磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第286号(横断的総合論考)
磐田の女性たちを読む
熊野・千手・朝顔・善苗尼をめぐって ── 記録に残る女性たちと史料批判
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
本稿は、記録に残る磐田の女性たちを扱った既刊各論を横断し、これらを先行研究として整理・史料批判する総合論考である。熊野絵巻の三人の女性、向陽・野箱の小地名「千手前」、遠江国分寺を復興した森本善苗尼、そして熊野伝統芸能館という四つの主題を、ジェンダー史の視点から読み直す。焦点は三つに置く。第一に、女性が史料にどのような形で現れるか──物語の登場人物、地名の痕跡、寄進者、顕彰の場という回路の別である。第二に、その記録において何が語られ何が語られないか。第三に、伝承・物語という史料で女性を読むことの可能性と限界である。ここでは記載の水準にある事柄を史実として扱い、実在・事績は推定・伝承に腑分けし、管見の限り一次史料に突き当たっていない「未確認」と、史料に「記載がない」こととを区別する。本稿は女性像の復元を急がず、女性が記録に現れる回路そのものを対象とする立場をとる。
キーワード:ジェンダー史/熊野御前/千手前/森本善苗尼/史料批判/未確認と記載なし/豊田・池田
1. 問題設定 ── 磐田の記録に女性はどう現れるか
地域の歴史をたどろうとするとき、しばしば直面するのは、記録の担い手が男性に偏っていたという事実である。土地の証文、寺社の縁起、宿場の役帳、村の願書──こうした文書の多くは、家や役職を代表する男性の名で書かれ、女性はその陰に置かれることが多い。名を記されるとしても、多くは誰かの妻・娘・母としてであり、女性自身の来歴や意志がそのまま書き留められる機会は限られていた。この偏りは磐田に固有のものではなく、前近代の文書史料一般に広く見られる性格である5。
とはいえ、女性がまったく記録に現れないわけではない。むしろ、通常の行政文書とは別の回路をたどって、女性の姿は思いがけない形で残されている。物語の登場人物として、地名のなかに沈んだ痕跡として、寺の復興を担った実在の人物として、あるいは芸能を保存する場の由来として。本稿は、これらの回路をひとつずつたどり直すことを課題とする。問うのは「どの女性が実在したか」ではなく、「女性はどのような形で記録に現れるのか」という、現れ方そのものの構造である。
この問いを立てるのは、女性像の復元を急ぐと、しばしば資料の水準を取り違える危険があるからである。物語のなかの女性を史実の人物と読み替え、地名を人名の証拠と断じ、顕彰の言葉を実像とみなす──いずれも、確度の異なる情報を同じ平面へ押し込む誤りである。地域史における女性の記述で大切なのは、正解を一つ選ぶことよりも、それぞれの伝えがどの資料層に立ち、どこまでを語りうるのかを、読者が自分で判断できる材料として示すことにある。
幸い、この横断的な検討には足場がある。筆者はこれまで、記録に残る磐田の女性たちを個別に扱ってきた。行興寺の熊野絵巻、向陽・野箱の小地名、遠江国分寺の復興、そして熊野伝統芸能館。本稿はこれらの各論を先行研究として整理し、一つの視座のもとに束ね直す。個々の論考では見えにくかった、女性が史料に現れる回路の全体像を描くことが、横断という手続きに固有の意義である。以下ではまず先行研究を整理して本稿の立場を定め、続いて四つの回路を順にたどり、比較と史料批判を経て結論に至る。
2. 先行研究の整理と本稿の立場
本稿が先行研究として整理するのは、筆者による四つの各論である。いずれも記録に残る磐田の女性、あるいは女性に関わる記憶を主題とし、確度の層を区別しながら記述する方針を共有している。ここではまず各論の要点を整理し、そのうえで本稿がとる横断的な視座を定める。
