失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 見付と中泉 二つの中心が重なる磐田

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第290号(総合論考・レビュー)

見付と中泉 ── 二つの中心が重なる磐田という都市を総合する

古代国府・宿場・信仰の町と、天領・駅前・行政の町 ── 既刊各論を横断する史料批判の試み

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.26
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市見付・中泉

要旨

磐田市には、性格を異にする二つの歴史的中心がある。東の見付は、古代の遠江国府に始まり、中世の守護所、近世の東海道見付宿、そして矢奈比賣神社を核とする信仰の町として、遠江の中心であり続けた。西の中泉は、徳川ゆかりの御殿と、幕府直轄領を治める中泉代官所が置かれた天領支配の拠点であり、近代には鉄道駅と役所を擁して行政の中心となった。本稿は、この二つの中心をそれぞれ論じてきた既刊各論──見付を扱う第176・221・214・201号、中泉を扱う第202・278号──を先行研究として整理し、一つの市に二つの中心が並び立つという磐田の都市構造を総合的に記述するレビュー論文である。二つの中心の性格を対比し、なぜ両者が並立しえたのか、近代になぜ中泉へ行政の重心が移り、やがて両者が統合して磐田市となったのかを論じる。各論の記録は史実として扱い、並立と移動の力学は推定に腑分けし、「未確認」と「記載なし」を一貫して区別する。

キーワード:見付/中泉/二つの中心/天領・中泉代官所/東海道見付宿/磐田市の成立/史料批判

1. 問題設定 ── 一つの市に二つの歴史的中心がある

磐田市を歩くと、市街の東と西に、由緒を異にする二つの町の顔があることに気づく。東の見付は、旧東海道の街道筋に沿って町家が連なり、坂の上に矢奈比賣神社(見付天神)が鎮まる、古い宿場と信仰の町である。西の中泉は、JR磐田駅を中心に市役所や官公署が集まる、近代以降の行政と交通の町である。同じ一つの市のなかに、なぜこれほど性格の異なる二つの中心が併存しているのか。本稿の問いは、この一点にある。

多くの地方都市は、城下町なり宿場なり、単一の核から市街が広がっていく。ところが磐田市の場合、旧東海道の見付と、鉄道駅の中泉という、成り立ちも時代も異なる二つの核が、およそ2キロメートルの距離を隔てて並び立っている。市の名は「磐田」であるが、その中心は一つに定まらない。この二重性は、地図の上の偶然ではなく、それぞれの土地が背負ってきた歴史の帰結である。

本稿の課題は、この二つの中心の由来と関係を、既刊の各論を手がかりに総合することにある。筆者はこれまで、見付については古代国府から現代の町内までを扱った各論を、中泉については天領支配の拠点としての性格を扱った各論を、それぞれ別々に書いてきた。しかし二つの中心は、別々に論じているだけでは見えてこない。両者を同じ画面のなかに置き、その性格を対比し、なぜ並び立ち、いかに一つの市へまとまったのかを問うとき、はじめて「磐田という都市」の構造が像を結ぶ。

そこで本稿は、個別の史実を新たに掘り起こすのではなく、既刊各論を先行研究として整理し、その到達点を突き合わせて総合するレビュー論文の体裁をとる。方法上の要点をあらかじめ述べておく。二つの中心が「あった」こと、その行政区域の変遷が「いつ」起きたかは、史料や行政記録で確認できる史実として扱う。これに対して、なぜ二つの中心が並立しえたのか、近代になぜ行政の重心が中泉へ移ったのかという「力学」は、多くを推定にとどめる。記録は史実、力学は推定──この腑分けを一貫させることが、本稿の基本姿勢である。

あわせて、確度を語の水準で書き分ける。史料で確認できることは史実として、学界で広く支持される見方は通説として、根拠はあるが未確定の事柄は推定として、地域で語り継がれる事柄は伝承として区別する。とりわけ、一次史料に突き当たっていないという意味の「未確認」と、史料に記載がないという意味の「記載なし」とを混同しない。以下ではまず先行研究を整理し、二つの中心の性格を対比したうえで、並立・移動・統合という三つの局面を順に検討し、結論に至る。

