磐田市見付・一言にある、かぶと塚公園内の総合体育館横の小山。これが兜塚古墳である。文化財課では令和7年度、古墳の測量調査や出土遺物の再整理作業をおこない、これまでの調査をまとめた総合報告書を刊行した。測量調査を基に築造時の兜塚古墳の姿を復元したところ、直径約84mの円墳であったことが明らかになった。
- 令和7年度の測量調査により、築造時は直径約84m・高さ約8m程度の円墳であったことが判明。名古屋市の国史跡・八幡山古墳と並び、円墳としては東海地方最大級の規模。
- 出土した埴輪等から、古墳時代中期前葉(およそ1,600年前)の築造と考えられる。この時期の古墳としては遠江地方で最大であり、被葬者はヤマト政権から認められた実力者であったと考えられる。
- 副葬品は銅鏡1面(三神三獣鏡、径20.1cm)、勾玉・棗玉・管玉など玉類が計50点、鉄刀2振以上。銅鏡は日本国内で作られた大型品で、近畿地方中心のヤマト政権から手に入れたものと考えられる。
- 戦時中は陸軍第一航空軍情報連隊(中部第129部隊)の本部が古墳のすぐ南側に置かれ、墳丘上には監視所の鉄塔が建てられた。戦後は静岡大学農学部の前身が置かれ、学生会館が建てられた時期もある。
公式情報の整理
- 文化財名
- 兜塚古墳
- 所在地
- 磐田市見付・一言(かぶと塚公園内)
- 規模
- 直径約84m・高さ約8m程度の円墳(令和7年度測量調査による復元)
- 年代
- 古墳時代中期前葉(およそ1,600年前)
- 主な副葬品
- 三神三獣鏡(銅鏡、径20.1cm)、勾玉・棗玉・管玉などの玉類(計50点)、鉄刀2振以上
- 調査状況
- 昭和54年の第1次発掘調査を皮切りに5度の発掘調査を実施。令和7年度に測量調査・出土遺物再整理と総合報告書刊行。
- 現況
- 磐田市かぶと塚公園として保存・公開。
このページでは、規模・出土品・調査経過を、磐田市文化財課発行の「いわた文化財だより」および企画展資料に基づいて整理する。パンフレットの文面はそのまま写さず、地形・伝承・近代史との関係から独自に再構成する。
直径84m、東海地方最大級の円墳
兜塚古墳は、江戸時代後期には名所として知られていた。しかし、その正確な規模は長らく確定していなかった。磐田市文化財課は令和7年度、古墳の測量調査と出土遺物の再整理作業をおこない、これまでの調査をまとめた総合報告書を刊行した。測量調査を基に築造時の姿を復元したところ、直径約84mの円墳であったことが明らかになった。本来の高さは8m程度であったと考えられる。
これは、名古屋市の国史跡・八幡山古墳と並ぶ規模であり、円墳としては東海地方最大級である。出土した埴輪等から、古墳時代中期前葉、およそ1,600年前の築造と考えられる。この時期の古墳としては遠江地方で最も大きいことから、被葬者はヤマト政権から認められた実力者であったと考えられている。
豪華な副葬品
副葬品には、銅鏡1面、勾玉や棗玉、管玉といった玉類が計50点、鉄刀2振以上が見られる。銅鏡の裏面には中国の伝説上の神と霊獣が3体ずつ表現されている。中国製ではなく日本国内で作られた鏡だが、大型品で、現在の近畿地方を中心とするヤマト政権より手に入れたものと考えられる。この鏡は三神三獣鏡と呼ばれ、径20.1cmを測る。
勾玉には碧玉製のものが含まれ、被葬者の身分の高さをうかがわせる。昭和54年の第1次発掘調査を皮切りに、5度の発掘調査がおこなわれ、古墳の外側の墳丘を取り巻く周溝が見つかっている。周溝からは円筒埴輪片が出土している。
墳頂が掘削された際、銅鏡をはじめとする副葬品が見つかった。この時、埋葬施設に係る石材や粘土は確認されなかったようで、遺体を納めた木棺を直接地中に埋めたものと考えられている。
名前の由来 ── 本多平八郎忠勝の伝説
兜塚古墳は、江戸時代後期には名所として知られていた。享和3年(1803年)に、文化人として知られていた掛川宿の藤長庚があらわした『遠江古跡図絵』でも紹介されている。この本によれば、徳川軍と武田軍の一言坂の戦いの際に、兜塚古墳の近くで本多平八郎忠勝が兜を脱ぎ捨てて奮戦したことが名称の由来になった、とも伝えられている。ただし、これは江戸時代の書物に記された伝承であり、発掘調査で裏づけられた史実ではない。
戦中・戦後のできごと
兜塚周辺一帯には、戦時中に陸軍第一航空軍情報連隊(中部第129部隊)が置かれ、古墳のすぐ南側に本部が設置されていた。また、墳丘上には鉄塔が建てられ、監視所となっていた。頂上部には、その時の基礎の可能性があるコンクリートが残されている。
戦後は、昭和22年に県立静岡農林専門学校が、昭和26年に静岡大学農学部が設立されると、兜塚古墳の墳丘の一部に学生会館が建てられた(現在は撤去)。農学部が静岡市へ移転した後、磐田市かぶと塚公園の設置に伴い、公園の一角に保存され、現在に至る。
磐田原の大首長
兜塚古墳は、磐田原台地西南部の中泉丘陵の付け根部分の最高所に位置しており、被葬者は丘陵一帯を基盤としていた人物と考えられる。今では埋め立てられて見られないが、遠州灘とつながっていた今之浦低地帯に広がる潟湖(ラグーン、奈良時代には「大の浦」と呼ばれた)を望める立地でもあることから、大の浦周辺の水運を支配した大首長であったと考えられる。
この立地は、見付の南、御厨の松林山古墳(u027)や、磐田原台地西縁の銚子塚古墳(k047)とも共通する。磐田原台地の縁という立地が、古墳時代を通じてこの地域の有力者たちに選ばれ続けてきたことがうかがえる。
江戸時代には本多忠勝の伝説とともに語り継がれ、戦時中は軍の監視所となり、戦後は大学の跡地を経て公園となった一つの円墳。その足もとには、東海地方最大級という規模が、令和の測量によってようやく確定した。
参考資料
- 磐田市文化財課「いわた文化財だより」第254号(令和8年5月1日発行)
- 藤長庚『遠江古跡図絵』(享和3年、1803年)
- 磐田市埋蔵文化財センタートピック展示「イワタの大首長・兜塚古墳」(令和8年5月2日〜7月26日)
- 磐田物語「甲塚のクロガネモチ」m025(古墳のかたわらに残る県指定天然記念物)
本文は上記資料の記載内容を転載せず、事実関係を整理したうえで独自に再構成したものです。