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磐田物語見付『東海道遠州見付宿』を読む / 宿助成のしくみ

見付|学術特集『東海道遠州見付宿』を読む(29)

宿助成のしくみ ── 貸付利子・補金・返済猶予で支えた見付宿

幕府が赤字を毎年そのまま埋めたのではない。元金を貸し、利子を運営費へ回し、滞れば別の金でつなぐ制度があった。

御定賃銭は公用通行の価格を抑えたが、人足の賃金、馬の維持、物価はその枠内に収まらない。差額を宿だけに負わせれば、東海道の継立が続かなくなる。見付宿に設けられた宿助成は、この不足へ毎年同額を給付する単純な補助金ではなく、貸付元金から生じる利子、利子が入らないときの補金、返済の延期や減免を重ねた制度金融であった。

このページで分かること
  • 宿助成は、幕府関係の元金を貸し付け、利子を伝馬運営へ回す仕組みを中心としていた。
  • 貸付先から利子が入らなければ、宿へ回す助成も不足し、未収と滞納が連鎖した。
  • 幕府は補金や別口助成、返済猶予によって宿駅機能を止めないよう支えた。
  • 田中友次郎は、見付宿が何らかの形で救われた一方、助郷村の困窮とは根本的な差があったと評価する。

なぜ助成が必要だったか ── 公定価格と実費のずれ

見付宿は、定められた人馬を用意し、公用の旅客・荷物を次の宿へ送る義務を負った。御定賃銭は幕府が定めるため、物価や人馬費が上がっても自由に値上げできない。無賃・割引の公用通行もあり、運輸収入だけでは支出を賄えなかった(146頁)。

天保10年(1839年)の歳入では、助成金が358両余、約20%を占める(125頁)。一方、歳出の最大項目は運輸費713両余である。助成は臨時の慈善ではなく、幕府が求める交通を継続させるための構造的な財源であった。

貸付元金・拝借金幕府関係から宿へ設けられた資金。宿内外へ貸し出す元手となり、返済条件を伴う。
助成利子元金を貸した先から受け取る利子。伝馬人や宿の運営費へ回すことが期待された。
補金・別口助成利子の未収、制度停止、災害などで不足したとき、別の名目で穴を埋める金。

この三つをすべて「幕府からの補助金」と呼ぶと、返すべき元金、運用で得る利子、返済不要の補填が混同される。田中が146〜160頁で追っているのは、金額の大小だけでなく、それぞれの金がどの名目で入り、誰へ貸され、何が返らなかったかである。

元金を設ける幕府関係の貸付金・拝借金を、継続財源の元手とする。
地域へ貸す宿内の有力者、村、旅籠屋、問屋場関係などへ資金を貸し付ける。
利子を集める貸付先から受け取った利子を、伝馬助成や宿の財源へ回す。
不足を補う未収や制度停止が起きれば、補金・別口助成・返済猶予で穴を埋める。
元金を返す年賦で返済するが、延期、未納、繰越残高が生じる。

第四章は、万治・享保・明和・安永・寛政・文化・文政期に設けられた複数の貸付・助成を追う(147〜152頁)。一つの制度が長く安定して続いたのではなく、旧制度の残高へ新しい貸付や補金が重なった。そのため天保期の帳簿には、異なる年代・名目の元金、利子、返済が同時に現れる。

貸付には二つの目的があった。 第一は、利子を伝馬助成へ回す財源づくりである。元金を一度渡して終わりにせず、貸付先から毎年利子を取り、宿の継立費へ充てる。財源を継続させる発想であった(147〜152頁)。

第二は、宿内や周辺の困窮を救う金融である。旅籠屋、宿役人、農村などへ貸し付け、家業や農業の再建を助ける面があった。だが救済を必要とする相手ほど返済力が弱い。利子収入を宿助成へ回す制度と、困窮者を救う制度を同じ貸付で実現しようとしたところに矛盾があった。

救済と収益は両立しにくい
確実に利子を得るには返済力のある相手へ貸したい。しかし救済の必要が大きいのは返済が難しい相手である。宿助成は、この二つの目的の間で不安定になった。

文化13年以降 ── 利子が入らず、助成も止まる

田中は、文化13年(1816年)以降、予定された助成利子の多くが滞ったと整理する。天保12年の帳簿には、宿へ渡るべき助成の不足と、貸付先から回収できない利子・元金が積み上がっていた(152〜155頁)。

貸付先の村や宿内の家が困窮すれば返済が止まる。宿は助成に使う利子を得られず、伝馬人や助郷への支払いが不足する。そこで宿がさらに借り入れれば、返却金が後年の歳出を圧迫する。貸付の未収、助成の不足、宿の借入が一つの循環を作った。

