失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語 / 万葉集の遠江歌と磐田
磐田共通 | 古代・文学

万葉集の遠江歌と磐田 ──
桜井王の歌と「大の浦」の波

日本最古の歌集『万葉集』には、遠江国にかかわる歌がいくつか収められている。そのなかに、遠江守として国府に赴任した皇族が都へ送った一首と、天皇がそれに答えた一首がある。返歌に詠み込まれた「大の浦」という地名は、磐田の土地の記憶と静かにつながっている。

遠江の万葉歌 ── 三つの類型

『万葉集』のなかで遠江国にかかわる歌は、大きく三つの類型に分けられる。第一に、都から東国へ下る行幸・旅の途上で詠まれた歌。第二に、遠江の国司(国府の長官)として赴任した官人の歌。第三に、巻14にまとめられた「東歌(あずまうた)」、すなわち東国の民衆の歌として採録されたものである。数のうえでは決して多くないが、この三つの類型は、都の貴族の目、赴任官人の目、土地に生きる人々の目という、異なる高さから奈良時代の遠江を照らしている。

遠江守桜井王の歌 ── 国府から都への便り

磐田にとって最も縁の深い万葉歌は、巻8に載る次の一首である。詞書には「遠江守桜井王、天皇に奉る歌一首」とある。

九月(ながつき)のその初雁(はつかり)の使にも
思ふ心は聞こえ来ぬかも 遠江守桜井王(巻8・1614)

九月の初雁が使いとなって、あなたを思う私の心は届かないだろうか ── 遠い任地から、都の天皇へ送った便りの歌である。桜井王(さくらいのおおきみ)は天武天皇系の皇族で、府八幡宮の社伝では、遠江国府に赴任した際に国府の鎮守として同宮を創建したと伝えられる人物にあたる。遠江国府の所在地は別稿で扱ったとおり現在の磐田市中心部と考えられており、この歌が事実として任地で詠まれたのであれば、磐田の国府の空の下で生まれた歌ということになる。ただし、歌が実際にどこで詠まれたかまでは史料からは確定できない。

聖武天皇の返歌 ──「大の浦」の波

この歌に対して、聖武天皇が答えた歌が続けて収められている。

大の浦のその長浜に寄する波
ゆたけく君を思ふこのころ 聖武天皇(巻8・1615)

大の浦の長い浜辺に寄せる波のように、ゆったりと豊かにあなたを思っている ── 天皇が臣下の便りに応えた、おおらかな返歌である。ここに詠まれた「大の浦(おほのうら)」は、古来、遠江国の海辺の地名と注されてきたが、正確な所在は未詳とされる。そして磐田には、まさにこの名を持つ入り江の記憶がある。古墳と川・海・道兜塚古墳で扱ったとおり、古代の磐田原台地の東には「大の浦(大之浦)」と呼ばれる広大な入り江が広がっていたと考えられており、この入り江を万葉の「大の浦」にあてる見方がある。

学説の整理 ──「大の浦」はどこか

説A:所在未詳(注釈書の通説的な扱い)

古典の注釈書の多くは、「大の浦」を遠江国の海岸の名としつつ、具体的な比定地は未詳とする。天皇は遠江の実景を見て詠んだのではなく、国司の任地の歌枕として海辺の景を借りた、という理解であり、無理な比定を避ける手堅い立場である。

説B:磐田の入り江「大之浦」説

一方、磐田市域には近世まで「大之浦」の地名・伝承が残り、古代には太田川・今之浦低地に大きな入り江が広がっていた。国府の所在地と入り江の位置が近接することから、遠江守の任地への返歌に、国府近くの入り江の名が選ばれたとみる説である。歌の贈答という文脈と地理が整合する魅力がある一方、奈良時代の「大の浦」の名を直接記す同時代史料はなく、後世の地名からの遡及という弱点を持つ。

本稿の立場

比定を確定できる材料は現時点でない。本稿は所在未詳を前提としつつ、磐田の入り江の記憶と結びつける説Bを、土地の歴史を考えるうえで魅力ある仮説として併記する立場をとる。

引馬野はどこか ── もう一つの所在論争

遠江の万葉歌といえば、もう一つ有名な所在論争がある。巻1に載る長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)の一首である。

引馬野(ひくまの)ににほふ榛原(はりはら)入り乱れ
衣にほはせ旅のしるしに 長忌寸奥麻呂(巻1・57)

大宝2年(702年)の持統太上天皇の三河行幸に従った際の歌とされる。この「引馬野」については、行幸先の三河国内、現在の愛知県豊川市御津(みと)付近とする説と、遠江の引馬(ひくま)、すなわち現在の浜松・三方原方面とする説とが古くから対立してきた。浜松説に立てば、のちに徳川家康が本拠とした引馬(曳馬)の地が万葉の昔から歌に詠まれていたことになるが、行幸の目的地が三河であったことから、近年は三河御津説が有力とされることが多い。ここでも、断定よりも両説の併記が誠実な扱いであろう。

東歌の遠江 ── 浜名湖側に偏る歌の地理

巻14の東歌には、遠江国の歌として「遠江引佐細江(いなさほそえ)のみをつくし」など、浜名湖周辺の地名を詠んだ歌が残る。麁玉(あらたま)の地名も、天竜川下流西岸の麁玉郡(現在の浜松市浜名区方面)にかかわるとされる。つまり遠江の万葉歌の地理は、浜名湖・天竜川西岸側に偏っており、国府の置かれた磐田側の地名を確実に詠んだ歌は、「大の浦」を磐田にあてる説を除けば、ほとんど見あたらない。国府という行政の中心と、歌に詠まれる景勝の地とは、必ずしも一致しなかったのである。都人の歌ごころを誘ったのは、役所の建ち並ぶ国府の風景よりも、浜名湖の入り江や街道の野辺の色だったのかもしれない。

遠江関連の主な万葉歌

作者・巻ゆかりの地(諸説含む)
九月のその初雁の使にも…遠江守桜井王(巻8・1614)遠江国府(磐田)からの奉呈歌
大の浦のその長浜に寄する波…聖武天皇(巻8・1615)遠江の海辺。所在未詳。磐田の大之浦説あり
引馬野ににほふ榛原…長忌寸奥麻呂(巻1・57)三河御津説・浜松(引馬)説が対立
遠江引佐細江のみをつくし…東歌(巻14)浜名湖・引佐細江
確認できること・できないこと
巻8の桜井王の歌と聖武天皇の返歌、巻1の引馬野の歌、巻14の東歌が『万葉集』に収められていることは原典で確認できる。一方、「大の浦」「引馬野」の所在はいずれも確定しておらず、本文では各説を併記した。桜井王が府八幡宮を創建したという話は社伝(伝承)であり、史実として確定しているわけではない。

国府のまちに、歌を重ねて歩く

万葉集のなかの遠江は、決して華やかな歌枕の国ではない。しかし、遠江守が初雁に託した望郷と、天皇が波にたとえた返信の贈答は、奈良の都と磐田の国府とが、歌で結ばれていたことを確かに伝えている。国府台の府八幡宮の杜を歩くとき、この二首を思い出せば、千三百年前の九月の空を渡る雁の列が、少しだけ近くに感じられるはずである。

主な参考資料

「大の浦」「引馬野」の比定はいずれも確定しておらず、本文中で各説を対等に併記している。

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。