第一は、熊野絵巻を読むである。行興寺(磐田市池田)に伝わる熊野絵巻の詞書を、熊野御前の悲話としてではなく、熊野・千手・朝顔という三人の女性を配した物語として読んだ。そこでは、詞書にそう記されているという記載の水準の事実と、登場人物の実在や後世の伝えとが区別され、絵巻の成立年代・筆者はいずれも確定しないこと、千手・朝顔の役割は現存資料からは十分に確認できないことが述べられている。第二は、千手前の足跡を読むである。向陽地区の野箱に伝わる小地名「千手前(せんじゅのまえ/千寿の前)」を素材に、地名から人物像を復元しようとする試みの限界を論じ、人名起源説と地名起源説を対等に併置した。
第三は、森本善苗尼と近藤文六である。遠江国分寺の昭和期の復興を、制度でも建物でもなく、それを担った個人の事績から読み直し、寄進・改築・認可などの経緯を記録で確認できる史実として押さえたうえで、動機・人物像・逸話を推定または伝承として層を分けた。第四は、熊野伝統芸能館を読むである。行興寺に隣接する施設を、無形の文化をどのように具体的な場へ定着させるかという問いのもとに読み、施設の記録を確認できる範囲の事柄として、保存される芸能の由来を伝承と推定として腑分けした。
これら四論に共通するのは、女性やその記憶を扱いながら、資料の薄さや不確定を欠落として糊塗せず、それ自体を史料批判の対象とする姿勢である。本稿はこの姿勢を引き継ぎつつ、四論を横断する新たな問いを立てる。すなわち、四つの事例を「女性が記録に現れる回路」の別として並べ、回路ごとに何が確認でき、何が語られないのかを比較する。本稿の立場は次の一文に集約される。女性像の復元を目的とせず、女性が史料に現れる回路とその限界を記述することを目的とする。実在の当否を裁定するのではなく、各回路が女性について語りうることと語りえないことの輪郭を描くことに、横断的総合の意義を置く。
3. 回路① 物語の登場人物として ── 熊野・千手・朝顔
女性が最も豊かに姿を現す回路は、物語である。行興寺の熊野絵巻の詞書には、熊野・千手・朝顔という三人の女性が配されている。中心に置かれるのは熊野(ゆや)で、遠江国池田の生まれと伝わり、都で平宗盛に寵愛され、故郷の老母の病を案じて帰郷を願う人物として描かれる1。清水寺の花見の宴で、時雨が桜を散らすのを見て老母の姿を重ね、一首の和歌を詠む場面が、物語の情感の頂点をなす。この筋立ては謡曲「熊野」としても広く知られてきた。
物語という回路は、女性に声と心情を与える点で、行政文書とは対照的である。熊野は母を思い、帰郷を願い、和歌を詠む。証文や役帳には決して現れない内面が、物語のなかでは細やかに描かれる。女性の歴史をたどるうえで物語や伝承が軽視できないのは、まさにこの点にある。行政的な記録が沈黙する領域を、物語が埋めるのである。
だが、この回路には固有の偏りがある。熊野が物語に登場するのは、彼女が宗盛に寵愛された美女であり、母への孝を体現する女性だからである。すなわち、男性との関係と、当時尊ばれた徳目とを通してのみ、女性は物語の主役の座を得る。千手(せんじゅ)の場合、この構造はいっそう際立つ。御伽草子「烏帽子折」には、美人の誉れ高い五人の女性の名が並び、その一番として手越(駿河国)の長者の娘・千手の前が、二番として遠江国池田の熊野が挙げられている2。女性が美貌の序列のなかに位置づけられて記録に残るという事実は、この回路が女性をどのようなまなざしのもとに書き留めたかを、端的に示している。
物語という回路がまとう偏りには、もう一つの側面がある。それは、女性の描写がしばしば作り手の理想を映す型に沿って整えられる点である。都で寵愛されながら故郷の母を忘れない娘、桜の散り際に無常を感じ取る繊細な心──こうした造形は、その時代が女性に望んだ美徳の投影でもある。物語のなかの熊野が生き生きと感じられるのは、彼女が個人として細密に記録されたからというより、共感を呼ぶ型として磨かれてきたからでもある。したがって、物語から女性の実像を取り出そうとするときは、どこまでが個別の記録で、どこからが型による整形なのかを、たえず腑分けしなければならない。この腑分けを怠ると、型を実像と取り違え、あるいは型に合わない要素を史実でないとして切り捨てる誤りに陥る。
