磐田市海老塚に、少林寺という寺があった。慶長5年(1600年)の創立と伝わり、江戸末期には遠江四十九薬師めぐりの第四番札所として、多くの巡礼者を集めていたという。寺そのものは昭和47年(1972年)に廃寺となったが、旧境内には高くそびえる大イチョウが今も残る。
この記事の要点
- 少林寺は慶長5年(1600年)創立と伝わり、遠江四十九薬師めぐり第四番札所であった。
- 昭和47年(1972年)に廃寺となったが、旧境内の大イチョウ(目通り3.8m、枝張り20m、樹齢300年以上)は現存する。
- 根元には享保17年(1732年)寄進の観音石像がある。
薬師巡礼を集めた寺
少林寺の創立は慶長5年(1600年)と伝わる。これは関ヶ原の戦いが起きた年であり、徳川の世が本格的に始まろうとする時期にあたる。江戸期を通じて、少林寺は遠江四十九薬師めぐりの第四番札所を務めた。遠江四十九薬師めぐりは、遠江国内の薬師如来を祀る寺々を巡る巡礼路で、少林寺はその早い段階の札所として位置づけられていたことになる。江戸末期には、多くの巡礼が訪れ、御詠歌を唱えたと伝わる。
『町内史跡めぐり』の巻末に付された「豊田町内巡礼札所一覧表」によれば、少林寺跡は遠江四十九薬師めぐりの第四番であると同時に、豊田三十三か所観音巡礼の第三十二番でもあったという。ひとつの寺が複数の巡礼路の結節点になっていたことは、当時の民間信仰の重なりを物語っている。この点については、町内史跡めぐり60選でもあわせて触れている。
昭和47年、廃寺へ
長く巡礼を集めた少林寺であったが、昭和47年(1972年)に廃寺となった。理由についての詳細な記録は『町内史跡めぐり』からは確認できないが、全国的にこの時期、過疎化や後継者不足、檀家の減少などにより、小規模な寺院の統廃合が各地で進んだ時代でもある。海老塚の少林寺も、そうした時代の流れの中で寺としての歴史を終えたと考えられる。
寺そのものは失われても、旧境内に残されたものがある。目通り(人の目の高さでの幹周り)3.8メートル、枝張り20メートルに及ぶ大イチョウは、樹齢300年以上と見られる巨木で、幹の各所から乳房のような気根が垂れ下がっているという。時期が良ければ、たくさんの実(ギンナン)を見ることができる。根元には、享保17年(1732年)に寄進された観音の石像もあり、江戸中期からこの場所が祈りの対象であり続けたことを物語っている。
廃寺のあとに残るもの
寺院建物や札所としての機能が失われても、巨樹や石像といった「動かせないもの」は、その土地に長く残り続ける。少林寺跡の大イチョウは、遠江四十九薬師めぐりの記憶、豊田三十三か所観音巡礼の記憶、そして江戸期から続く地域の信仰の厚みを、今に伝える生きた証人といえる。廃寺となった土地を訪ねるとき、建物の有無だけでなく、そこに残された木や石に目を向けると、また違った歴史の層が見えてくる。
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