遠州忩劇 ──
桶狭間のあと、磐田の国衆たちの乱
「忩劇」という言葉
忩劇(そうげき)とは、慌ただしい騒乱、という意味の古語である。この呼び名が興味深いのは、後世の歴史家がつけた名ではなく、当の今川氏真(うじざね)自身の発給文書に「遠州忩劇」の語が現れることに由来する点である。つまり、乱を鎮圧する側であるはずの今川氏が、遠江の状況を「忩劇」──手のつけられない騒ぎ──と呼ばざるを得なかったのである。この言葉の一つに、当主・氏真の焦りと、統治の崩れゆく実感がにじんでいる。
研究上は「遠州錯乱(えんしゅうさくらん)」とも呼ばれるこの動乱は、永禄5年(1562年)ごろから永禄9年(1566年)ごろにかけて、遠江国内、とりわけ天竜川流域の国衆(くにしゅう、在地領主)たちが起こした、今川氏への連鎖的な反乱を指す。一人の反逆者による単発の事件ではなく、次々に伝染していく離反の連鎖であったところに、この乱の本質がある。
発端 ── 桶狭間と若き当主
すべては、永禄3年(1560年)の桶狭間(おけはざま)の一戦から始まった。上洛を目指したとも、尾張攻略を狙ったとも言われる今川義元が、織田信長の奇襲によって討ち死にする。今川家はこの一日で、当主だけでなく、義元に従っていた多くの重臣と将兵を一挙に失った。
跡を継いだ嫡男・氏真は、まだ二十代半ば。父の急死という最悪の形で家督を継ぎ、動揺する領国の立て直しを急がねばならなかった。しかし事態は悪化する一方だった。西の三河では、人質から解放された松平元康(のちの徳川家康)が今川から自立し、今川領国の西の壁が内側から崩れていく。遠江の国衆たちの目に、今川家はもはや「従っていれば所領を守ってくれる頼もしい主君」とは映らなくなっていた。今川に忠義を尽くすべきか、それとも新興の徳川や、北から迫る武田につくべきか ── 天竜川の東西で、家々の思惑が音もなく渦を巻き始めた。桶狭間の銃声は尾張で鳴ったが、その余波は、確実に遠江の国衆たちの足もとを揺るがしていたのである。
飯尾連龍の乱 ── 引間城の攻防
忩劇の中心となったのが、引間城(ひくまじょう、現在の浜松市中心部)の城主・飯尾連龍(いいのおつらたつ)である。飯尾氏は遠江の有力国衆で、その離反は今川氏にとって見過ごせない事態だった。連龍は永禄6年(1563年)ごろまでに今川氏への「逆心」を明らかにし、氏真は永禄7年(1564年)2月、みずから兵を率いて引間城を攻めた。しかし城は堅く、落とすことができなかった。ただし支城の頭陀寺城(ずだじじょう)は落ちており、戦線は一進一退のまま長引いた。攻城戦の影響は周辺に広がり、天竜川をはさんだ磐田側の土地も、軍勢の往来や兵糧・人夫の徴発の舞台になったと考えられる。
膠着の末に氏真が打った手は、力ずくではなく謀略だった。連龍は永禄8年(1565年)12月、和睦の名目で駿府へ呼び出され、そこで今川勢に攻められて誅殺された。だが、この強硬策は裏目に出る。主君が和睦を装って有力国衆を騙し討ちにしたという事実は、遠江じゅうの国衆に「今川はもはや信用できない」という不信を決定的に植えつけた。連龍の遺臣たちは引間城で抵抗を続け、乱の火種はいっこうに消えなかった。氏真は、一人の反逆者を消すことで、かえって多くの潜在的な反逆者を生んでしまったのである。
遠州忩劇の呼称が今川氏真の文書に由来すること、飯尾連龍の反乱と永禄8年12月の誅殺、永禄7年の引間城攻めは、研究の整理で確認できる。一方、磐田側の国衆(堀越氏・匂坂氏など)の具体的な動向は一次史料が乏しく、「離反したとされる」という水準にとどまるものが多い。飯尾連龍の乱の細部にも、軍記物由来で確実性の低い伝承が混じるため、本文では大筋の経過に重点を置き、事実として確認できる点と伝承的な点との区別を保って記している。
国衆とは何者だったか
忩劇を理解するうえで欠かせないのが、「国衆(くにしゅう)」という存在である。国衆とは、戦国時代に一つの地域を支配した、半ば独立した在地の領主をいう。彼らは大名の家臣でありながら、自らの城と所領と家臣団を持ち、独自の判断で動く自立性を保っていた。大名との関係は、絶対的な主従というより、「守ってもらう代わりに従う」という、契約に近い性格を帯びていた。
だからこそ、大名が「守ってくれる力」を失ったと見れば、国衆は容赦なく主君を乗り換えた。それは裏切りというより、家と領民を存続させるための、当然の経営判断だった。桶狭間で今川が力を失ったとき、遠江の国衆たちが次々に離反したのは、彼らが不忠だったからではない。国衆とは、そもそもそういう存在だったのである。遠州忩劇とは、この国衆たちの「主君を選び直す」動きが、天竜川流域で連鎖的に噴き出した現象にほかならない。
磐田の国衆はどう動いたか
