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磐田・幕末〜昭和 | 磐田の近代を支えた4つの産業

磐田の近代産業史 ── 茶・煙草・甘藷切干、そして銀行

幕末から昭和にかけて、磐田原とその周辺では、茶・煙草・甘藷切干という3つの農産加工業と、それを支える金融としての銀行が育っていった。旧幕臣による磐田原開墾、栗田家の煙草専売、八百庄商店の甘藷切干出荷、磐田アルコール工場の代用燃料生産まで。磐田市歴史文書館の企画展資料から、磐田の近代産業の歩みを整理する。

磐田原とその周辺は、近世までは水利に乏しく、開発の進みにくい台地であった。しかし幕末から明治にかけて、この土地に茶・煙草・甘藷という3つの農産加工業が根づき、地域経済を支える柱となった。同じ時期には、これらの産業を金融面から支える国立銀行・私立銀行も次々と設立されている。磐田市歴史文書館 第24回企画展「磐田の産業史〜磐田の近代を支えた茶、煙草、甘藷切干、そして銀行〜」(令和2年/2020年11月2日〜令和3年1月18日)の資料から、磐田の近代産業の歩みを整理する。

本稿の要点

公式情報の整理

茶の始まり
天明年間(1781〜1789年)、水野福寿による磐田原の茶園開墾と伝わる
煙草の始まり
明治5・6年(1872・1873年)頃、見付横町(赤松付近)
甘藷切干同業組合
明治41年(1908年)、磐田郡甘藷切干同業組合設立
磐田アルコール工場
昭和14年(1939年)9月操業(昭和12年「アルコール専売法」公布を受けて建設)
国立銀行条例
明治5年(1872年)11月15日公布

茶 ── 旧幕臣の開墾から、大谷嘉兵衛との縁へ

磐田の「お茶」は、天明年間(1781〜1789年)に旧徳川家幕臣・水野福寿が磐田原に林野を開いて茶園をつくったことに始まると伝わる。弘化4年(1847年)に生まれた水野家の当主は、私財を投じてまで先代の茶園を継ぎ、荒れた状態であった茶地の品質改良に努めた。旧幕臣の家系ということもあり、水野家は京都の宇治茶の製法を自ら学びに出向くなど、茶樹の生育や製茶に力を注いだと伝えられている。

明治以降、旧幕臣による横浜開港後の茶輸出の盛り上がりを受け、磐田原の茶業は新たな局面を迎える。明治初年、駅逓頭を務めた前島密は、磐田原に「新興業地」(茶)の開墾を計画し、明治10年代には岩井村(現・磐田市岩井)の農民が開墾に入植した。明治9年(1876年)には中遠部(磐田原西部)にも茶樹の生育に適した土地として明治政府から旧幕臣・静岡藩士が入植することが指導された。この他にも、上浅羽村(現・袋井市)などにもいくつかの旧幕臣が茶業に関わっていた。

磐田の茶業は、豊田郡の一部、磐田郡の神官であった大久保忠利が明治17年(1884年)頃、見付総社の神官という立場で茶業組合を結んだことで組織化が進んだ。忠利は早くから茶業に注目し、自ら山城国(京都府)の宇治茶園を視察して製茶教師を招くなど、地元の茶業を普及・指導した。明治27年(1894年)には見付に製茶伝習所を設置している。明治30年代には、日露戦争後の明治39年(1906年)、アメリカ直行船の寄港が叶った清水港の開港を機に、茶の再製・輸出港として清水港が発達し、「横浜港は潮風が激しく、茶が最も適当なる港」であったと再製工場の集中理由が説明されている。「茶聖」と呼ばれた大谷嘉兵衛は、日本茶の再製と輸出の中心となったこの清水港の発展に力を尽くした一人であった。

煙草 ── 見付横町から専売制度、そして栗田煙草工場へ

磐田市域の煙草栽培は、御厨村鎌田や小笠郡倉真村(現・掛川市)で万治年間(1658〜1660年)に始まったと伝わる。磐田市域では、明治5・6年(1872・1873年)頃、見付の横町(赤松付近)で栽培が始まり、明治13年(1880年)には鎌田産の優良品種「丸葉」・「虫不喰葉」が各地に配布され、この品種は「井通菜」と呼ばれた。明治20年代には見付の栗田茂平が操業を開始し、長谷川煙草工場、久野煙草工場など各地に煙草工場が置かれるようになった。

