遠州報徳運動と磐田 ──
勤倹と推譲が村を立て直した
報徳とは ── 至誠・勤労・分度・推譲
報徳は、小田原出身の農政家・二宮尊徳(金次郎、1787〜1856)が説いた、道徳と経済を一体のものとする実践思想である。柱は四つ。誠を尽くす「至誠」、こつこつ働く「勤労」、収入に応じて支出の上限を定める「分度(ぶんど)」、そして余剰を借金の返済や貯蓄、他者や将来への譲りにあてる「推譲(すいじょう)」。精神論に終わらず、帳簿と積立という具体的な技術を伴う点が特徴で、荒廃した農村の復興手法として各地で実践された。
安居院庄七 ── 遠州に種をまいた行商人
この教えを遠州に運んだのが、相模国出身の安居院庄七(あぐいしょうしち、義道。1789〜1863)である。行商のなかで尊徳の教えに出会って傾倒した庄七は、遠州の村々を歩いて報徳の実践を説いた。弘化4年(1847年)、庄七の勧めにより、現在の浜松東部の下石田村に、神谷与平治を中心とする報徳社が結成される。遠州における報徳結社の始まりとされるもので、天竜川を挟んで磐田の対岸にあたる村だった。飢饉と貧困に苦しむ村を、外からの救済ではなく、村人自身の勤倹と積立で立て直す ── この方法論は、藩の保護を持たない天領・旗本領の入り組む遠州の村々の実情に、よく合っていた。
報徳王国・遠州
庄七がまいた種は、明治に入って一気に広がる。明治8年(1875年)には乱立する結社をまとめる遠江国報徳社が組織され、のちに掛川を本拠とする大日本報徳社(明治44年改称)へと発展した。明治末期には、全国の報徳社の大半が遠州に集中していたとされ、遠州はまさに「報徳王国」だった。別稿(遠州の学問の土壌)で扱ったとおり、竜洋の寺子屋教育の系譜にも報徳運動の影響は流れ込んでいる。勤倹・積立・共同 ── 報徳の型は、明治の産業組合(農協の前身)や信用組合の受け皿にもなり、遠州の農村の近代化を下支えした。
安居院庄七の事績、弘化4年の下石田村報徳社の結成、明治8年の遠江国報徳社、大日本報徳社への発展、明治末期の遠州への集中は、研究資料で確認できる。一方、磐田市域の個々の村の報徳社の結成年・活動内容は今回の調査では網羅できておらず、村文書での個別確認が今後の課題である。
磐田の村々と報徳 ── これからの調査課題
磐田市域の報徳運動の具体像は、まだ十分に掘り起こされていない。しかし状況証拠は揃っている。最初の報徳社が生まれた下石田村は天竜川対岸の隣村であり、運動の総本山となる掛川は東隣である。磐田は、報徳運動の発祥地と中心地に挟まれた回廊に位置していた。名望家たちが村の立て直しに携わった時代、磐田原の開発や水利の共同管理のような「みんなで積み立てて、みんなで直す」型の事業の背後に、報徳的な発想がどの程度働いていたのか ── 各地区の報徳社の記録を一つずつ確かめることが、磐田物語の次の宿題である。
遠州報徳運動のあゆみ
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 天保年間〜 | 安居院庄七、二宮尊徳の教えに傾倒し遠州で布教 |
| 弘化4年(1847) | 下石田村(現浜松市東部)に遠州最初の報徳社。神谷与平治ら |
| 文久3年(1863) | 庄七没 |
| 明治8年(1875) | 遠江国報徳社の組織化 |
| 明治44年(1911) | 大日本報徳社と改称(本拠・掛川)。明治末期、報徳社は遠州に集中 |
「やらまいか」と「報徳」── 遠州の両輪
進取の「やらまいか」気質(別稿)が遠州のアクセルだとすれば、報徳は遠州のブレーキであり、貯金箱だった。挑戦する気風と、堅実に積み立てる気風。この二つが同じ土地に同居していたことが、遠州の農村と産業のしぶとさの秘密なのかもしれない。二宮金次郎の像が校庭に立つ意味を、磐田の子どもたちに語り直すためにも、この土地の報徳の記憶は、掘り起こしておく価値がある。
主な参考資料
- 農林中金総合研究所「協同組合の原点「二宮尊徳の報徳」を広めた安居院庄七」
- Wikipedia「安居院義道」、森町「報徳報本社の成立と地域社会」
- 磐田物語「遠州の学問の土壌」「磐田の村を動かした「名望家」」「磐田の水争いと村の共同体」「磐田の相給村」
磐田市域の個々の報徳社の記録は未網羅であり、本文中で課題として明示している。
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