では、天竜川の東、磐田側の国衆たちはどう動いたのか。見付端城の堀越氏は、遠江今川氏の流れをくむ一族でありながら、この動乱のなかで今川宗家から離反したとされる。ただしその詳細な動向を伝える一次史料は確認されていない。匂坂城の匂坂氏のような磐田原台地北縁の国衆も、今川・武田・徳川の三つの力のあいだで、どこにつけば家が残るかを慎重に探ることになる。国衆にとって離反は、忠義や裏切りといった理念の問題ではなく、家名と所領と領民を次の世代へ残すための、冷徹な生存戦略だった。誰もが正解の見えない賭けを、自分の家の命運を担保にして打たねばならなかったのである。そして見付の町人たちは、領主層の混乱をよそに、自治的な町の運営でこの時代をしのいでいく。武士の争乱と町の自治が並走するところに、戦国末期の見付の面白さがある。忩劇は、しばしば「井伊氏や飯尾氏の乱」として天竜川西岸の物語として語られるが、天竜川の東の磐田側も、決して無風だったわけではないのである。
乱の終わりと、次の嵐
連龍の死後も混乱は永禄9年(1566年)ごろまで続き、氏真はどうにか遠江の表面的な平穏を取り戻した。しかしそれは、嵐と嵐のあいだの、つかのまの静けさにすぎなかった。忩劇の四年間で、今川領国は二重に傷ついていた。一つは、国衆の離反によって実際の兵力と所領を失ったこと。もう一つは、連龍の謀殺に象徴される、主君への信頼という目に見えない資産を失ったことである。後者の傷は、前者よりもはるかに深かった。
そして、とどめの一撃が来る。永禄11年(1568年)12月、武田信玄が駿河へ、徳川家康が遠江へ、東西から同時に侵攻を開始したのである。忩劇で疲弊し、国衆の信頼を失っていた今川領国は、もはや一枚岩の抵抗を組織できなかった。多くの国衆が、あっさりと武田や徳川に従った。かつて東海一の大名だった今川氏は、ほとんど組織的な抵抗ができないまま、驚くほどあっけなく崩壊していく。家康の遠江攻略は、見付をはじめとする磐田の土地を、今川の時代から徳川の時代へと引き込んでいった。忩劇は、今川の遠江支配の「終わりの始まり」であり、同時に、徳川の世紀の静かな助走だったことになる。
遠州忩劇 関連年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 永禄3年(1560) | 桶狭間の戦い。今川義元戦死、氏真が継ぐ |
| 永禄5年(1562)ごろ | 遠江国衆の動揺が表面化(遠州忩劇の始まり) |
| 永禄6年(1563) | 引間城主・飯尾連龍の逆心が明らかになる |
| 永禄7年(1564) | 氏真、引間城を攻めるが落とせず。支城・頭陀寺城は落城 |
| 永禄8年(1565)12月 | 連龍、駿府で誅殺される |
| 永禄9年(1566)ごろ | 乱が沈静化 |
| 永禄11年(1568)12月 | 武田の駿河侵攻・徳川の遠江侵攻。今川領国崩壊へ |
「忩劇」が磐田に残したもの
遠州忩劇そのものの主戦場は天竜川の西、引間城の周辺だった。しかしこの乱が崩した今川支配の空白にこそ、家康の遠江入りと見付築城計画、そして磐田が戦場になった時代が続いていく。磐田の戦国史を読むとき、一言坂や三方ヶ原の合戦の前段に、この「国衆たちの静かな離反の連鎖」があったことを知っておくと、時代の流れは格段に立体的になる。大きな合戦の陰で、家を守るために迷い、賭け、あるいは賭けに敗れて消えていった小さな家々の決断 ── 忩劇とは、そういう無数の決断の総称である。
教科書は、桶狭間の勝者・信長と、そこから天下人への道を歩む家康を大きく描く。しかしその華々しい物語の足もとでは、名もなき遠江の国衆たちが、それぞれの城で夜ごと去就を思い悩んでいた。飯尾連龍のように賭けに出て命を落とした者、堀越氏のように時流を読んで生き延びた者、匂坂氏のように去就を探り続けた者。忩劇の四年間は、そうした地方領主たちの決断が積み重なって、今川という一つの大名家を静かに、しかし確実に解体していった時間だった。磐田の戦国史を、合戦の勝敗の物語としてだけでなく、「選択を迫られた人々の物語」として読み直すとき、この地味な動乱は、にわかに人間くさい厚みを帯びてくる。
主な参考資料
- Wikipedia「遠州忩劇」「飯尾連龍」(今川氏真文書の「遠州忩劇」の語、乱の経過)
- note「遠州忩劇(遠州錯乱)-井伊氏と飯尾氏-」ほか研究整理
- 磐田物語「遠江今川氏と見付端城」「匂坂城跡と匂坂氏」「戦国期の見付自治」「徳川家康と三方原合戦」
磐田側の国衆の動向は一次史料が乏しく、「〜とされる」の水準で記した箇所がある。
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