三人目の朝顔(あさがお)は、さらに極端な事例である。朝顔は詞書に配されているが、その立場も役割も、本稿の参照しうる資料の範囲では確認できていない。他作品に対応する言及も見あたらず、従来の熊野の紹介ではほとんど触れられてこなかった。ここにあるのは、名は記録に現れるが、それ以外はほとんど何も語られないという事態である。女性が史料に「現れる」ことと、その女性について何かが「語られる」ことは、別の事柄なのである。朝顔は、現れながら語られない女性の、いわば純粋な形を示している。
この三人の資料的な不均等をどう受けとめるかは、方法上の分かれ道である。手がかりの多い熊野を軸に据え、千手・朝顔を添え物として周縁に置く読み方は、資料の豊かさをそのまま物語上の重要度に読み替える危うさをはらむ。他作品に痕跡を残さない人物が、詞書のなかでは中心的な役割を担っていた可能性は、原理的に排除できない。したがって、資料の多寡を役割の軽重へ短絡させず、三人をひとまず対等の登場人物として並べたうえで、各人の確認状況を別に記す──これが熊野絵巻論考のとった方針であり、本稿もこれを踏襲する。物語という回路は女性を豊かに描くと同時に、そのまなざしと沈黙をも読者に引き受けさせるのである。
4. 回路② 地名の痕跡として ── 千手前
物語が女性を饒舌に描くのに対し、地名という回路は、ほとんど無言のまま女性の可能性を伝える。向陽地区の野箱には、「千手前(せんじゅのまえ)」あるいは「千寿の前」と記される小地名が伝わる3。地域資料はこの語に「川」「寺」「観音」「祭」といった語彙を添えるが、由来を語る本文はほとんど残されていない。確認できるのは地名の記載とおおよその帰属地であり、そこに人物が実在したか、いかなる事績を残したかは、いずれも推測または伝承の層に属する。
この一語は、二通りに読める。ひとつは、千手前という女性が実在し、その名がゆかりの土地に残ったとみる人名起源の読みである。「〜の前」は、古く女性の称号として用いられた語であり、この読みを支える。もうひとつは、千手観音を祀る堂や川・池の地形に由来する地名起源の読みである。「観音」「川」という付随語彙は、こちらの読みにも根拠を与える。千手前論考は、この二つの読みを対等に併置し、どちらとも決しがたい現状を率直に記述した。本稿もその判断を尊重し、いずれか一方に傾けることはしない。
ここで前章の熊野絵巻との連関に触れておきたい。熊野絵巻の詞書には千手(せんじゅ)という女性が配され、向陽・野箱には千手前という地名が伝わる。名の一致は目を引くが、両者を直ちに結ぶことはできない。詞書の千手は駿河国手越の長者の娘とされ、地名の千手前は磐田・向陽に帰属する。両者が同一の女性に発するのか、千手観音信仰という共通の背景から別々に生じた偶合なのかは、現存資料からは判定できない。名の一致を根拠に人物を結びつける誘惑は、地名研究がもっとも警戒すべきものである。本稿はこの連関を、確認された事実としてではなく、今後の検討に開かれた問いとして記録するにとどめる。
「〜の前」という語そのものにも、女性が記録に現れる回路の性格が刻まれている。この称号は、女性を単独の名で呼ぶのではなく、多くの場合その父や夫、あるいは仕えた主との関係のなかに位置づけて呼ぶ形式であった。仮に千手前が実在の女性の名であったとしても、その名は彼女個人を指すというより、ある家や場との結びつきのなかで彼女を指し示す。地名として土地に定着したとき、女性の個としての輪郭はいっそう薄れ、残るのは音と土地の結びつきだけになる。地名という回路が女性について寡黙なのは、単に資料が乏しいからではなく、女性をそもそも関係のなかで呼ぶという当時の命名のあり方そのものに、理由の一端があると考えられる。
この事例が示すのは、「未確認」と「記載なし」の区別の要である。千手前の由来を語る本文に管見の限り突き当たっていないという状態(未確認)は、そのような本文が存在しないと確認できた状態(記載なし)とは異なる。地名は現に伝わっているのだから、その背後に女性がいた可能性を、資料がないことだけを理由に否定することはできない。だが同時に、地名の存在は女性の実在を証明しない。地名という回路は、女性がそこにいたかもしれないという可能性の痕跡を、判定不能のまま後世へ手渡す。物語の饒舌とは対照的な、この寡黙な回路もまた、女性の歴史を考えるうえで見過ごせない。
