磐田の郵便史 ──
中泉奉行だった前島密と、飛脚から郵便へ
飛脚と宿駅 ── 江戸の手紙のしくみ
手紙を出すこと ── いまでは切手一枚で誰にでもできる、当たり前のこの行為が、かつては特別なことだった。江戸時代、手紙や金子(きんす)を遠くへ運んだのは、飛脚(ひきゃく)である。幕府公用の書状を運ぶ「継飛脚(つぎびきゃく)」は、見付宿の問屋場(といやば)のような宿駅の継立(つぎたて)の仕組みに乗って、宿から宿へと人馬を替えながら走った。一方、民間の飛脚問屋は、商人の書状や為替、荷物を扱った。
速い便なら、江戸・大坂間を数日で結ぶこともできた。しかし、その料金は高かった。庶民が、遠くの親類にちょっとした近況を知らせるために、気軽に飛脚を頼めるようなものではなかったのである。通信は、宿場と街道という交通の骨格の上に載った、商人や役人など、限られた人のためのサービスだった。ほとんどの村人にとって、遠くの人と文字で連絡を取り合うことは、生涯にそう何度もない、特別な出来事だったのだ。この状況を根本から変えたのが、明治の郵便制度である。そして、その生みの親が、一時期この磐田の中泉に暮らしていたことは、あまり知られていない。
前島密、中泉に来る
時代は幕末維新にさかのぼる。慶応4年(1868年)、徳川宗家が駿河・遠江へ移されて静岡藩が成立すると(遠州報国隊の時代である)、藩は江戸から移り住む大量の旧幕臣たちの受け入れと、その生計の確保という難題に直面した。このとき、静岡藩の役人として遠州へ赴任してきたのが、前島密(まえじまひそか、1835〜1919)である。
前島は明治2年(1869年)1月、遠州中泉奉行(なかいずみぶぎょう)に任じられた。旧代官所の町・中泉を拠点に、彼が心血を注いだのは、移住してくる困窮した旧幕臣たちを、どう食べさせ、どう自立させるかという、難しい仕事だった。郵政博物館の研究によれば、前島は中泉に「中泉救院(なかいずみきゅういん)」という救済施設を設けたり、東海道の輸送を改善する「東海道中舟路之概略(とうかいどうちゅうしゅうろのがいりゃく)」という提案をまとめたりと、精力的に活動している。人と物をいかに効率よく動かし、困っている人々を救うか ── 中泉での彼の関心は、のちの郵便事業に通じるものだった。同年12月、前島はその手腕を新政府に見込まれて召し出され、中泉を去る。中泉にいたのは、わずか1年ほど。そして、その中泉を去ったわずか1年後、彼は太政官(だじょうかん)に、日本の郵便制度の創設を建議することになるのである。
前島密が明治2年1月に遠州中泉奉行に任じられ、同年のうちに開業方物産掛を経て12月に明治政府へ出仕したこと、明治4年の郵便創業を主導したことは、日本郵政・郵政博物館等の資料で確認できる。一方、磐田市域の各郵便局(中泉・見付・掛塚など)の正確な開設年月や、初代の郵便取扱役を務めた人物の特定は、今回の調査では確認できておらず、郵便局沿革資料や地域史料での確認が必要である。前島の中泉での活動と郵便創設との思想的なつながりは本稿の解釈であり、直接の因果を示す史料に基づくものではない。この点は推測として区別して読まれたい。
明治4年、郵便が始まる
明治4年(1871年)3月、前島の構想に基づき、まず東京・京都・大阪間で、官営の郵便が創業した。全国どこでもほぼ均一の安い料金、切手(きって)による前払い、そして毎日決まった時刻の配達 ── これは、距離ごとに値段が変わり、便も不定期だった飛脚とは、根本から異なる仕組みだった。「郵便」も「切手」も「葉書(はがき)」も、みな前島が定めた言葉だと伝えられる。いまや誰もが当たり前に使うこれらの言葉が、一人の人物の考案にさかのぼるというのは、驚くべきことである。この新しい仕組みは、驚くべき速さで全国へ広がっていった。
これほど急速な全国展開を、わずかな期間で可能にしたのには、うまい工夫があった。地方の隅々に国営の役所を新設するのではなく、各地の名望家に「郵便取扱役(ゆうびんとりあつかいやく)」を委嘱し、その自宅の一角を郵便の窓口(取扱所)として使わせたのである。旧宿場や町場の有力者が、自分の家の店先に郵便の看板を掲げる ── こうして、既存の建物と人脈を活かしながら、郵便網はまたたく間に日本中を覆っていった。東海道筋の見付や中泉でも、このようにして郵便の窓口が置かれていったと考えられる。かつて飛脚を継ぎ立てた宿駅の人脈と建物が、そのまま近代郵便の器として生まれ変わったのである。前島が中泉で身につけた「既存の仕組みを活かして人と物を効率よく動かす」発想は、この全国展開のやり方にも、どこか通じているようにも見える。
鉄道が運ぶ手紙、湊町の郵便局
