失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 万葉集の遠江歌と「大の浦」

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第3号(遠江万葉歌研究 一)

万葉集の遠江歌と「大の浦」 ── 桜井王の歌の比定

「大の浦」の所在をめぐる諸説と地名比定の方法

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市(市域)

要旨

『万葉集』巻8には、遠江守として国府に赴任した桜井王が都へ奉った一首と、聖武天皇がそれに答えた一首が収められている。返歌に詠み込まれた「大の浦」は、古来、遠江国の海辺の地名と注されながら、その所在は未詳とされてきた。本稿は、この「大の浦」の比定をめぐる諸説──所在を確定しない注釈書の通説、磐田原台地の東から南に広がった入り江「大之浦」にあてる説、太田川河口部や福田海岸など特定の海浜に求める見方──を、史実・通説・推定・伝承の四つの確度層に腑分けして比較する。あわせて、地名遡及・地形考古・歌枕論という万葉地名比定の三つの方法と、そのそれぞれが抱える限界を論じる。奈良時代の「大の浦」の名を直接記した同時代の史料は、本稿の調査範囲では確認できていない。この「未確認」と「記載なし」の区別を保ちつつ、本稿は比定の断定を退け、諸説を対等に併記する立場をとる。

キーワード:万葉集/遠江国/桜井王/聖武天皇/大の浦/地名比定/歌枕

1. 問題設定 ── なぜ「大の浦」の所在は定まらないのか

『万葉集』巻8に、遠江守桜井王(さくらいのおおきみ)が聖武天皇に奉った歌と、天皇がそれに答えた返歌とが、続けて収められている1。天皇の返歌には「大の浦(おほのうら)のその長浜に寄する波」という一句があり、この「大の浦」は古くから遠江国の海辺の地名と注されてきた。ところが、その具体的な所在となると、古典の注釈書の多くは「未詳」と記すにとどまる。歌そのものは原典で確認できるのに、そこに詠まれた地名がどこを指すのかは定まらない──本稿の出発点は、この落差にある。

この地名が磐田にとって特別な意味をもつのは、遠江国府が置かれた地が現在の磐田市中心部と考えられており、そこへ赴任した遠江守の歌に対する返歌に「大の浦」が現れるからである。しかも磐田市域には、近世まで「大之浦(おおのうら)」と呼ばれた入り江・潟湖の記憶があり、古代の磐田原台地の東から南にかけて広大な水面が広がっていたことが、地形と考古の両面から推定されている。歌の言葉と土地の名が同じ音で響き合うこの一致を、偶然とみるか、根拠あるものとみるかで、「大の浦」の読み方は大きく分かれる。

本稿がとる姿勢は、どの比定地が正しいかを裁定することではない。むしろ、各説がどのような資料に支えられ、どの程度の確からしさをもつのかを腑分けし、読者が自分で判断できる材料として提示することを課題とする。地名比定は、ともすれば郷土への愛着が実証を追い越し、確度の低い遡及を史実のように語ってしまう領域である。逆に、実証を厳格に構えるあまり、土地に伝わる地名の記憶を根拠薄弱として切り捨てる態度もまた、別種の偏りを生む。本稿は、そのいずれの過ちも避けるために、確度の異なる情報を同じ平面で混同しないための枠組みをまず設定する。

ここで用いる四つの層を、あらかじめ定義しておく。第一に史実、すなわち編纂物や文書など史料によって確認できる事柄。第二に通説、学界で広く支持されているが史料的に一点で確定はできない事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、地域で語り継がれてきた事柄である。桜井王の歌と天皇の返歌が『万葉集』に載ること自体は史実であるが、「大の浦」がどこかという問いは、この四層のいずれで答えるべきかがまさに争われている。四層を語の水準で書き分け、層をまたいだ断定を避けることが、以下の検討の基本姿勢となる。

あわせて、本稿では「未確認」と「記載なし」を厳密に区別する。奈良時代の「大の浦」の名を直接に一地点へ結びつけた同時代の史料は、本稿の調査範囲では確認できていない。これは「そのような史料が存在しないと断定できる」ことを意味しない。史料が現に伝わらないのか、伝わっているが筆者が把握していないのかは、それ自体が別個に検証を要する問いである。この区別を一貫して保つことが、地名比定という不確かな領域を扱ううえで欠かせない。以下ではまず遠江の万葉歌の全体を概観し、桜井王の歌の位置を確かめ、返歌と史料を押さえたうえで、比定の諸説を順に検討し、比較と方法論を経て結論に至る。