旧東海道(西 ← → 東) 見付 国府・宿場・信仰 (東の中心) 中泉 天領・駅前・行政 (西の中心) 磐田駅 約2km 一つの市に並び立つ二つの中心 性格も時代も異なる二つの核が、旧東海道で結ばれて併存する。
図1 見付と中泉の位置関係。東の見付(古代以来の中心)と西の中泉(近代の中心)が、旧東海道でつながれつつ、約2キロメートルを隔てて並び立つ。位置と距離はおおよその模式である。

2. 先行研究の整理 ── 見付各論と中泉各論の到達点

本稿が総合の対象とするのは、筆者が本シリーズで発表してきた六本の各論である。まず見付をめぐる四本を整理する。第176号「見付という都市」は、見付を古代の遠江国府・国分寺に始まり、中世の守護所、近世の東海道見付宿、近代の旧見付学校、現代の町内へと中心機能を積み重ねてきた「重層都市」として読んだ。単一の時代に代表させず、都市機能が層をなして堆積した地として見付を記述した点に、この各論の到達点がある。

第221号「見付の成り立ち」は、同じ見付を都市空間の重なりではなく、行政区域の沿革として時間軸に沿って整理した。国府から見付宿、町村制施行による見付町の成立、磐田町への合併、市制施行による旧磐田市の発足、平成の新設合併という各画期を、行政記録で年代を確認できる史実として扱う一方、旧町域と現大字の対応や地名の由来は確認できる範囲と未確認の範囲を明示して腑分けした。第176号が空間の重層を、第221号が行政区域の沿革を担うという分業の関係にある。

第214号「見付の信仰空間」は、矢奈比賣神社・淡海國玉神社・八幡宮などの諸社を、個別にではなく町全体を一つの宗教地理として捉えた。諸社の存在と沿革、総社渡御の形式は史料で確認できる史実として扱う一方、なぜこの配置が生まれ、諸社がどのような祭祀圏を分け持ったのかという空間の意味は推定にとどめている。信仰の町としての見付の性格を、本稿は主にこの各論に負う。第201号「なぜ家康は見付を選んだのか」は、徳川家康の遠江経略において、見付が拠点候補となりえた地理的条件を、国府の由緒・東海道の宿・今之浦の水運・南部城郭ネットワークの四つに整理し、立地の事実(史実)と選定の意図(推定)とを書き分けた。そして最終的に見付ではなく中泉・浜松が選ばれた経緯を扱う点で、本稿の主題と直接につながる。

次に中泉をめぐる二本である。第202号「中泉の成り立ち」は、中泉を、幕府直轄領を治める中泉代官所(中泉陣屋)が置かれ、徳川ゆかりの中泉御殿があった地として押さえ、この近世的な中心性を出発点に、明治の中泉町成立から磐田町・磐田市への発展、平成の新設合併までの行政沿革を整理した。近代において中泉が駅と役所を擁する磐田の中枢となった背景を、天領支配の拠点という近世的位置から説明する点に、この各論の要がある。第278号「中泉代官と天領支配を総合する」は、それ自体が中泉をめぐる各論を横断するレビュー論文であり、御殿と代官所の混同を機能・存続期間・主体の面から峻別することを起点に、天領支配の中心が近代の磐田市へ引き継がれた過程を論じた。

これら六本を並べると、見付各論と中泉各論とが、それぞれ別の中心を対象としながら、いずれも「単一の起点に還元しない」「記録は史実、実態や意味は推定」という共通の方法をとってきたことがわかる。本稿の独自性は、この二群を初めて同じ画面に置き、二つの中心の関係そのものを主題化する点にある。すなわち本稿は、既刊各論の結論を前提として受け取ったうえで、それらが個別には扱わなかった「見付と中泉の並立と統合」という問いを立てる。以下では、まず二つの中心の性格を対比することから始める。

本稿が総合する先行研究 見付をめぐる各論 176 見付という都市(重層) 221 見付の成り立ち(沿革) 214 見付の信仰空間 201 なぜ家康は見付を選んだか 中泉をめぐる各論 202 中泉の成り立ち(沿革) 278 中泉代官と天領支配 本稿(290号)は左右二群を同じ画面に置き、二つの中心の関係を主題化する。
図2 先行研究マップ。本稿は、見付を扱う四本(176・221・214・201)と中泉を扱う二本(202・278)を先行研究として受け取り、両者を突き合わせて総合する。