郵便網が全国に広がると、手紙を運ぶ大動脈も、時代とともに姿を変えた。明治22年(1889年)に東海道線が全通し、中泉駅が開業すると、手紙の主役は街道から鉄道へと移る。走る列車のなかで郵便物を仕分けする「鉄道郵便車(てつどうゆうびんしゃ)」が、主要駅で郵袋(ゆうたい、郵便物を入れる袋)を積み降ろしし、そこから地域の集配網が枝のように広がっていった。かつて見付の宿場を中心に組み立てられていた磐田の通信は、いまや中泉駅を結節点とする、新しい地図の上に描き直されたのである。
一方で、鉄道の通らない土地でも、郵便は暮らしに根づいていった。天竜川河口の湊町・掛塚(かけつか)もその一つである。旧掛塚郵便局の局舎は、廻船(かいせん)で栄えた「遠州の小江戸」掛塚の、繁栄期の面影を伝える建物として、いまも人々の記憶にとどめられている。手紙の道は、街道・鉄道・湊と、その時代その時代の交通の主役に寄り添いながら、磐田じゅうへ伸びていった。郵便局は、単に手紙を扱うだけの場所ではなく、その町の交通と経済のありようを映す、時代の鏡でもあったのである。どの町にいつ郵便局ができ、どこに移っていったかをたどれば、その土地の盛衰の歴史が、そのまま見えてくる。
郵便が変えた、村の暮らし
郵便がもたらしたものは、単に手紙が早く安く届くようになったこと、だけではなかった。それは、村人の世界を大きく広げた。奉公や出稼ぎで遠くへ出た息子と、村に残る親とが、手紙で近況を伝え合えるようになった。都会の物価や仕事の情報が、文字で村へ届くようになった。やがて郵便為替や郵便貯金が始まると、郵便局は、送金と貯蓄を扱う、身近な金融機関の役割まで担うようになる。
それまで、遠くの人と連絡を取り合うことは、特別な人の特別な行為だった。それが、郵便によって、村のふつうの人々の日常になった。手紙一通で、村の外の広い世界とつながれる ── この変化が、明治の村人の意識に与えた影響は、想像以上に大きかったはずである。近代化とは、鉄道や工場だけでできあがるものではない。一通の手紙が確実に届くという、この地味な仕組みの浸透もまた、まぎれもなく近代化の重要な一面だったのである。
磐田の郵便史 ── あゆみ
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 江戸時代 | 継飛脚・民間飛脚が見付宿の問屋場など宿駅の継立で書状を運ぶ |
| 明治2年(1869) | 前島密、遠州中泉奉行に。中泉救院の設置など旧幕臣授産に尽力 |
| 明治4年(1871) | 前島の建議による郵便創業。以後、取扱所網が全国へ |
| 明治22年(1889) | 東海道線全通・中泉駅開業。鉄道郵便の時代へ |
| 大正8年(1919) | 前島密没。「郵便」「切手」の名づけ親として歴史に名を残す |
1円切手の人と、磐田
前島密の肖像は、いまも1円切手の図案として、実に100年近くにわたって使われ続けている。日本人なら誰もが一度は目にしたことのある、あの横顔である。その「郵便の父」と呼ばれる人物が、郵便を生み出すほんの直前の1年間、この磐田・中泉の町で、困窮した旧幕臣たちの暮らしの再建に、額に汗して頭を悩ませていた ── この事実は、磐田の近代史のなかで、もっと広く知られてよいことである。
もちろん、前島が中泉にいたことと、郵便制度を創設したこととの間に、直接の因果があると断定はできない。しかし、人と物をどう効率よく動かし、困っている人々をどう救うか ── 中泉で彼が向き合った課題は、郵便という「情報を全国に安く行き渡らせる」事業の思想と、確かに響き合っている。前島密の足跡を訪ねて中泉の町を歩くとき、あるいは街角の赤いポストの前でふと足を止めるとき、この小さな町と、日本じゅうに手紙を届ける通信制度とをつなぐ、目に見えない細い糸のことを、思い出してみてほしい。一通の手紙が当たり前に届くこの国のかたちは、その出発点の一つを、確かに磐田の中泉に持っているのである。それは、この土地がひそかに誇ってよい、日本の近代史の忘れられた一コマなのである。
主な参考資料
- 日本郵政「前島密年譜」、国立国会図書館「近代日本人の肖像 前島密」
- 荒川将「静岡時代の前島密 ― 中泉救院・「東海道中舟路之概略」を事例として」『郵政博物館研究紀要』第11号(2020年)
- 磐田物語「前島密の足跡を読む」「中泉代官所と、徳川の天領を治めたまち」「東海道・見付宿の面影」「旧掛塚郵便局から産業の記憶を読む」「なぜ見付ではなく中泉に駅ができたのか」
磐田市域の各郵便局の開設年月は未確認であり、本文中でその旨を明示している。
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