奈良の都 聖武天皇 遠江国府(磐田) 遠江守 桜井王 九月の初雁が運ぶ「使」 奉る歌(巻8・1614) 返歌 ── 大の浦の波(巻8・1615) 奈良と磐田を結んだ贈答の歌 返歌の「大の浦」が、どの土地を指すかが本稿の問いである。
図1 桜井王と聖武天皇の歌の贈答。国府から都へ初雁に託した望郷の歌に、天皇は「大の浦」の波にたとえて答えた。この地名の所在が本稿の主題である。

2. 遠江の万葉歌 ── 三つの類型と桜井王の位置

「大の浦」の検討に入る前に、桜井王の歌が『万葉集』のなかでどのような位置を占めるのかを確かめておく。『万葉集』は、7世紀後半から8世紀後半にかけての歌およそ4,500首を二十巻に収めた、日本最古の歌集である。天皇や貴族の歌にとどまらず、防人として九州へ送られた東国の民衆の歌、名も伝わらない人々の相聞や挽歌までを含む点に、この歌集の際立った幅の広さがある。編纂の最終段階に関わったのは歌人にして官人の大伴家持とされ、その視野は都の宮廷にとどまらず越中や東国の風土にまで及んだ。文字記録に乏しい古代の地方を、同時代の視線からたどれる史料は、この歌集をおいて多くない。

そのなかで遠江国にかかわる歌は、大きく三つの類型に分けられる。第一に、都から東国へ下る行幸や旅の途上で、貴族や随行の官人が詠んだ歌。第二に、遠江の国司として赴任した官人が、任地から都へ心を寄せて詠んだ歌。第三に、巻14にまとめられた東歌、すなわち東国各地の民衆のあいだで口ずさまれていた歌を編者が採録したものである。この三つは、遠江を見る視線の高さがそれぞれ異なる。行幸の歌は通り過ぎる都人が眺めた風景であり、国司の歌は数年の任期をこの地で過ごした赴任者の心であり、東歌はこの土地に生まれ暮らした人々の生活そのものの声である。

桜井王の歌は、このうち第二の類型、すなわち国司の歌に属する。行幸の歌が景を外から写し、東歌が土地の内から響くのに対し、国司の歌は「都を恋いながら任地の景に託す」という独特の二重性をもつ。赴任者は任地に身を置きながら、心は都へ向いている。だからこそ、その歌に詠み込まれた地名は、単なる叙景ではなく、都と任地とを結ぶ贈答の媒体として機能する。「大の浦」がなぜ天皇の返歌に現れたのかを考えるとき、この類型上の位置は見落とせない。地名は、赴任者の任地を天皇が思いやるための、いわば宛先の役割を担っているのである。

もう一点、類型の区別が比定の議論に効いてくる場面がある。遠江の万葉歌には、所在をめぐって古くから論争のある地名がいくつも含まれる。巻1に載る長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)の「引馬野(ひくまの)ににほふ榛原(はりはら)」の歌は、行幸の歌の類型に属し、その「引馬野」が三河国内の御津付近か、遠江の引馬(現在の浜松方面)かで説が分かれてきた。巻14の東歌には「遠江引佐細江(いなさほそえ)のみをつくし」など浜名湖周辺の地名が詠まれる。これら西部の地名と、国司の歌に現れる「大の浦」とは、類型も、詠まれた文脈も異なる。地名比定を論じるには、まずその地名がどの類型の歌に属するのかを押さえておく必要がある。

遠江 奈良時代 行幸・旅の歌 通り過ぎる都人の目 国司の歌 赴任者の望郷の目 東歌 土地に暮らす人の声 桜井王の歌 遠江を照らす三つの視線
図2 遠江の万葉歌の三類型。桜井王の歌は「国司の歌」に属し、任地の景を都へ向けて詠む二重性をもつ。「大の浦」はその贈答の宛先として機能する。

3. 桜井王の贈答歌と「大の浦」 ── 歌と史料

磐田に最も縁の深い万葉歌は、巻8に載る桜井王の一首である。詞書には「遠江守桜井王、天皇に奉る歌一首」とある。歌は「九月(ながつき)のその初雁(はつかり)の使にも思ふ心は聞こえ来ぬかも」──九月の初雁が使いとなって、あなたを思う私の心は届かないだろうか、という望郷の一首である。「使」に選ばれた初雁は、秋に北から渡ってくる雁のことで、古来、手紙を運ぶ鳥として詩歌に繰り返し詠まれてきた。中国の故事に由来するこの雁書の連想を踏まえ、桜井王は任地の秋空を渡る雁の列に、都への思いを託したのである。

