静岡藩時代の磐田 ──
徳川家とともに来た人々
70万石の大名になった徳川家
戊辰戦争のさなかの慶応4年、新政府は徳川宗家の存続を認め、当主となった徳川家達(いえさと)に駿河・遠江など70万石を与えた。静岡藩(駿府藩)の成立である。800万石といわれた天下の主から、70万石の一大名へ。江戸に住んでいた数万人規模の旧幕臣たちは、新政府に仕えるか、農商に転じるか、それとも禄を失うことを覚悟で徳川家に従って駿遠へ移るかの選択を迫られ、多くの家族が海路・陸路でこの地方へ移住してきた。受け入れる側の駿河・遠江にとって、それは人口の急増と、士族という新しい隣人の出現を意味した。
中泉奉行所 ── 磐田に置かれた藩の役所
静岡藩は領内を治めるため、要地に奉行を配した。遠江の磐田では、江戸時代を通じて天領支配の拠点だった中泉代官所の系譜を引く形で、中泉に奉行が置かれた。この中泉奉行を明治2年(1869年)に務めたのが、のちに郵便制度を創る前島密である。前島は移住してくる旧幕臣の授産・救済に奔走し、中泉に救済施設「中泉救院」を設けるなどの施策を行った。江戸からやって来た困窮士族に仕事と暮らしを与えること ── それが、この時期の中泉の役所の最大の仕事だった。中泉陣屋と二人の代官で描いた江戸時代の統治の記憶は、静岡藩の数年間を経て、近代の役場へと橋渡しされていく。
静岡藩の成立(慶応4年・70万石)、旧幕臣の大量移住、前島密の中泉奉行在任(明治2年)と中泉救院・授産の取り組み、明治4年の廃藩置県と浜松県の設置は、資料で確認できる。一方、磐田市域へ移住した旧幕臣の人数・定着の実態は今回の調査では確認できておらず、士族の戸籍・授産記録での確認が課題である。
刀を鍬に持ちかえて
禄を失った士族たちの多くは、慣れない農業や商いで生計を立てることになった。静岡藩の士族授産で最も有名なのは、旧幕臣たちが牧之原台地を切り開いて茶園にした事例である。同じ構図は遠江側にもあり、水の乏しい台地の開墾(磐田原の開発史)や新しい産業への挑戦のなかに、士族の姿があったと考えられる。また、幕末の動乱期に淡海國玉神社の神官たちが結成した遠州報国隊のように、地元の側から新時代へ動いた人々もいた。武士の時代の終わりは、磐田の土地では、嘆きよりも開墾と創業の物語として展開したのである。
廃藩置県 ── 静岡藩、四年で消える
明治4年(1871年)7月、廃藩置県によって静岡藩は廃止された。遠江には浜松県が置かれ、磐田の村々は浜松県の管轄となる。明治9年(1876年)に浜松県が静岡県に統合されて、現在の県の枠組みが固まった。静岡藩の存続はわずか4年足らず。しかし、この短い時代に移住してきた人々とその子孫は、教育・産業・行政の担い手としてこの地方に根を下ろし、近代教育や近代産業の立ち上げを支えていく。「徳川家のお膝元」という静岡県人の自己意識も、この4年間に胚胎したものといえる。
静岡藩時代の磐田 ── 年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 慶応4年(1868) | 徳川宗家に駿河・遠江70万石。静岡藩成立、旧幕臣の移住始まる |
| 明治2年(1869) | 前島密、遠州中泉奉行に。中泉救院の設置など授産・救済 |
| 明治4年(1871) | 廃藩置県。静岡藩廃止、遠江は浜松県に |
| 明治9年(1876) | 浜松県が静岡県に統合。現在の県域が固まる |
四年間が残したもの
静岡藩の時代は短く、磐田に藩庁があったわけでもない。しかし、中泉の役所が最後にもう一度この地方の統治拠点として働き、江戸の人材がこの土地に流れ込んだという事実は、磐田の近代の初期条件を決めた。明治初期の行政制度のめまぐるしい変転の底で、人の移動という一回かぎりの出来事が、静かに効き続けたのである。
主な参考資料
- 静岡藩・旧幕臣移住に関する維新史資料
- 荒川将「静岡時代の前島密」『郵政博物館研究紀要』第11号(2020年)
- 磐田物語「中泉代官所と、徳川の天領を治めたまち」「磐田の郵便史」「遠州報国隊」「大区小区制と戸長役場」「磐田原の水不足と開発史」
磐田市域への士族移住の人数・実態は未確認であり、本文中で課題として明示している。
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