失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語御厨地区 / 二子塚古墳

御厨・三ケ野台 | 市指定文化財

二子塚古墳 ── 三ケ野台に残る、市指定の馬具と馬形埴輪

三ケ野台に築かれた二子塚古墳は、古墳時代中期末の築造と考えられる古墳である。朝鮮半島から馬の飼育の風習が伝わった時期に副葬された青銅製の馬具が市指定文化財となっているほか、同じ古墳から出土した馬形埴輪の尻部には、副葬された馬具と同じ鈴杏葉がデザインされており、大変珍しい事例として知られる。

古墳時代中期には、朝鮮半島から馬の飼育の風習が伝わり、磐田市内の古墳でも中期後半から馬具が副葬され始める。二子塚古墳は、中期末に築かれた古墳で、副葬された馬具が出土し、市指定文化財となっている。

本稿の要点

公式情報の整理

文化財名
二子塚古墳(出土馬具)
指定区分
市指定文化財
所在地
磐田市三ケ野台
年代
古墳時代中期末
主な出土品
青銅製馬具(鈴杏葉の意匠)、馬形埴輪(尻部に鈴杏葉と同じ意匠)

このページでは、年代・出土品を、磐田市文化財課発行の「いわた文化財だより」に基づいて整理する。パンフレットの文面はそのまま写さず、御厨古墳群・堂山古墳との関係から独自に再構成する。

馬具が語る、権力と技術の伝来

古墳時代中期、朝鮮半島から馬の飼育の風習が日本列島へ伝わった。これにともない、市内の古墳でも中期後半から馬具が副葬され始める。中期末に築かれた二子塚古墳からは、副葬された馬具が出土し、市指定文化財となっている。馬を飾るための青銅製の馬具は、被葬者の権力の大きさを示すと考えられている。

馬の飼育という新しい技術と文化が、大陸から半島を経てこの地に伝わり、地域の有力者がそれをいち早く取り入れていたことを、二子塚古墳の馬具は物語っている。馬具の副葬は、単なる装飾ではなく、当時の東アジア規模の技術・文化交流のなかに、御厨の地の有力者が位置づけられていたことを示す証拠でもある。

馬形埴輪に刻まれた、同じ意匠

二子塚古墳出土の馬具には「鈴杏葉」と呼ばれる意匠が見られる。杏(あんず)の葉の形をした飾り金具に鈴を組み合わせたもので、馬を飾る馬具の代表的な意匠の一つである。

興味深いのは、同じく二子塚古墳から出土した馬形埴輪の尻部に、この鈴杏葉と同じデザインが表現されていることである。実際の馬具の意匠が、埴輪という土製品の表現にそのまま写し取られている例は大変珍しい。副葬された本物の馬具と、埴輪に表現された意匠が一致するこの事例は、当時の人々が馬という存在をどれほど重要視していたか、そしてその飾りつけがどれほど正確に、意識的に模倣・表現されていたかを伝えている。

御厨古墳群・堂山古墳とのつながり

二子塚古墳は、松林山古墳を中心とする御厨古墳群(u027、古墳時代前期)や、全長110mの堂山古墳(u037、古墳時代中期)よりも新しい、古墳時代中期末の古墳である。大型前方後円墳の時代から、馬具という新しい威信財を副葬する時代へ。御厨・三ケ野台一帯の古墳の変遷は、この地の有力者たちが、時代ごとに変化する権力の示し方を取り入れ続けてきたことを物語っている。

本物の馬具と、埴輪に写し取られた同じ意匠。二子塚古墳は、馬という新しい文化がこの地にもたらされた瞬間を、二重に伝えている。

参考資料

本文は上記資料の記載内容を転載せず、事実関係を整理したうえで独自に再構成したものです。

時代ごとに新しい文化を取り入れてきたこの地の有力者たち。土地の記憶は、いつも少しずつ形を変えながら受け継がれています。相続した家、空き家、使わなくなった土地について、「売る・貸す・残す」の前に一度整理して考えたい方は、富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。

家・土地・空き家の整理について相談する
← 御厨地区の入口ページへ戻る 全記事一覧を見る