明治31年(1898年)、葉煙草専売法が施行されて専売制度の時代に入り、明治37年(1904年)の煙草専売法施行によって、国が中遠煙草株式会社を買収、見付煙草製造所が開設された。栗田家は明治37年(1904年)以降、江戸時代からの「紙巻き煙草」と「口付煙草」の製造業を「栗田煙草合資会社」として続け、大正2年(1913年)には栗田・長谷川の両工場が国に買収されて見付出張所・見付製造所が合併、見付専売支局と改称された。昭和16年(1941年)には中泉町西新町に名古屋地方専売局中泉葉煙草再乾燥場が完成、見付出張所からたばこ製造部門が分離して見付工場と改称された。戦後は昭和24年(1949年)に日本専売公社が設立され、昭和60年(1985年)の民営化を経て日本たばこ産業株式会社東海工場となり、昭和54年(1979年)に磐田工場・磐田原料工場は閉鎖・合併されている。

甘藷切干 ── 八百庄商店の全国出荷網

甘藷切干(サツマイモを蒸して薄く切り、乾燥させた保存食)の生産は、稲垣甚右衛門・大庭林蔵(りんぞう)の二人によって明治10年(1877年)頃に始まったとされる。明治20年に「甘藷切干之栞」が発行され、その5年前(明治15年頃)から製造していた「もの」が発生し、明治25年に初めて自家食用の「厚切」を発表したとされる。

甘藷切干の出荷先を示す資料「芳名簿『八百庄商店』甘藷切干出荷先」(明治末年代、2029件・397市町村等)には、北海道177件、青森36件、岩手50件など、全国各地の出荷先が記録されている。明治41年(1908年)には磐田郡甘藷切干同業組合が設立され、明治44年(1911年)には現・横須町(現・磐田市四十三号線加茂川東付近)に事務所を定め、目的として「甘藷切干の生産額における弊害を矯正し、品質、製品の梱包などのばらつきによる販路を拡張し、組合員の利益を増進する」ことなどが定款に定められた。検査と標章制度も整えられ、合格品には桜印など四種類の標章が付された。

昭和12年(1937年)に日中戦争が始まると、軍需用の燃料資源の安定確保が国家的課題となり、昭和13年(1938年)に「アルコール専売法」が公布された。これを受け、昭和14年(1939年)9月、磐田アルコール工場(磐田町に建設、後に中泉農学校の敷地を含む5万坪の用地に操業)が建設された。全ケ所の甘藷経済の振興にも役立つとされ、中泉農学校生徒による勤労奉仕作業も行われている。

磐田市煙草関係年表(抜粋)
年代内容
明治5・6年(1872・1873年)見付の横町(赤松付近)で煙草栽培が始まる
明治31年(1898年)葉煙草専売法施行、専売制度の時代に入る
明治37年(1904年)煙草専売法施行、見付煙草製造所開設
大正2年(1913年)栗田・長谷川両工場が国に買収され見付専売支局と改称
昭和16年(1941年)中泉葉煙草再乾燥工場完成、見付工場と改称
昭和60年(1985年)日本たばこ産業株式会社東海工場となる

銀行 ── 国立銀行条例と地域金融の広がり

明治5年(1872年)11月15日に国立銀行条例が公布され、政府紙幣を正貨(金貨)で払う六割にあたるものを株式会社化した資本金と、その六割の四分の三を公債証書(政府に納付し、これと引き換えに同額の銀行券発行の抵当として受け取る証書)を準備することで、国立銀行が設立されることとなった。明治9年(1876年)の同条例改正法により、資本金の八割までを公債証書とすることが認められ、これにより民間出資の銀行が全国に相次いで設立された(明治9年〜13年の「商況年表」前編には、うち86名が見付の株主であったとの記録がある)。

見付では、明治13年(1880年)9月に「川崎銀行」の本店として、平年給・支配人の談合により、資本金1万円近くに達した。当初は本店を見付に置く予定でしたが、将来性を見込んで浜松に本店を移す予定であったといい、県内では第三五国立銀行が創設され(明治5年制)、遠州地方では見付の鵜野吉左衛門や引佐の資産家とともに、第三五国立銀行の設立に関わった。市内では相次いで私立銀行(福田銀行・確明社・掛塚銀行・小島銀行・鎌田積蓄社など)が設立され、地場産業の援助・融資を行い、近代的な金融機関としての機能を期待されたのです。多くは大手銀行との合わせて変遷を遂げますが、地域の経済状況に応じてその機能を果たしたのです。

水利に乏しかった磐田原に茶園を開いた旧幕臣、甘藷切干を全国397市町村へ送り出した商人、そして地域の産業を支えた小さな銀行。磐田の近代は、いくつもの農産加工業とそれを支える金融の積み重ねの上に築かれてきた。

参考資料

銀行の設立経緯にかかわる一部の記述は、企画展資料の判読が難しい箇所を含むため、確認できた範囲にとどめて整理しています。

茶園、煙草工場、甘藷切干の倉。磐田の近代産業を支えた土地や建物には、今も地域の記憶が刻まれています。相続した家、空き家、使わなくなった土地について、「売る・貸す・残す」の前に一度整理して考えたい方は、富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。

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