作者の桜井王は、天武天皇の系譜に連なる皇族で、川内王(かわちのおおきみ)の子と伝えられる。のちに臣籍に降って大原真人(おおはらのまひと)桜井と名のった2。皇族が地方の国司を務めることは当時めずらしくなく、桜井王もその一人として遠江守に任じられた。府八幡宮の社伝は、桜井王が赴任にあたり国府の鎮守としてこの社を創建したと伝えるが、これは伝承の層に属する話であって、史料から確定できるものではない。遠江国府の所在は別稿で扱ったとおり現在の磐田市中心部と考えられており、この歌が事実として任地で詠まれたのであれば、磐田の国府の空の下で生まれた歌ということになる。

この奉呈歌に対して、聖武天皇が答えた歌が続けて収められている。「大の浦のその長浜に寄する波ゆたけく君を思ふこのころ」──大の浦の長い浜辺に寄せる波のように、ゆったりと豊かにあなたを思っている、という返歌である。相聞歌において、寄せては返す波はしばしば絶えることのない思慕のたとえに用いられる。桜井王が「初雁の使にも届かないか」と控えめに問うたのに対し、天皇は「大の浦に寄せる波のように豊かにあなたを思う」と、ゆたかな海の景で応えた。臣下の遠慮がちな望郷を、君主が海のおおらかさで包み返すという、贈答の呼吸がここにある。

ここで史料の性格を確認しておきたい。原典によって確実に言えるのは、「遠江守桜井王」という肩書きをもつ人物の奉呈歌が『万葉集』巻8に載り、それに対する聖武天皇の返歌が続けて収められている、という一点である。この贈答が実際にいつ、どこで交わされたのか、桜井王が遠江守であった具体的な年次はいつか、といった点までは、歌と詞書からは一義に定まらない。まして、返歌の「大の浦」が天皇の実見に基づく地名なのか、それとも遠江守の任地にちなんで選ばれた海辺の景なのかは、歌の文面だけからは判断できない。歌が原典で確認できることと、そこに詠まれた地名の所在が確認できることとは、別の事柄である。

この区別は、比定論の全体を貫く前提となる。返歌に地名が詠み込まれていること自体は、相聞の作法に照らせば、必ずしもその地名が実在の一地点を正確に指すことを意味しない。天皇が遠江守という相手の任地にちなむ「海辺の景」を、歌の題材となる地名として借りた、という読みも十分に成り立つ。逆に、任地の近くに実在の「大の浦」があり、天皇がそれを承知のうえで詠み込んだ、という読みも否定はできない。歌の解釈と地名の比定とは、しばしば互いに前提を貸し合う関係にあり、その循環をどこで断つかが、各説の分かれ目となる。

4. 「大の浦」比定の諸説

「大の浦」の所在については、大きく分けて三つの立場が存在する。所在を確定しない注釈書の通説(説A)、磐田原台地の東から南に広がった入り江「大之浦」全体にあてる説(説B)、そして入り江のなかでも太田川河口部や福田海岸など特定の海浜に求める見方(説C)である。以下、各説を確度の層を明示しながら順に検討する。いずれも現行の比定を確定する一次史料を欠く点は共通しており、その限界のうえで、どの資料層に立脚するかが説を分ける。

説A・注釈書の通説

所在未詳とする立場

説の骨子。古典の注釈書の多くは、「大の浦」を遠江国の海岸の名としつつ、具体的な比定地は未詳とする3。この立場では、天皇が必ずしも遠江の実景を見て詠んだのではなく、遠江守という相手の任地にちなむ「海辺の景」を、歌枕として借りたにすぎないと考える。返歌に地名を詠み込むこと自体が相聞の作法であり、その地名が実在の一地点を正確に指すとは限らない、という慎重な読みである。

この説の強み。説Aは、無理な比定を避ける点で実証的に手堅い。奈良時代の「大の浦」を直接に一地点へ結ぶ同時代史料が確認できない以上、所在を空欄のままにしておくのは、史料に忠実な態度である。歌枕という概念は、地名が実景から切り離されて詩的な題材として流通する現象を的確に捉えており、相聞歌における地名の機能をよく説明する。比定を急がないことは、後世の遡及によって空欄を埋めてしまう誤りを防ぐ防波堤となる。

限界。ただし説Aは、「大の浦」がどこかという問いに積極的な答えを与えない。歌枕として借りられたにせよ、その借用がまったくの虚構の地名からなされたとは考えにくく、何らかの実在の海辺が背景にあった蓋然性は残る。所在未詳という結論は、比定の断念であって、地名の実体そのものの否定ではない。この点で説Aは、以下の説B・説Cが提示する具体的な候補地を、頭から退けるものではない。

