失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 遠江国分寺跡の発掘・研究史

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第301号

遠江国分寺跡の発掘・研究史

1902年の地表観察から1999年の全国比較まで

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.08.29
資料検証
講演配布資料6頁を確認
対象地区
磐田市中泉
要旨

遠江国分寺跡の価値は、昭和26年(1951年)の発掘成果だけから生まれたものではない。明治35年(1902年)の紹介記事、大正6年(1917年)の礎石調査、昭和37年(1962年)の研究総括、平成11年(1999年)の斎藤忠講演をたどると、地表に見える礎石の観察から伽藍配置の確認、保存価値の評価、全国の国分寺跡との比較へと、問いが段階的に広がったことがわかる。本稿は斎藤講演の配布資料を核として、この研究史を資料の性格と限界を区別しながら再構成する。

キーワード:遠江国分寺跡/発掘史/研究史/斎藤忠/成瀬真三/柴田常恵/遠江国分寺の研究

観察・発掘・比較がつないだ一世紀

磐田市中泉に残る遠江国分寺跡は、南大門・中門・金堂・講堂を南北の中軸に並べ、回廊の西外側に塔を置く伽藍が確認されたことで知られる。その制度的背景や伽藍そのものは、既刊の第7号「遠江国分寺 ── 古代地方の大寺と伽藍」および一般向け記事が扱っている。本稿の対象は寺の通史ではなく、遺跡が近代以降どのように見られ、調べられ、評価されてきたかという研究の歩みである。発掘によって過去が一度に明らかになったと捉えるのではなく、発掘以前の観察、発掘後の総括、他地域との比較を一続きの仕事として読む。

発掘以前から続く観察 ── 1902年・1917年

斎藤忠が平成11年(1999年)11月27日にワークピア磐田で行った講演「遠江国分寺跡の発掘を語る ── 各地の国分寺跡と比較して」の配布資料には、成瀬真三が明治35年(1902年)に『風俗画報』第245号へ寄せた「国分寺の古刹 其五 遠江国国分寺」と、柴田常恵が大正6年(1917年)に『歴史地理』へ発表した「遠江国分寺の礎石」の抄録が収められている。成瀬の記録は、見付町境松の寺地、東海道との位置関係、堂宇、礎石、石段、遺物など、当時の地表に見えていた景観を書き留める。柴田の論考は礎石へ焦点を絞り、その配列から堂塔の跡を読み取ろうとした。

この二つの記録が示すのは、昭和の本格発掘より前にも、礎石や微地形を手がかりに寺域の姿を復元しようとする観察が続いていたことである。ただし、本稿が確認したのは1999年の講演資料に収められた抄録であり、1902年と1917年の原載誌本文そのものではない。したがって個々の語句を確定本文として引用せず、当時の研究者が何を観察対象としたかを知る二次的な手がかりとして扱う。地表観察からの比定と、発掘区・層位・遺構の対応を記録した後年の調査所見とは、証拠の性格が異なる。

1951年の発掘と1962年の総括

昭和26年(1951年)の本格的な発掘調査は、点として知られていた礎石を、伽藍全体の配置へ結び直した。南大門・中門・金堂・講堂が南北の軸上に並び、金堂と中門を回廊で結び、その西外側に塔を置く構成が地中の遺構として確認された。建物の位置が個別に推定された段階から、入口、中心堂宇、回廊、塔が相互の関係をもつ計画的空間として把握される段階へ進んだのである。この成果が翌1952年の特別史跡指定へ結びついたことは、調査と保存が別々の仕事ではなく、連続した判断であったことを示す。

斎藤講演資料に抄録された磐田市教育委員会『遠江国分寺の研究』(1962年)の結語は、金堂・講堂・塔・回廊・中門の各跡が明瞭であること、寺域を画した土塁またはその痕跡が残ること、金堂正面の石階や回廊跡が建築史上の検討材料になることを挙げる。さらに失われた塔心礎、基壇、瓦窯も、堂塔の配置だけでは見えない造営技術を考える資料として列挙した。ここで評価されたのは建物名を配置図へ埋めることにとどまらない。人の出入り、歩行動線、寺域の境界、建物を載せた基壇、瓦の生産まで、寺を一つの空間として読みうる保存状態そのものであった。

もっとも、1962年の結語はその時点の総括である。後年の再調査で木装基壇のような知見が加わった以上、当時の復元案を最終回答とみなすことはできない。同時に、現在の知見だけを基準に過去の報告を退けることも適切ではない。どの遺構が当時すでに見え、どの問いが設定され、何が後の調査で更新されたかを段階ごとに追うことによって、発掘成果が一度で完成したのではないことが見えてくる。研究史とは古い説を並べる欄ではなく、遺跡に向けられた問いの変化を記録する方法である。

