失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語 / 磐田から北へ ── 秋葉道・二俣街道の記憶
磐田共通 | 街道・信仰

磐田から北へ ──
秋葉道・二俣街道の記憶

磐田の道の話は、どうしても東西の東海道に偏る。しかしこの土地には、北へ向かうもう一つの道の系譜がある。火伏せの霊山・秋葉山をめざす参詣の道、天竜川筋の物資が行き交う道、そして明治の新道と幻の電鉄 ── 磐田の「南北軸」の歴史をたどってみる。

秋葉道 ── 火伏せの山への網の目

江戸時代の中期から後期にかけて、遠州北部の秋葉山(あきはさん、現在の浜松市天竜区)への参詣が、爆発的に盛んになった。火伏せの神への信仰(秋葉信仰)を背景に、全国から人々が秋葉山をめざすようになると、各地から山へ向かう道筋が「秋葉道(あきはみち)」「秋葉街道」と呼ばれるようになった。信州の高遠・飯田方面から南下してくる長い道だけでなく、東海道の側からも、袋井・見付・新居といった宿場を入口として、北へ向かう参詣路が、枝のように何本も延びていた。

これらの旧宿場に秋葉灯籠(常夜灯)が今も残ることは、静岡県の調査資料でも確認されている。竜洋の14基宮之一色の龍燈など、磐田市域に点々と残る常夜灯は、単なる火伏せの祈りの跡ではない。それは同時に、暗い夜道で「ここから秋葉山への道が始まる」ことを示す、道しるべの灯りでもあった。祈りと道案内 ── 常夜灯は、その二つの役割を兼ねて、北へ向かう参詣者を導いていたのである。

秋葉参詣のにぎわい

秋葉山への参詣が、どれほどの規模だったかを想像してみたい。江戸時代、伊勢参りと並んで、秋葉山への参詣は庶民の人気の的だった。とりわけ、火事を恐れる町方の人々にとって、火伏せの神・秋葉大権現は切実な信仰の対象であり、「秋葉講(あきはこう)」という参詣の講が各地に結ばれた。講の仲間が金を積み立て、順番に代表者を秋葉山へ送り出す「代参(だいさん)」の仕組みは、遠く離れた土地の人々をも秋葉山へと結びつけた。

信仰の道はまた、人と物と情報が行き交う道でもある。参詣者が歩けば、その道すじに茶屋や宿ができ、みやげ物が売られ、村と村が結ばれる。秋葉道は、単なる巡礼路ではなく、遠州の内陸部と沿岸部を結ぶ生きた交通路として、地域の経済と文化を支えていた。磐田を通る北への道もまた、この大きな秋葉参詣のにぎわいの一部だったのである。見付の常夜灯の前を、笠をかぶり杖をついた参詣者の列が、北へ北へと歩いていく ── そんな光景が、かつてこの土地にはあった。

見付 ── 東海道から北へ折れる場所

東海道を旅してきた参詣者が秋葉山へ向かうとき、見付は、その最も重要な分岐点の一つだった。国府以来の由緒ある町場で旅装をととのえ、いよいよ北の山道へ踏み出す ── 見付は、そんな「山への入口」でもあったのである。東西に走る日本の大動脈から、北の霊山へ ── 旅人は見付で東海道を離れ、磐田原台地の縁を北上し、天竜川沿いの道を経て、二俣(ふたまた)方面へと向かった。二俣は、東・西・南からの道が一点に合流する交通の要衝で、戦国期には徳川と武田が争った二俣城の城下町として、江戸期には秋葉参詣の重要な中継地として栄えた町である。

見付の側から見れば、この二俣への道は、二つの顔を持っていた。一つは、秋葉山をめざす信仰の道。もう一つは、天竜川の上流から流れ下ってくる材木や産物と結ばれる、経済の道である。久根(くね)鉱山の鉱石や天竜の木材が、後の時代まで人々に意識され続けたのは、この北への軸が、信仰と経済の両面で確かに生きていたからにほかならない。東海道が磐田を東西に貫く「横の道」なら、秋葉道は、磐田を南北に貫く「縦の道」だった。この縦横二本の道が交わるところに、見付という町の要としての位置がある。国府として、宿場として、そして秋葉道の分岐点として ── 見付が長く遠州の中心であり続けたのは、この交差点にあったからだといってよい。

磐田の「縦の道」── 海から山へ 東海道(横の道) 秋葉山 火伏せの霊山 二俣(諸道の合流点) 見付 東海道から北へ折れる 掛塚湊 遠州灘(海) 材木・産物 ↓/秋葉の札 ↑
図1 磐田の「縦の道」。東海道(横の道)と交わり、海から見付・二俣を経て秋葉山へと北へ延びていた。
確認できること・できないこと
秋葉信仰と秋葉道の広がり、東海道の旧宿場(袋井・見付・新居など)に秋葉灯籠が残ること、二俣が諸道の合流点だったことは、静岡県・浜松市の資料で確認できる。一方、見付から二俣へ至る近世の道筋の正確な経路(どの村を通ったか)や、秋葉道の磐田市域内のルートの詳細は、本稿では確定できておらず、絵図・道中記・現地の常夜灯の分布による確認が今後の課題である。本稿は、東西の東海道に対する「南北軸」という視点で、この地方の道を大づかみに読み直すことを主眼としている。

明治の新道 ── 高塚太郎平の執念

近世の北への道は、しょせん人と馬がやっと通れる細い道だった。参詣者が歩くにはよくても、荷車を通すには狭すぎた。この道を、車の通れる広い道に変えようと立ち上がったのが、別稿で詳しく扱った、向笠(むかさ)村の高塚太郎平(たかつかたろべえ)である。

