽器によって行われ、格調高く優雅な曲調を特徴とする。
この囃子について地域で繰り返し語られるのは、京風・公家囃子の趣を残しているという評価である。これは、隣接する大須賀町の三社祭礼囃子が江戸風の趣をもつとされるのとしばしば対比される5。この対比が示唆するのは、掛塚の廻船問屋たちが江戸だけでなく上方とも太いつながりをもっていたという、湊町の交易史である。屋台の造形や彫刻が江戸・名古屋という東側の職人文化を映すのに対し、囃子は上方・京という西側の文化を映している。ひとつの祭礼のなかに東西の文化圏が同居していることこそ、掛塚まつりの性格をよく表している。
もっとも、「京風」という評価は、音楽様式の系統を厳密に同定した結論というより、囃子の優雅さや格調に対する地域の感受と、湊町の上方交易の記憶とが結びついて語られてきた性格をもつ。したがってこの評価は、確度としては通説ないし地域の伝承の層に置いて扱うのが穏当である。囃子の系統を厳密に論じるには、曲節・楽器編成・伝承経路の比較という別の作業が要る。ただし、「京風」という評価が生まれ、語り継がれてきたこと自体が、掛塚の人々が自らの祭礼を上方文化と結びつけて理解してきた事実を示す資料として読める。
囃子の曲目には、馬囃子・神楽囃子・本囃子・入船囃子・出船囃子・大場囃子・公家囃子・道中囃子など、場面に応じて使い分けられる複数の曲がある。とりわけ「入船」「出船」という曲名は、湊を出入りする船の情景を思わせ、掛塚が廻船の湊町として栄えた記憶を音のなかに刻んでいる。祭礼の音楽が、その土地の生業と直結した名をもつという事実は、掛塚まつりが海と湊に生きた共同体の祭りであったことを、屋台の彫刻とはまた別の水準で証している。県指定という有形の裏づけをもつこの囃子については、掛塚祭屋台囃子の文化財ページに指定情報が整理されている。
7. 遠州屋台文化への波及 ── 源流論の再検討
掛塚で完成された総漆塗り・彫刻付きの屋台様式は、遠州各地の祭礼屋台の模範となり、遠州地方全体の祭り文化を牽引する源流となった、としばしば語られる。実際、浜松まつりの御殿屋台や、袋井・森町の祭り屋台の設計に、掛塚屋台が与えた影響は大きいとされる。掛塚を遠州屋台文化の「源流」とみるこの理解は、掛塚まつりの歴史的意義を語るうえで重要な位置を占めてきた。
この源流論には十分な蓋然性がある。掛塚が近世に廻船の富を背景として早くから豪華屋台を発達させ、その様式が周辺へ伝播したという筋立ては、経済的先行性と様式の完成度から見て無理がない。ただし郷土史の記述としては、「源流」という語を一方向の伝播として固定しすぎないよう留保しておきたい。屋台様式の伝播は、たいてい一方が他方を単純に模倣する関係ではなく、職人の移動、注文者どうしの見聞、部材や図案のやり取りを通じた相互の影響として進む。掛塚が周辺へ与えた影響が大きかったとしても、掛塚もまた名古屋・京といった外部の職人文化を取り込んで自らの様式を形づくったのであり、影響は双方向であったとみるのが実態に近い。
比較の対象として示唆的なのは、同じ竜洋・福田の海辺の町に伝わる屋台祭礼である。福田まつりと華麗な中泉式屋台もまた、海を介して届いた彫刻美術と囃子を核とする祭礼であり、掛塚とは様式を異にしながらも、海辺の湊町・在郷町が屋台に富と誇りを注いだという点で共通の背景をもつ。掛塚を「源流」として周辺を「派生」と序列化するのではなく、遠州の海辺・河口の町々が、それぞれの交易圏を通じて職人文化を取り込み、競い合いながら屋台文化を発達させた、その相互連関の網のなかに掛塚を位置づけるほうが、地域史としては豊かな像を結ぶ。
源流論をめぐるこの留保は、掛塚まつりの価値をいささかも損なわない。むしろ、掛塚が外部の一流の職人技を積極的に取り込み、それを湊町の富と町内の競争心のもとで極限まで高め、その完成度ゆえに周辺の手本となった、という双方向の過程こそが、掛塚まつりの歴史的な達成である。「源流」という語は、その達成を称える表現として保持しつつ、伝播の実態は相互影響として理解する──この二重の視点が、屋台文化の歴史を精確に描く鍵となる。
8. 結論 ── 湊町がはぐくんだ重層的な祭礼文化
本稿は、掛塚まつりを「廻船問屋の繁栄が育てた祭礼文化」として理解する通説を、史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けして検証した。得られた見取り図は次のとおりである。貴船神社が1648年(慶安元年)に徳川家光から朱印地8石を受けたことと、掛塚祭屋台囃子が1970年(昭和45年)に静岡県指定無形民俗文化財となったことは、文書・行政記録に基づく史実である。これに対し、神社の創立や社殿再建の年紀、現存最古屋台を1798年(寛政10年)とする年紀、祭りの起源を中世に遡らせる説明は、社伝や地域の伝えに立脚する伝承ないし推定であって、確度を一段落として扱う必要がある。
屋台の彫刻については、諏訪立川流によるとする説と名古屋の御用彫師によるとする説が併存する。本稿は両説を排他的に裁定せず、9台の屋台が町内・時期ごとに別の職人へ発注された事実を踏まえ、二つの彫刻系譜が屋台群のなかに併存した合作の集積とみる立場をとった。囃子については、京風・公家囃子という評価を通説・伝承の層に位置づけつつ、それが掛塚の上方交易の記憶と結びついて語られてきたことを重くみた。屋台の造形が江戸・名古屋という東側の職人文化を、囃子が上方・京という西側の文化を映すという東西の同居こそ、廻船の湊町・掛塚の祭礼を性格づけている。
