磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第265号(福田地区研究 一)
福田の成り立ち ── 遠州灘に開けた湊町から福田町への沿革
遠州灘と太田川河口に開けた村々から、福島村・福田町を経て磐田市へ
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
磐田市福田地区は、遠州灘と太田川河口にはさまれた低い土地に、いくつもの村が寄り集まって形づくられてきた。本稿は福田の成り立ちを、一つの町の履歴としてではなく、地形が編んだ村々の集合の履歴として読み直す総論である。行政沿革の骨格は史料で確認できる。1889年の町村制施行で山名郡福島村が発足し、1896年の郡再編で磐田郡福島村となり、1926年に町制を施行して福田町へ改称し、2005年の合併で新しい磐田市の一部となった。この沿革の年代と行政区域は史実として扱いうる。一方、福島村を構成した近世の村々と現在の大字との対応、そして「福田」という地名の由来は、いずれも確度の異なる層に属する。本稿では、これらを推定・伝承として区別し、「未確認」と「記載なし」を混同しない姿勢を保つ。海と川に囲まれた地形が村々の立地をどう規定したかを軸に、大字と学校区の枠組みもあわせて整理し、福田を沿革の総論として描く。改称の細部は既刊の論考に譲る。
キーワード:福田/福島村/福田町/太田川河口/遠州灘/大字/学校区
1. 問題設定 ── 福田を「村々の集合」として読む
福田は、磐田市の南端、遠州灘に面した一帯を指す地区名である。読みは「ふくで」で、磐田物語でもローマ字の地区識別子を fukude としている。今日の磐田市の統計や地区区分では、旧福田町の区域がおおむねそのまま「福田地区」として独立に扱われており、一つのまとまった土地として認識されている。だが、そのまとまりが最初から一つの町として存在していたわけではない。福田という地名が行政上の単位となるのは近代以降のことであり、それ以前、この一帯は遠州灘と太田川河口の低い土地に点在するいくつもの村の集まりであった。
本稿の課題は、この福田の成り立ちを、一つの町がどう発展したかという物語ではなく、複数の村がどのように一つの行政区域へ束ねられていったかという過程として描くことにある。すなわち「福田町の歴史」ではなく「福田という区域が編まれた沿革」を主題とする。町制施行による改称という近代行政上の画期については、すでに既刊の論考「福島村から福田町へ」で立ち入って論じた。本稿はそれと重複することを避け、改称の前後を貫く区域そのものの成り立ちに軸を置く。
この作業を進めるにあたり、扱う情報の確度をあらかじめ分けておく必要がある。福田の沿革には、史料で年代まで確認できる事柄と、そうでない事柄が混在している。町村制の施行年、郡の再編、町制施行、平成の合併といった行政上の出来事は、公的な沿革資料によって年月日まで裏づけられる。これらは史実として扱ってよい。他方、福島村が発足した際にどの近世村が合併したのか、現在の大字が旧村のどれに対応するのか、そして「福田」という名がどこから来たのかといった問いは、いずれも直ちに史料で確定できるものではない。本稿ではこうした事柄を推定あるいは伝承として区別し、確度の層をまたいだ断定を避ける。
とりわけ本稿が保持したいのは、「未確認」と「記載なし」の区別である。前者は、管見の限り一次史料に突き当たっていない状態を指す。後者は、参照した史料にその記述が存在しないことを指す。両者は似て非なるもので、福島村の構成村について「調査中」と記す資料があるとき、それは記録が失われたのか、筆者がまだ到達していないのか、あるいは元来まとめられなかったのかを、そのままには決められない。この慎重さを保つことが、地域の沿革を後世の調べものに耐える形で残す前提になると考える。以下ではまず行政沿革の骨格を史料で押さえ、次に地形という前提を確認し、旧村と大字、地名由来、学校区へと論を進め、最後に各段階の区域の意味を比較して結論に至る。
2. 史料で確認できる行政沿革
