磐田市竜洋地区の掛塚は、天竜川の河口に位置する湊町として、古くから遠江の物流を支えてきた。「遠州の小江戸」と呼ばれるほどの繁栄ぶりは、江戸・大坂と並ぶ経済的・文化的な交流が盛んに行われたことを示す例えであったという。掛塚の成り立ちの制度史については竜洋の成り立ちで整理しているが、このページでは、湊町としての掛塚がどのように栄え、どのように姿を変えていったのかを掘り下げる。
- 掛塚は室町時代にはすでに湊としての機能を持っていたとみられ、文明17年(1485年)には万里集九が紀行文『梅花無尽蔵』に掛塚逗留の様子を書き残している。永禄12年(1569年)には今川氏真が掛塚から海路で脱出したとも伝わる。
- 江戸期の掛塚は、天竜川流域から切り出された木材(樽木など)を江戸・駿府向けに積み出す湊として繁栄した。元禄期には年間数十万挺規模の樽木が積み出されている。
- 明治期には港湾施設の近代化が進み、回漕会社の設立、大日本帝国水難救済会掛塚救難所の設置(明治26年)、灯台の整備がおこなわれた。
- 明治24年から昭和25年にかけての人口統計では、掛塚は当初見付・中泉を上回る人口を持っていたが、後年には見付・中泉に逆転されていく。
公式情報の整理
- 湊の位置
- 天竜川河口、遠江国磐田郡掛塚(現・磐田市掛塚)
- 中世の記録
- 文明17年(1485)万里集九『梅花無尽蔵』、永禄12年(1569)今川氏真の掛塚脱出
- 江戸期の産業
- 樽木輸送を中心とする廻船業。廻船連判掟書による自治的な運営
- 明治期の近代化
- 港湾開鑿(明治14年予算書)、回漕会社設立、水難救済会設置(明治26年)、灯台整備
- 愛称
- 「遠州の小江戸」
このページでは、掛塚湊の歴史を、磐田市歴史文書館 第14回企画展「よみがえる"遠州の小江戸"〜掛塚湊繁栄の軌跡〜」(平成27年/2015年1月13日〜2月27日)の資料に基づいて整理する。
中世から続く湊 ── 万里集九と今川氏真。 掛塚が湊として文献に姿を現すのは室町時代にさかのぼる。臨済僧・万里集九は、文明17年(1485年)、京都五山の一つ相国寺で漢学を学んだのち、美濃の鵜沼に招かれて「梅花無尽蔵」と名付けた庵に住んでいたが、その紀行文のなかで掛塚に立ち寄った様子を書き残している。当時すでに、掛塚が旅人の目に留まるほどの湊町としての賑わいを持っていたことがうかがえる。
戦国末期の永禄12年(1569年)3月には、今川氏真が掛塚から船で脱出したという記録も残る。掛川城を追われた氏真は、家康の温情もあって掛塚湊に一泊し、翌日順風を待って小河(小川)へ向けて出立したと伝わる。掛塚がすでに港町としての機能を備えていたこと、また戦国大名の退路として利用されるほどの重要な湊であったことが、この逸話からうかがえる。
掛塚を行き交った船 ── 千石船から洋式帆船へ。 江戸時代、天竜川流域から切り出された材木は、伊勢船・弁財船(べざいぶね)・二形船(にきょうぶね)といった千石船(せんごくぶね)によって掛塚から江戸へ運ばれた。船首の構造の違いから、箱造りの「二形船」、水押造りの「弁財船」などと呼ばれ、二形船は17世紀後半に衰退し、帆走性能に優れる弁財船が全国に普及していったとされる。安宅船(あたけぶね)などの軍船は近世に入ると建造が禁止され、その部材が神輿や祭礼の船台として転用された例も伝えられている。
掛塚の廻船問屋としては、津倉家・林家などが知られる。津倉家当主・勘六の日記『必携(ひっけい)』には、明治19年から20年の出京記事があり、東京へ出て材木商を訪ねる様子が記されている。津倉家の持ち船「竹吉丸」は下田で破船したと伝わる。林家は、明治20年代以降の船数が最も多かった時期には20〜25艘の廻船を持ち、代表的な船として「英進丸」(明治20年/1887年1月建造、42石積)、「明慶丸」(白羽神社所有の松下太郎が製造、明治10年代後半に活躍)などの名が伝わっている。
明治政府は明治2年(1869年)から船舶検査法を制定し、和洋折衷の船体構造を禁止するなど、和船から洋式帆船への転換を進めた。掛塚港出入船舶の記録によれば、明治21年(1888年)には出帆延回数508回のうち和船463・洋式船45であったのに対し、明治36年(1903年)には計95回すべてが洋式船となっており、明治20年代から30年代にかけて急速に洋式化が進んだことがわかる。