明治の初年ごろまで、「東海道より北には、大八車(だいはちぐるま)の通れる道が一本もない」と言われるありさまだった。台地の上で作った農産物を運び出すにも、細い道を人が担ぐしかない。この不便を見かねた太郎平は、自らの全財産を投じて新しい道を切り開き、明治20年(1887年)についに完成させた。しかも彼は、その見返りとして県が認めた通行料の徴収権を、一度も使わなかったと伝えられる。私財を投げうって道を拓き、その利益を求めなかった ── 一人の意志が、磐田の南北交通の近代を切り開いたのである。この新道によって、北への道の目的は、秋葉参詣という「信仰の道」から、台地の農産物を東海道や鉄道の駅へ運ぶ「物流の道」へと、はっきり重心を移していった。時代が変わり、道に求められるものも変わったのである。

幻の電鉄 ── 同じ軸をなぞった光明電気鉄道

そして昭和のはじめ、この北への軸を、今度は鉄道でなぞろうとする壮大な試みが現れる。光明電気鉄道(こうみょうでんきてつどう)である。磐田駅前(新中泉)から見付を経て二俣町まで、昭和5年(1930年)に開業したこの電鉄は、まさに「見付と二俣を結ぶ」という、秋葉道以来の南北軸を、電車という最新の技術でなぞろうとするものだった。久根鉱山の鉱石と天竜の木材を運び出すことを夢見たこの鉄道は、参詣者が歩き、大八車が越えた道を、鉄の車輪で結ぼうとしたのである。それは、江戸以来の「北への道」の夢を、近代技術の粋を集めて実現しようとする、いわば集大成の試みだった。見付と二俣を電車で結べば、天竜の富が磐田へなだれ込む ── そんな壮大な未来図が、当時の人々の胸には描かれていた。

しかし、この壮大な夢は、わずか7年で力尽きた。過大な投資と、当てにした貨物の伸び悩みが、若い電鉄を破綻させたのである。それでも、注目すべきことがある。参詣の道(秋葉道)、車の道(高塚新道)、そして鉄の道(光明電鉄)── 手段こそ時代とともに替わったが、「磐田から北へ」という同じ一つの方向感覚が、江戸から昭和まで、三たび形を変えて挑まれ続けたという事実である。そしてこの北への志向は、いまも途絶えていない。現在の県道や、磐田原の北を東西に走る天竜浜名湖鉄道(豊岡と天浜線)へと、その系譜は静かに引き継がれている。道は失われても、道が向かおうとした方向 ── 山と海を結ぼうとする志向そのものは、土地の記憶として生き続けるのである。線路の跡はやがて草に埋もれ、駅の名も忘れられる。しかし、なぜこの土地の人々が繰り返し北をめざしたのか、その理由(天竜の富と、秋葉の信仰と、台地の産物)を知れば、廃線跡の一本の道さえ、意味を持って見えてくる。

「北へ」── 手段を替えて三たび挑まれた道 秋葉道 江戸中期〜 参詣の道(歩く) 高塚太郎平新道 明治20年 車の道(大八車) 光明電気鉄道 昭和5〜11年 鉄の道(電車・のち廃止) 現代 県道・天浜線へ 手段は替われど、「磐田から北へ」という方向は生き続けた
図2 「北への道」の系譜。参詣の道・車の道・鉄の道と形を替えて、同じ南北軸が挑まれ続けた。

「北への道」の系譜

時代性格
江戸中期〜秋葉道見付など東海道の宿場から秋葉山への参詣路。常夜灯が導いた
明治20年(1887)高塚太郎平新道私財による車道開削。台地の物流を東海道へつなぐ
昭和5〜11年(1930〜36)光明電気鉄道磐田駅前〜二俣。鉱石・木材輸送を夢見た電鉄(のち廃止)
現代県道・天竜浜名湖鉄道南北軸の後継。磐田原を貫く生活の道

南北の道から磐田を見直す

東海道だけを見ていると、磐田は「東西に通過されるだけの土地」に見えてしまう。旅人が足早に通り過ぎていく、宿場のある通過点。それが東海道から見た磐田の姿である。しかし、そこにもう一本、北への道を重ねてみると、まったく違う磐田が立ち上がってくる。北に秋葉山や天竜の山々を、南に遠州灘の海をひかえた磐田は、じつは「山と海を結ぶ結節点」だったのである。

秋葉山の火伏せの札が、北から南へ運ばれて海辺の福田の常夜灯にまで届く。天竜の山で伐り出された材木が、川を下り、掛塚湊から海へと積み出されていく。北の山と南の海のあいだで、人と物と信仰が行き交う ── その中継ぎを担っていたのが、ほかならぬ磐田の南北の道だった。東海道という横糸だけでなく、この縦糸を意識したとき、磐田は「通過される土地」から「結び合わせる土地」へと、見え方を変える。辻の常夜灯の前を通りかかったら、その灯がかつて照らしていた北の方角を、そっと思い出してほしい。そのとき、磐田の地図は、東西の東海道の陰に忘れられていたもう一つの軸 ── 南北の軸を、静かに取り戻すのである。土地の歴史は、一本の道からだけでは読み解けない。縦と横、二本の道を重ねて初めて、磐田という土地のほんとうの姿が見えてくる。

主な参考資料

見付から二俣への近世の道筋の詳細な経路は未確定であり、本文中で課題として明示している。

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。