3. 二つの中心の性格 ── 見付と中泉の対比

二つの中心は、どこがどう違うのか。まず時間の起点が違う。見付は古代の遠江国府に淵源し、中世・近世を通じて中心であり続けた、いわば古い中心である。これに対して中泉が歴史の表舞台に立つのは、徳川の天領支配が確立する近世以降であり、行政と交通の中心として本格化するのは鉄道開通後の近代である。見付が古代からの中心、中泉が近世・近代の中心という時間差が、両者の性格を分ける第一の軸となる。

次に中心性の内実が違う。見付の中心性は、国府という古代の官衙、東海道の宿場という交通の要、そして矢奈比賣神社を核とする信仰の町という、いわば「格・街道・信仰」の三点で支えられていた。第176号が重層都市として、第214号が宗教地理として描いたのは、この厚みである。一方、中泉の中心性は、幕府直轄領を治める代官所という「行政機構」に発している。第202号・第278号が示すように、中泉は天領という広域の土地を治める拠点であり、その中心性は信仰や街道よりも、支配と行政の機能に重心があった。

担い手の性格も異なる。見付を支えたのは、宿場町の共同体と諸社の氏子であり、その営みは祭礼や街道の維持と結びついていた。中泉を支えたのは、代官所に連なる在地の役人層と、天領支配の広域ネットワークであった。見付が「町の共同体」の中心であったとすれば、中泉は「広域統治」の結節点であったといえる。もっとも、この対比は性格の重心を述べたものであって、見付に行政機能がなかったとか、中泉に信仰がなかったという意味ではない。見付にも宿役人や町の自治があり、中泉にも御殿にまつわる信仰の記憶があった。あくまで、どちらの機能が中心性の核をなしたかという重心の違いである。以上を、確度の層を添えて表1に整理する。

表1 見付と中泉 ── 二つの中心の性格対比(確度の層を添えて)
観点見付(東の中心)中泉(西の中心)確度の層
中心性の起点古代の遠江国府。以後、中心が連続。近世の天領支配(御殿・代官所)。史実(国史・自治体史)
中心性の核格・街道・信仰の三点。幕府直轄領を治める行政機構。史実+推定(重心の評価)
主な機能国府・東海道見付宿・信仰の町。中泉代官所・近代の駅前・役所。史実
担い手宿場の共同体・諸社の氏子。代官所に連なる役人層・広域ネットワーク。推定(性格の記述)
近代の帰趨旧市街として存続。行政の中枢は譲る。鉄道駅・市役所を擁し行政の中心へ。史実(行政記録)
扱う既刊各論176・221・214・201号。202・278号。──

表1から浮かび上がるのは、二つの中心が同じ種類の中心ではないという事実である。見付は時代を貫いて中心であり続けた古い中心、中泉は近世に興り近代に飛躍した新しい中心であって、両者は競合していたというより、異なる原理に立つ中心が同じ土地の近くに並存していたと見るのが適切である。この点を押さえておかないと、後述する「近代の逆転」を、単なる勝ち負けの物語として誤読することになる。二つの中心は、そもそも支えている柱が違っていた。

もう一点、対比の際に注意すべきは、両者の中心性が可視化される形式の違いである。見付の中心性は、街道の町並み、坂の上の社、祭礼の渡御路といった、目に見える空間と行事に刻まれてきた。第214号が宗教地理として、第176号が重層都市として読み取ったのは、この地に堆積した形あるものであった。これに対して中泉の中心性は、代官所という機構と、それが管轄する天領という広域の支配関係に発しており、必ずしも一つの町並みに凝縮して現れるとは限らない。支配の中心は、目に見える建物よりも、どこまでの土地を治めたかという関係のなかに存する。二つの中心を対比するとき、見えるものと見えにくいものとを同じ天秤にかけていないか、たえず自省する必要がある。

二つの中心の機能対比 見付 ── 格・街道・信仰 古代国府(格) 東海道見付宿(街道) 矢奈比賣神社(信仰) 中泉 ── 支配・交通・行政 中泉代官所(支配) 磐田駅(交通) 市役所・官公署(行政) 支えている三本の柱が異なるため、二つは同じ種類の中心ではない。
図3 二つの中心の機能対比。見付を支えたのは格・街道・信仰の三点、中泉を支えたのは支配・交通・行政の三点であり、両者は異なる原理の中心である。