5. 回路③ 寄進者・事績の主体として ── 森本善苗尼
ここまでの二つの回路は、いずれも古い時代に属し、女性の実在そのものが推定や未確認の域にとどまった。これに対し、記録によって事績を確認できる女性もいる。遠江国分寺(薬師堂)の昭和期の復興を担った森本善苗尼である。国分寺は明治初期の廃寺によって無住職・無檀家となったが、昭和期に薬師堂の改築と寺院としての認可を経て再興された。その中心にいたのが、慶応元年(1865年)生まれとされ、56歳で得度し、77歳で特任住職となった善苗尼であった4。
この回路の特徴は、女性が物語の対象や地名の痕跡としてではなく、行為の主体として現れる点にある。寄進、改築、認可の申請、堂の無償譲渡といった具体的な営みが、記録によって確認できる史実として残されている。善苗尼は、誰かに寵愛されたから記録に残ったのでも、名だけが地名に沈んだのでもない。自らが動き、寺を再興したという事績によって、記録の主語の位置に立っている。前近代の女性が客体として現れがちであったのに比べ、近代というこの時代の位置が、女性を主体として記録に登場させる条件を用意したと考えられる。
もっとも、事績が確認できることと、その人物の内面が明らかであることとは別である。善苗尼がなぜ56歳という年齢で得度し、廃寺の復興という難事に生涯を傾けたのか──その動機や人物像は、記録からは直接には読み取れず、推定または伝承の層にとどまる。ここでも「事績(史実)」と「内面(推定)」の腑分けが要る。顕彰の言葉は往々にして人物を理想化し、実像との間にずれを生む。伝記資料が後世の顕彰の意図を帯びていないか、その偏りを吟味することは、人物史に固有の史料批判の課題である。
さらに見落とせないのは、善苗尼の記録がどのように今日へ伝わったかである。信徒代表であった俗人の近藤文六が、復興の申請文書を保存し、晩年の尼を看取ったと伝えられる。すなわち、事績によって主体の位置に立った女性の記録すら、その伝存はある男性の手を経ている。女性が記録の主語となった近代においてもなお、その記録の保存と伝達には別の人物が介在しうる。この事実は、女性が記録に「残る」過程が、単に本人の行為だけでなく、それを書き留め、保管し、語り継ぐ周囲の営みによっても左右されることを示している。森本善苗尼の論考が制度でも建物でもなく個人の事績から復興を読み直したのは、この記録の伝わり方までを射程に収めるためであった。
6. 回路④ 顕彰と保存の場として ── 熊野伝統芸能館
第四の回路は、女性そのものではなく、女性にまつわる記憶を保存し顕彰する「場」である。磐田市池田の熊野伝統芸能館は、熊野御前ゆかりの行興寺に隣接し、地域の芸能を保存・継承する場として設けられた施設と伝えられる。ここでは、熊野という一人の女性の記憶が、施設という具体的な形をとって現在へ受け継がれている。行興寺の熊野の長藤にまつわる催しと、この施設とがどのように結びついてきたかは、伝承と推定の層に属するが、施設の所在と名称そのものは、地域資料で確認できる範囲の事柄である。
この回路は、これまでの三つとは位相を異にする。物語・地名・寄進が、いずれも過去に残された痕跡であるのに対し、顕彰の場は、その痕跡を後世が選び取り、形を与えて未来へ手渡す現在進行の営みである。熊野という女性は、まず物語の登場人物として記録に現れ、次に長藤という景物や地名に結びつき、いまや施設の名として掲げられている。一人の女性の記憶が、時代ごとに異なる回路へ乗り移りながら受け継がれていく過程が、ここには凝縮されている。
