失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語町内史跡めぐり60選 / こひめっこの墓

豊田・赤池の伝承 | 町内史跡めぐり No.60

こひめっこの墓
── 赤池に400年伝わる、真田の姫の言い伝え

磐田市赤池の墓地に、小さな墓がひっそりと残る。信州上田城主・真田幸村が徳川秀忠に攻められたとき、幼い姫を託されたという赤池の藤原氏(大杉家先祖)。400年、地域の人々が守り続けてきた墓を訪ねる。

豊田町郷土を研究する会が昭和53年(1978年)にまとめた『町内史跡めぐり』は、旧豊田町の60か所の史跡・伝承地を大字ごとに紹介している。その最後、60番目に置かれているのが、赤池の「こひめっこの墓」である。ページ数こそ少ないが、地域の人が400年にわたり守り続けてきたという事実の重みは、他のどの史跡にも劣らない。

この記事で分けて扱うこと

言い伝えの中身

『町内史跡めぐり』が記す言い伝えは次のようなものである。信州上田城主であった真田幸村(真田信繁)が、二代将軍・徳川秀忠に攻められたとき、幼い姫を、遠く離れた遠江国豊田郡赤池の藤原氏(後の大杉家の先祖)に託した。姫はその後、両親のもとを離れたまま、幼くして亡くなったという。それを哀れんだ赤池の人々が、長く墓を弔い続けてきた――というのが、地名とともに伝わる物語である。「こひめっこ」という呼び名そのものが、幼い姫への親しみを込めた呼称であろう。

この伝承が史実のどの局面と結びつくのか、資料の記述だけでは特定できない。真田幸村の名で連想されるのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに前後する上田城での徳川秀忠軍との対峙(いわゆる第二次上田合戦)や、大坂の陣での最期であるが、いずれも赤池への「姫を託した」という記録と直接結びつく史料は、『町内史跡めぐり』からは確認できない。ここでは断定を避け、地域に伝わる伝承として紹介するにとどめたい。

なぜ、はるか信州の姫が遠江に

史実の裏付けが薄いとはいえ、遠く離れた信州と遠江が、ひとつの言い伝えで結ばれていること自体は興味深い。戦国末期から江戸初期にかけては、敗れた武将の縁者が身を隠すため、あるいは同盟・縁戚関係を頼るため、遠隔地の土地の者に子女を託すということが各地で語られてきた。真偽はともかく、そうした「落人伝説」「姫伝説」は全国に数多く分布しており、赤池のこひめっこの墓も、その系譜に連なるひとつと見ることができる。

重要なのは、姫を託されたと伝わる赤池の藤原氏(大杉家先祖)が、その後400年にわたって墓を守り続けてきたという点である。真田の名にゆかりがあろうとなかろうと、赤池の人々は、遠く離れた土地で亡くなった幼い命を弔い続けてきた。この「守り続けた」という行為の持続こそが、伝承の内容そのもの以上に、地域の記憶として尊いのだろう。

400年、守られてきたということ

『町内史跡めぐり』が編まれた昭和53年(1978年)の時点で、すでに「400年もの長い間」と表現されている。単純に逆算すれば、16世紀末から17世紀初頭――ちょうど真田氏が徳川方と激しく争っていた時代に重なる。地域の墓が、口伝えだけで四世紀にわたり同じ場所で守られ続けるのは、決して当たり前のことではない。祭りのように華やかな行事ではなく、静かに墓参りが続けられてきたという事実そのものが、赤池という土地の記憶の厚みを物語っている。

磐田物語では、こうした「小さな伝承・小さな墓」を、大きな合戦史や制度史とあわせて記録することを大切にしている。天下を左右した合戦の記録の陰には、名も残らない、しかし確かに弔われ続けてきた小さな命がある。こひめっこの墓は、そのことを静かに伝えている。

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主な参考資料

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。