失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語 / 銚子塚古墳と、遠江を治めた王の眠り
古代の磐田 | 古墳と豪族の記憶

銚子塚古墳と、
遠江を治めた王の眠り

天竜川を見おろす磐田原の台地に、こんもりとした大きな丘がある。銚子塚古墳である。今からおよそ1600年前、国府が置かれるよりもさらに古い時代に、この一帯を治めた豪族が葬られた墓だ。文字の記録すらない時代の磐田に、これほどの墓を築かせる力をもった「王」がいた。その事実そのものが、まちの始まりの古さを物語っている。
後円部 前方部 全長 約110メートル(県内第3位の規模) 横から見た形が酒器の「銚子」に似ることが名の由来とされる
銚子塚古墳は、円い後円部と、ばち形に広がる前方部をもつ前方後円墳。全長約110メートルは、静岡県内でも第3位の規模にあたる。(形状をもとにした模式図)

磐田のまちの北西、寺谷というあたり。天竜川にのぞむ磐田原台地の西のへりに、銚子塚古墳はある。木におおわれた、ゆるやかな丘。何気なく見れば、ただの小山だが、これは自然の地形ではない。人の手で、土を盛り上げて築かれた、巨大な墓である。前方後円墳――鍵穴のような形をした、古代の王の墓だ。

台地の西の縁は、その下を流れる天竜川に向かって、すとんと落ちこんでいる。古墳は、まさにその縁にのぞむように据えられた。川を上り下りする人の目にも、麓に暮らす人々の目にも、台地の上の大きな墳丘は、よく見えたにちがいない。墓は、ただ亡き人を葬るためだけのものではなかった。「ここに、これほどの墓を築かせる力をもった者がいる」――そのことを、生きている者たちに示し、見せつけるための、いわばモニュメントでもあったのである。だからこそ、見晴らしのきく台地の縁が、わざわざ選ばれた。

磐田原に眠る、大きな墓

銚子塚古墳の全長は、およそ110メートル(墳丘長は108メートルと計測されている)におよぶ。これは、静岡県内に数ある古墳のなかでも、第3位という大きさである。円い部分(後円部)と、ばちのように広がる部分(前方部)が、一体となった前方後円墳の形をしている。「銚子塚」という名は、この古墳を横から見た形が、酒をそそぐ器の「銚子」に似ていることに由来すると伝えられる。土地の人が、その姿に名をつけた。素朴だが、なんとも親しみのこもった呼び名である。

その大きさを、もう少しこまかく見てみよう。円い後円部は、直径がおよそ60メートル、高さはおよそ8メートル。一方、ばち形に開く前方部は、長さがおよそ80メートル、高さはおよそ4.5メートルとされる。後円部のほうがぐっと高く盛り上がり、前方部は低く平たく伸びる――この、前のほうが低く狭い姿は、古墳時代でも早い段階の前方後円墳によく見られる特徴である。墳丘のまわりには、幅およそ10メートルの濠(周濠)がめぐらされ、外側には土塁の一部も残るという。8メートルといえば、2階建ての家の屋根を越えるほどの高さである。それだけの土を、人の手だけで運び、突き固めて築き上げたのだと思うと、あらためてその労力の大きさに圧倒される。

この古墳が築かれたのは、古墳時代前期、4世紀の後半ごろと推定されている。今からおよそ1600年前。聖武天皇が国分寺を建てた奈良時代よりも、さらに400年ほどもさかのぼる、はるかに古い時代である。文字による記録がほとんど残っていない時代だ。だからこそ、こうして地上に残された巨大な墓そのものが、その時代を知るための、何より雄弁な手がかりになる。なお、この銚子塚古墳の墳丘には、後の時代の大型古墳によく見られる葺石(ふきいし/墳丘の斜面をおおう石)や、埴輪が認められていない。そうした特徴も、これがかなり古い時期の古墳であることを物語っていると考えられている。

これを築かせた「王」がいた

これほど大きな墓を築くには、たいへんな労力がいる。大勢の人々を動員し、長い時間をかけて土を盛り、形を整える。それを成し遂げさせる力をもった人物――つまり、この一帯を治めていた豪族の首長が、ここに葬られていると考えられている。いわば、古代の磐田の「王」である。これだけの規模の墳丘を完成させるには、土を掘り、運び、突き固める作業に、のべ何万人もの手間がかかったとみてよい。それは、田畑を耕す日々の暮らしの合間に、近隣の人々を束ねて働かせることのできる、強い指導力があってはじめて可能になることだった。墓の大きさは、そのまま、葬られた首長の力の大きさを映している。

その力のほどは、墓から出土したものからも、うかがい知ることができる。明治13年(1880年)、後円部が掘り返された際には、銅鏡や、巴形の銅器、銅の鏃(やじり)などが見つかったと伝えられている。出土したと伝わる銅鏡は、三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)と呼ばれる種類のもので、直径はおよそ17センチ。縁の断面が三角形をなし、背面に神仙や霊獣の姿をあらわした、古墳時代前期を代表する鏡である。あわせて巴形銅器が1点、銅の鏃が2点、見つかったと伝えられている。

この三角縁神獣鏡という鏡は、ただの装飾品ではない。古墳時代の前期、大和(ヤマト)の政権が、各地の有力な首長たちへと配り与えたとされる、いわば「結びつきの証」だったと考えられている。同じ型から作られた鏡が、遠く離れた各地の古墳から見つかることがあり、それらは、ヤマトを中心とした政治的なつながりのネットワークを物語る資料として注目されてきた。つまり、この磐田の王が手にしていた鏡は、彼が遠くヤマトの中央政権とつながりをもつ、れっきとした有力者だったことを示している。天竜川流域という交通の要衝――海と山を結び、東西の道が行き交う場所――を押さえ、大きな力をふるった首長の姿が、一枚の鏡を通して浮かびあがってくる。