江戸期の繁栄 ── 樽木輸送と廻船業
江戸時代の掛塚は、天竜川上流から切り出された木材の集散地として繁栄した。『天龍市史 続史料編』などに収録された「萬高書上帳」によれば、貞享2年(1685年)から元禄12年(1699年)までの15年間に、船明山から出された樽木は合計395万6千挺(丁)にのぼり、そのほとんどが江戸御用として送られている。この樽木は、掛塚から各地に送られ、江戸御用として四百万挺余り、駿府御用として五十二万挺余り、大阪にも四万挺余りが積み出されていたという。掛塚は鹿島以南の川下げの独占的な役割を持ち、多くの筏師が出入りしていた。
廻船の運営は、船主たちによる自治的な組織によって支えられていた。文化7年(1810年)の「掛塚湊廻船連判掟書」によれば、当時の廻船数は三十艘だったとされ、明治26年(1893年)の資料では六十艘にまで増加している。船主が新規加入する際には組合加入金を拠出するなど、廻船の数や加入の取り決めが文章化されていた。江戸前期には船主41人という記録もあり、掛塚の経済を支える廻船業者のネットワークが早くから確立されていたことがわかる。
明治の近代化 ── 港湾整備と水難救済会。 明治に入ると、掛塚の商業活動はさらに活発になり、これを整えるための会社組織が現れる。明治5年(1872年)には、港湾に出入りする船舶を取り締まる問屋業者を組織した「回漕会社」が設立され、社長は掛塚の林家が代々務めた。明治14年(1881年)には港湾開鑿の予算書がつくられ、工事費用は当初の会社資本金七千五百円のほか、村と共同で調達する費用も含め、複数年賦で開墾社という組織が費用を負担することとされた。
海の安全を守る取り組みも進んだ。明治26年(1893年)には、大日本帝国水難救済会の掛塚救難所が設置されている。設置に先立ち、地元の有力者が私設の灯台を設けて活動していた様子も資料からうかがえ、地域ぐるみで海難への備えを整えていたことがわかる。灯台については、たびたびの台風被害を受けて移設が重ねられ、平成14年(2002年)には海洋センター付近へ移転している。
人口の変遷が語るもの。 掛塚・見付・中泉の人口統計を比較すると、掛塚湊の相対的な位置づけの変化が読み取れる。明治24年(1891年)の時点では、掛塚が7,072人、見付が6,733人、中泉が4,026人と、掛塚が最も多い人口を抱えていた。しかし、その後の推移をみると、見付・中泉が着実に人口を伸ばしていくのに対し、掛塚は明治期を通じて7,000人前後で推移し、大正から昭和にかけて緩やかに減少していく。昭和25年(1950年)には、掛塚6,847人に対し、見付12,949人、中泉14,030人と、明治期とは逆転した構図になっている。鉄道が中泉(現・磐田駅)を通り、見付・中泉が街道と鉄道の結節点として発展していったのに対し、水運を基盤としていた掛塚の相対的な地位は、時代とともに変化していったことがうかがえる。
掛塚祭りに残る記憶
掛塚の繁栄を今に伝えるのが、貴船神社の祭礼である掛塚祭りである。祭りの賑わいは、氏神である貴船神社の祭礼に象徴され、これにも掛塚屋台の絢爛豪華な屋台が加わる。当時の掛塚には、寺社建築で高名な立川流の大工、建具職人など、木材を輸送する廻船業に深く関わっていた職人たちが多く、大工や職人が神輿渡御の行列には主要な船問屋が氏子総代を務め、渡御の様子には「明神丸」という御座船も加わったと伝わる。掛塚屋台の製作には、木材輸送に関わる職人たちが腕を競って自らも掛塚に移り住んでいたといい、木材を輸送する職人たちの技術の高さがうかがえる。
樽木を満載した船が行き交い、江戸・大坂に劣らぬ賑わいを見せた掛塚湊。灯台の灯りと、貴船神社の祭礼の熱気が、遠州の小江戸の記憶を今に伝えている。
参考資料
- 磐田市歴史文書館 第14回企画展「よみがえる"遠州の小江戸"〜掛塚湊繁栄の軌跡〜」図録(平成27年/2015年1月13日〜2月27日)
- 磐田市歴史文書館 第28回企画展「船と材木と掛塚港」図録(「掛塚港廻船之碑」建立100年、令和6年/2024年11月1日〜12月20日)
- 万里集九『梅花無尽蔵』
- 『天龍市史 続史料編』所収「萬高書上帳」(田代家文書)
- 磐田物語「竜洋の成り立ち」
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