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EDUCATION | 見付の教育史 ── 学校区が映す「見付とはどこか」

校歌・学校区から見る見付の地域意識
── 「見付とはどこか」を学校の歴史から考える

「見付」という地名は、旧東海道沿いの宿場町を指す歴史的な呼び名であると同時に、現在では「磐田北小学校区」という行政上の単位でもある。見付尋常高等小学校が男女別学から一つの学校へ統合され、やがて磐田北小学校という名に変わっていった過程は、単なる制度変更ではなく、「見付」という地域の輪郭が何によって定義されるのかという問いそのものを映し出している。ここでは、校名・学校区の変遷を手がかりに、見付の人びとが自分たちの地域をどう意識してきたかを考える。
本ページは、磐田物語の既存記事「見付地区の学校史と地域教育」で整理した校名変遷の事実を土台に、そこから見える地域意識の変化を考察するものである。磐田北小学校・見付中学校の校歌の具体的な歌詞については、公開情報から確認することができなかったため、本ページでは歌詞そのものの引用・分析は行わず、校名・学校区という「制度としての地域の単位」に絞って記述する。歌詞の内容にまで踏み込んだ考察は、学校側への取材等により歌詞を確認できた場合の今後の課題としたい。

「見付」とはどこを指す言葉か

「見付」という呼び名には、少なくとも三つの層がある。第一に、古代の遠江国府が置かれた歴史的な広域地名としての見付。第二に、東海道五十三次二十八番目の宿場町としての見付宿。第三に、現在の磐田市における行政上の地区区分としての「見付地区」(磐田市01001地区)である。これらは重なり合いながらも、指し示す範囲が完全に一致するわけではない。

学校の歴史をたどると、この「見付」という言葉の指し示す範囲が、時代ごとにどう捉えられてきたかが見えてくる。明治6年の見付学校は、旧東海道沿いの宿場町としての見付を単位として開校した。その後、男女別学、国民学校化、磐田北小学校への改称という過程で、「見付」という名前は学校名からは一度姿を消し、「磐田北」という方位名に置き換えられている。

校名の変遷が映す地域意識

見付尋常高等小学校が磐田町立見付国民学校となり、さらに磐田市立磐田北小学校となった過程で、校名から「見付」という文字が消えたことは、注目に値する変化である。「見付学校」「見付尋常高等小学校」という校名は、その学校が見付という一つの町のための学校であることを、名前自体が明確に示していた。ところが「磐田北小学校」という校名は、旧磐田市(当時)における方位(北)を示すものであり、見付という固有の地名を前面に出さない選び方になっている。

表1 校名に見る地域の呼び方の変化
時期校名名前が示すもの
明治6年(1873年)〜見付学校見付という固有の宿場町
明治41年(1908年)頃〜見付尋常高等小学校/見付女子尋常高等小学校見付+性別による区分
昭和16年(1941年)〜磐田町立見付国民学校磐田町の中の見付(上位行政単位+地名)
昭和23年(1948年)〜磐田市立磐田北小学校磐田市の中の方位(北)

この変化を「見付という地域意識が薄れていった」と単純に解釈することもできるが、別の見方も可能である。すなわち、磐田町・磐田市という上位の自治体単位が拡大・確立していく過程で、学校の名前づけの原理が「町・字の名前」から「市内における方位」へと切り替わっていった、という制度上の変化として捉えることもできる。どちらが実態に近いかを断定する材料は本ページの調査範囲では確認できておらず、両方の可能性を並記するにとどめる。

学校区という現代の「見付」の輪郭

現在の磐田北小学校の学校区は、東坂町・住吉町・宿町・清水町・天王町・地脇町・馬場町・二番町・幸町・美登里町・北見町・元宮町・緑ヶ丘・水堀・中川町・新通町・元倉町といった町内で構成されている(別稿「見付地区の学校史と地域教育」参照)。これらの町名の多くは、旧東海道見付宿の町割りに由来する歴史的な地名であり、校名からは「見付」の文字が消えても、学校区の実態としては、なお旧見付宿の範囲とかなりの部分で重なっていることがわかる。

つまり、「磐田北小学校」という名前が方位を示すものに変わった一方で、その学校に通う子どもたちの居住範囲=学校区は、依然として「見付」という歴史的なまとまりをほぼそのまま引き継いでいる。名前の上では見えにくくなった「見付」という地域意識は、学校区という実質的な単位の中に生き続けていると読むことができる。

校歌という手がかり ── 確認できたこと・できなかったこと

学校の校歌は、しばしばその地域の自然・歴史・誇りを歌詞に織り込み、児童・生徒の地域意識を育てる役割を果たしてきた。旧見付学校の白い校舎や見付天神、旧東海道といった見付の象徴的な風景が、磐田北小学校や見付中学校の校歌に歌い込まれているのではないかという推測は自然に成り立つ。しかし、本ページの調査範囲では、磐田北小学校・見付中学校の校歌の具体的な歌詞を、公開情報から確認することができなかった。

不確かな歌詞を断定的に紹介することは避け、本ページでは「校歌の歌詞そのものの分析」ではなく、「校名・学校区という確認可能な制度的事実」を中心に据えた。校歌の歌詞・作詞者・制定年などが判明した場合は、稿を改めて紹介したい。

他地区との比較 ── 竜洋・向陽の学校区意識

磐田市内の他地区に目を向けると、学校区と地域意識の関係にはさまざまな形がある。竜洋地区では、竜洋西・東・北小学校、掛塚小学校、竜洋中学校が、いずれも「竜洋」という統合後の町名を冠しており、旧村(掛塚・袖浦・十束・長野)の individuality よりも、昭和30年合併後の「竜洋」という新しい単位への統合を校名が体現している(別稿「竜洋の学び舎の歩み」参照)。向陽地区では、岩田・大藤・向笠という旧村の集合体として学校区が組み立てられている例がある(別稿「岩田・大藤・向笠をつなぐ丘陵と水の記憶」参照)。

これらと比較すると、見付地区の学校は「見付」という固有名詞を一度校名から手放し、「磐田北」という方位名を採用した点が特徴的である。地域によって、統合後も固有の地名を校名に残す例(竜洋)と、方位名などの中立的な名前に切り替える例(見付)があり、どちらを選ぶかには、それぞれの地域が歩んだ合併・再編の経緯が反映されていると考えられる。

むすび ── 名前が変わっても残るもの

「見付学校」から「磐田北小学校」へ。校名という表面だけを見れば、見付という地名は学校から姿を消したように見える。しかし、学校区の実際の範囲を見れば、旧見付宿の町々は今もなお一つの学校のもとにまとまっている。地域意識というものは、名前という記号だけでなく、日々の通学路、町内会、祭りといった、目に見えにくい結びつきの中に宿り続けるものなのかもしれない。

校歌の歌詞という具体的な手がかりを欠いたままではあるが、校名と学校区という制度の変遷をたどるだけでも、「見付とは何か」という問いに、いくつかの角度から光を当てることができた。この問いへの答えを、住民一人ひとりの記憶の中に見つけていくことが、磐田物語がこれからも続けていきたい仕事である。

参考資料

本ページは考察を主とする読みものであり、校歌の歌詞そのものについては公開情報から確認できなかったため引用・分析を行っていない。校名変遷の背景にある地域意識の解釈は筆者の見解であり、断定的な結論ではなく複数の可能性を提示する記述とした。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料の文章をそのまま転載するのではなく、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。