顕彰の場という回路には、前三者にない独特の作用がある。それは、時代を経るほどに記憶を強め、輪郭を鮮明にしていくという逆説である。物語や地名は、時が経つにつれ細部が磨り減り、由来が忘れられていく。ところが顕彰の場は、施設を設け、催しを重ね、名を掲げることで、かえって記憶を年ごとに更新し、地域の共有財として定着させていく。熊野という一人の女性は、こうして単なる過去の人物ではなく、毎年の長藤の季節に呼び戻される現在の存在となる。ただし、この定着の作用は、同時に記憶を特定の形へ固定する働きでもある。施設が掲げる由来が繰り返し語られるほど、それは疑いえない事実であるかのような重みを帯びていく。顕彰が記憶を守ると同時に、記憶を一つの型へ鋳込みうることには、注意を払っておく必要がある。
だが、保存の場は史料批判の対象でもある。施設が「熊野ゆかり」を掲げるとき、そこで語られる由来は、熊野の史的実在を証明するものではなく、地域が熊野をどう記憶し、どう意味づけてきたかを示す。熊野伝統芸能館論考は、記録・上演・継承という保存の三つの位相を区別し、施設で保存される芸能の由来を、確認できる史実と、管見の限り確認できていない未確認の事柄と、史料に記載のない事柄とに峻別した。顕彰の場が語るのは、過去の事実そのものではなく、その事実をめぐる後世の解釈である。この区別を保つとき、施設はかえって、女性の記憶がいかに選び取られ形を与えられてきたかを読む、格好の対象となる。無形の記憶が場へ定着していく過程を追うことは、女性の歴史が単なる過去の復元ではなく、現在の営みでもあることを教えるのである。
7. 比較と史料批判 ── 何が語られ何が語られないか
四つの回路をたどってきた。ここで各事例を対等の粒度で並べ、女性が現れる回路、確認できる事柄、語られない事柄、そして確度の層を可視化する。この比較の目的は、どの女性が最も確からしいかを競わせることではない。回路が異なれば、確認できる事柄も語られない事柄も体系的に異なるという構造を、読者が自ら見てとれる状態をつくることにある。特定の事例を優位に置く書式を避け、各行の情報量をそろえることを心がけた。
| 事例 | 現れる回路 | 確認できること(記載の水準) | 語られないこと | 主たる確度の層 |
|---|---|---|---|---|
| 熊野・千手・朝顔 | 物語の登場人物 | 詞書・謡曲・御伽草子に人物として登場する。 | 史的実在。千手・朝顔の役割。内面の大半は物語の枠内でのみ語られる。 | 伝承・推定 |
| 千手前 | 地名の痕跡 | 向陽・野箱に小地名として記載される。 | 人物の実在の有無。由来。人名起源か地名起源かの判定。 | 未確認 |
| 森本善苗尼 | 寄進者・事績の主体 | 得度・改築・認可・譲渡などの事績が記録で確認できる。 | 得度や復興の動機。人物像。顕彰と実像のずれ。 | 史実+推定 |
| 熊野伝統芸能館 | 顕彰・保存の場 | 施設の所在・名称が地域資料で確認できる。 | 保存される芸能と熊野との結びつきの由来。熊野の史的実在。 | 史実+伝承 |
この比較から浮かぶのは、いくつかの一貫した傾向である。第一に、女性が「現れる」度合いと「語られる」度合いは比例しない。物語の熊野は豊かに語られるが史的実在は推定にとどまり、事績の善苗尼は史実として確認できるが内面は語られない。地名の千手前に至っては、現れながらほとんど何も語られない。第二に、女性が主体として現れるほど、記録は事務的になり内面が薄れ、女性が客体として描かれるほど、記録は情感豊かになるが実在から遠のく。饒舌さと確からしさは、しばしば反比例するのである。
第三に、いずれの回路においても、女性は多くの場合、男性との関係や当時尊ばれた徳目を介して記録に現れる。熊野は宗盛の寵愛と母への孝によって、千手は美貌の序列によって、善苗尼の記録すら近藤文六の保存を介して伝わった。これは磐田の記録に固有の欠陥ではなく、男性中心の記録体制のもとで女性が可視化される、その一般的な条件である。ジェンダー史の視点が問うのは、まさにこの可視化の条件そのものである。誰が、どのようなまなざしのもとに、女性を書き留めたのか。その問いを立てるとき、記録の沈黙は単なる欠落ではなく、記録の性格を映す徴として読めるようになる。