したがって本稿の立場は明確である。掛塚まつりは、単一の起源や単一の系譜へ還元できる祭礼ではなく、廻船問屋の富という母体のもとに、屋台・彫刻・囃子という由来を異にする文化要素が束ねられた重層的な祭礼として記述されるべきである。「富が育てた祭り」という一句は正しいが、その富がどの要素を、いつ、どの文化圏から取り込んで束ねたのかを腑分けして初めて、掛塚まつりの歴史的な厚みが見えてくる。史実は史実として、伝承は伝承として、推定は推定として、それぞれの位置を保ったまま書き留めること──この手続きが、祭礼を後世の調べものに耐える形で残す方途である。
最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、現存最古屋台を1798年とする年紀の一次的根拠、および各屋台の製作・修理の年代は、屋台の部材銘や町内文書の博捜によって、推定を史実へ押し上げられる余地がある。第二に、彫刻の作者比定は、屋台ごとの作者銘・注文文書を照合することで、立川流系と名古屋系の分布をより精確に描きうる。第三に、囃子の「京風」という評価は、曲節・伝承経路の比較を通じて、感受の水準の通説から様式論としての検証へ進める余地がある。これらはいずれも、本稿が設定した四層の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。廻船の富が姿を消して久しい現在も、屋台と囃子という有形・無形の文化財は、湊町・掛塚の記憶を次の世代へ手渡し続けている。その記憶を確度の層を保ったまま書き留めることが、本論考シリーズの続く課題である。
注
- 1648年(慶安元年)10月24日、徳川家光より貴船神社へ朱印地8石が寄進された。将軍朱印状は幕府の公式文書であり、社伝・口碑とは資料の性格を異にする史実として扱う。↩
- 現存する屋台のうち最も古いものは寛政10年(1798年)に遡ると伝えられる。年紀の一次的根拠(部材の墨書・修理銘・町内文書等)は本稿では未確認であり、近世後期の富の蓄積と整合する推定として扱う。↩
- 立川流は立川和四郎冨昌(1744〜1807年)を祖とする信州諏訪の彫刻一門。江戸で技術を学んだのち諏訪で独立し、19世紀前半に全国へ名声を広めた。豊川稲荷・飛騨高山の屋台彫刻などにも作風を残す。↩
- 掛塚祭屋台囃子は1970年(昭和45年)6月2日に静岡県指定無形民俗文化財に指定された。指定名称・指定日は公的な文化財記録による。↩
- 掛塚の京風・公家囃子の趣は、隣接する大須賀町三社祭礼囃子の江戸風の趣としばしば対比される。この対比は、掛塚の廻船問屋が上方とも太いつながりをもっていたことをうかがわせるが、音楽様式の厳密な系統同定とは水準を異にする。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 r002 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、1648年の朱印地寄進および1970年の囃子県指定を史実、貴船神社の創立・社殿再建・現存最古屋台の年紀を伝承ないし推定として扱った。
参考文献・参考資料
- 『竜洋町史』通史編・史料編(竜洋町、該当章)。
- 『遠州掛塚港の廻船史』(掛塚湊の廻船経済に関する郷土資料)。
- 『天竜川河口域の歴史と民俗』(天竜川下流域の地域史・民俗誌)。
- 『遠州の屋台と祭り文化の歴史』(遠州屋台様式と伝播に関する概説)。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
- 貴船神社(磐田市掛塚)由緒書・社蔵資料。
- 佐口行正氏所蔵史料。
- 磐田市公式ウェブサイト「掛塚祭屋台囃子」文化財ページ https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 静岡県「しずおか文化財ナビ」掛塚祭屋台囃子の項 https://www.pref.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 「遠州掛塚貴船神社例祭」ウィキペディア日本語版 https://ja.wikipedia.org/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 「貴船神社(磐田市)」ウィキペディア日本語版 https://ja.wikipedia.org/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 立川流彫刻研究所「立川流とは」「概論」関連ページ https://tatekawaryu.com/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 r002「掛塚まつりと遠州屈指の豪華屋台 ── 廻船文化が育んだ彫刻美術の粋」 https://iwata-monogatari.net/r002 (最終閲覧:2026年7月25日)。