古代磐田の税・物流・水運 ──
租庸調を運んだ道と川
租・庸・調という、三種類の税
律令国家は、人々に「租(そ)」「庸(よう)」「調(ちょう)」という三種類の税を課していた。租は、口分田(くぶんでん)の収穫から一定割合を納める稲の税で、地方に留め置かれ、国衙の財源等にあてられることが多かった。庸は、都での労役の代わりに布などを納める税、調は、各地の特産品(布・海産物・鉱物等)を都へ納める税である。租が地方で使われる税であったのに対し、庸・調は都まで運ばれる税だったという違いは、古代の物流を考えるうえで重要な出発点になる。
瓦を運んだ道 ── 国分寺が伝える物流の実例
磐田物語の別稿(遠江国分寺とは何か)で触れたとおり、遠江国分寺や国分尼寺の瓦は、主に掛川市(旧大須賀町)の窯で焼かれ、遠江国分寺のあるこの地まで運ばれてきた。のちの屋根の修復のためには、磐田市寺谷でも瓦が焼かれている。これは税そのものではないが、国家的な建設事業のために、広い範囲から資材を集め、運び込むという古代の物流の実例として読むことができる。都へ納める調とは逆方向の流れではあるが、いずれも「モノを運ぶ仕組み」が古代からこの地に存在していたことを示している。
租庸調という税制度の一般的な仕組み、遠江国分寺の瓦が掛川市域の窯から運ばれたことは、既存の資料等で確認できる。一方、磐田郡から都へ具体的にどのような調(特産品)が納められていたか等、磐田固有の貢納の記録については、今回のWeb調査の範囲では確認できていない。
駅家と水運 ── 税を運ぶためのインフラ
磐田物語の別稿(古代東海道と駅家)で扱ったとおり、古代の官道には、公用の人馬を継ぎ立てる駅家(うまや)という施設が置かれていた。都へ納める調・庸を運ぶ人々もまた、こうした官道を利用していたと考えられる。また、御厨古墳群で触れたとおり、磐田原台地の南は遠州灘へ続く低地であり、この一帯が太平洋側の海上交通に開かれた位置にあったことは、地形の大枠から考えられている。鏡や鉄製品といった古墳時代の威信財が、広域の交流を通じて手に入れられていたことも、この土地が古くから水運による物流の結節点だったことを示唆している。道と川、二つの物流網が、古代の磐田を支えていたのである。
自らの足で都まで運んだ人々 ── 運脚という労役
調・庸を都まで運ぶ役目を負ったのが「運脚(うんきゃく)」と呼ばれる人々である。運脚は、各地の農民から徴発され、自らの食料を持参したうえで、徒歩で都まで税を運ぶことを義務づけられていた。都までの道のりは、遠江国のような東国からであれば、片道だけでも数週間を要したとされる。しかも、都に着くまでの食料は自弁であり、道中で食料が尽きたり、体調を崩したりして、命を落とす者も少なくなかったと伝えられる。磐田郡・豊田郡から都へ向かった運脚たちも、駅家が整備された古代東海道を、幾日もかけて歩いていったはずである。国府・国分寺という華やかな古代の遺産の陰に、この運脚という重い労役があったことも、あわせて記憶しておきたい。
税を納めるという営みの、その先にあったもの
租庸調という税制度は、農民にとって決して軽い負担ではなかった。都まで自ら調・庸を運ぶ「運脚(うんきゃく)」という労役も課され、その道中で命を落とす者もいたと伝えられる。国府・国分寺という華やかな古代の遺産の陰には、こうした税を納め、物資を運んだ名もなき人々の労苦があった。磐田という土地の古代の繁栄を語るとき、統治する側の視点だけでなく、税を運んだ人々の視点も、あわせて思い浮かべておきたい。
| 租(そ) | 口分田の収穫からの税。地方に留め置かれることが多い |
|---|---|
| 庸(よう)・調(ちょう) | 労役の代わりの布、各地の特産品。都まで運ばれる税 |
| 国分寺瓦の物流 | 掛川市域の窯から遠江国分寺まで運ばれた実例 |
| 物流インフラ | 駅家(古代東海道)、遠州灘への海上交通(御厨古墳群) |
主な参考資料
本記事は、上記の磐田物語の既存記事を土台に、租庸調という税制度の観点から再構成したものである。磐田固有の貢納記録の詳細は今回のWeb調査では確認できておらず、本文中で確認できた点とできない点を区別して記している。
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