この傾向は、女性の歴史を記述する順序についても示唆を与える。もし確からしさの高い記録だけを選び、事績の確認できる女性のみを歴史に書き込むならば、記録が事務的にしか女性を捉えなかった領域だけが残り、物語や地名が伝えてきた豊かな女性像は歴史の外へこぼれ落ちる。逆に、饒舌な物語だけを頼りに女性を描けば、実在の裏づけを欠いた像が独り歩きしかねない。四つの回路を併せ用いること、そして各回路の証言をその確度の層のなかで正当に評価することが、この二つの偏りをともに避ける唯一の道である。一つの回路で女性の全体を覆おうとすれば、他の回路が照らす側面が視野から抜け落ちてしまう。
史料批判の観点から強調すべきは、四事例に共通する限界の同型性である。物語は史的実在を、地名は由来を、顕彰の場は由来の真偽を、それぞれ直接には語らない。この限界は各回路に等しく課されるのだから、それを理由に特定の事例だけを退けることはできない。むしろ問うべきは、各回路がどの資料層に立ち、その層がどこまでを語りうるのかである。物語は女性の内面を、地名は女性の可能性を、事績の記録は女性の行為を、顕彰の場は女性の記憶の受け継がれ方を、それぞれ異なる仕方で証言する。どの回路も単独では女性の全体像を復元できず、また復元できないことをもって、その回路の価値を否定することもできない。
8. 結論 ── 伝承で女性を読むことの可能性と限界
本稿は、記録に残る磐田の女性たちを扱った四つの各論を横断し、女性が史料に現れる回路を、ジェンダー史の視点から整理した。得られた見取り図は次のとおりである。女性は、物語の登場人物として、地名の痕跡として、寄進者・事績の主体として、顕彰と保存の場として、それぞれ異なる回路をたどって記録に現れる。回路が異なれば、確認できる事柄も語られない事柄も体系的に異なり、饒舌さと確からしさはしばしば反比例する。そして多くの場合、女性は男性との関係や当時の徳目を介して可視化され、その記録の伝存にも別の人物が介在した。
この見取り図は、伝承や物語という史料で女性を読むことの可能性と限界を、同時に指し示す。可能性は明白である。行政文書が沈黙する女性の内面や境遇を、物語は描き、地名は痕跡として伝え、顕彰の場は記憶として受け継ぐ。男性中心の記録体制のもとで薄くなりがちな女性の姿を、これらの回路は別の仕方で浮かび上がらせる。女性の歴史をたどるうえで、伝承・物語・地名・顕彰といった回路を軽んじることはできない。限界もまた明白である。物語は史的実在を保証せず、地名は由来を語らず、顕彰の言葉は理想化を帯びる。これらの回路が伝えるのは、多くの場合、女性そのものというより、女性をめぐる後世のまなざしと記憶である。
したがって本稿の立場は、この可能性と限界の双方を引き受けるところにある。伝承で女性を読むとは、女性の実像を復元することではなく、女性がどのような回路をたどって記録に現れ、その回路が何を語り何を沈黙させたのかを記述することである。史実・通説・推定・伝承を混同せず、「未確認」と「記載なし」を区別し、名の記載を実在の証拠と取り違えず、顕彰の言葉を実像と偽らない。この禁欲的な手続きこそが、記録の偏りのなかから女性の姿を、後世の調べものに耐える形で救い出す方途である。
最後に、本稿が残した課題を記す。第一に、熊野絵巻の千手と向陽・野箱の千手前との関係は、名の一致を超えて、千手観音信仰の分布と伝承の系統を照らし合わせることで、なお検討の余地がある。第二に、森本善苗尼のような近代の女性については、寄進帳・申請文書・地方紙といった資料を博捜することで、未確認を史実へ押し上げられる可能性が高い。第三に、本稿は四事例を扱ったが、磐田にはなお、証文や過去帳の片隅に名を留めるだけの、語られざる女性たちが数多くいるはずである。彼女たちを回路の別に応じて掘り起こし、確度の層を保ったまま書き留めていくこと──その地道な作業の先にこそ、磐田の女性たちの歴史が、少しずつ像を結んでいく。個々の女性を扱う各論と、それらを束ねる本稿のような横断的総合とを往復しながら、この主題を稿を改めて深めていきたい。
注