説B・磐田入り江説

磐田原台地の入り江「大之浦」にあてる説

説の骨子。磐田市域には近世まで「大之浦」の地名や伝承が残り、古代には磐田原台地の東から南にかけて、今之浦・太田川下流の低地に大きな入り江・潟湖が広がっていたことが、地形と考古の両面から推定されている4。遠江守が赴任した国府は、まさにこの入り江を望む台地の縁にあった。とすれば、天皇が遠江守への返歌に、その任地からよく見える入り江の名を選んで詠み込んだと考えるのは自然である──というのがこの説の骨子である。古墳と川・海・道兜塚古墳で扱われた古代磐田の地形環境が、この説の背景をなす。

この説の強み。歌の贈答という文脈と、国府と入り江が近接するという地理が、きれいに整合する点に説Bの魅力がある。国司の歌が任地の景を都へ向けて詠むという類型上の性格(第2節)に照らせば、返歌の地名が任地の目立つ景観を指すという読みは、無理がない。近世まで「大之浦」の名が土地に残っていたという事実は、この地に「オホノウラ」と呼ばれる水面が長く存在したことの、少なくとも間接的な証言となる。

限界。弱点は、奈良時代の「大の浦」という名を直接記した同時代の史料がなく、近世まで下る地名からの遡及にとどまる点である。地名は時代とともに移動し、範囲を変え、あるいは後世に付け直されることもある。近世の「大之浦」と万葉の「大の浦」が同一の水面を指すという保証は、音の一致以外には乏しい。この遡及の飛躍をどう評価するかが、説Bの成否を分ける。

説C・特定海浜説

太田川河口部・福田海岸など特定の海浜に求める見方

説の骨子。説Bが入り江全体を「大の浦」とみるのに対し、返歌の「長浜(ながはま)に寄する波」という表現を重くみて、遠州灘に面した特定の海浜──太田川河口部や、現在の磐田市南部の福田(ふくで)海岸のあたり──に「大の浦」を求める見方もある。「長浜」という語は、遠浅の砂浜が長く続く景を思わせ、入り江の内水よりも、外海に面した砂浜のほうがふさわしいとする読みである。太田川は磐田原台地の東を南流して遠州灘に注ぐ川であり、その河口部は古代の潟湖と外海とが接する要地であった。

この説の強み。説Cは、返歌の語句そのものに比定の手がかりを求める点で、歌の文面に忠実である。「長浜」「寄する波」という語は、静かな入り江よりも、波の寄せる外海の浜をより素直に喚起する。太田川河口・福田海岸は、いずれも国府から見て入り江の先、遠州灘への出口にあたり、古代の水運や漁撈の場としても意味をもったと推定される。入り江説と外海説は排他的というより、同じ「大之浦」水系の内水と外浜という、視点の違いとして整理することもできる。

限界。もっとも、説Cもまた奈良時代の直接史料を欠く点では説Bと同断である。「長浜」を外海の砂浜と読むか、入り江の長い汀と読むかは、語釈の問題であって、それ自体が特定の海浜を確定する根拠にはならない。福田・太田川河口という具体地名の比定は、近世以降の地名や地形からの遡及に多くを負っており、万葉の一句から一地点を導く推論の鎖は長い。本稿は説Cを、説Bの内部を精密化しようとする推定として位置づけ、独立の確定説とはみなさない。

遠州灘 天竜川 磐田原台地 大之浦 (入り江・潟湖)=説B 遠江国府 太田川河口・福田海岸=説C ※ 海岸線・入り江の範囲は古代の推定。現在は埋積・干拓で陸化している。
図3 古代の磐田原台地と大之浦(推定)。国府は入り江を望む台地の縁にあった。説Bは入り江全体を、説Cは太田川河口・福田海岸を「大の浦」に求める。海岸線・入り江の範囲は古代の推定である。

5. 諸説の比較と史料批判

ここまで見た三説は、しばしば「どれが本当か」という択一の問いのもとに並べられる。しかし各説は、依拠する資料の性格と、比定の粒度が異なる。説Aは注釈書の実証的態度に、説Bは近世地名と地形考古に、説Cはさらに歌の語釈を加えた推論に、それぞれ基盤を置く。以下の比較表は、各説をその立場・比定地・依拠資料・留意点において対等の粒度で並べ、確度の水準を可視化することを目的とする。特定の説を優位に置く書式を避け、各行の情報量をそろえることで、読者が自ら判断できる状態をつくることを心がけた。