起点次に起こること宿財政への影響
貸付先が困窮利子・元金が未収となる予定した助成利子が入らない
助成不足伝馬人・助郷への支払いが遅れる継立の維持が難しくなる
宿が借り入れる当年の不足は埋まる翌年以降に返却金が残る
幕府が補金を出す急場はしのげる根本の未収・返済力は残る

補金は制度の失敗を隠す金ではない。 幕府は、利子が予定どおり入らないとき、補金や別口の助成を出し、返済を延期・減免して宿駅機能を維持した(150〜158頁)。これは当初設計どおりの運用ではないが、制度が完全に放置されたことも意味しない。返済条件を変え、別名目の金を足し、継立を止めないよう調整したのである。

一方、補金が入れば未収の原因が解消するわけではない。貸付先の困窮、物価上昇、御定賃銭と実費の差、公用通行の増加は残る。補金は赤字の原因を取り除くより、破綻の時期を延ばし、宿駅を稼働させ続ける役割を持ったと読むべきである。

天保10年の実受取額 ── 予定利子より約295両多かった。 田中は天保10年の帳簿について、貸付金助成利子として本来受け取るべき額と、補金その他の助成収入、返済金を差し引いて比較する。その計算では、実際の助成受取差引額が、予定された貸付金助成利子を約295両上回った(160頁)。

これは「貸付利子が順調に入った」ことを示さない。むしろ利子だけでは足りず、別口の助成や補金を重ねた結果、当年の実受取額が予定利子を超えたことを示す。帳簿上の受取額が大きい年でも、制度本体が健全とは限らない。

著者の計算が示すこと
見付宿は、利子収入だけで自立したのではない。未収があっても、別名目の助成を組み替えることで、宿場としての運営を継続した。

見付だけの特例だったのか ── 本庄宿との比較。 田中は、見付宿だけを特別扱いされた孤立例として描いていない。江戸幕府は主要な宿駅へ拝借金・貸付金を設け、利子を助成へ回す制度を各地で用いたとし、中山道本庄宿の例も挙げて比較する(158〜159頁)。

この比較から確かめられるのは、宿助成が東海道見付宿だけの臨時策ではなく、幕府の街道維持政策に共通する手法だったことである。ただし本庄宿と見付宿では、交通量、助郷範囲、貸付先、未収状況が異なる。同じ制度名だけで財政状態まで同じとみなすことはできない。

田中の結論 ── 宿は救われ、助郷との格差が残った。 第四章の末尾で田中は、見付宿が不渡りや返済遅延を抱えながらも、補金、助成金、拝借金によって「何等かの形で内実救われている」と評価する。そして、同じ人馬負担を負った助郷村と比べ、困窮の程度には根本的な相違があったと結ぶ(160〜161頁)。

ここは史料に直接書かれた単純な事実ではなく、著者が宿方の勘定帳と貸付・返納関係資料を総合して導いた研究上の結論である。本ページはその結論を紹介するが、個々の助郷村の救済額や家計損失まで確定しない。助郷側の村入用帳・家計資料を同じ粒度で照合する作業が別に必要である。

宿助成から見える幕府の統治。 宿助成は、幕府が街道費用を全額負担する制度ではなかった。元金を地域へ置き、地域内の貸付利子を宿駅維持へ回し、回収不能になれば補金や返済猶予で調整する。公用交通の費用を、幕府、宿、貸付先、助郷、将来の返済へ分散する仕組みであった。

この制度は、平時には少ない直接支出で宿駅を維持できる反面、困窮が広がると利子収入が止まり、宿と村の双方へ滞納を積み上げる。天保10年の見付宿は、制度が機能した成功例でも完全な破綻例でもない。別口の金をつなぎ続けて、どうにか東海道を止めなかった事例である。

この資料で確かめられることこの資料だけでは確定できないこと
複数年代の貸付元金・助成利子・補金・返納の存在各貸付先が返せなかった個別事情
文化13年以降の未収と助成不足帳簿上の未収が最終的に回収・免除された時期
天保10年の実受取差引額に関する田中の計算原帳の相手勘定・訂正・重複を踏まえた再計算
田中による宿と助郷の困窮差という評価助郷各村の家計・農業損失の総額

本ページが確認したのは、1974年刊『東海道遠州見付宿』146〜161頁の翻刻・集計・分析である。同書所引の貸付金・補金・返納関係帳簿原本は未照合であり、田中の計算を独立に再集計していない。そのため、事実として確認できる帳簿名・金の名目、著者の計算、著者の評価を文章上で区別した。

  • 『東海道遠州見付宿』146〜161頁の全頁画像照合に基づき新規作成。

参考資料

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