まず、公的な沿革資料によって年代まで確認できる範囲を確定しておく。福田地区の行政上の骨格は、四つの画期で捉えられる1。第一は1889年(明治22年)4月1日の町村制施行で、このとき山名郡福島村が発足した。これが今日の福田地区の直接の母体である。第二は1896年(明治29年)4月1日の郡の再編で、山名郡と豊田郡が磐田郡に統合された結果、福島村は磐田郡福島村となった2。第三は1926年(大正15年)10月31日で、福島村が町制を施行し、名を福田町と改めた。第四は2005年(平成17年)4月1日、旧磐田市・豊田町・竜洋町・福田町・豊岡村が新設合併して現在の磐田市が発足し、福田町はここで自治体としての歴史を閉じた。
この四つの画期に共通するのは、いずれも土地そのものが動いたのではなく、その土地をくくる行政上の枠と名が変わった点である。福島村・福田町・磐田市福田地区という呼称は、同じ一帯を近代以降の制度がどう区切ってきたかの記録であって、村々の場所が移ったわけではない。地形に根ざした集落の配置は、制度の変化を通じておおむね連続していたと考えられる。行政沿革を追うことは、その連続する土地に制度がかぶせてきた枠組みの履歴をたどることにほかならない。
ここで一点、確度の腑分けが必要になる。町村制の施行は、それ以前に存在した近世の村々を合併して新しい行政村を編成する制度であった。したがって福島村もまた、複数の村が一つにまとめられて成立したものと考えるのが、制度の仕組みに照らして自然である。この「複数村の合併によって成立した」という枠組み自体は、町村制一般の史実として述べてよい。しかし、具体的にどの村が福島村を構成したのかについては、参照した福田の沿革資料でも構成村の詳細が調査中とされており、本稿の範囲では確定できない3。よって本稿は、構成村の内訳を空欄のまま残す。ここを推測で埋めることは、後述する大字との対応づけを不確かな前提の上に立てることになり、避けなければならない。
改称そのもの、すなわち福島村がなぜ、どのような経緯で福田町の名を選んだのかという問いは、近代行政史の主題として既刊の論考「福島村から福田町へ」で詳しく扱った。本稿では、その改称を沿革の一段階として位置づけるにとどめ、内実には立ち入らない。同様に、平成の合併がどのような広域の力学のもとで進んだかは、磐田市全体の合併史をまとめた「磐田市はどうして生まれたのか」に譲る。本稿の関心は、これらの画期の合間にあって変わらず横たわっていた区域、つまり遠州灘と太田川河口の低地に開けた村々の側にある。次章では、その村々の立地を規定した地形を確認する。
3. 地形という前提 ── 遠州灘と太田川河口
福田の成り立ちを村々の集合として読むとき、まず押さえるべきは地形である。福田地区は、南を遠州灘の海岸線に、東から南を太田川の下流と河口に画されている。近世にはこの川は諸井川とも呼ばれた。海と川にはさまれ、標高の低い平坦な土地が広がるこの一帯は、水に強く規定された土地であった。海からの潮風と砂、そして川がもたらす水と土砂とが、村の置きどころを大きく左右したと考えられる。
低平な三角州や後背湿地では、人が住み田を営むことのできる場所は限られる。海沿いには砂丘の高まりがあり、川沿いには自然堤防と呼ばれる微高地が伸びる。こうしたわずかに高い土地の上に集落が乗り、その周囲の低い土地が耕地に充てられる、というのが河口低地の村の典型的な姿である。福田の村々もまた、こうした微高地を選んで点々と成り立ったと推定される。海と川に囲まれた地形は、村を一箇所に大きく集めるのではなく、水を避けられる高みごとに小さく分散させる方向に働いた。福田が単一の町ではなく村々の集合として出発したことの、地形的な理由がここにある。
この土地に人が古くから関わってきたことは、太田川河口の元島遺跡が示している。中世の湊の跡として知られるこの遺跡は、福田が河口の水運を通じて外へ開かれていたことを物語る。詳しくは「元島遺跡 ── 太田川河口に眠る、福田の湊の原点」に譲るが、河口の低地は、水害の危険をはらむと同時に、舟による人と物の出入りを可能にする場でもあった。海に向かって開かれた地形は、福田港のシラス船引網漁業や、太田川河口のウナギ養殖といった、後世に知られる生業の下地でもある。海は脅威であると同時に糧であり、その両義性が村々の暮らしを規定した。