表1 「大の浦」比定諸説の比較 ── 立場・比定地・依拠資料・史料批判上の留意点
立場・確度の層比定地主な依拠資料留意点(史料批判)
説A注釈書の通説/実証的保留所在未詳(比定しない)古典注釈書、歌枕論。直接史料を欠く以上は堅実。ただし積極的な答えを与えない。
説B推定/地形考古+近世地名磐田原台地東〜南の入り江「大之浦」全体近世の「大之浦」地名、今之浦・太田川下流の潟湖地形、国府近接。奈良時代の直接史料はなく、近世地名からの遡及。音の一致に多くを負う。
説C推定/語釈+地形太田川河口部・福田海岸など特定の海浜返歌の「長浜」「寄する波」の語釈、河口・海浜の地形。語釈は一地点を確定しない。具体地名は近世以降からの遡及に依存。

この比較から見えてくるのは、三説が単純に競合しているというより、比定の粒度と資料の層でずれているという事実である。説Aは比定を保留し、説Bは入り江という面を、説Cは海浜という点を指し示す。説Bと説Cは、同じ「大之浦」水系を、内水として見るか外浜として見るかの違いであって、互いに排他的とは限らない。他方、説Aは説B・説Cが提示する候補地を否定するものではなく、それらを確定できないと述べているにすぎない。三説は、比定の断念・面の比定・点の比定という、異なる解像度の像を提示しているのである。

史料批判の観点からは、いずれの説についても「奈良時代の『大の浦』の名を一地点へ直接結ぶ同時代史料は未確認である」という同一の限界が課される。この限界は三説に等しく課されるのだから、それを理由に説B・説Cだけを退けることも、逆に説Aだけを唯一の正解とすることもできない。むしろ問うべきは、各説がどの資料層に立脚し、その層の資料がどこまでを語りうるのかである。注釈書は歌の読みの伝統を、近世地名は土地の記憶の連続を、地形考古は古環境の復元を、それぞれ異なる仕方で証言する。どの資料も単独では比定を確定できず、また確定できないことをもって説の価値を否定することもできない。

ここで一つ、地名比定に特有の陥穽を指摘しておきたい。それは、音の一致が推論の出発点にも結論にもなってしまう循環である。近世の「大之浦」と万葉の「大の浦」が同じ音だから同じ場所だ、と考えると、その一致自体が比定の根拠となる。しかし音の一致は、地名の連続を示唆する手がかりではあっても、それを証明するものではない。同音の地名が各地に分布することは珍しくなく、また一つの土地の名が時代を経て別の水面へ移ることもある。説Bの遡及が説得力をもつのは、音の一致に加えて、国府近接という地理と、潟湖という古環境の復元が重なるからであって、音の一致それ単独ではない。

なお、遠江の万葉地名の比定には、「大の浦」以外にも古くからの論争がある。前述の引馬野の三河御津説と遠江浜松説の対立は、その代表である5。引馬野の論争は、行幸の行程という外的な状況証拠が比定に関与する点で「大の浦」とは条件が異なるが、直接史料を欠くなかで両説が対立し、近年は行程を重んじる三河説が有力とされるに至った経緯は、地名比定における状況証拠の重みを考えるうえで示唆に富む。「大の浦」の場合、この種の外的な行程証拠は乏しく、比定はもっぱら地名・地形・語釈という内的な手がかりに依存せざるをえない。

史実 歌が原典に載る =贈答の存在 通説 所在未詳(説A) 歌枕としての借用 推定 入り江・海浜説 説B・説C 伝承 大之浦の地名記憶 府八幡宮創建譚 確度の四段階 ── 大の浦比定の位置づけ 歌の存在は史実、所在未詳は通説、比定諸説は推定、地名記憶は伝承の層に属する。
図4 確度の四段階と「大の浦」比定の位置づけ。歌が原典に載ること(史実)と、その所在(未詳=通説/諸説=推定/地名記憶=伝承)とは、異なる層に属する。層をまたぐ断定を避けることが比定論の前提となる。

6. 万葉地名比定の方法とその限界

「大の浦」の諸説を検討してきたが、ここで一歩退いて、万葉地名の比定がそもそもどのような方法によって行われるのかを整理しておきたい。比定の手続きは、おおむね三つの経路に大別できる。第一に、後世の地名から古代の地名へさかのぼる地名遡及。第二に、地形の復元や発掘の成果によって古環境を推定し、歌の景と照らす地形考古。第三に、歌の語句や歌枕の伝統から、地名がどのような景として詠まれたかを読む歌枕論・語釈である。「大の浦」比定の三説は、この三つの経路をそれぞれ異なる比重で用いている。