4. なぜ二つの中心は並び立ったのか

ここからは、記録の整理から力学の推定へと軸を移す。なぜ、これほど近い距離に、性格の異なる二つの中心が並び立ちえたのか。まず確認できる史実の側から述べる。見付が古代以来の中心であったこと、中泉に近世の天領支配の拠点が置かれたことは、いずれも史料と自治体史で確認できる。問題は、両者が「なぜ棲み分けられたのか」という力学であり、これは一次史料が判断過程を直接に語らない以上、推定の域を出ない。

推定の第一は、既存の中心をあえて避けたという可能性である。第201号が論じたように、徳川家康の遠江経略において、見付は国府以来の由緒と東海道の宿という強力な条件を備えた拠点候補であった。それにもかかわらず、最終的に拠点は見付ではなく中泉・浜松の側に置かれた。この選択の意図を直接記す一次史料は本稿の範囲でも確認できていないが、既存の宗教的・共同体的な中心である見付をそのまま行政拠点とするより、隣接する中泉に新たな支配の拠点を設けるほうが、統治のうえで扱いやすかったという推論は成り立つ。信仰と街道の町に支配の機構を重ねるより、少し離れた地に行政の核を置くという棲み分けである。ただしこれは動機の推定であって、史実として断定はできない。

推定の第二は、地形と水の条件である。第278号が中泉の中心性を地形・水・交通・在地基盤の重なりから論じたように、中泉一帯は天竜川の伏流と今之浦の水系に恵まれ、御殿や代官所を営むうえで有利な立地条件を備えていたと考えられる。見付が坂の上の乾いた台地に街道と社を戴く町であったとすれば、中泉は水と平地に恵まれた、機構を置くに足る土地であった。この地形の相補性が、二つの中心の棲み分けを地理の側から支えた可能性がある。もっとも、当時の統治者がこの条件をどこまで意識的に評価したかは、記録に乏しく未確認である。

推定の第三は、機能の非競合である。表1で見たとおり、見付と中泉は支えている柱が異なっていた。信仰と街道の中心である見付と、支配と行政の中心である中泉は、同じ資源を奪い合う関係になかった。むしろ、遠江の広域を治めるうえで、古い信仰・交通の中心(見付)と新しい行政・支配の中心(中泉)が近接して存在することは、機能の分担として合理的でさえあった。二つの中心は、対立してではなく分業して並び立ったと見るのが、本稿の推定である。

ここで方法上の留保を重ねておく。以上の三つはいずれも、地形・立地・機能という確認できる条件(史実)から、統治者の判断(推定)を導く形をとっている。条件が「あった」ことと、その条件が並立の「原因であった」こととは、論理の水準が異なる。本稿は前者を史実として提示し、後者を推定として明示する。並立の力学を一次史料で跡づけることは、本稿の範囲では未確認であり、今後の課題である。

並立を支えた三つの条件(推定) 既存中心の回避 信仰の町に機構を 重ねず隣に置く 地形と水の条件 水と平地に恵まれた 中泉の立地 機能の非競合 信仰・街道と 支配・行政の分業 二つの中心の並立 いずれも確認できる条件から統治者の判断を導く推定であり、史実として断定はしない。
図4 並立を支えた三条件。既存中心の回避・地形と水の条件・機能の非競合という三つの推定が、二つの中心の並立を説明する。条件は史実、原因の帰属は推定である。

5. 近代の逆転 ── 中泉が行政の中心となる過程

近世を通じて、遠江の由緒の重みは見付の側にあった。ところが近代に入ると、行政と交通の重心は中泉へと移っていく。この逆転を引き起こした最大の契機は、鉄道の開通である。明治期に東海道線が敷設され、中泉に停車場(のちの磐田駅)が置かれたことで、人と物の流れの結節点は、旧東海道の見付宿から、鉄道駅のある中泉へと移った1。街道の時代の中心と、鉄道の時代の中心とが、ここで交代したのである。

駅がどこに置かれるかは、近代の地方都市の帰趨を大きく左右した。全国的に見ても、旧宿場の市街地を避けて郊外に駅が設けられ、やがて駅前が新たな中心へと成長した例は珍しくない。見付と中泉の関係も、この一般的な現象の一つとして理解できる。旧東海道の見付宿ではなく、その西方の中泉に駅が置かれたことで、近代の市街地形成の軸は中泉側に定まった。第202号が、中泉が駅と役所を擁する磐田の中枢となった背景を天領支配の拠点という近世的位置から説明したのは、この近代の飛躍が、近世以来の中泉の下地の上に起きたことを示している。