水に囲まれた低地であることは、土地の来歴に一つの特徴を刻んでいる。後述する大字には「新田」を含む地名が目立つが、これは低湿地や砂地を干拓・開墾して耕地を広げてきた歴史の反映と考えられる。海と川に挟まれた土地では、住める高みが限られる一方、水を制して低地を田に変える営みが繰り返された。福田の村々の成り立ちは、この「高みに住み、低地を開く」という地形との折り合いの積み重ねであったと見てよいだろう。海に臨む立地は信仰のかたちにも影を落としており、海上の安全を願う社寺の分布については「福田の寺社と海の信仰」で別に論じた。
4. 旧村と大字 ── 集落の名残をたどる
福田地区に関係する主な大字・町名として、公開資料には次のものが挙げられている。福田、福田中島、下太、塩新田、一色、清庵新田、太郎馬新田、南田、宇兵衛新田、南田伊兵衛新田、大原の一部、五十子、南島、蛭池、東小島、豊浜中野、豊浜である。これらは現行の地名だが、その多くは近代以前からの集落や耕地の呼称を引き継いだものと考えられる。大字は、町村制で新しい行政村がつくられたとき、それ以前の村や字を下位の単位として残した名残であることが多い。したがって大字の一覧は、福島村が成立する前にこの一帯にどのような土地の区切りがあったかを推し量る、間接的な手がかりになる。
もっとも、大字から旧村を直ちに復元できるわけではない。大字がそのまま一つの近世村に対応する場合もあれば、一つの村が複数の字に分かれ、あるいは複数の小集落が一つの大字にまとまる場合もある。福島村の構成村が前章で述べたとおり未確認である以上、個々の大字と旧村との一対一の対応を確定的に述べることはできない。ここで言えるのは、大字群の性格から旧村の姿をおおまかに推し量る、という限度の作業にとどまる。
その手がかりの一つが、地名の型である。塩新田・清庵新田・太郎馬新田・宇兵衛新田・南田伊兵衛新田といった「新田」を含む地名が目立つ点は、この一帯が近世に新田開発を通じて耕地を広げてきた土地であることを示唆する。とりわけ「清庵」「太郎馬」「宇兵衛」「伊兵衛」といった人名を冠する新田名は、開発を主導した人物や請負人の名を地名に留める近世の慣行に通じる型である。これらは、いつ誰が開いたのかを本稿の範囲で年代まで裏づけられるものではないが、地名の型そのものが低地の開墾の歴史を語っているとは言える。一方、豊浜・豊浜中野のように「浜」を含む地名は、海寄りの立地を素直に映している。福田・福田中島は地区の中核をなす地名であり、下太・南田・東小島・南島・蛭池・五十子・一色・大原といった地名は、それぞれの微高地や耕地の区切りに由来すると推定される。
こうした大字群を旧村の姿と重ねて考えるとき、両者の関係は一対一の対応ではなく、いくつもの層が折り重なった関係として捉えるのが実態に近い。地形が用意した微高地の上に近世の村々が乗り、その内側や周縁に新田開発による耕地の区切りが加わり、それらが町村制のもとで福島村という一つの行政村へまとめられ、下位の単位として大字に整理し直された。すなわち大字は、地形・近世村・新田・行政村という複数の層が沈殿した最下層の目盛りのようなものである。次の図は、この層の重なりを模式的に示したものであり、いずれの矢印も確定した対応ではなく、推定される流れであることを断っておく。
これらを性格ごとに束ねると、福田の大字は大きく、地区の核をなす中心の地名、海に臨む浜の地名、近世の開発を刻む新田の地名、そして低地の耕地や集落を指す地名に分けて眺めることができる。この区分はあくまで地名の型に着目した便宜的な整理であり、旧村の境界を正確に復元するものではない。だが、こうして並べてみると、福田が海と川に規定された地形の上に、性格を異にする複数の土地の集まりとして成り立ってきたことが、地名の層としても浮かび上がる。次の表は、この地名の型による整理を、確度の断り書きとともに示したものである。
| 類型 | 該当する主な大字・町名 | 読み取れる性格 | 確度の層 |
|---|---|---|---|
| 中心の地名 | 福田、福田中島 | 地区の核をなし、行政村・町の名の基礎となった。 | 史実(現行地名)+推定(由来) |