- 熊野(ゆや)御前が遠江国池田の生まれと伝わり、平宗盛に仕え、老母を案じて帰郷を願い清水寺で和歌を詠むという筋は、行興寺伝来の熊野絵巻の詞書および謡曲「熊野」に基づく。史的実在は本稿では推定の域を出ない。詳細は大石「熊野絵巻を読む」(本論考第168号)を参照。↩
- 御伽草子「烏帽子折」には、美人の誉れ高い五人の女性のうち、一番に手越(駿河国)の長者の娘・千手の前、二番に遠江国池田の熊野が挙げられている。女性が美貌の序列のなかに位置づけられて記録される点に、この回路の性格が表れている。↩
- 向陽地区・野箱に伝わる小地名「千手前(せんじゅのまえ/千寿の前)」については、大石「千手前の足跡を読む」(本論考第160号)に拠る。人名起源説と地名起源説の併置、および「未確認」と「記載なし」の区別を本稿も踏襲する。↩
- 森本善苗尼は慶応元年(1865年)生まれとされ、56歳で得度、77歳で特任住職となったと伝わる。得度・改築・認可・譲渡などの事績は記録で確認できるが、動機・人物像は推定・伝承にとどまる。大石「森本善苗尼と近藤文六」(本論考第192号)を参照。↩
- 前近代の文書史料が男性の名で作成される傾向は、女性史・ジェンダー史が一般的な前提として論じてきた事柄である。本稿はこの前提を磐田の具体的事例に即して確認し、女性が可視化される回路の別を検討する。↩
付記:本稿は既刊の各論(第168号・第160号・第192号・第207号)を先行研究として整理・史料批判する横断的総合論考である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、詞書・謡曲・御伽草子の記載、地名の記載、寄進・認可の記録、施設の所在・名称を、それぞれの層に腑分けして扱った。「未確認」と「記載なし」の区別を全編にわたり保持している。
参考文献・参考資料
- 大石浩之「熊野絵巻を読む ── 熊野・千手・朝顔、三人の女性の物語」大石浩之の磐田論考 第168号、磐田物語、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/168/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「千手前の足跡を読む ── 向陽の地名と人の記憶を史料批判する」大石浩之の磐田論考 第160号、磐田物語、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/160/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「森本善苗尼と近藤文六 ── 昭和の国分寺復興を担った人びと」大石浩之の磐田論考 第192号、磐田物語、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/192/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「熊野伝統芸能館を読む ── 芸能を保存する場と信仰の記憶」大石浩之の磐田論考 第207号、磐田物語、2026年 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/207/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 謡曲「熊野」(世阿弥作と伝わる)。
- 御伽草子「烏帽子折」(五美人の記載を含む)。
- 行興寺(磐田市池田)熊野御前・熊野絵巻・長藤 関連由緒。
- 熊野伝統芸能館 関連資料。
- 遠江国分寺(薬師堂)復興関連資料、および森本善苗尼・近藤文六に関わる記録。
- 磐田市『磐田市史』通史編・民俗編(磐田市、該当章)。
- 女性史・ジェンダー史の方法に関する一般的議論(史料の男性中心性と女性の可視化をめぐる研究)。
- 小地名・地名起源をめぐる地名学の一般的枠組み。
- 文化庁「国指定文化財等データベース」 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。