ただし、ここで史実と推定を分けておく必要がある。駅が中泉側に置かれたこと、その後に役所や官公署が中泉に集まっていったことは、行政記録と地図で確認できる史実である。これに対して、なぜ駅が見付ではなく中泉に置かれたのかという選定の理由は、地形上の制約なのか、既存市街地との関係なのか、あるいは別の事情なのか、本稿の範囲では一次史料に突き当たっておらず未確認である。鉄道の路線選定をめぐる推論は各地で語られるが、その多くは確たる史料的裏づけを欠く。本稿は、逆転の「結果」を史実として記述し、その「理由」を推定・未確認として留保する。

逆転はまた、一度きりの出来事ではなく、累積的な過程であった。駅ができ、駅前に商業が集まり、役所が置かれ、官公署が集中する。一つの機能が別の機能を呼び、行政の中心としての中泉の地位が、時間をかけて固まっていった。見付が古代以来の中心を長い時間をかけて築いたのと同じように、中泉もまた近代以降の中心を、鉄道を起点とする累積のなかで築いた。逆転とは、瞬間の交代ではなく、半世紀を超える過程の名である。

逆転を、鉄道という単一の要因だけで説明することにも慎重でありたい。駅の立地は決定的な契機であったが、それが行政の中心の移動へと結実するには、駅前に人と商いが集まり、役所がそこに置かれ、官公署が後を追うという、いくつもの選択の積み重ねが必要であった。これらの一つひとつは、それぞれ別の判断のもとに行われた出来事であり、鉄道が来たから自動的に中泉が中心になった、という単線的な因果で描くのは正確でない。第202号が中泉の近代を天領支配の近世的下地の上に説明したのも、近代の飛躍が近世からの連続の上に起きたことを示すためであった。逆転の力学は、複数の要因が時間をかけて重なった結果であり、その各段階の判断を直接記す史料の多くは、本稿の範囲では未確認にとどまる。

この過程で見付が「衰退した」と言い切るのは、正確でない。見付は行政の中枢という役割を中泉へ譲ったが、旧東海道の町並み、矢奈比賣神社の祭礼、諸社の宗教地理といった、古い中心としての性格をなお保ち続けた。第214号が宗教地理として、第176号が重層都市として描いた見付の厚みは、行政の中心が移った後も失われなかった。逆転とは、一方の消滅ではなく、二つの中心の役割の再配分であった。行政は中泉へ、記憶と信仰は見付へ──こう役割が分かれたと見るのが、本稿の立場である。

行政の重心の移動 ── 街道から鉄道へ 見付(街道の時代) 東海道見付宿が中心 中泉(鉄道の時代) 磐田駅・役所が中心 東海道線の開通 (結果は史実/理由は未確認) 見付は記憶と信仰の中心として存続 ── 逆転は消滅でなく役割の再配分 駅の立地が近代市街の軸を定め、行政の重心が累積的に中泉へ移った。
図5 行政の重心の移動。東海道線の開通と磐田駅の立地を契機に、行政の中心が見付から中泉へ移る。移動の結果は史実、駅選定の理由は未確認である。

6. 統合 ── 二つの中心が「磐田市」になる

近代の逆転は、やがて二つの中心を一つの行政体へと束ねる。第221号・第202号が行政沿革として整理したとおり、明治の町村制施行によって見付町と中泉町がそれぞれ成立し、のちに両者を含む合併を経て磐田町となり、市制施行によって旧磐田市が発足した。そして平成の新設合併により、周辺町村とともに現在の磐田市が生まれた。二つの中心が別々の町として出発し、行政区域の再編を重ねて一つの市へ統合されていく過程は、いずれの画期も行政記録で年代を確認できる史実である2

ここで注目すべきは、統合の結果として選ばれた市の名が「磐田」であった点である。見付でも中泉でもなく、より広い地域を指す「磐田」の名が採られたことは、二つの中心のどちらか一方に統合の求心点を置かなかったことを意味する。市名の由来や選定の経緯には検討すべき点が残るが、少なくとも結果として、二つの中心を包む上位の名が選ばれたことは、この都市が単一の中心をもたないという構造と符合している3