| 浜の地名 | 豊浜、豊浜中野 | 「浜」を含み、遠州灘に臨む海寄りの立地を映す。 | 推定 |
| 新田の地名 | 塩新田、清庵新田、太郎馬新田、宇兵衛新田、南田伊兵衛新田 | 近世の新田開発の名残。人名を冠する型は開発者名に由来する慣行と通じる。 | 推定(開発年代は未確認) |
| 低地・耕地の地名 | 下太、南田、東小島、南島、蛭池、五十子、一色、大原の一部 | それぞれの微高地・耕地の区切りに由来すると考えられる。 | 推定 |
表に付した「確度の層」を見てのとおり、大字から読み取れる旧村の姿は、そのほとんどが推定の域を出ない。現行地名であること自体は史実だが、その由来と旧村への対応は推定である。この区別を曖昧にすると、地名の型からの推し量りが、あたかも確定した旧村の復元であるかのように独り歩きしかねない。本稿が大字を「手がかり」と呼び「証拠」と呼ばないのは、この危うさを避けるためである。
5. 「福田」という名 ── 由来説の腑分け
区域の成り立ちを追ううえで避けて通れないのが、「福田」という地名そのものの由来である。ただしこの問いは、行政沿革の年代のようには片づかない。読みが「ふくで」であること、そして1926年の町制施行時にこの名が選ばれたことは史実として確認できるが、名の起こりそのものは確度の低い層に属する。
「吹切出」変化説
説の骨子。磐田市歴史文書館の企画展資料によれば、「福田」は「吹切出(ふききりいで)」ということばが変化したものとされる4。諸井川(現在の太田川)の水が直接には海に入らない、という川の性質にかかわる説明が付されていたと伝わる。河口の水の流れ方が地名の由来に関係するという筋立ては、海と川にはさまれた福田の地形とよく響き合う。
資料上の限界。ただし、この説明は原資料においてここで途切れており、なぜ「吹切出」が「福田」へ転じたのか、その音韻的・意味的な経路の続きは確認できていない。したがって本説は、企画展という公的な場で示された由来説として記録に値するものの、由来を確定する根拠としては用いることができない。ここで重要なのは、「続きが記されていない」ことと「そのような由来が存在しない」ことは別だという点である。原資料の説明が途切れているのは未確認の状態であって、由来の不在を意味しない。
地名の由来には、しばしば複数の説明が並び立つ。「福の田」すなわち豊かな田を意味する瑞祥地名として読む見方もありうるが、これは字面から導かれる解釈であって、吹切出説とは由来の筋立てを異にする。既刊の論考「福島村から福田町へ」では、改称にあたって「福」の字が選ばれた背景に触れたが、そこでの関心は近代の命名の意図にあり、地名の古い起源そのものではない。古い由来を問う本稿の立場からは、吹切出説と字義解釈のいずれかを採るのではなく、両説を確度の異なる推測として併記し、決着を保留するのが妥当である。
地名由来を推定の層にとどめておくことには、消極的な意味だけがあるのではない。由来が一つに定まらないという事実そのものが、福田という土地が海と川の性質、田の豊かさ、村々の集合といった複数の側面を抱えてきたことの反映でもある。名の起こりを性急に一つへ還元するより、諸説の拠って立つところを腑分けして示すほうが、この土地の性格を正確に伝える。地名は、確定した史実としてではなく、土地が自らをどう語ってきたかの記録として読むのがよい。
6. 学校区という枠組み ── 二つの小学校区が映すもの
行政区域や大字とは別に、地域の構造を映すもう一つの枠組みが学校区である。福田地区の場合、中学校は福田中学校が一校で地区全域を校区とし、小学校は福田小学校と豊浜小学校の二校がそれぞれ校区を分け持つ5。中学校区が地区とほぼ重なる一方で、小学校区が二つに分かれているという構造は、福田の土地の成り立ちを考えるうえで示唆に富む。
小学校区は、一般に子どもが徒歩で通える範囲を目安に、地域のまとまりを踏まえて設定される。福田小と豊浜小という二分の枠は、地区内に性格の異なる二つのまとまりが存在してきたことの反映と推定できる。校名からもうかがえるとおり、豊浜小は前章で「浜の地名」として整理した豊浜・豊浜中野の側、すなわち遠州灘に臨む海寄りの一帯を主たる校区としてきたと考えられる。地区の中核をなす福田・福田中島の側と、海に張り出した豊浜の側とが、それぞれ生活のまとまりを保ってきた結果が、二つの小学校区として現れているという読み方が成り立つ。
