ヤマハ発動機と企業城下町としての磐田 ──
1955年の分離独立から御厨へ
楽器メーカーから飛び出した、もう一つのヤマハ
ヤマハ発動機株式会社は、1955年(昭和30年)7月1日、日本楽器製造株式会社(現・ヤマハ株式会社)から分離独立して誕生した。初代社長には、日本楽器製造の社長でもあった川上源一が就任している。楽器メーカーであった日本楽器製造が、なぜオートバイや船外機を手がける会社を独立させたのか。戦後の混乱期、遊休化していた工作機械や技術者の力を、新しい分野――輸送用機器の製造へと転用しようとした試みが、この分離独立の背景にあった。
赤トンボが世に出た年 ── YA-1と草創期のレース。 分離独立と同じ1955年(昭和30年)、ヤマハ発動機は最初の製品となるオートバイ「YA-1」を世に送り出した。排気量125cc・最高出力5.6馬力。栗茶色のほっそりした車体から「赤トンボ」の愛称で呼ばれたこの一台は、発売の年からいきなり戦績を上げる。同年7月10日の第3回富士登山レースでは、ウルトラライト級で岡田輝夫が優勝し、上位もYA-1がほぼ独占した。さらに同年11月の第1回浅間高原レース(全日本オートバイ耐久ロードレース)125cc級でも上位を独占し、生まれたばかりのメーカーの名は一気に全国へ広まった。「まずレースで勝って名を売る」という草創期の戦い方は、のちに世界GPへ挑む同社の体質の原型になったといえる。
海へ ── 船外機とFRPボート。 1960年(昭和35年)、ヤマハ発動機は初の船外機「P-7」と、初期の市販FRP(繊維強化プラスチック)ボート「CAT-21」「RUN-13」を発売し、マリン事業へ進出した。P-7はオートバイ用に開発した小型エンジンの技術を転用したもので、レジャーだけでなく漁業用としても使える実用性を備えていた。CAT-21は翌1961年の第1回太平洋1000kmモーターボートマラソン(東京〜大阪)で優勝している。楽器から二輪へ、二輪から船へ ── エンジンとFRPという二つの技術を軸に事業を広げていくこの多角化の系譜が、のちの磐田工場に二輪車と船外機の両方の量産ラインが置かれる伏線となった。
磐田工場の稼働と、量産体制の確立。 ヤマハ発動機にとって大きな転機となったのが、磐田工場の建設である。1961年(昭和36年)、磐田工場の新設が正式に決定され、1963年(昭和38年)から本格的に稼働を開始した。この工場の整備によって、二輪車と船外機の両方を大量生産できる体制が整えられたことは、その後のヤマハ発動機の成長にとって決定的な意味を持った。磐田という土地が、単なる一工場の立地先から、企業の中核を担う生産拠点へと重みを増していった時期である。
分離独立の年月日、初代社長、磐田工場の新設決定・稼働開始年、本社の御厨移転年については、公的な情報源等で確認できる。一方、磐田工場が具体的にどのような経緯で立地先として選ばれたのか(用地取得の詳細な経緯等)については、今回のWeb調査の範囲では確認できていない。
トヨタ2000GTを組み立てた町
磐田工場の名を自動車史に刻んだのが、トヨタ2000GTである。トヨタ自動車工業とヤマハ発動機が共同で開発したこのスポーツカーは、1964年(昭和39年)から開発が始まり、1965年の東京モーターショーでプロトタイプが発表された。市販車の生産はヤマハ発動機に委託され、1967年(昭和42年)の発売から1970年(昭和45年)の生産終了まで、337台が磐田の新工場でつくられた。日本車として初めて世界水準のグランツーリスモを目指したと評されるこの車は、いまや国内外のオークションで億単位の値がつく伝説的存在だが、その一台一台が磐田で組み立てられたことは、地元でも意外に知られていない。母体の日本楽器が楽器づくりで培った木工・塗装の技と、二輪で鍛えたエンジン技術の両方が、この委託生産を支えたと語られている。