統合後も、二つの中心の役割分担は基本的に保たれた。市役所や主要な官公署は中泉側に置かれ、行政の中心としての中泉の地位が引き継がれた。一方、見付は旧東海道の町並みと信仰の空間を保ち、旧見付学校をはじめとする近代の記憶を留める地区として残った。第176号が見付を重層都市として描いたとき、その最上層に置かれたのが現代の町内であったように、統合後の磐田市においても、見付は「町内」という自治の単位を通じて、古い中心としての性格を今日まで伝えている。

この統合の過程を、勝者と敗者の物語として読むべきではない。行政の中心を中泉が担い、記憶と信仰の中心を見付が担うという役割分担は、統合によって解消されたのではなく、一つの市のなかに保存された。磐田市とは、二つの中心を無理に一つへ融合させた都市ではなく、性格を異にする二つの核を、上位の枠組みのもとに併せもつ都市である。市街の東と西に二つの顔があるという冒頭の観察は、この統合の構造が現在に残した痕跡にほかならない。

二つの中心の統合過程 見付町 中泉町 磐田町 磐田市 (旧市→平成合併) 各画期は行政記録で確認できる史実。市名「磐田」は二つの中心を包む上位の名である。
図6 統合過程の系統図。見付町と中泉町が合併を重ねて磐田町・磐田市へ統合される。二つの中心のいずれでもない「磐田」の名が採られた点に、単一中心をもたない都市構造が表れている。

7. 記録と力学の腑分け ── 本稿の立場

ここまでの検討を、方法の観点から振り返っておく。本稿は一貫して、記録は史実、力学は推定という腑分けを保ってきた。二つの中心が「あった」こと、その行政区域が「いつ」再編されたかは、史料と自治体史で確認できる史実として提示した。これに対して、なぜ二つの中心が並び立ったのか、なぜ行政の重心が中泉へ移ったのかという「なぜ」の部分は、確認できる条件から導いた推定として、史実と区別して記述した4

この腑分けを保つ理由は、レビュー論文という本稿の性格にある。総合論考は、個別の各論が確認した史実を組み合わせて、より大きな像を描く。その際、各論が慎重に留保していた推定の部分を、組み合わせる過程で史実へと格上げしてしまう危険がある。断片を並べると、あたかも全体の物語が史料で裏づけられているかのような錯覚が生まれやすい。本稿はこの危険を避けるため、総合の各段階で、どこまでが史実で、どこからが推定かを明示することを課した。

あわせて、「未確認」と「記載なし」の区別も一貫させた。家康が中泉・浜松を選んだ選定過程を直接記す一次史料、駅が中泉に置かれた理由を記す史料、並立の力学を跡づける史料──これらはいずれも本稿の範囲では確認できていないが、それは「そうした史料が存在しない」ことを意味しない。あくまで管見の限り突き当たっていないという「未確認」の状態であり、今後の調査で史実へ押し上げられる余地がある。この区別を崩すと、調べ足りないだけの事柄を、あたかも史料的に否定された事柄のように語る誤りに陥る。

本稿の立場を一文で示せば、こうなる。磐田という都市は、単一の中心から広がった都市ではなく、性格を異にする二つの中心が並立し、近代に役割を再配分し、上位の枠組みのもとに統合された都市である。この構造を、記録は史実として、力学は推定として、確度の層を保ったまま記述すること──それが、二つの中心をもつ都市を後世の調べものに耐える形で書き留める方途であると考える。

8. 結論 ── 二つの中心を一つの都市として書く

本稿は、見付を扱う各論(第176・221・214・201号)と中泉を扱う各論(第202・278号)を先行研究として整理し、一つの市に二つの歴史的中心が並び立つという磐田の都市構造を総合した。得られた見取り図は次のとおりである。東の見付は、古代の遠江国府に始まる格・街道・信仰の中心であり、西の中泉は、近世の天領支配に始まる支配・交通・行政の中心である。両者は競合する同種の中心ではなく、支える柱を異にする別種の中心として並び立った。

並立を支えた力学として、本稿は既存中心の回避・地形と水の条件・機能の非競合という三つの推定を示した。近代には、東海道線の開通と磐田駅の立地を契機に、行政の重心が見付から中泉へ移った。この逆転は一方の消滅ではなく、行政は中泉へ、記憶と信仰は見付へという役割の再配分であった。そして二つの中心は、町村制以降の行政区域の再編を経て、いずれの名でもない「磐田」の名のもとに統合された。市街の東と西に二つの顔があるという現在の風景は、この並立・逆転・統合の帰結である。