もっとも、学校区は行政区域とも大字とも別のレイヤーであり、時代ごとの児童数や施設の配置によって見直される性格をもつ。したがって現在の校区の線を、そのまま旧村の境界に重ね合わせることはできない。正確な通学区域は磐田市の最新の定めによるべきものであり、本稿が校区に読み取るのは、あくまで地域構造の大まかな二分という水準にとどまる。それでも、海寄りと内側という二つのまとまりが、行政区域・大字・学校区という異なる枠組みを通じて繰り返し姿を見せる点は、福田という区域が地形に根ざした複数の中心をもってきたことを裏づける。
学校区をこのように読むと、福田の成り立ちを考えるうえで一つの見通しが得られる。行政沿革は、福島村・福田町・磐田市福田地区という一つの名のもとに区域を束ねてきた。だが束ねられた内側には、海寄りの豊浜と、中核の福田という、少なくとも二つの生活圏が保たれてきた。近代の行政が上からかぶせた一つの枠と、地形が下から支えてきた複数のまとまりとが、学校区という中間の枠組みにおいて交差している。福田を村々の集合として読む本稿の見立ては、この学校区の二分にも一つの裏づけを見いだすことができる。
7. 各段階の「区域」は何を指したか ── 比較と史料批判
ここまで、行政沿革(史実)、地形(前提)、大字(推定)、地名由来(伝承・未確認)、学校区(推定を含む枠組み)という異なる層から福田の成り立ちを眺めてきた。最後に、これらを一つに束ねる観点として、「区域」という語が各段階で何を指してきたかを比較しておきたい。同じ土地を指すはずの区域が、制度の段階ごとに意味の重心を移してきたことを整理すると、福田の沿革の性格がより鮮明になる。
近世の段階では、区域とは村ごとの生活と耕作のまとまりであった。海沿いの砂丘、川沿いの微高地という地形の高みごとに、住まいと田畑を抱えた小さな村が分散していた。この段階の区域は、地形にじかに根ざしたものである。1889年の福島村成立によって、これらの村々は一つの行政村へ束ねられた。ここで区域は、地形に根ざした複数の村を、近代の制度が上から一つにくくった枠へと性格を変える。1926年の福田町への改称は、その枠に町という格と新しい名を与えたが、束ねられた区域そのものは連続していた。2005年の磐田市合併では、福田町という自治体は消えたが、旧町域はほぼそのまま「福田地区」として磐田市の内部に残り、統計や地区区分の単位として生き続けている。
この推移を貫いているのは、行政上の名と格は変わっても、地形が支える区域の実体はおおむね連続してきた、という事実である。制度は上からかぶさり、地形は下から支える。福田の沿革は、この二つの層のせめぎ合いと折り合いの履歴として読むことができる。以下の表は、各段階における区域の意味と、その根拠となる資料の性格をまとめたものである。
| 段階 | 区域の単位 | 区域が指したもの | 依拠する資料 | 確度の層 |
|---|---|---|---|---|
| 近世 | 村々 | 地形の高みごとに分散した生活・耕作のまとまり。 | 大字からの推し量り、地名の型。 | 推定(構成村は未確認) |
| 1889 町村制 | 山名郡福島村 | 近世の村々を束ねた近代の行政村。 | 町村制関係の公的沿革資料。 | 史実 |
| 1896 郡再編 | 磐田郡福島村 | 郡の統合により所属郡が変わった同一の行政村。 | 郡制関係資料。 | 史実 |
| 1926 町制 | 福田町 | 福島村に町の格と新名を与えた区域。 | 町制施行の告示・沿革資料。 | 史実(改称の内実は既刊論考) |
| 2005 合併 | 磐田市 福田地区 | 自治体は消え、旧町域が地区として残存。 | 合併関係資料、磐田市の地区区分。 | 史実 |
