失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語 / 城之崎城が完成していた場合の歴史IF
歴史IF | 見付・中泉

城之崎城が完成していた場合の歴史IF ──
思考実験としての磐田

ここまで「見付に残る幻の城」特集(m055m061)、および既稿では、城之崎城がなぜ未完に終わり、家康がなぜ浜松へ本拠を移したのかという史実を、確認できる範囲で丁寧にたどってきた。この記事だけは性格が異なる。もし城之崎城が完成し、家康が見付を本拠とし続けていたら――という、あくまで思考実験(歴史IF)である。史実の記事と混同しないよう、以下は明確に「もしも」の話として読んでいただきたい。
この記事の位置づけ
本稿は史実の記録ではなく、既存記事群でたどった確認済みの事実(天竜川を挟む退却リスク、浜松の地政学的優位性、姫街道による北方展開のしやすさ等)を土台にした「もしも」の思考実験である。実際に起きたことではなく、起きたかもしれないことを考える読み物として楽しんでいただきたい。

もしも見付が本拠であり続けたら

既稿で確認したとおり、家康が見付から浜松へ移った最大の理由は、天竜川を挟んでの退却リスクと、織田信長方からの援軍を受けにくいという地政学的な弱点にあった。もし城之崎城が完成し、家康がこの弱点を別の手段(たとえば天竜川の渡河点を強化する、あるいは信長との連携ルートを別に確保するなど)で補えていたとすれば、見付は遠江支配の本拠であり続けた可能性がある。

その場合、磐田原台地の南端という見付の立地は、東海道の宿場町としての性格に加え、戦国大名の城下町としての性格を帯びていたかもしれない。現在の見付宿・淡海國玉神社・旧見付学校といった史跡群の周辺に、城下町特有の武家屋敷地・町人地の区割りが加わっていた可能性も考えられる。

浜松が「出世城」にならなかったとしたら。 浜松城は、家康が天下人への道を歩み始めた「出世城」として、後世に強く記憶されることになる。もし城之崎城が本拠であり続けていたなら、この「出世城」としての物語は、浜松ではなく見付・城之崎城に付与されていたかもしれない。三方ヶ原の戦いや一言坂の戦いといった対武田戦の記憶も、浜松ではなく見付を舞台としたものとして語られていた可能性がある。現在、浜松市が「家康公ゆかりの地」として観光・文化の核に据えている物語の重心が、そのまま磐田市に移っていた――という想像は、興味深い切り口である。

IFの前提を疑う ── 陣城説が変える問い。 もっとも、この思考実験には前提そのものを揺るがす異説がある。既稿の増補で紹介したとおり、浜松藩側の編纂物『浜松御在城記』は、見付の城はそもそも掛川城攻めのための臨時の陣城であって、本拠として築かれたものではないとする(陣城説)。もしこの説に立つなら、「城之崎城が完成していたら見付が本拠になっていた」というIFは、出発点から成り立たないことになる。「未完の本拠」か「役目を終えた陣城」か ── どちらの過去を選ぶかで、見付という土地の「もしも」の幅は大きく変わる。歴史IFは、じつは「史実をどう解釈するか」という学説の選択と地続きなのである。

実例と比べる ── 本拠を動かす大名、動かさない大名。 戦国大名の本拠には、二つの型があった。小田原の北条氏や甲府の武田氏のように、本拠を固定して支城の網で領国を覆う型と、織田信長のように清須から小牧山、岐阜、安土へと、勢力の拡大に合わせて本拠そのものを動かしていく型である。家康は明らかに後者だった。岡崎から浜松へ、浜松から駿府へ、そして江戸へ ── 家康は生涯に本拠を三度動かしている。この行動様式を踏まえると、仮に城之崎城が完成して見付が一時の本拠になっていたとしても、領国が駿河へ、関東へと広がる局面で、見付が本拠であり続けた可能性は高くない。「もしも」の見付は、恒久の首府ではなく、浜松がそうであったような「ある時期の本拠」だった、と考えるのが現実的な線であろう。

「歴史IF」を考える意味

実際には起きなかったことをあえて考える「歴史IF」という思考法は、単なる空想遊びではない。ある出来事が「なぜそうなったか」を理解するために、「もしそうならなかったら何が変わったか」を考えることは、史実の因果関係をより明確にする手がかりになる。城之崎城が未完に終わり、浜松への移転が起きたという史実の重みは、「もし違っていたら」を考えることで、かえって際立って見えてくる。磐田・見付が「幻の城」として記憶し続けているのも、この「もしも」の余地があるからこそだといえるだろう。

それでも動かない条件。 ただし、この思考実験にも限界がある。既稿で確認したように、浜松は西に浜名湖・東に天竜川・北に赤石山脈という天然の要害に恵まれ、海運・陸運の結節点という、見付にはない地理的条件を備えていた。仮に城之崎城が完成していたとしても、武田氏との対峙が長期化するなかで、より軍事的に有利な浜松への移転が、いずれ検討された可能性は高い。地形そのものが持つ優位性は、一つの城の完成・未完成では覆らない、より大きな条件だったといえる。

この記事の性格について
本稿で述べた内容は、史実の記録ではなく、既存記事で確認した事実にもとづく推測・思考実験である。「見付が本拠であり続けた場合にどうなったか」を断定するものではなく、地域の歴史をより立体的に考えるための読み物として位置づけている。

城下町にならなかったことで、残ったもの。 最後に、視点を裏返してみたい。見付が城下町にならなかったことは、失われた可能性であると同時に、残された遺産でもある。城下町建設は、多くの場合、既存の町割りの大規模な改変を伴う。見付が戦国大名の本拠にならなかったからこそ、旧家・屋号の家並み寺町の配置に見るような、国府以来・宿場以来の町の骨格が、大きく壊されずに現代まで伝わった、という見方ができる。「幻の城」の物語は喪失の物語として語られがちだが、いま見付の路地を歩いて中世や近世の輪郭をたどれること自体が、城が来なかったことの、静かな贈り物なのかもしれない。

磐田の側から見た「もしも」の価値。 浜松市が「出世の街」「家康公ゆかりの地」として発信する物語は、磐田市民の視点から見れば、「かつて磐田(見付)が背負っていたかもしれない役割」でもある。本特集(m055〜m061)がたどってきたように、城之崎城の伝承は、地域の人々が「なぜ我らの土地は天下人の城にならなかったのか」という問いを、幾世代にもわたって語り継いできた証でもある。歴史IFという形でこの問いに向き合うことは、磐田という土地が実際に歩んだ歴史(東海道の宿場町、天領支配の中泉、近代の学都)の価値を、否定するものではなく、むしろ別の角度から照らし出すものだと言える。

前提となる史実天竜川を挟む退却リスク、信長の助言、浜松の地政学的優位性(既稿m058・m116で確認済み)。
IF1: 見付が本拠であり続けたら見付が城下町的性格を帯びた可能性(思考実験)。
IF2: 浜松が本拠にならなかったら「出世城」の物語の重心が磐田に移っていた可能性(思考実験)。
動かない条件浜松の地理的優位性は城の完成・未完成に関わらず存在し、いずれ移転が検討された可能性が高い。

主な参考資料

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。