第一の地名遡及は、最も直感的で、それゆえ最も陥穽の多い方法である。近世・中世の地名が古代までさかのぼる例は確かに多いが、地名は移動し、範囲を変え、後世に付け替えられ、あるいは好字によって書き換えられる。近世の「大之浦」が万葉の「大の浦」と同一だと即断することは、この方法の限界を無視することになる。遡及が有効であるためには、間の時代の史料によって地名の連続が跡づけられるか、少なくとも連続を妨げる事情のないことが確かめられねばならない。音の一致は出発点であって、証明ではない。

第二の地形考古は、近年の古地理復元や発掘調査の進展によって、比定に客観的な土台を与えるようになった。磐田原台地の東から南に潟湖が広がっていたという復元は、ボーリング資料や遺跡の立地から導かれる推定であり、歌の景と土地の実態とを突き合わせる貴重な手がかりとなる。ただし、古環境の復元が示すのは「そこに入り江があった」という事実であって、「その入り江が大の浦と呼ばれた」という命名までは語らない。地形考古は比定の必要条件を補強するが、十分条件を与えるものではない。

第三の歌枕論・語釈は、地名を実景から切り離して、詩的な題材としての機能から読む方法である。この経路をとると、「大の浦」は必ずしも実在の一地点を指さず、遠江の海辺を象徴する景として機能したと理解される。説Aの所在未詳は、この方法の帰結でもある。歌枕論は、地名比定の過剰を戒める点で有効だが、逆にすべての地名を歌枕へ還元してしまうと、実在の景を背景にもつ地名までを虚構化する危険がある。「長浜に寄する波」という具体的な景が、まったくの詩的虚構からのみ生まれたと考えるのも、また一つの偏りである。

三つの経路のあいだには、優劣ではなく役割の分担がある。地名遡及は「その名がいつまでさかのぼるか」を、地形考古は「その景が実在したか」を、歌枕論は「その名がどう詠まれたか」を、それぞれ担う。比定を誤るのは、多くの場合、一つの経路の成果を他の経路の領分にまで無断で広げるときである。潟湖が実在したという地形考古の成果を、そのまま「その潟湖が大の浦と呼ばれた」という命名の証拠に流用してしまう。あるいは、近世に「大之浦」の名があったという遡及の成果を、そのまま奈良時代の命名の証拠と取り違えてしまう。経路の境界を守り、各経路が語りうる範囲を超えて結論を先取りしないことが、地名比定の作法の要である。

これら三つの経路は、単独では比定を確定できない。地名遡及は連続の証明を欠き、地形考古は命名を語らず、歌枕論は実景を消しうる。比定が説得力をもつのは、三つの経路が同じ一点で交わるときである。「大の浦」の場合、近世の「大之浦」地名(遡及)、潟湖の古環境(地形考古)、国府に赴任した遠江守への返歌という文脈(語釈)が、磐田の入り江という一点で重なる。この三重の重なりが、説Bを単なる郷土の願望ではなく、検討に値する推定へと押し上げている。だが、三経路の重なりは蓋然性を高めても、直接史料の不在を埋めるものではない。比定はあくまで推定の域にとどまる。

地名遡及 近世「大之浦」 地形考古 潟湖の復元 歌枕・語釈 返歌の文脈 三経路の 重なり 万葉地名比定の三経路 三つが一点で交わるとき、比定は推定として説得力をもつ(確定ではない)。
図5 万葉地名比定の三経路。地名遡及・地形考古・歌枕論は単独では比定を確定できず、三者が一点で交わるときに蓋然性が高まる。ただし重なりは推定の域を出ない。

7. 背景としての地理 ── 国府・入り江と歌の地理の偏り

「大の浦」比定を検討したうえで、なお視野に入れておくべきは、遠江の万葉歌が描く地理の全体像である。遠江の万葉歌の舞台は、引馬野・引佐細江・麁玉(あらたま)と、いずれも浜名湖・天竜川西岸の側に集まっている。国府の置かれた磐田側の地名を確実に詠んだ歌は、「大の浦」を磐田にあてる説をとらないかぎり、ほとんど見あたらない。行政の中心である国府と、歌に詠まれる景勝の地とが、必ずしも一致しなかったのである。都の人々の歌ごころを誘ったのは、役所の建ち並ぶ国府の実務的な風景よりも、浜名湖の入り江の水面や、街道沿いの野辺を染める草木の色だったのかもしれない。