本稿の総合が、既刊各論の単なる要約に終わらなかったとすれば、その理由は二群の各論を突き合わせた点にある。見付各論だけを読めば、見付は自足した中心として現れ、中泉各論だけを読めば、中泉は独立した中心として完結する。しかし二つを並べると、一方の中心性がもう一方との関係のなかで測り直される。近代の逆転が意味をもつのは、逆転する前の見付の優位を前提にしたときであり、統合が意味をもつのは、統合される前の二つの中心の別々の由来を前提にしたときである。関係のなかで読むこと──それが、個別の各論を総合する作業に固有の視点である。

この総合が示すのは、磐田という都市を単一の中心の物語として書くことはできない、ということである。見付だけを見れば古代以来の中心の連続として、中泉だけを見れば天領から近代への飛躍として、それぞれの物語は完結する。しかし二つを同じ画面に置いたとき、はじめて「二つの中心をもつ都市」という、より正確な像が現れる。個別の各論を突き合わせて総合する作業には、こうして単独の各論では見えなかった構造を浮かび上がらせる意義がある。

最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、家康の拠点選定と駅の立地選定という二つの「なぜ」は、いずれも本稿の範囲では未確認であり、近世・近代の文書を博捜することで、推定を史実へ押し上げる余地がある。第二に、市名「磐田」の由来と選定の経緯は、統合の性格を読むうえで重要な主題でありながら、本稿では立ち入れなかった。第三に、見付と中泉のあいだに広がる中間地帯が、二つの中心の並立のなかでどのような位置を占めたのかは、本稿の総合が扱いきれなかった空白である5。これらはいずれも、記録と力学を腑分けし、未確認を史実へと押し上げていく作業に属する。二つの中心を一つの都市として書くこと──その手続きの先に、磐田という都市の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。個別の主題は、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。

本稿の舞台である見付や中泉には、二つの中心の歴史とともに受け継がれてきた古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 東海道線の敷設と中泉停車場(のちの磐田駅)の開業により、近代の交通の結節点が旧東海道の見付宿から中泉へ移った経緯は、鉄道史・自治体史による。開業年および駅名の変遷の詳細は別途の検討を要する。
  2. 見付町・中泉町の成立、磐田町への合併、市制施行による旧磐田市の発足、平成の新設合併という各画期は、第221号・第202号が整理したとおり、行政記録で年代を確認できる史実として扱う。
  3. 市名「磐田」が、二つの中心のいずれでもない上位の地域名として採られた経緯・由来については、本稿では立ち入らない。管見の限り選定過程を直接記す史料に突き当たっておらず、未確認とする。
  4. 本稿の腑分けの原則は、第278号が中泉の各論を横断する際にとった「記録は史実、動機や規模といった実態は推定」という方針を、二つの中心の並立という主題に拡張したものである。
  5. 見付と中泉の中間地帯の位置づけは、本稿の総合が扱いきれなかった空白であり、二つの中心の並立を空間的に精査する続編の課題とする。

参考文献・参考資料

  • 大石浩之「見付という都市 ── 古代国府から26町内へ、まちの重層を読む」大石浩之の磐田論考 第176号、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/176/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之「見付の成り立ち ── 国府・宿場・町から現代への沿革」大石浩之の磐田論考 第221号、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/221/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之「見付の信仰空間 ── 天神・國玉・八幡が編む町の宗教地理」大石浩之の磐田論考 第214号、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/214/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之「なぜ家康は見付を選んだのか ── 国府・東海道・今之浦の地政学」大石浩之の磐田論考 第201号、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/201/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之「中泉の成り立ち ── 陣屋・御殿から磐田市への沿革」大石浩之の磐田論考 第202号、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/202/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之「中泉代官と天領支配を総合する」大石浩之の磐田論考 第278号、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/278/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
  • 磐田市『磐田市史』史料編(近世・近代、該当章)。
  • 『続日本後紀』承和7年(840年)条(矢奈比賣神への神階授与に関わる記事)。
  • 『延喜式』巻九・十(神名帳)遠江国条。
  • 『東海道宿村大概帳』見付宿の項。
  • 中泉代官所(中泉陣屋)関係史料、および中泉御殿に関する自治体史所収史料。
  • 国土地理院 地形図・旧版地図(見付・中泉一帯) https://www.gsi.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 文化庁「国指定文化財等データベース」 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。