そして、この銚子塚古墳のすぐ近く、後円部から十数メートルほど北西に離れた場所には、小銚子塚古墳という、もう一つの古墳が寄りそっている。こちらは全長約46メートルの「前方後方墳」――前方後円墳とは違い、後ろの部分(後方部)も四角い形をした、めずらしいタイプの古墳である。二つの四角い塚を重ねたような姿、と説明されることもある。この前方後方墳という形式は、静岡県内ではわずか5例しか知られておらず、なかでも小銚子塚古墳は、その規模で県内第2位にあたる貴重なものだという。前方後方墳は、前方後円墳とともに古墳時代の早い段階に各地で築かれた形式で、二つの形が隣りあって残っていること自体が、この地の古さと、首長の系譜の厚みを感じさせる。

さらに、この一帯には全部で10基ほどの古墳が点在し、「銚子塚古墳群」を形づくっている。一人の王だけでなく、その一族や、後を継ぐ者たちが、代々この台地に葬られていったのだろう。一つの大きな墓が、ぽつんと孤立して残っているのではない。代を重ねて葬りを続けるだけの、安定した首長の系譜が、この磐田原に確かに存在したということである。銚子塚・小銚子塚の2基は、昭和31年(1956年)11月に国の史跡に指定され、のちの昭和54年(1979年)には、その範囲が追加して指定された。なお、後円部は明治期に掘り返されて以来、本格的な発掘調査は行われておらず、内部の埋葬施設の様子など、まだ多くが土の下に眠ったままである。

全長110メートルの墳丘を築くということ 土を掘る 周濠を掘り、土をとる 運ぶ 人の手で墳丘の位置まで 突き固める 盛って形を整える のべ何万人もの手間がかかったとみてよい作業である それを成り立たせた力 首長 日々の田畑の仕事とは別に、大勢の人々を長く動員できる力があった この一帯を治めた 豪族の首長=古代の「王」 後円部は明治期に掘り返されて以来 本格的な発掘調査は行われていない
墳丘の築造に必要だった作業と、それを支えた人の動員を整理した模式図(独自作成)。工程と人数の関係は規模を実感するための図式であり、実際の工法や動員数を復元したものではない。

国府よりも、古い始まり

これまで磐田物語では、奈良時代の国分寺や国府、平安の総社など、古代磐田の中心をたどってきた。遠江国分寺が建てられたのは8世紀のなかば。国の役所である国府が置かれたのも、ほぼ同じころのことである。だが、この銚子塚古墳は、それらよりもさらに400年ほども古い時代の磐田を、私たちに教えてくれる。国の役所が置かれるよりずっと前、4世紀の磐田原には、すでに大きな力をもった豪族がいて、人々を率いて暮らしていた。

そして、これはおそらく偶然ではない。のちに国分寺や国府が置かれた一帯と、この古墳が築かれた磐田原台地は、同じ大地の上にある。古墳時代から、この台地には人が集まり、力が育まれていた。その積み重ねがあったからこそ、何百年ものちに、ヤマトの朝廷がこの地を遠江国の中心として選んだのだとも考えられる。まちの中心が、ある日とつぜん天から降ってきたわけではない。古墳の時代から国府の時代へと、人の営みは途切れることなく続き、その長い助走の果てに、磐田は遠江の表玄関となっていったのである。

磐田というまちには、900基を超える古墳が点在するといわれる。それだけ多くの古墳があるということは、それだけ古くから、この地が栄えていたということにほかならない。銚子塚古墳は、その数ある古墳のなかでも、とびきり大きく、とびきり古い。いわば、磐田の古墳のなかの古墳――まちの始まりの、いちばん深いところに横たわる記憶なのである。

磐田の「始まり」をさかのぼる 時代が下る 4世紀 銚子塚古墳 磐田原を治めた王の墓 8世紀なかば 遠江国分寺・国府 国の役所と官寺が置かれる およそ400年の隔たり 国の役所が置かれるずっと前、すでに大きな力をもった豪族が人々を率いて暮らしていた 銚子塚古墳は、磐田の始まりのいちばん深いところに横たわる記憶である
銚子塚古墳と遠江国分寺・国府のあいだの時間の隔たりを示した図(独自作成)。年代はいずれもおおよその時期であり、目盛りは正確な縮尺ではない。

次の世代へ、手渡したいもの

銚子塚古墳は、ただの古い丘なのではない。ここは、文字の記録もない遠い時代に、磐田の地を治めた王が眠る墓である。大和とつながり、この一帯に大きな力をふるった人物が、たしかにいた。その証が、1600年の時を越えて、磐田原の台地に、確かな形をとどめている。

古墳は、ともすれば、ただの「山」として見過ごされてしまう。木が茂り、草におおわれ、いつしか自然の地形のように見えてくる。けれど、これが人の手で築かれた王の墓であり、まちの始まりの証だと知っていれば、その丘は、まったく違う重みをもって目に映る。残すべきは、丘そのものだけではない。「ここに古代の王が眠っている」という記憶もまた、受け継ぐべきものなのである。

磐田原の古墳のそばを通るとき、子どもにひとこと伝えてみる。「あの丘はね、1600年も前の、磐田の王さまのお墓なんだよ」と。なんでもない小山が、急に、はるかな時間の入り口に見えてくる。次の世代へ残したいのは、そうやって「足もとに眠る、まちのいちばん古い記憶」へと、心を向けるまなざしなのだと思う。

主な参考

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。