この地理の偏りは、「大の浦」比定に一つの含意を与える。もし「大の浦」を磐田の入り江にあてる説Bをとらなければ、遠江の万葉歌の地図には、国府周辺という東側に大きな空白が残る。逆に説Bをとれば、その空白が桜井王・聖武天皇の贈答歌によって埋められ、国府のまち磐田が、わずかながら万葉の歌の地理に接続される。説Bが郷土史の側から魅力をもつのは、この空白を埋める働きゆえである。ただし、空白を埋めたいという動機が比定の根拠になるわけではない。むしろ、埋めたいという欲求こそが遡及の飛躍を許しやすい点に、注意を払わねばならない。

この背景を支えたのは、遠江国府の存在である。見付・中泉を含む磐田市中心部に置かれたとされる国府は、遠江の政治と宗教の中心であった。国府台の府八幡宮をはじめとする社寺、国司の館、そこへ赴任した官人たちの往来が、都と任地とを結ぶ回路をなしていた。桜井王の奉呈歌と聖武天皇の返歌は、まさにこの回路の上を、初雁の使いに託されて行き交った。歌の贈答は、単なる私的な情のやりとりではなく、都と地方とを結ぶ律令国家の統治の網の目のなかで交わされたものである。「大の浦」がこの網の目のどこに位置するかを問うことは、古代磐田の地理を問うことでもある。

もっとも、その前提となる遠江国府の所在そのものが、なお論点を残す主題である。国府が磐田市中心部に置かれたとする見方は有力であるが、その具体的な位置をめぐっては複数の説があり、一点に確定しているとは言い難い。この国府所在論は本稿の主題を超えるため立ち入らないが、「大の浦」を国府近接の入り江とみる説Bが、国府の所在という別の未確定の問いの上に立っていることは明記しておく必要がある。国府の位置が動けば、「国府から望む入り江」という説Bの地理的前提もまた揺らぐ。比定の推論は、しばしばこのように別の推定を土台としている。

それでも、この地理的背景は「大の浦」の比定論に厚みを与える。奈良の都と磐田の国府とが歌で結ばれていたこと、その返歌に遠江の海辺の景が詠まれたこと──この二点は、比定地の確定を待たずとも、史料と歌から確かに言える。国府に赴任した遠江守と、その任地を望む入り江と、天皇の返歌の波。この三つが一つの風景のなかに収まりうることは、たとえ「大の浦」の一地点を特定できなくとも、書き留めておく価値がある。

遠州灘 浜名湖 天竜川 引佐細江〈東歌〉 引馬野〈浜松説〉 麁玉 ← 引馬野〈三河御津説〉は西の三河国内 遠江国府(磐田) 大の浦? 歌の舞台はこの西側に集中
図6 遠江の主な万葉歌の舞台。国府(磐田)を確実に詠んだ歌は乏しく、歌の地理は西へ偏る。「大の浦」を磐田にあてる説だけが、東側の空白を埋める。空白を埋めたいという動機は、比定の根拠とは区別せねばならない。
太田川河口説近世以来の有力説 福田・海岸説歌の情景を重視 広域湾入説地形変化を考慮 本稿:一元化せず諸説を対等に併置 「大の浦」比定の到達点
図7 「大の浦」比定の到達点。有力な諸説はいずれも決め手を欠く。本稿は比定を一元化せず、各説の根拠と限界を対等に併置する立場をとる。

8. 結論 ── 比定の断定を退け、諸説を対等に置く

本稿は、『万葉集』巻8の桜井王の奉呈歌と聖武天皇の返歌に詠まれた「大の浦」の所在をめぐり、所在未詳とする注釈書の通説(説A)、磐田原台地の入り江「大之浦」にあてる説(説B)、太田川河口・福田海岸など特定の海浜に求める説(説C)を、史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けして検討した。得られた見取り図は次のとおりである。桜井王と聖武天皇の贈答歌が『万葉集』に載ること自体は史実であるが、「大の浦」を一地点へ直接結ぶ奈良時代の同時代史料は、本稿の範囲では未確認である。三説はいずれもこの同じ限界を共有し、比定の断念・面の比定・点の比定という異なる解像度で、同じ問いに向き合っている。

したがって、本稿は比定を確定しない。現時点で、「大の浦」がどこであるかを一地点に定める材料はない。本稿は、注釈書の「所在未詳」という慎重な扱いを前提として尊重しつつ、磐田の入り江の記憶と結びつける説B、およびその内部を精密化する説Cを、土地の歴史を考えるうえで検討に値する推定として併記する立場をとる。断定はしない。ただし、断定しないことは、諸説を等価に放置することではない。各説がどの資料層に立ち、どの経路の重なりに支えられているかを腑分けしたうえで、その確度に応じた位置を与えることが、本稿の課題であった。