この表を史料批判の観点から見直しておく。近世の段階を除く四段階は、いずれも公的な沿革資料によって年代まで裏づけられる史実である。これに対し、最上段の近世の区域だけは、大字や地名の型からの推定にとどまり、構成村の内訳は未確認である。すなわち福田の沿革は、近代以降がよく照らされ、それ以前が薄暗いという、光の当たり方の偏りをもっている。この偏りは、参照しうる史料の性格に由来する。町村制以降の行政区域は制度が記録を残すのに対し、近世の村々の区切りは、地誌や検地帳などの個別史料に当たらなければ復元できず、本稿の範囲を超える。
もう一点、資料そのものの性格にも触れておく。福田の沿革を伝える基礎資料には、旧町がまとめた町史『福田町』、磐田市史、そして磐田市歴史文書館の企画展資料などがある。企画展資料は、写真や出来事を一般に分かりやすく紹介することを目的とする性格上、一次史料そのものではなく、そこに付された年紀や由来説明は、原史料に当たって確度を確かめる必要がある。前章で扱った吹切出説が「原資料で説明が途切れている」ことも、この種の資料の限界を示す一例である。本稿が随所で「未確認」と断ってきたのは、こうした資料の性格を踏まえ、確度を偽らないためである。地域の沿革を書くとは、分かっていることと分かっていないことの境界を、正確に引き続ける作業にほかならない。
8. 結論 ── 地形が編んだ沿革として
本稿は、福田地区の成り立ちを、一つの町の発展史としてではなく、遠州灘と太田川河口の低地に開けた村々が一つの区域へ束ねられていく沿革として整理した。得られた見取り図は次のとおりである。行政上の骨格は、1889年の福島村発足、1896年の磐田郡編入、1926年の福田町への改称、2005年の磐田市合併という四つの画期で捉えられ、これらの年代と行政区域は史実として確定できる。これに対し、福島村を構成した近世村の内訳、大字と旧村の対応、そして「福田」という地名の由来は、いずれも推定あるいは伝承の層にとどまり、確度を偽らずに書き留めるほかない。
この沿革を貫くのは、海と川に囲まれた地形が村々の立地を規定してきた、という一貫した力である。水を避けられる砂丘や自然堤防の高みに集落が分散し、間の低地が新田として開かれてきた。福田が単一の町ではなく村々の集合として出発したこと、大字が中心・浜・新田・低地という異なる性格の地名の層をなすこと、学校区が海寄りと中核の二つに分かれてきたことは、いずれもこの地形の規定を別々の側面から映している。近代の行政は、この地形が支える複数のまとまりを、福島村・福田町・福田地区という一つの名のもとに束ねてきた。福田の沿革とは、上からかぶさる制度と、下から支える地形との、折り合いの履歴なのである。
したがって本稿の立場は明確である。福田の成り立ちは、単一の起点や単一の由来へ還元すべきものではなく、地形に根ざした村々の集合が近代の制度によって束ねられていく過程として記述されるべきである。その際、史実と推定と伝承を語の水準で区別し、「未確認」と「記載なし」を混同しないことが要になる。分かっていることを史実として、まだ分からないことを未確認として、正確にその境界を引くこと──この禁欲的な手続きこそが、福田という土地の沿革を後世の調べものに耐える形で残す方途だと考える。
最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、福島村を構成した近世村の特定である。検地帳や近世の地誌に当たることで、いまは薄暗いこの部分に光を入れられる余地がある。第二に、新田開発の主体と年代の解明であり、人名を冠する新田地名の背後にある開発史を、個別に跡づける作業が求められる。第三に、「福田」の地名由来をめぐる吹切出説の、途切れた説明の続きを原資料に遡って確かめることである。これらはいずれも、本稿が引いた確度の境界を、推定から史実の側へ少しずつ押し進めていく作業に属する。地区全体の沿革を総論として描いた本稿を土台に、個々の村・大字・生業へと分け入る各論は、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。改称の詳細は「福島村から福田町へ」を、資料版の年表と一覧は素材記事「福田の成り立ち ── 沿革年表・学校区・大字」をあわせて参照されたい。
注