表1 遠江国分寺跡をめぐる観察・発掘・評価の歩み
記録・調査見えるようになったこと留意点
1902成瀬真三「遠江国国分寺」寺地、堂宇、礎石など近代の地表景観。1999年資料所収の抄録。原載誌未照合。
1917柴田常恵「遠江国分寺の礎石」礎石の配置から堂塔跡を読む視点。地表観察と後年の発掘所見を区別する。
1951本格的な発掘調査南大門・中門・金堂・講堂・回廊・塔の関係。遺構の確認を史実として扱う。
1962『遠江国分寺の研究』石階、回廊、基壇、瓦窯を含む保存価値。当時の到達点であり後年の更新を要する。
1999斎藤忠講演全国14遺跡を同じ視野へ置く比較枠組み。講演時点の研究状況を反映する。

1999年講演が開いた全国比較

斎藤講演の副題は「各地の国分寺跡と比較して」である。配布資料の一覧には、遠江に加えて、信濃・下野・常陸・上野・佐渡・紀伊・山城・備前・安芸・讃岐・壱岐・日向・薩摩の国分寺跡が並び、合計14遺跡が比較の俎上に置かれた。各遺跡の所在地や調査状況は1999年時点の整理であり、現在の研究到達点をそのまま表すものではない。それでも、遠江国分寺跡を孤立した郷土の名所ではなく、同じ制度から生まれ、土地ごとに異なる残り方をした全国の遺跡群の一例として見る視角が、ここには明確に示されている。

比較で問われるのは、どの寺が大きいかという順位ではない。中軸上の堂宇、塔の位置、回廊の形、金堂正面の石階、基壇と礎石、寺域の境界、瓦窯の所在を同じ項目で照らし合わせることで、制度として共有された部分と、遠江に固有の部分が分かれる。遠江の特徴を語るには、遠江だけを見続けるのでは足りない。常陸や上野など保存状態や調査史の異なる遺跡と往復して初めて、何が一般的で何が例外的かを判断できる。平成11年の講演から四半世紀を経た現在、木装基壇の確認は比較項目をさらに一つ増やした。遠江国分寺跡の価値は「全国初」という一語に閉じず、全国の調査成果との比較によって検証され続ける点にある。

遠江国分寺跡をめぐる問いの展開19021917195119621999寺地の紹介礎石の観察伽藍の発掘保存価値の総括全国比較地表景観平面復元遺構の関係空間と技術共通性と固有性観察 → 発掘 → 総括 → 比較。新しい調査は前段階を消すのではなく、問いを継承して更新する。
図1 遠江国分寺跡の研究史。年代は出来事の単純な進歩を示すのではなく、観察対象と問いが広がっていく過程を示す。

結論 ── 発掘史を独立して読む意味

遠江国分寺跡は、1951年の発掘によって突然「発見」されたのではない。1902年と1917年の記録が地表の礎石と景観を観察し、1951年の発掘がそれらを伽藍全体へ結び、1962年の研究総括が建築・境界・生産を含む保存価値を言語化し、1999年の講演が全国比較のなかへ置いた。各段階の資料は確度も目的も異なるが、後の仕事は前の仕事を無効にするのではなく、問いを引き継いで組み替えている。発掘史を独立した主題として読むと、遺跡の価値が遺構そのものだけでなく、観察し、記録し、比較し、保存してきた人々の営みによっても形づくられたことがわかる。

同時に、未確認事項も残る。講演資料に収められた1902年・1917年の記事は原載誌との照合を要し、1962年の総括は報告書全体の文脈へ戻して読む必要がある。1999年の14遺跡比較も、その後の各地の発掘成果で更新されなければならない。本稿は原著を確認したかのようには扱わず、配布資料6頁から確かめられる範囲を記した。資料の限界を明示することは、記述を弱める作業ではない。次に何を調べれば研究史をさらに確かなものにできるかを示すための条件である。

資料上の注意:本稿が直接確認したのは、斎藤忠「遠江国分寺跡の発掘を語る ── 各地の国分寺跡と比較して」国分寺講演会配布資料(1999年11月27日、ワークピア磐田、6頁)である。資料内に転載された1902年・1917年の文章は抄録として扱い、原載誌本文の直接確認とは区別した。

参考文献・関連ページ

  • 成瀬真三「国分寺の古刹 其五 遠江国国分寺」『風俗画報』第245号、1902年(斎藤忠講演資料所収抄録による)。
  • 柴田常恵「遠江国分寺の礎石」『歴史地理』、1917年(同資料所収抄録による)。
  • 磐田市教育委員会『遠江国分寺の研究』1962年(同資料所収結語による)。
  • 斎藤忠「遠江国分寺跡の発掘を語る ── 各地の国分寺跡と比較して」国分寺講演会配布資料、1999年11月27日。
  • 第272号「国分寺建立の詔と遠江国分寺」