本社が、御厨へやってきた。 1972年(昭和47年)2月、ヤマハ発動機は本社を磐田市新貝(しんがい)に移転した。磐田物語の別稿で触れたとおり、新貝は古代の国分寺瓦を焼いた窯跡が残る土地でもある。古代の「ものづくり」の記憶が眠る土地に、現代の機械工業を担う本社が置かれたことは、単なる偶然というより、この一帯が古くから生産と製作に適した土地であり続けてきたことの、一つの表れなのかもしれない。
「やらまいか」気質が生んだ企業。 磐田物語の別稿(遠州弁辞典)で触れたとおり、遠州地方には「やらまいか(一緒にやろうじゃないか、とにかくやってみよう)」という言葉に象徴される、進取の気性を尊ぶ気質があるとされる。失敗を恐れず新しいことに挑むこの気質は、ヤマハ発動機やスズキといった、遠州を代表する企業を生んだ風土的な支柱ともいわれている。日本楽器製造という老舗企業のなかから、あえて畑違いの輸送用機器という新分野に挑む部門を独立させたヤマハ発動機の成り立ちそのものが、この「やらまいか」気質を体現する事例だったと見ることもできるだろう。
企業城下町としての磐田、御厨の現在。 本社移転以降、磐田工場を中心とする周辺地域は、ヤマハ発動機とともに発展を続けてきた。磐田物語の別稿(御厨駅と現代の御厨)で触れたとおり、現在の御厨地区は、ヤマハ発動機の本社・工場群と、Jリーグ・ジュビロ磐田のホームスタジアム「ヤマハスタジアム」を擁する、産業とスポーツの拠点となっている。ジュビロ磐田自体も、もともとヤマハ発動機のサッカー部を母体としたクラブであり、企業の存在が、地域のスポーツ文化の形成にも直接つながっている。近年は「Town eMotion」という名称で、ヤマハ発動機と地域住民が協働してまちづくりに取り組むプロジェクトも進められており、単なる「工場のある町」から一歩進んだ関係が模索されている。
磐田市域には、城之崎遺跡のように、ヤマハ発動機の社員寮建設計画がきっかけとなって発掘調査が行われた場所もある。企業の経済活動が、意図せず地域の考古学的な記憶を掘り起こす契機になった例であり、ヤマハ発動機と磐田という土地との関わりが、単に雇用や税収にとどまらない、多層的なものであることをうかがわせる。
| 1955年7月1日 | 日本楽器製造から分離独立。初代社長は川上源一。同年、第1号車YA-1(赤トンボ)発売 |
|---|---|
| 1955年7月・11月 | YA-1、第3回富士登山レースと第1回浅間高原レースの125cc級で上位独占 |
| 1960年 | 初の船外機P-7、市販FRPボートCAT-21・RUN-13でマリン事業へ進出 |
| 1961〜1963年 | 磐田工場の新設決定、本格稼働。二輪車・船外機の量産体制を確立 |
| 1967〜1970年 | トヨタ2000GTを磐田の新工場で委託生産。総生産337台 |
| 1972年2月 | 本社を磐田市新貝に移転 |
| 1994年 | ヤマハ発動機サッカー部を母体とするジュビロ磐田がJリーグ参入 |
| 現在の御厨 | 本社・工場群、ヤマハスタジアム、Town eMotionによる協働まちづくり |
主な参考資料
- ヤマハ発動機公式サイト「企業概要」「ヤマハヒストリー」(YA-1開発ストーリー、『トヨタ2000GT』の試作から生産へ、マリン事業60周年史)
- ヤマハ発動機 コミュニケーションプラザ収蔵品解説(YA-1、P-7、CAT-21)
- トヨタ自動車75年史 車両系統図「トヨタ2000GT」
- Wikipedia「ヤマハ発動機」「トヨタ・2000GT」
- 磐田物語「新貝」「御厨駅と現代の御厨」「城之崎遺跡」
磐田工場の立地選定の詳細な経緯等は今回のWeb調査では確認できておらず、本文中で確認できた点とできない点を区別して記している。
更新履歴
- 「赤トンボが世に出た年」「海へ ── 船外機とFRPボート」「トヨタ2000GTを組み立てた町」の3節を追加し、年表を拡充。同社公式のヤマハヒストリー等に基づく。
- 初版公開。
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