この作業から引き出せる方法上の含意は、地名比定一般に及ぶ。地名比定は、郷土への愛着が実証を追い越しやすい領域である。音の一致を証明と取り違え、後世の地名を無媒介に古代へ遡及させ、埋めたい空白を願望で埋めてしまう誤りは、この領域に絶えずつきまとう。これを避けるには、地名遡及・地形考古・歌枕論という三つの経路を区別し、それぞれが単独では比定を確定できないことを自覚し、三者が交わる一点においてのみ推定を語る、という禁欲的な手続きが要る。そして、その推定が直接史料の不在の上に立っていることを、つねに明示しなければならない。

最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、近世の「大之浦」地名の史料的な出現時期と分布は、磐田市域の近世文書を博捜することで、遡及の連続をより精確に跡づけられる余地がある。第二に、磐田原台地東縁の潟湖の古環境については、ボーリング資料や遺跡立地の集成によって、復元の解像度をさらに高めうる。第三に、桜井王の遠江守在任の年次と、贈答歌の成立年代の比定は、他の史料との突き合わせによって、なお詰めるべき点が残る。これらはいずれも、本稿が設定した四層の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。「大の浦」の一地点を決める誘惑を退け、確度の層を保ったまま資料を積み上げていくこと──その地道な手続きの先にこそ、奈良の都と磐田の国府を結んだ一首の歌が、いっそう確かな像を結んでいくはずである。引馬野をはじめとする遠江の他の万葉地名の比定については、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。

本稿の舞台である磐田の国府周辺や、かつて「大之浦」の水面を望んだ台地の縁には、いまも古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 遠江守桜井王の奉呈歌は『万葉集』巻8・1614、聖武天皇の返歌は同巻8・1615。詞書に「遠江守桜井王、天皇に奉る歌一首」とある。歌そのものは原典で確認できる。
  2. 桜井王は天武天皇の系譜に連なる皇族で、川内王の子と伝えられ、のちに臣籍に降って大原真人桜井と名のった。皇族が地方の国司を務める例は当時めずらしくない。
  3. 古典注釈書の多くは「大の浦」を遠江国の海辺の地名としつつ、具体的な比定地は未詳とする。歌枕として借用された海辺の景とみる読みがこれに対応する。
  4. 磐田原台地の東から南にかけての潟湖・入り江の広がりは、地形と考古の両面からの推定であり、近世まで残る「大之浦」の地名がこれに重ねられる。奈良時代の直接史料ではない。
  5. 引馬野(巻1・57、長忌寸奥麻呂)の所在は、三河国御津付近とする説と遠江の引馬(浜松方面)とする説が古くから対立し、行幸の行程を重んじて近年は三河説が有力とされることが多い。「大の浦」とは比定条件を異にする。

付記:本稿は一般読者向け記事 c108「万葉集の遠江歌と磐田」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判と地名比定の方法論の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、贈答歌が原典に載ることを史実、所在未詳を通説、入り江・海浜への比定を推定、近世の地名記憶および府八幡宮創建譚を伝承として扱った。

参考文献・参考資料

  • 『万葉集』巻8・1614〜1615(遠江守桜井王・聖武天皇の贈答歌)。
  • 『万葉集』巻1・57(長忌寸奥麻呂「引馬野」の歌)。
  • 『万葉集』巻14(東歌)遠江国の条。
  • 『続日本紀』および六国史の桜井王・大原真人桜井関係記事。
  • 『延喜式』巻九・十(神名帳)遠江国条。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、古代の章)。
  • 磐田市『磐田市史』史料編(磐田原台地・今之浦・太田川下流の地形と潟湖に関する項)。
  • 府八幡宮 由緒書(桜井王による国府鎮守創建の社伝)。
  • 佐口行正氏所蔵史料(近世の「大之浦」地名に関する記録を含む)。
  • 「千人万首 聖武天皇」asahi-net http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 浜松市「浜松市の歴史的風致形成の背景」(引馬野の所在に関する記述) https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 文化庁ほか 古典地名・歌枕関係データベース類(歌枕「大の浦」の注記) (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 c108「万葉集の遠江歌と磐田 ── 桜井王の歌と『大の浦』の波」 https://iwata-monogatari.net/c108.html (最終閲覧:2026年7月25日)。

「大の浦」「引馬野」の比定はいずれも確定しておらず、本文中で各説を対等に併記している。