- 福田地区の行政沿革(1889年の福島村発足、1926年の福田町改称、2005年の磐田市合併)は、磐田市公式資料および町史『福田町』ほかの公開沿革資料による。年月日を含む骨格はこれらの史料で確認できる史実として扱う。↩
- 1896年(明治29年)4月1日、山名郡・豊田郡が磐田郡に編入され、福島村は磐田郡福島村となった。郡の再編は郡制関係の公的資料による。↩
- 福田地区に関係する主な大字・町名の一覧、および福島村の構成村が調査中とされる旨は、磐田物語 f029「福田の成り立ち ── 沿革年表・学校区・大字」に整理された資料による。大字と旧村の対応は本稿では推定にとどめ、構成村の内訳は未確認とする。↩
- 「福田」を「吹切出(ふききりいで)」の変化とする説は、磐田市歴史文書館 第10回企画展「磐田市の出来事と人々のくらし」(2013年)の資料による。原資料の説明は途中で途切れており、転訛の経路は本稿の範囲では未確認である。↩
- 福田地区の学校区(福田中学校、福田小学校・豊浜小学校)は磐田市の通学区域に関する公表情報による。校区の内訳の解釈には推定を含み、正確な通学区域は磐田市の最新の定めによる。↩
付記:本稿は資料版記事 f029 の内容を、郷土史研究者向けに沿革の総論として再構成した論考版である。行政沿革の年代・区域を史実、旧村と大字の対応・地名由来を推定・伝承として腑分けし、「未確認」と「記載なし」を区別した。改称の内実は既刊 oishi-ronko/188、海の信仰は oishi-ronko/154 に譲った。
参考文献・参考資料
- 福田町(編)『福田町』(旧福田町刊、沿革に関する章)。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
- 磐田市教育委員会文化財課『ふるさと散歩 福田編』。
- 磐田市歴史文書館 第10回企画展「磐田市歴史文書館所蔵にみる 磐田市の出来事と人々のくらし」(2013年)。
- 磐田市歴史文書館 第18回企画展「水運の拠点から織物の町へ」(2017年)。
- 磐田郡(沿革)関係資料。町村制・郡制施行に関する公的沿革記録。
- 磐田市公式サイト「町・大字別の区分」および統計上の地区区分の項 https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田市公式サイト「小・中学校の通学区域」の項 https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 f029「福田の成り立ち ── 沿革年表・学校区・大字」 https://iwata-monogatari.net/f029.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 oishi-ronko/188「福島村から福田町へ ── 『福の田』が紡いだ改称と近代行政史」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/188/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 oishi-ronko/154「福田の寺社と海の信仰 ── 海上安全を祈った湊まちの社寺」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/154/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 f030「元島遺跡 ── 太田川河口に眠る、福田の湊の原点」 https://iwata-monogatari.net/f030.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 f003「別珍・コールテンと福田の織物産業」 https://iwata-monogatari.net/f003.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 c097「磐田市はどうして生まれたのか」 https://iwata-monogatari.net/c097.html (最終閲覧:2026年7月26日)。